事件は翌日の政務報告会で起きた。
永祐園の補修工事をしようという議案が、王様の逆鱗にふれたのだ。
永祐園とは王世子サドの墓である。
王様の怒りは、補修工事を言いだしたジェゴンではなく、サンに向けられた。
その裏には、王世子サドが罪人として処罰されたときに、王様がサンをサドの兄、孝章王世子の養子にした背景がある。
「罪人の子は罪人である! 答えよ。そなたの父は誰だ。そなたは誰の息子か!」
王様はサンを熱く睨みつけた。まるでサンが謀反でも企でいるかのような異常な興奮ぶりに、サンだけでなく、大臣らもそっと息をのみこんだ。
「去る甲申の年、私は孝章王世子様の養子となりました。私の父は孝章王世子様です」
サンが静かにこう答えた瞬間、大臣らは一斉に胸をなでおろした。
ところがサンの言葉にはまだ続きがあった。
「でもこの体をくださったのは、この世で1人だけ…サド王世子様です」
報告会の座から庭に出た大臣らは、ソクチュの後ろを、競うようについて歩いた。
ここ数年、話題にもならなかったサド王世子の話を、なぜ王様は今さら持ち出し、激怒したのだろう?
ホン・イナンをはじめとする大臣たちは、中殿が王様に何か吹き込んだのではないかと予想しながらも、やはり一番にソクチュの意見を聞きたがった。
「そう単純ではあるまい…」
ソクチュは渋い表情で答えた。
王世孫に対する王様の信頼が、中殿の言葉ごときで簡単に崩れるとも思えず、かと言って、ホン・イナン以上の説明が、何か思いつくわけでもなかった。
「王様は認知症を患っておられます」
政務室に戻り、ホン・グギョンはサンに伝えた。
理由はいろいろ考えられる。王様が地名の暗記を日課にしていること、史官に自分の行動を記録させていること、診察のとき、人払いをしていること…。中殿がこっそり町医者を宮殿に呼び出したという情報もあった。
認知症であるという確かな証拠をつかむため、グギョンはさらに、テスの叔父に薬材庫へ忍び込んで貰うことにした。
テスの叔父は、実に十数年ぶりに内官の服に袖を通しただけでなく、薬材の色と形を、しっかりと事前に覚えこまされたのだった。
幸い、内兵曹の正郎の命令で処方箋を調べに来たと言ったら、すぐに薬材庫には入れた。
ただし責任者の医員が、そばに付きっきりで、棚の物1つに触れるのも難しい。
王様の処方箋は、さらにその奥の別室の方へ保管されているらしかった。
医員は、棚の書物をいくつか調べたものの、正郎の処方箋を見つけるのは、思ったより時間がかかるとわかって、他の医員へ聞きに少しの間、小屋の表へ出ていった。
テスの叔父は、とっさにテーブルの升箱から鍵の束をつかみ取り、格子扉の前へ立った。
しかし鍵が何本もぶら下がっていて、どれが合うのかさっぱりわからない。クシ型、栓抜き型など手当たり次第に鍵を差し込んでいくうち、急に金属の外れた音がし、格子扉がすっと開いた。
奥は狭い一室になっていた。仕分け箱、薬だんす、薬草袋、書物がきちんと整理されている。
「遠志、石菖…」
テスの叔父は、丸暗記した薬材の名前を呟きながら、バタバタと棚を荒探しした。
足元にあった銀の出前箱を抱えあげ、テーブルへ載せた。扉には御の字がついている。王様のものに間違いなさそうだった。
大慌てで両扉を開き、小引き出しの中から処方箋の束をわしづかみにしたちょうどそのとき、外から戻って来た医員の方は、升箱から鍵がなくなっていることに気付いた。おまけにさっきの見慣れぬ内官の姿も消えている。
血相をかえ、テーブルの上やら足元を探していると、部屋の端からふらりとテスの叔父が現れた。
「そこで何をしている? ここに置いていた倉庫の鍵は?!」
医員はテスの叔父を疑い、声を荒げた。
しかしテスの叔父は、派手なくしゃみを1つした。その隙にこっそり袖の下から鍵の束を滑り落とし、とぼけた顔で、床を指さしたのだった。
「座って待ってたんですよ。鍵っていうのはもしかすると、床に転がっているあれのことで?」
テスの叔父が懐に忍ばせて持って帰った王様の処方箋は、無事にグギョンの手に渡った。
その結果、王様に遠志や石菖蒲が処方されていることがわかった。
認知症の疑いがあるのは、もう間違いなさそうだった。
そんな中、急きょ新しい宣旨を出そうと、都承旨が王様の部屋へ呼ばれた。
王様の言葉は都承旨の手で書きとめられ、翌日、王世孫や重臣たちを召集した講堂の場で発表された。
以下は都承旨が王様の代わりに読み上げた宣旨の一文である。
「丙申年2月11日 辰の刻に再度、王世孫に父の名を問う。もしそこでも罪人の息子と称するなら、私は王世孫を廃位させる」
発表のあと、サンは書庫にこもった。
王様にあらぬ疑いをかけられて、苦しい思いをした父の気持ちが、体の隅々にまで浸み込んでくるようだった。
テーブルに積み重ねた書物を半分ほど手前におろすと、書物と書物の間に挟まれていた王世子サドの梅花図が、当然のように一番上にあらわれた。紙の裏側から、鮮やかな花びらの色が透けて見える。
その小さく折りたたまれた梅花図を、サンは丁寧に広げた。
ソンヨンが描いた梅花図より、幹は太く、大ざっぱな筆遣いをしている。ぼってりと墨がにじんだやさしい風合いの中に、赤い花びらが活発に息づいていた。
その眩い絵を見て、ふと14年前の父の声が、サンの耳に宿った。
(飾り箱の中に、私が描いた絵がある…)
その絵は、もう別の場所にあった。サンは、まるでかゆいところに手が届くといった素早さで、かがみ込んで書棚の扉の中からその巻き絵を取り出した。
こうして改めて眺めてみても、平凡な山水画だった。なぜ父が、王様にこの絵をわざわざ渡そうとしたのか、時が経った今でもわからない。
この絵を見て意外なことを言い出したのは、ナムだった。
「ソンヨンに調べさせてはいかがでしょう。絵を描く者の視点で見れば、込められた意味が分かるのではないですか?」
図画署を訪ねたナムは、ソンヨンの記憶力に目を丸くした。ひと目見るなり、これは14年前に、王世孫様と一緒に王様に届けようとした絵だと、すんなり答えたからだ。
夜、一人で作業室にこもって、ソンヨンはさっそくテーブルにその山水画を広げた。
切り立った山の奥から、川が二股に分かれている。中央の三角州には、3人の男の姿があった。
何かを語りかける老人、それを聞く若者、そして若者の後ろに隠れた子供。下流に浮かんだ小さな島の松の根元には、亀が1匹、うずくまっていた。
指で川の流れをたどるうち、何となく違和感を覚えて、掛け軸を裏返してみた。普通の紙よりも、どうも厚いようだ。
もう1つおかしな点に気付いた。老人と若者と子供の手が、何気なくみんな亀の方を指している。
亀は指で引っかいたら簡単にはがれた。
ソンヨンはハッと息をのんだ。亀のいた場所から、みるみる紙がはがれていき、掛け軸と絵の間に、手紙が挟み込んであった。
サンの住む東宮殿は王様の宣旨が発表されて以来、禁軍に包囲されていた。手紙はサンではなく、王様に直接、見て貰うしかない。
大殿の前に立っていたおつきの男は、夜更けに突然、茶母のソンヨンが王様に会いたいと訪ねてきたことに、最初、面食らった。しかし王様に頼まれた絵が仕上がったという口実は、もっともらしく聞こえたようだった。
「こんな時間に持って来たのか?」
おつきの男は、そわそわとして聞いた。
王様はそろそろ寝床で休むところだった。白い着物姿で、卓上机の前にじっと座っていた。
「私がそなたに絵を頼んだそうだな…。いつのことだ。最近、物忘れがひどくなってな。どうやら昨日頼んだようだな」
王様は、穏やかな口調でソンヨンにあれこれと尋ねた。
「恐れながら王様。先ほどの話はウソなのです。王様に至急お渡ししたい手紙があり、死に値するのを承知でウソを申し上げました」
ソンヨンは怯えながらも、王様の目の前で正直に打ち明けた。
しかし王様はソンヨンを、ねぎらうような優しい目で見つめていた。
怒る気力がないほど疲れているようにも、それほどまでに渡したいと言ってきた手紙に、少し興味が出たようにも見えた。
王世子サドの手紙は、14年ぶりに王様に渡された山水画の上にのせられた。
王様はその手紙を手に取った。手のひらほどの小さな薄い紙切れだった。
1枚目には無実に関する説明がつづられ、2枚目には証拠が箇条書きにされていた。几帳面な字で隅々びっしりと書かれてある。
目を小刻みに揺らしながら、小さな文字を読んでいた王様は、やがて、がっくりと首をうなだれた。
ソンヨンが部屋を退出した後も、ほじくり返すように、何度も手紙を読み返した。
でもいくら読んだところで、事実は何も変わらなかった。
とんでもないことをした。罪もない息子を処刑したのだ。恐れていた不安がとうとう現実になった。それより何より、もう息子が戻らないことが、残念でたまらない。
王様の老いた体は、丸くすぼんで、ますます小さくなった。
明け方、王様は墓参りに出かけた。
羽つき帽子をかぶり、護衛のお供を引き連れ、何とか丘までやって来た。
うっそうと草の生えた空き地には、ほんの少しまだ雪が残っている。
王様はサドの墓をまじまじと見つめて、渋い表情になった。
墓はこの十数年間、一度も手入れされていなかった。墓石が破損し、痛みがひどい。
墓石の後ろにそびえた盛り土は、ススキでうっそうとしていた。ジェゴンが補修工事を提案したわけだ。
王様はススキを掻き分けて、墓のもっとそばへ寄った。
風邪でも引いていないかと心配するような目で、ちらりと盛り土に目をやり、急にうちひしがれて、ついには声をたてて泣いた。
「そなたには生きている間も、死んでからもひどいことばかりをした。王世子よ、すまぬ…」
盛り土に手のひらをあててみると、息子の体温の代わりに、指の隙間までいっぱいに枯れ草の感触が伝わった。
罪人サドは、両脇を護衛に抱えられて、時敏堂の広場に姿を現わした。
罪人用の白い着物姿でありながら、頭のてっぺんに丸く結った髪は、美しく整っていた。
サドは護衛に体を押されて、石畳の道に立った王様の前へパタリとひざまずいた。
彼の背後には米びつが1台、用意されていた。
王様は王世子サドを、厳しく睨みつけ、そして声をあげた。
「罪人を米びつに入れよ!」
合図とともに護衛が、嫌がるサドの腕脇を捕り、無理やり米びつの中へと押し込んだ。
「父上、誤解です。私は無実なのです。父上! 父上…!」
サドは米びつの中から必死に叫んだ。しかし2人がかりで抱えあげられた木ブタは、無情にも、米びつの上にどっしりとかぶせられた。
石階段の庭にたたずんでいたサンに、内官と尚宮が恐る恐る声をかけた。
そういえばもう辰の刻である。いよいよ王様に、父親が誰であるかをもう1度、問われるときが来たのだ。
サンはすぐに大殿に向かった。
2010/4/25
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...