2017年6月9日金曜日

イ・サン37話「失われゆく記憶」

「ウーフ…」
王様は滞っていた息をのどの奥から一気に吐き出して、背もたれにぐったり頭をもたれた。
自分の病名を知って、ひどく疲れが出たようだった。
これから先、周りにかける迷惑を考えると、気分が重かった。
またいつキムギジュを赦免するようなことを、繰り返すかもわからない。
翌日、王様は気持ちを切り替えて、もう一度、御医を呼んだ。
病気の進行を遅らせることができるなら、何でも試してみるつもりだった。
御医は今にも消え入りそうな声で、悲しげに言った。
「恐れながら、最近の記憶やささいな記憶から失われていき、病状がさらに進むと人も見分けられなくなるでしょう。さじや筆を動かすこともできなくなります…」

御医にいくつかのアドバイスを貰い、王様は読書堂にこっそり史官を呼び出した。
朝起きたときから寝るまで、ひとつも漏らさずに、言動を記録しておくよう命じたのだ。
後でチェックしてみれば、物忘れの度合いがわかる。
「ひと月だ。その間、私から一瞬も目を離してはならぬ…」
王様は史官に念を押した。
御医に処方させ、強い薬も飲みはじめた。体にかなり負担はかかるけど、なんとか耐えられそうではあった。

心に引っかかっているのは、王世孫の問題だった。
王様に呼ばれて部屋にあがったサンは、 思った通り眠れていないらしく、顔色が悪かった。 突然キムギジュが息を吹き返して、宮中に舞い戻って来たのを目の当たりにしたのだから、驚くのは当然だった。
キムギジュを許した理由について、サンがとても知りたがっているのを、王様は痛いほどわかっていた。
しかし話せる時が来るまで待てとしか、今はどうしても言えなかった。
「長くはかからぬ…。もう少し様子を見て、何も変わらなければ、そなたにすべてを話そう」
王様はきっぱりとサンに約束した。

まもなく読書堂に、王様がリクエストした京畿の地図が届けられた。
疲れた目を眩しそうにこじ開け、使いの者の顔を見た王様は、急に明るい笑みを浮かべた。
「そなたは梅花図を描いた茶母ではないか。また会いたいと思っていたがよく来てくれた」
ソンヨンは、ちょうど今日から仕事に復帰したばかりだった。こうして元気にまた図画署で働けることが、何よりも嬉しくて、自然と笑顔になった。
「そなたは残っておれ」
王様がソンヨンの方だけを見て言ったので、一緒に来ていたタク画員は、内心がっかりして読書堂を出ていった。
ソンヨンがテーブルに広げた地図には、山や川、村が描かれていた。
王様は、まずは北の右側の村から、地図を見ないで順繰りに地名を読みあげた。 ソンヨンはその地名が合っているか、地図を見て確認する係だった。
吐月、亭坪、内大池、中通、玄岩、ソンゴル…
北を全て言い終えると、今度は次の地図を広げさせ、南の左側から、険川、間村、古盆峠、岸下洞、遜基、庄義、瑞峯、新鳳、洪川と、地名を唱えていった。
そのどれもがスムーズに正解したので、王様は無邪気に喜んだ。とても満足そうでもあった。
ただソンヨンには、何のために王様がこんなことをしているのか、さっぱりわからなかった。

ホンイナンは、ソクチュの屋敷に押し掛けていた。今後のことを相談しに来たのだった。
中殿が急に王様に許されるなんて、思いもよらなかった。自分たちの生き残りのために、中殿とキムギジュを見捨てたことは、間違いだったのだ。
しかし中殿の恨みは、どうも野望の強いファワンとフギョムの2人に、主に向けられているようだった。ホンイナンでなくても、それくらいのことは皆、気づいていた。
「ファワン様が会合を開くそうですね…。皆戸惑っていますよ。ソクチュ殿は出席するおつもりで?」
心配性のホンイナンは、ソクチュのデスクに、すり寄るようにして聞いた。
「もちろんだ…。1人残らず出席せよと、あの方が仰せだ」
「え? あ、あの方ですと?」
ホンイナンは、すっとんきょうな声をあげた。 ソクチュは渋い顔で黙りこんだままでいる。しかしうつむいた目線の先には、デスクの端に置かれた白い封筒があった。
どうやら中殿から届いた手紙のようだ…とホンイナンは思った。ということは、いよいよ中殿が老論派の会合に復帰するのだろう。
ホンイナンは今晩、会合に行くことにした。他の大臣たちも、きっと集まって来るはずだ。
ファワンの会合だからではなく、そこに中殿が来るから行くのだ。今や自らファワンに近寄ろうとする者など誰もいなかった。彼らの多くがキムギジュの屋敷の方へ出入りした。

「辰の刻には会議があった。貿易仲介所の要請で市を月6回から12回に増やした。未の刻には礼曹の参議と…。今日の出来事のうち忘れていることはないかな」
王様は寝床で、ちょうど1日の復習をしているところだった。
史官は記録帳をぼんやり眺めながら、少しためらいがちに答えた。
「すべて覚えていらっしゃいます…」
王様のホッとした笑みを前に、史官は心苦しそうに顔を硬くした。
彼は王様の部屋を退出したあと、王様の病状を中殿に事細かく知らせるため、まっすぐ中宮殿へと向かった。
史官にとって、王様に対して正直でいることより、ずっと重要な任務だったからだ。

その晩、王様はまた夢を見た。
おつきの者を連れ、王世子サドの部屋を家宅捜査している場面だった。王様をここまで案内したのは、あのキムギジュだ。
取り調べの役人が2名ばかり、書物のページを1枚ずつめくっている。本をパタパタと振り払っても、証拠の紙は落ちてこなかった。
道具箱や書物が床に散らかり、キャビネットの両扉は開けたままにされた。 飾り棚や足元に作りつけてある長い戸棚も、隅々くまなく調べられた。
弓矢の稽古から慌てて戻って来た王世子サドが、王様に言い寄った。
「父上、謀反の証拠など私の部屋にあるはずがありません!」
王様は、王世子に疑ぐり深い目を向け、そして黙って顔をそらした。
そのとき奥の部屋から役人が出て来て、キムギジュに白い封書を手渡した。
封の中からするりと書状を引き抜いたキムギジュは、その謀反の証拠を王様の前に広げて見せた。
王様は王世子をきつい目で睨んだ。もう疑う予知はない。反乱を起こし、父の命を奪おうと、この書状にはっきりと書いてある。そうまでして王になりたかったとは…!
しかし王世子サドは、切実に訴えた。その声の響きには失望と怒りが入り交じっていた。
「父上はいつもそうです。口では信じると言いながら、私をお疑いなのです。信じているならこんな仕打ちができるでしょうか…!」
頭に血の昇った王様は、そばあった金具付きの小引き出しをとっさに手に取った。
着物のたもとが大きくひるがえるほど、勢いよく、王世子サドの頭に向かってふりかざした。
その瞬間、あまりの重苦しさに、夢から目を覚ましたのだった。
王様は寝床から跳ね起きた。息があがって、額から汗が吹き出てくる。 青い月明かりは、王様の老いた背中をまざまざと照らしつけていた。
王様は急に、認知症特有のかんしゃくを起こして、そばあった湯のみをカッと投げつけた。
湯のみは割れるでもなく、ただ鈍い音をたてて、床の間の掛け軸の下へ転がっていった。

2010/4/16

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...