2017年6月8日木曜日

イ・サン40話「最後の切り札」

テスの叔父は、全速力で民家沿いを走り抜けた。
暗闇のうえ、足場は泥雪で悪い。獣の爪のように盛り上がったツララが、屋根から何本も垂れ下がっていた。
テスの叔父が到着したのは、画員のイ・チョンの家の前だった。
ここの草屋根にも雪がたっぷり積もっている。
イ・チョンが大あくびをしながら表に出てきた。こんな夜分遅くに木戸を激しく叩くなんて、どこのどいつだと思ったらしい。
しかし図画署のパク別提からの呼び出しとわかって、イ・チョンは職場へすっ飛んで戻った。
作業場には、すでに他の画員や茶母らが集まっていた。一体何事だろうと不安を浮かべているのは、皆もイ・チョンと同じだった。
「王世孫様の命令で至急、絵を書くことになった」
パク別提は、わりとにこやかに言った。
続けてソンヨンがステップ台に乗って、王世子の山水画を高くかかげて説明をした。
「ここにある小さな亀の形をした岩が見えますか? これを拡大して描いてください。この岩を探すためのビラを作るんです」
パク別提の合図で、画員らはすぐ作業に取りかかった。
というのも、もうあまり時間がない。期限は夜中の子の刻だった。

その頃、重臣たちは、横長い建物に囲まれた狭い中庭のあちこちで、不安な声を漏らしていた。
雪の照り返しと、障子から漏れる灯りは、大臣らの緊迫した表情をあらわにした。
王様が兵を動かすのを今日1日、目にしたあとだから無理もなかった。王世孫に王位を譲る噂は、もうすっかり広まっていた。
「冗談じゃない! 数日前まで廃位すると言っていたのに、いきなり譲位だなど!」
ホン・イナンは、じたんだを踏み、肩を揺らした。その火の粉はソクチュにも向けられた。
「王世孫が王になれば、我々は死んだも同然ですよ! 何とか言ってくださいよっ!」
鶏の雄たけびから逃れるように、黙って顔をそむけたソクチュは、屋敷の影にたたずんでいたフギョムと目が合った。いつから見られていたのか、まるでソクチュの心の変化を疑うように、眉を潜めている。
ソクチュはフギョムからも目をそらし、仕方なく闇夜の宙を眺めた。
この先のことはわからない。ただ夜が明けるのを、息をのんで待つばかりだった。

明日の辰の刻までに、サンは水面下でいくつかの作戦を練った。
譲位の宣布の際に、王世子を死に追いやった罪を暴いて、老論派の反発を押さえること。
禁衛兵による金虎門、崇敬門、天将門の警備の徹底。
禁衛兵のシン大将宛てに、弘化門に兵を集めるよう通達も送らせた。
しかしテスがその通達を禁衛営の執務室に届けに行ったときには、すでにシン大将は殺された後だったことになる。ただ死体がなかったので、テスが気付くことはなかった。
テスが届けた通達は老論派の息のかかった禁衛兵から中殿の手へ渡り、また中殿はその男に禁衛営の指揮を任せた。禁衛営はこうして密かに中殿に掌握された。
中殿はさらに、兵士たちを任王山へ派遣したが、その目的は王世孫の暗殺であった。

執務室のテーブルに、サンは里山の地形図を広げた。
亀岩の場所は、ある程度予想がついている。仁王山にのぼった日に泊まった黄鶴亭に近い山を探せばいい。
サンが地図のその地点を指し示したのを見たナム洗尚は、訂正するように、周りの四ケ所を指でなぞった。実際には四方に渡る広範囲を散策する必要があったからだ。

仁王山に到着したサンの軍には、亀の描かれたビラと、筒の花火が1人ずつに配られた。花火の方は、亀の岩を見つけたときの合図に使われるものだった。
兵は1組4人ずつで行動し、そのうちの1人がたいまつを持った。
兵士らは駆け足で山奥へと潜って行った。サンがその長い列を見届けるのに、しばらくの時間がかかった。
サンもさっそく林へ入り、ナムとグギョンが適当にその後に続いた。
ふぞろいに並んだ松のそばを、兵士たちが黙々と通り過ぎていった。その人影と炎は、蛍のように移動した。
川底へおりると、頭や腰の高さまである大岩が、浜にうちあげられた鯨のようにいくつも横たわっていた。大小の岩で埋めつくされた河原を、兵士たちは、またぐように歩いた。
山の空き地でグギョンに再会したナムが、サンの早い動きについて行けず、途中で見失ったと言った。グギョンのヘルメットには、空から舞い落ちる雪が降りかかっていた。

サンはその頃、森の入り口に立っていた。木の間から放射状に伸びたまばゆい光の筋が、サンの体を照らした。奥はモヤがかかっていて、見通しが悪かった。
サンは護衛から、たいまつを受け取って、森の中へと足を進めた。
森を抜けた先から崖へ出た。谷底へたいまつの炎をかざすと、川の黒い水面に映った炎が揺らめいて、赤と黒の縞模様になった。
サンは辺りを見回して、急に興奮した。
確かに見覚えがある場所だった。

見渡す限りの岩場の中央に、あの頃と同じ姿で、ひっそりと首をもたげた亀の岩があった。
護衛数名も、サンと一緒に川岸へおりていった。膝まで水に浸かって川を渡り、向こう岸へあがった。
亀の甲羅に見える部分を、サン一人で抱えあげようとしたものの、びくとも動かない。少し考え込んだ後、サンは地面を強く踏みならした。
泥の滑る音のみで、下は岩盤ではなさそうだった。
素手で地面を掘り起こし、土を掻き分け、地中からのぞいた風呂敷の結び目を一気に引っ張り上げた。
包の中身は木箱だった。さらに木箱の中には、もう1つ留め鍵つきの木箱が入っていて、フタを開けたら、また風呂敷包が現れた。その風呂敷を取り払い、また木箱のフタを開け、最終的にヒモでくくられたロール状の紙を指でつまんで、サンは嬉しそうに言った。
「早く花火を…!」
そのとき、背後の護衛らが急に刀を抜いて、サンのアゴにピタリとつけた。
サンはくるりと地面を転がり、4本の刀から素早く身をかわすと、1人の兵の腕をねじり、別の兵士の腹を思いきり蹴りあげた。さらに後ろから襲ってきた兵士をひじで突いて、奪い取った刀で切り倒した。
2人がかりでの攻撃を、刀で押し返すうち、サンはじりじりと後退し、根株に足をとられて尻餅をついた。
兵士がとどめを刺そうと大声をあげ、刀を振り上げた瞬間、花火が発火して、松の陰から猛烈な火柱がパチパチと吹きあがった。
サンはその隙に、血まみれた刀を地面から拾い上げたが、少し離れた斜面に倒れていた兵士は、懐からそっとピストルを出した。
無理な体勢からくる手ぶれを押さえるため、兵士はしっかりと銃を握り、片目を閉じた。
縄の先についた火種から、細い煙がたちのぼっている。その銃口は別の兵士と格闘中のサンに狙いをさだめた。
サンの行方を探していたグギョンとナムとテスは、山に響き渡る一発の銃声を聴いた。

明け方、サンは風呂敷包をさげて宮殿に戻り、王様の御殿へ足を運んだ。
銃弾はサンではなく、サンと争っていた兵士の方に命中したのだ。
サド王世子が残した資料は、無事、王様に手渡された。サドを無実の罪におとしいれた証拠として十分役立ちそうな資料だったけど、陰謀に関与した者の一覧に、ほとんどの重臣の名前が並んでいるのを見て、王様の心は疲れ果てた。

おつきの男は、王様のせんじ薬を取りに一人で小屋へ入った。
奥のテーブルに用意されたものが、どうもそれらしい。
お盆にかかった布をめくると、せんじ薬が、器の中できらりと黒光りした。
おつきの男は青ざめた顔をして、そわそわと落ち着かなくなった。
この薬は中殿が実家から取り寄せたもので、御医の許可は出ていない。
体力を補う薬との中殿の説明は、きっと嘘に違いないと、おつきの男は確信していた。
王世孫が無事に宮中へ帰って来たということは、暗殺が失敗に終わったということだった。
辰の刻には予定通り政務報告会がはじまり、王世孫の譲位が王様の口から発表されるだろう。
結局、中殿はその前に王様を殺すことにしたのだ。
おつきの男は唇を噛みしめ、しばらく悩み抜いたすえ、そそくさと布を元通りにかぶせ、盆を抱えて小屋を出た。

ところが卯の刻を過ぎ、辰の刻が間近に迫っても、王様が亡くなったとの知らせは入らず、中殿の我慢も限界になった。
まもなく全ての事情がわかった。
大殿のおつきの男は迷った挙句、せんじ薬を捨てたのだ。
何もかも終わった。すでにサンや大臣らは便殿に集まっていて、あとは王世孫の譲位が告げられるのを待つばかりになった。

確かにサンたちは長い間、政務報告会が始まるのを板の間に座って待っていた。
しかし辰の刻を過ぎても、王様は姿を見せなかった。
迎えのため大殿へ顔を出したジェゴンは、座布団にうつ伏せになって倒れている王様を発見した。
その知らせは、便殿の板の間を駆け抜けるようにして入ってきたチェゴンによって、サン達に伝えられた。

2010/5/9

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...