2017年6月9日金曜日

イ・サン32話「突然の別れ」

恵嬪は深刻な噂を耳にした。
噂というよりも、泥酔したサンが宮殿までの道のりを、図画署の茶母と連れ立ったというのは、確かな筋からの情報だった。
実は恵嬪には前にも似たような経験があった。かつて王世子サドが、ちまたの女を宮中に連れてきたことが、王様との確執につながったのだ。
何かとサンの揚げ足取りをしたがる者は大勢いる。もしこの噂が広がったとしたら…
「あの茶母をどうするかは、すでに考えてあります」
恵嬪はそばにいた嬪宮に、ぴしゃりと言った。
恵嬪の底知れぬ怒りを間近に見た嬪宮は、サンの友達というだけで変な誤解を受けたソンヨンのことが、そのとき本当に気の毒だと思ったのだ。


ソンヨンは、すぐにも恵嬪の部屋へと呼び出された。
しかしどうして呼び出されたのはわからなかった。ただ恐縮したように、お膳に用意された湯のみを握りしめて、うつむいていた。
恵嬪は用件を話しはじめた。
「王世孫の支えになってくれて、そなたには改めて感謝する。だからといって王世孫に近寄ることは許されない。そなたが特別な存在であればなおさらだ。…明日、清に発つ使節団にそなたを加えるよう手配した。思う存分、絵を学べるよう取りはからってある。清にとどまり画員を目指して修行をしなさい。短くても5年、長くて10年はかかるだろう」
驚きのあまり顔をあげたソンヨンに、恵嬪は硬い笑みを返した。疲れたように肩で小さく息をつき、内心苛立っているのが目に見えるようだった。


サンは、珍しくソンヨンが宮中の中庭にいるのを見つけて、嬉しそうに声をかけた。
でも妙に視線をそらすので、のぞきこんで見ると、長いまつげが涙で濡れていた。
なんで泣いているのか聞いてみても、ただ「あのぅ。あ、あ、あのぅ…」と呟いては、しょんぼりとするばかりだった。その代わり、大きな瞳からは涙があふれ出た。
サンは何だかとても心配になって、そっと身を寄せるようにソンヨンの手を握りしめた。
庭にたたずむ夫とソンヨンの姿を見かけた嬪宮は、とっさにその場から立ち去っていった。
ソンヨンに向けられた夫の横顔が、しばらく目に焼き付いていた。2人はとても親密そうに見えた。

その夜、ソンヨンは図画署の作業場へ、清に持って行く荷物をまとめに戻った。
すでに画員や茶母たちは、全員引き揚げたあとで、室内はがらんとしていた。
道具箱へ1本ずつ丁寧に筆をしまい、カゴのふたをかぶせ、風呂敷に包んで結んだ。ふと人の気配を感じたので振り返ってみたら、入口にサンが立っていた。

夜の市場は、人でごったがえしていた。どの軒先にも、提灯の明かりが灯っている。
花火の明るいオレンジの光が、市場の狭い通りを、いっそう賑やかにした。王世孫に気づく者など誰もいなかった。
サンは護衛の2人に離れてついて来るように言って、人々のうねりの中にいるソンヨンのところへと、また戻っていった。
穂先の長い花火を持ち歩いている人が大勢目につく。ソンヨンとサンのそばをすれ違うたびに、それが時の流れのように、パチパチと可憐な火花を散らした。

ソンヨンは、いつのまにかサンとはぐれたことに気づいた。さっき一緒に見物した大道芸人たちのシンバルや小太鼓の音が、カランカランと響いている。
露店の台に並んでいる潰れた飴状ものが気になって手に取ってみると、薄らと浮き上がった線が、バラの花のように見えた。
「めのうの風かんざしさ。冠がずれないようこいつで留めるんだよ。ひとつ一両だ」
おじさんが言った。これ以上は絶対に負けないという顔つきだったので、ソンヨンは黙って1両を支払い、風かんざしを受け取った。
しかし次の瞬間、誰かがソンヨンの風呂敷包みをひったくって、すごい勢いで狭い通りの方へ走り去っていった。金目の物でも入っているとでも思ったのだろう。
地面に倒れ込んだソンヨンを偶然サンが見つけ、そばへ駆け寄って助け起こした。ソンヨンに気づかれないよう、力強い手で合図を送ると、護衛の2人が、泥棒を追って人ごみの中へと姿を消した。あとはもう元通り、太鼓や鐘の賑やかな音がするばかりだった。

次の日の朝、いよいよ使節団が旅立つ日を迎えた。
布でくるんだ荷物ケースが図画署の縁台に積み上げられている。使節団に同行するメンバーや、見送りの茶母たちが、集合時刻までの時間を潰していた。いつもと違う、どこか落ち着かない雰囲気だった。
家の垣根を出てすぐ、ソンヨンは、いきなりテスに手荷物をもぎとられた。
テスが怒ったように荷物をぶら下げて、黙々と先を行きはじめたので、ソンヨンも手ぶらのまま、とぼとぼと道をついて歩いた。
「清まで会いにいくよ。それまで体に気をつけて元気でな」
急に立ち止まって、テスは泣きそうな顔をして言った。
王世孫にとうとう何も言わずに清へ行こうとしているソンヨンのことが、不びんでならないようだった。


「いざ行くとなると寂しいものだな」
ファワンは、清の使節団の一員として旅立つフギョムにねぎらいの笑みを浮かべた。
爆発事件と老論派の再調査が始まったことで、ほとぼりが冷めるまで身を潜めた方がいいと判断したためだった。機会はきっとまたいつか来る。
別れの挨拶を終え、座敷に座ったまま軽く会釈をしたフギョムに、ファワンが言った。
「そうだ。今朝、クァク尚宮に面白い話を聞いた」
「といいますと…?」
「使節団に例の茶母も加わっているのだ。その後も清にとどまり画員の修行をするとか。一体どういうわけだろう」
思わぬことを耳にして、フギョムは首を傾げた。


旗あげの兵士をのせた馬が2頭ほど先頭を行き、その後にフギョムら身分の高い者たちの馬が続いていた。
歩兵、図画署、医女など各部署からの者たちの他、商人の姿もある。
タク画員は背中に1つ、大荷物を背負い、副業でひと儲けしようと企むイ・チョン画員の方は、荷物から切り裂いた毛皮がひらりと垂れさがっていた。マフラーをしたうえ、さらに帽子ですっぽりと頭から首まで深く覆うという、万全の防寒だった。
テスの叔父もこの一行に加わっていた。人参が数十倍の値で取引されるという噂を聞いて、飛びついたのだ。

一行は、きれいに刈り揃えられた枯れ草の野原を延々と歩いて、賑やかな港町を抜け、やがて桟橋に着いた。そこから帆が一枚だけの小船に、何組かに別れて乗り込んだ。
船はまもなく出発し、滑るように海を進んだ。


サンの目の前に、梅花図を広げて見せた王様は、満足そうな笑みを浮かべた。よほど気に入っているのだろう。ソンヨンをこの部屋にもう一度呼んで、絵を描かせることを、とっさに思いついた。
「恐れながら、それは難しいようです…」
おつきの男が少し言い辛そうに、腰を深く折り曲げて申し出た。
「なぜだ?」
ふいをつかれ、王様は尋ねた。サンも不思議に思って、おつきの男の返事を待った。
「その茶母は使節団に同行し、今日清に向かいました」
サンはいったん自分の部屋に戻った。とつぜん訪ねてきたテスと少しだけ話をし、未の刻には予定通り、執務室での政務報告会に出席した。
人事権が一部の官僚に握られているという件に対して、サンの回答を待っていたグギョンは、まぶたを垂らしてずっと何か思いつめているサンに、そっと声をかけた。
サンは手から滑り落ちそうになっていた報告書をつかみなおし、ようやく返事をしたものの、それはそこにいた家臣の7名が期待した内容ではなかった。
「すまないが日を改めよう」

サンは、ぼう然とするグギョンらを部屋に残したままその場を去り、馬を飛ばして港へと向かった。
テスが届けてくれたソンヨンの手紙が、鮮明に心の中に浮かんでいた。
「いつかお約束した通り、画員になってみせます。同封した風かんざしは、取るに足らない物ではありますが、その輝きは、数千年が過ぎても変わらないといいます。数千年が過ぎ去っても、王世孫様を忘れることはありません…」

港につくと、桟橋の先まで駆けていき、目を凝らすようにして海を見回した。
遠くに重なった山々があり、水平線がまっすぐ長く広がっていた。船の姿はもうどこにもなかった。
うろこのような小さい波が、ずっと遠くの方まで伸びていた。

2010/3/1



韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...