2017年6月8日木曜日

イ・サン44話「形見の指輪」

山から帰った翌日、大殿は朝から張り詰めた空気に包まれた。
内官と女官が総動員され、宮中をさかんに行き来した。それは大殿つきの者だけでなく、恵嬪の女官までに及んだ。
王様は明け方の寅の刻に起床された…。お食事を持って部屋へ入ったときには、すでにどこにもいなかった…
おつきの男は今にも泣き出しそうな顔で、サンにそう状況を説明した。皮肉にもサンの目に、王様の寝室はいつもと同じ景色に映った。
座椅子に乱れた跡はなく、燭台の灯りは消えている。朝の着替え用にと、金の刺繍紋入り赤衣が卓上机の上に丸首を表に出して畳まれ、その横には茄子型の帽子が立ててあった。
サンの頭の中に、絶えずつきまとうもの…。それは王様が死にに行ったのではないか、という不安だった。

出勤前に洗濯物を干していたソンヨンは、テスの叔父さんが随分と慌てた様子で出かけるのを見て、思わず声をかけた。
「国葬になる前に、品物をさばかないといけないんだよ」
おじさんはそう答えて、垣根から出て行った。
王様危篤のニュースは、すでに民衆も知るところだったけど、さすがに今朝の宮中の混乱についてはまだ誰も知らなかった。いつもと同じ1日のはじまりに思えた。

その頃、王様はお供の2人を連れて、町をお忍びで視察していた。
広場には簡易テントが貼られ、通りの軒先に台を置いただけの露店が並んだ。
若い女は桃色の反物を広げて品定めし、商人は大荷物を背中に抱えて歩いた。編み籠屋は、皿型、お盆、しゃくし型など様々な商品を取り揃えて、どの店も繁盛した。
餅売りの老人に声をかけられ、王様は足を止めて言った。
「餅をいただくとしよう。ところで近頃、暮らし向きはどうかな」
「町も賑わい景気もいい。言うことなしですよ、だんな! これもすべてあの王様のおかげです。これほど庶民の暮らしを考えてくれる王様は他にいません」
「何が王のおかげだ。あの老いぼれは宮殿で座っているだけだ。しかし良かった。老いぼれの一生もムダではなかったかな」
王様は少しとぼけた口調で言い返した。
餅屋の老人は、紙袋に手を突っ込んで底を作ってから、木箱に並んだ数種類の餅をいくつか放り込んで、王様に渡した。2文のところ1文余分に王様から代金を貰ってとても喜んだ。
王様は辺りの風景をその目の中にじっくりとおさめた。
客を呼び込む声がする。市場は人ごみに溢れ、活気に満ちていた。

「図画書の茶母が参りました…」
夜になって、王様の命令でソンヨンを連れに行ったお供の男が、郊外の屋敷へ戻って来た。
すぐ中に通すよう返事があり、ソンヨンが障子を開けた。
薄墨で描かれた梅花の屏風絵に、月明かりが格子の青い影を映して、王様の顔も一緒に照らした。
卓上机から胸が隠れるほど王様の体はしぼんで見えた。濃いシミの浮かんだ皮膚は枯れ、生気がなかった。光沢のある薄黄色の着物を着ていた。
もう黄泉の国に半分浸かっているようでいて、ソンヨンを見つめるまなざしは強かった。
お供の男が、水ボールと絵の具皿のセットを床に置いて、そっと部屋を去っていった。恐らく本来は、剣の精鋭であろう雰囲気を漂わせた男だった。
肖像画を描くために呼ばれたのでしょうかと尋ねるソンヨンに、王様はそうだと答えた。
ただそれは王様自身のものとは違っていた。王様がかつて怒りにまかせて燃やしたものだった。王様は肖像画に必要な顔の特徴を、1つずつ記憶の奥から取り出しては、懐かしむようにソンヨンに聞かせた。
「顔立ちは細長く、端整で鼻筋が通り、顔全体から気迫が感じられた。口元はしっかり結ばれ赤みを帯びていた。目元はそう…あの子の目元は王世孫とそっくりだ。王世孫と同様、善良な眼差しが聡明な輝きを放っていた。そして、よく笑う子だった」
思い出はどんどん溢れ、尽きることはなかった。

ソンヨンは明け方にかけて、王世子の肖像画を完成させた。
王世子の目はりりしく、表情は温かだった。絵の中で王様に生き生きと微笑みかけ、引き締まったピンクの口元から、今にも何かを喋り出しそうだった。
王様は絵のお礼にと、手のひらに指輪をのせて差し出したが、それは生母である淑嬪チェ氏の形見であった。
ソンヨンは戸惑いながらも、かしこまって頭を伏せたまま、指輪を受け取った。
ソンヨンが古い友達で、今はそれ以上の存在だと孫のサンから聞いて、王様がどうしても渡したがった。
リングはペアだった。やわらかな色の乳白石で、赤い糸によって1つに結ばれていた。
ソンヨンが去ったあと、王様はぐったりした。
肖像画の顔を手のひらで優しくなでながら、もうすぐ会えるはずの息子に語りかけた。
「あの世ではいい父親になろう」
最後にそう約束した。

夜になって、王様から厳重に口止めされていた禁軍別将が、突然サンの部屋を訪れ、滞在先を告白した。
サンはすぐに馬を飛ばしたものの、屋敷に到着したのは明け方だった。
石段の上り口から何度呼び掛けても返事はなく、部屋に飛び込んでみると、王様が仰向けに転がった状態で亡くなっていた。

王様の崩御を受け、宮中は慌ただしくなった。
大殿の前では大臣らが石段に身をすり寄せるようにして、大袈裟な泣き声をあげながら、土下座を繰り返した。
嬪宮は恵嬪と一緒に涙を流し、軟禁中のファワンは、荒々しく泣き崩れた。
王様の崩御を知らせるために、係の男が宮殿の瓦屋根に立って、黄色い衣を両手に高くかかげた。大量の雲が速く流れ、太陽は隠れて白く光った。
屋根の上の男は歌うように崩御の一報を叫んだ。黄衣は風に打たれて細かくひるがえり、声は雲の隙間を抜けた。
ホラ貝の音色が線のように流れて、中宮殿まで届き、大殿をじっと遠くに眺める中殿の目を赤く染め、哀しみの涙を浮かべさせた。

サンはその晩、しめ縄つきの帽子をかぶり、黄ばんだ生地で作られた喪主の衣装に身を包んだ。
護衛部隊や茶母以外のほとんどは、みんな白い服を着た。グギョンや内官の茄子型の帽子も白かった。
大殿の寝室で、黄金の寿衣の儀式が行われた。王様を見送ったのは、サンやおつきの男と尚宮、内宮など、ごくわずかな人数に限られた。
男らが王様に、足首まですっぽりと覆う長さのスリット入りの衣と足袋を着せ、胸の高い位置に蝶の結び目を作り、枕元にポシェットを置いた。その全てがラメ入りの黄金生地だった。
翌朝からは、パク別提の指示で、図画書でも国葬に向け作業がはじまった。
画員それぞれが、鳥のラインを紙に描いて色をつけ、盛り上がった肩とウロコ状の羽にかけては茶色に、羽の内側は色とりどりのグラデーションにするか、鋭い羽の先まで淡い緑に塗った。
これらの絵はすべて、王様の冥福を祈って奉納されるものだったが、その一方では、4日後の即位式の準備も、急ピッチで進められていたのである。
パク別提がタク画員に渡した「大礼儀軌」と「嗣位節目」は、即位式に用意すべき物が詳しく書かれたマニュアル本だった。
即位式の準備の総責任者をタク画員とし、イ・チョンとソンヨンにその補佐を任せた。
その他の部署でも準備は着々と進んでいた。
女官は刺繍をし、即位式に着る金紋赤衣を支度した。兵士達によって、ぼんぼりや巨大パラソル塔が広場に次々運び込まれ、裏口では大道芸人たちが稽古に励んだ。
玉いんが宮中を移動した。護衛部隊と禁軍は即位式に備えて警戒態勢を敷いた。

テスの叔父さんは、家の前に止めたリヤカーに、ヒモでひとくくりにした寿衣の束を山高く積み上げた。
王様の国葬に黄金の寿衣が使われたと聞いてから、近頃、黄みがかった寿衣が売れる。いい寿衣を着せると、子孫が繁栄すると言い伝えもあるらしい。
リヤカーを広通橋まで押すのは、テスに手伝って貰った。
ところが到着してみると、長い城壁の貼り紙の前に、人々がアリのように群がっている。
その内容は、王世孫が病に乗じて摂政となり、王様を宮殿から追い出したというものだった。
貼り紙は広通橋だけではなく、四大門から船着場の掲示板、全国にまで及んだ。グギョンは考えた。
こんな怪文書を全国に流せるのは、恐らく相当の力のある者に違いない…
即位式に向けて、新たな企みが進行しているのだろう。
おかしなことに、ホン・イナンら数人の大臣が、最近、自分らの屋敷を売り払って資金をかき集めているという情報まで入った。
何のためか…? 今さら都を逃げ出す必要はない。その機会は何度もあった。
グギョンは早速テスにフギョムの身辺を尾行させたが、その結果は目立った動きは見られないという物足らないものに終わった。

10名の作業員のうち、ペンキ容器を手にぶらさげた5名は、目の下まで布巾で覆って顔を隠していた。
大殿の外壁の補修作業の指導は、ソンヨンの担当だった。
彩色に使う5つの色には現世の安楽と来世への祈願、厄払いの意味がある。この2日間で仕上げるようにとのソンヨンの説明を聞いて、男らは作業場所へ散らばっていった。
はしごをのぼった男は、瓦屋根のひさしの内側に以前と同じ緑を塗り重ね、消えてしまった花の紋様を細筆で白く縁取りした。
ソンヨンは建物の足元で、緑の粉を調合している男に近づいた。
男は木ボウルに溶いた色を、筆でかき回しているところだった。
「色が少し濁っているようです。緑をもっと足しては?」
実際の軒先の色と見比べながら、ソンヨンが声をかけると、男は背中を向けたまま、分かりましたとだけ答えた。今まで見たことのない、目つきの鋭い男だった。
ソンヨンが他へ行った隙に、男は急に手を止めて、宮中の奥へと忍び込んだ。
崇政殿の石回廊の敷石を2つばかりはがして、土の中に短剣を埋めると、また元通りに石をはめ込み、表面についた土を筆で払い落して痕跡を消した。

2010/6/6

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...