2017年6月2日金曜日

イ・サン長いあらすじ71話~77(最終話)

「イサン」あらすじ 71話

恵慶宮は御医が持ってきた紙に目を通し、軽く折りたたんだ。
護産庁に配属される医官と内官の名簿の内容だ。
「臨月が間近なので注意が必要です。王室の将来がかかっています。無事に王子が生まれるよう全力を尽くすのだ」
「かしこまりました」
御医は頭を垂れ、すごすごと部屋をさがった。
ここまで万全の準備を整えても、恵慶宮の心はまだ休まらなかった。世継ぎの誕生がもう間近に迫ってきている。
尚宮より、助産婦到着の知らせが入る。妊婦と一緒に話を聞くべきだと思って、御殿の前まで迎えに行ってみると、ちょうど散歩中だったらしく、2段の石段を、ゆっくりのぼってくる。
「お義母様…」
「どこへ出かけたのです。心配しましたよ」
恵慶宮は和嬪に言った。尚宮が和嬪の背中に手をあてた。そうでもしないとお腹の重みで、和嬪が後ろにひっくり返ってしまいそうであった。

白芍薬が入荷するのにあと数日かかるというのを聞いて、チョビは呆れ果てた。貴重とは言え、宣嬪の常用薬なのに。それがなぜ不足しなければならないのか。
答えはわかっている。和嬪に優先的に使われているのだ。
和嬪には護産庁まで設置される有り様だ。恵慶宮の関心が和嬪へ移ったことで、周りの反応も、あっという間に和嬪の方へ向いてしまった。
こうなったら何としても宣嬪様に王子を産んで貰って、皆をぎゃふんと言わせたい。これが今のチョビの本音だった。

「そなたは胎児の性別が分かるのだろう?」
恵慶宮のすがるような思いが助産婦に伝わったのだろう。豊かな丸い顔をした年配の助産婦が小さな三日月眉を曲げ、おちょぼ口で微笑んだ。
「私の見立てでは王子様に間違いありません」
「それは本当か?」
「はい。恵慶宮様。妊娠線が伸び、お腹が下に垂れています。さらにへそが固く、つわりのあと肉類を欲するのは男子誕生の兆候ですので」
助産婦はゆったり自信たっぷりに恵慶宮を力づけた。
「間違いないか?」
和嬪も思わず確認した。
「はい。間違いございません」
恵慶宮は肩を大きくなでおろした。どうやら王子であることに間違いはないらしい。御医も助産婦と同じ意見だったのだ。これでようやく安心ができる。恵慶宮の心は輝いた。

父がそうしてくれたように、自分も我が子のためにと思って、サンは早くも武具など、いくつか準備を整えた。
「これは…?」
ソンヨンは千字文の表紙を嬉しそうに眺めた。
「我が子に漢字を教えたくて毎日、書きためたものだ」
「王様を失望させはしないか心配です。皆は私の姿を見て、王女が生まれると言います」
「そなたに似た娘が生まれたら、どんなにうれしいことか」
サンも子供の誕生が楽しみでならなかった。

ところが予定日を10日過ぎても、ソンヨンの陣痛はまだ始まらなかった。
すっかり和嬪に気を取られていた恵慶宮も、さすがに気をもんだ。御医によると、すでに破水し、長引くと母子ともに危険らしい。
佛手散の薬を処方して3日目、先に和嬪の陣痛がやってきた。
その直後、ソンヨンの部屋から金の洗面器と盆を抱えた医女が2人出てきて、いよいよ宣嬪の陣痛がはじまったことをチョビに伝えた。

2人の嫁の陣痛が重なり、恵慶宮は迷った。
ソンヨンは恐らく難産になるだろうと思い、中殿に任せた。そうして自分はやっぱり和嬪の様子を見にいった。
和嬪の御殿へ何度目かに足を運んだとき、恵慶宮の耳に和嬪の張り裂けるような悲鳴が聴こえた。御医も御殿の外から明かりの漏れる障子に耳を近づけて、心配そうに中の様子をうかがった。和嬪には医女2人が立ちあっているはずであった。
そのうち和嬪の悲鳴が、赤ん坊の泣き声に代わった。尚宮は胸をなでおろした。
障子ドアが開いた。恵慶宮は駆けて行きたいのを我慢して、医女が石段を下りて来るのを待った。助産婦もきっと医女から王子誕生の知らせが聞けるものと思い、心構えをした。

「宣嬪様、ご立派でした! お生まれになりました!」
医女は横たわるソンヨンをのぞき込んで、半泣きになった。
ちょうど同じ時刻、ソンヨンも赤ん坊を産み落としたのである。
ソンヨンは肩で大きく呼吸を整えながら、疲れ果てた声で聞いた。
「御子はご無事か。どうか教えてくれ。王子なのか、王女なのか…」
「お祝い申し上げます! 和嬪様が王女様を出産されました」
と医女は恵慶宮に告げた。男子を産むと予言した助産婦はその瞬間、恵慶宮の横で目をじろりとした。
「見えますか? 王子様でございます」
医女はソンヨンの枕元に、白布で竹の子の皮のように包んだ赤子を寝かせた。ソンヨンはゆっくりと頷いてみせた。
まもなくソンヨンのもとへ中殿が見舞いにやって来て、入れ替わりに恵慶宮も姿を見せた。
赤ん坊を大事に腕の中へ抱え、恵慶宮はしみじみ涙を流したのである。
「私が生涯待ち続けた王子です。ご苦労だった。王様とこの国のために大事を成し遂げたのですよ」
一方、和嬪の方は火が消えたように静かだった。サンがねぎらいに来てくれたことだけが、唯一の救いになった。
和嬪に対する配慮からか、その夜はサンがソンヨンの部屋へ足を運ぶことはなかった。しかしその翌日、ソンヨンに会いに行ってこう誓ったのであった。
「忘れるなソンヨン。私はこの子を王世子に据える。そしていつか私のあとを継ぐ王となるのだ」

守衛儀式とは王様や重臣の前で模擬試合を披露する場である。
壮勇衛軍司令の旗をかかげるのは、壮勇衛の中軍パク・テスら代表3名。うろこ貼りのよろいと真っ赤な襟巻で広場の赤じゅうたんへ登場した瞬間、大砲が次々に火を噴いた。
ここでは旗、長槍、長カマ、二刀流の個人試合、団体での銃のデモンストレーションが繰り広げられる。
ところが重臣らの思いは複雑だった。壮勇衛とは王様の親衛隊なのである…。これらを強化するということは、つまりは老論派が握る五軍営を、いずれしのぐ部隊になるかも知れないということである。王様は五軍衛を消滅させる気なのではないだろうか。

気がかりは他にもあった。試験に合格して晴れて検書官となったヤギョンは、河川を補修する官庁に、すでに2カ月こもりきりだという。
一体何をしているのか。王様は周囲に何も言わなかった。
ヤギョンはただ机にへばりついて、紙の舟ばかり作っているらしい。
重臣らに限らず、ナム尚膳にいたっても、わかっているのは、王様が何かを計画中であるということだけだった。

ヤギョンは硬い紙でパーツを組んで、ソリ型の模型舟を作った。長さが5寸、幅が一寸半。手のひらで持てるほどのサイズだ。
その舟に楊枝のつっかえ棒を5本くらい並べ、少しずつ大きさを変えた舟を、いくつも作った。
王様を呼びに行ったのは丑の刻。そんな夜中に寝床から起きていく王様も王様であった。
壁には書画が飾られている。もともとは執務室だったのかもしれないが、今では格子の骨組だけとか、板や掲示台、棒などが持ちこまれて、ガラクタ置き場にしか見えなかった。そしてヤギョンの机には紙の舟がこぼれ落ちそうなほどあった。
奥の棚の片手壺から、湯気があがっている。ロウソクは芯が短くなって、なお眩しい。
最も部屋を占拠している物は、何か頑丈な木のベッドのようにも見える。しかし大きな布がかかっていて中は謎だ。
「自分で言うのも何ですが、これほど早く安全に大勢が川を渡る方法は他にないでしょう」
ヤギョンがひらりとその布を取り去ると、そこにプールのようなものが現れた。大小の紙舟が縦に一列ずらりと水に浮かんでいる。
「まさか舟を使うつもりか。これでは既存の方法と何も違わないじゃないか」
サンは待ちに待った後なだけに、少しがっかりした様子だ。
「おっと。申し訳ございません。これを置くのを忘れておりました」
ヤギョンは壁に立てかけた長い板を2つばかり取って、舟全体にのせて道を作った。
「これが私の発見です。船に乗るのではなく、船で橋を作るのです。船を連結し固定して丈夫な板を置けば、数千人が容易に川を渡れます。漢江で最も幅が狭く流れが緩いのは鷺梁津です。そこに幅30尺の船36隻を並べ、組み合わせた木板1800枚で覆います。すると浮力が働いて、重さが偏らない限り決して沈まないのです」
サンはヤギョンの言ったことを確かめようと、その辺のテーブルから書物を数冊、引っつかんで船の上へ放りのせた。
なるほど…。船は板ごと波に揺られるものの沈みはしない。サンは調子にのって、さらにペアになった金の燭台を書物の上へのせた。
舟はバランスを保ち、これでも沈まない。サンは思わずおかしそうに笑った。

翌、卯の刻。夜明け共にサンは孔雀の羽飾りのついた帽子をかぶり、墓参りへ出かけた。テスら親衛隊、内官、尚宮らごく少人数での参拝だった。
芝生の上の敷物にひざまずいたサンは、三本脚の金カップを反時計に3度ゆったり回して、赤いナツメ、黒豆、小豆などの盛られた石造の祭壇に置いた。
花模様を彫り込んだ丸い石台の上に、短く刈られた草の山がこんもり築かれている。これがサド王世子の墓だった。

長祐園から戻ってきたサンが、重臣らを便殿に集めて発表した内容は、以下の通りである。
「永祐園を他の場所に移す。前に拜峰山の地形がよくないとの上奏があり、綿密な調査の結果、移転すべきだと判断した。新しい墓所は水原府の花山だ。工事には船の橋を利用し、その陸名を顕隆園と改める。これは決して突然の決定ではない。即位した瞬間から心に秘めていたことだ」
発表後、重臣らは、いつものように内輪で会議を開いた。
「なぜ今になってこのようなことを…?」
「機が熟したと考えたからであろう」
チャン・テウは、もはや逆に冷静だった。
「どういうことですか?」
「サド王世子の死に関して王は誰も処罰していない。内心、耐え忍んでいたのだよ。親衛隊を養成し、自らを支える重臣を登用しながら準備を整えていた」
「つまり王様は墓を移すのを手始めに、復讐するつもりだと…?!」

2010/12/26


「イサン」あらすじ 72話

緑の透けるもみじの下に、内官の雷太鼓がてんてんと鳴り響く。
幼い王子が前へ前へと伸ばす指もまたもみじのように小さかった。
女官らが手拍子を打つ。目隠し姿の王子をおびき寄せては後ずさりをし、王子もまた手のなる方へ右往左往する。振り返った拍子にずきんの割れた先が背中でひるがえった。黒字に金の紋様文字、それに龍の刺繍入りの帽子である。
ソンヨンは幼い王子の姿を、御殿の軒下で微笑ましく見つめた。
なぜか途中で雷太鼓が鳴りやんで、王子はたった1つ残った手拍子の方へ誘われた。そうして誰かにタッチできたと思って両手でしがみついた。
ところがいざ目隠しを外してみると、なんと捕まえたのは父のひざであった。
「あっ。父上! 父上をつかまえました」
王子はびっくりしたような嬉しいような顔になった。サンはいたずらっぽい目つきで、王子の目線までしゃがみ、お尻に手をあてて抱きかかえてやった。サンの腕の中で丸くなった王子は大きな父の肩にもみじの手をもたれて微笑み返した。

王子の成長は早い。
「千字文と同時に孝経もお読みですが、すべて覚えておいでです」
とチェゴンも目を細めて喜ぶ。しかし成長するにつれて、幼いながらいろいろとわかってくることもあるようだった。
王子が母親のする絵の授業にも行かずに一人で縁側に腰かけているのを見て、サンはどうしたのかと尋ねた。すると王子は、
「父上、卑しいとはどういう意味ですか。絵を描くのは卑しいことですか?」
と聞き返した。
「ヒャン。誰がそんなことを言ったのだ?」
と言いながら実はサンにも、だいたいの見当はついていた。恐らく女官らの噂話が耳に入ったのだろう。特に王世子冊立の話があがってからは、母親の身分が低いのを理由に、反発の声がうるさくなった。そういう雰囲気を察して、王子もだんだんと疑問に思い始めたようだ。
そうして今、王子はアゴに手をついて、ぼんやりと考え込んでいるのだ。
「いいか。卑しさや貴さが何かを教えてやろう。ある女官が誤って王子の顔に傷をつけた時、王子はどうした?」
「その女官が叱られないように、なぜケガをしたか誰にも言いませんでした」
「そうだったな。そのような心を持つ人は貴い。だが卑しい者は違う。弱い者を見下す心ない人間だ。王子が誰より貴いのは私の息子だからではない。お前が母上の優しい心を譲り受けたからだ。父の言うことがわかるか」
「はい。父上!」
王子は急に迷いが晴れたように、口を大きくあけて元気のよい返事をした。

中門の石道を歩いていたとき、和嬪の一行がやって来た。
和嬪はソンヨンの前で立ち止まって挨拶をした。
「久しぶりだな。変わりはないか」
溜息がうつりそうなほど、元気のない声であった。立ち話をする気もないようで、すぐに会話は途切れた。ソンヨンが敷石の外までさがって道を開けると、和嬪はおつきの者とそのまま通り過ぎていった。
和嬪の後姿をじろりと盗み見ながらチョビがささやいた。
「姫様を病で亡くされて以来、あの様子です…」
「仕方があるまい」
「次の懐妊に賭けるようです。でもこればかりは1人ではどうしようもありませんよ」
ソンヨンに睨まれてチョビは渋々口をつぐんだ。しかし反省などしていない。自分は事実を口にしただけなのだ。

王世子冊立の反対を率先して重臣に呼びかけたのは、和嬪の父であった。王子がまだ幼すぎること、王子の母の身分が卑しいというのが表向きの理由で、その陰では水原に墓を移した件や、新しい親衛隊を組織した件など、最近の王様の動きに不安を募らせていたのである。
王様が王権を固めようとしているのは明らかだ。しかも他にまだ何か計画があるように思える。その証拠に王様は作業中の検書官に会いに、たびたび水原まで足を運んだ。

「こうなると思っていましたよ。宣嬪が王子を産んだ時から騒ぎが絶えないだろうと予測していました。中殿の言う通り目に入れても痛くない王子です。ですが重臣たちは簡単には認めないでしょう」
恵慶宮の心労は、孫のことが可愛くなればなるほど、いっそう深くなった。そんな恵慶宮のもとへ尚宮が4つ折りにした半紙を差し出した。具合の悪い恵慶宮を心配して、たった今、王子が練習用の文字を届けに来たという。
紙を開いた恵慶宮は、その瞬間、緊張がふっと解きほぐれて目頭が熱くなった。
天地玄黄と書かれた文字は「千字文」の中の一句である。
線は細いが、温かみと大胆さがある。入りはやわらかく終わりはぶつりと途切れ、堂々と伸びそれでいて品よく紙におさまり、線と線の間隔は美しい平行に保たれ余白がきれいであった。
王子が好きな松花の菓子でも用意してやろうと思い、恵慶宮が慌てて縁側へ追いかけて出たとき、ちょうど内官が王子の背に合わせ、帰り道を案内しているところだった。
「待たれよ王子」
恵慶宮に呼ばれた王子は振り返って、ぴょんと跳ねるようにすぐ舞い戻ってきた。
その王子の首元の赤と緑と白の3色でよられたヒモに気付き、恵慶宮が
「何か首にかけているようだが…?」と尋ねた。
「これは、母上がくださったものです」
と王子はあどけなく答え、首に手を入れヒモを引き出して見せた。
ヒモの先にはなんと指輪が通してあった。
「そなたの母がこの指輪をくれたのか?」
「はい。おばあさま。先代の王様が残されたものなので大切にするよう言われました」
「今、何と申したのだ? 先代の王の遺品だと?」
「そうです」
「もっとよく祖母に見せてくれないか」
「もちろんです」
王子は首の後ろへ手を回して結び目をほどくと、水をすくうように大事そうに差し出した。

その後、恵慶宮の希望を受け、サンは新しい命令を下した。
以下の文は便殿へ集められた重臣を前に、都承旨によって読みあげられた。
「甲辰年5月5日をもって、王世子冊立のため、冊礼都監の設置を命ずる。王子の生母である宣嬪ソン氏は正一品の位階に格上げされる!」

案の定、ソクチュをはじめとする重臣たちからは猛反発の声があがった。
「恐れながら王様。王子様の生母は身分が低いため、尊敬を受けられずにいます。これは道理に反したことです!」
ところがソクチュは王様に突然、起立するよう言われたのである。
王様の指示を受けた都承旨が、背後に控える内官から虹色に光る黒塗りの宝石箱を受け取った。虹色の正体は、蝶と吹雪に舞う草花の貝殻細工だ。
ソクチュは一体何事かと思いながらその箱の蝶の留め金を外し、ふたを開けた。
薄い幾何学模様の絹布の上に置かれたものは乳白色の指輪だ。赤い糸で2つの指輪を結びつけてあった。
「王様、これは先代の王様が肌身はなさず身につけていた淑嬪様の指輪ではないでしょうか。王族の方なら誰もが知っている品です」
とソクチュは驚いた顔をした。
「そうだ。先代の王が崩御されてから指輪はなくなったと思われていたが、そうではなかった。先代の王は生前これを宣嬪に下賜していたのだ」
このあとサンの息子は無事に儀式を終えた。正式に王世子と認められたのである。
指輪はサンの古くからの友達、いやそれ以上の存在と知って、先王が絵を描いたお礼がてらソンヨンに託した形見の品だ。
その先王の遺志とあっては重臣らも宣嬪の身分を口実に、これ以上反発するわけにはいかなかった。

広々とした丘に生い茂る樹木。その背後に霞みがかる山。ねずみ色の雲に、遠くの山々が陰のように薄白い。
ヤギョンは地形図を広げた。そうして検書官の部下に、「近くに貯水池はあるか?」と確認した。
「川があるので干ばつの心配はないかと思います」
地形図を丸めて部下に返し、また別の地図を受け取る。
地図には山々が歯車のように波うつ。その間を線書きの道があちこちへ抜けている。
八達山の南側の柳川。3方角に開けた平地に右は全州、左は安東に通じる道が交差する最
高の土地だ。
地図に目を落としては、また実物の山を遠くに眺め、ヤギョンは位置を照らし合わせた。
事務所に戻ってみると、役人らが丸めた重いゴザを抱えたり、ひじ付きの椅子を背負ったり、低い長テーブルを次々と運び込んだりしているところだった。
顕隆園の参拝のための機関をこの水原府の役所に設置する計画だ。今のところ通常の業務は金凛の寺院を使っているが、早急に新たな役所を建てる準備を進めているところであった。
ヤギョンの事務所は、書類が散乱し大風が吹き抜けたあとのようだ。それでも一応、自分では場所の把握はできているつもりだ。
入口手前のテーブルは水原府の治水に関する資料で、壁側のテーブルは築城に関する計画書と設計図、入口奥の窓際のテーブルは商業に関するものだった。
御殿の完成図や詳細な設計図が出来あがると、ヤギョンは鴨居下の仕切り格子へ貼りつけた。
計画は順調に進んでいる。
途中、パク・チェガら検書官と、水原まで足を運んできたサンを交えて、事務所で打ち合わせをした。
土地はすべて買い上げる予定である。200反といえば漢陽の半分もの大きさだ。
柳川の土地200反の所有者の名簿をサンに手渡し、パク・チェガが聞いた。
「なぜこんな広大な土地が必要なのです?」
ところがサンは、
「足りぬかもしれぬ」
と答えた。

2011/1/5


「イサン」あらすじ 73話

ただ役所の移転にしては、この土地は広すぎる。
ところが都の南に通じる新たな道を作って、都の民をここに移住させるとしたらどうだろう…?
サンは水原に商業と農業が共存する新しい都を作るつもりだったのであった。
そうした計画を明かされ、パク・チェガは急に不安になった。
今まで漢陽を基盤に利権を得てきた両班が、きっと反発して来るに違いないと思ったのである。

サンの毎日は、とてつもなく忙しい。
ナムは王様の顔色がすぐれないのが、どうも気がかりだった。でも心配したところで何になろう? 王様は仕事熱心で、止めることなど無理なのだ。
奎章閣に向かう途中、サンは物音に足を止めた。
役人たちが2人がかりで一番下の段だけ扉がある飾り棚を運び出している。上二段にのせた風呂敷包が傾かないよう1人がゆっくりと後ろ向きに歩いた。また縁側の隅では別の男が、黄色い風呂敷を抱えて石段を下りてきた。
主のいない古い椅子が庭に3つ寂しそうである。頑丈な正方形の椅子や、藤色のニスを塗った椅子、木の肌の見える椅子、それらを運び出す音がしめやかにカタカタと鳴った。
「もう東宮殿のものを片付けているのか」
「はい。王世子様の葬儀から10日たったので撤去礼が下りましたので」
ナムが肩越しに答えた。
王子ヒャンが、発疹と高熱がもとで亡くなってから10日が過ぎた。
サンはその間も普段通り政務をこなしてきた。それはいまだにヒャンが死んだ事実が信じられないからでもあった。だが今、目の前ではこうして王子の私物が片付けられている。
庭の隅へ追いやられた家具にゆっくり近づいてみると、毎日のように練習していた千字文と弓がのせられていた。
サンは弓を握りしめた。そうしてあぁ、やはり息子は死んでしまったのかと思った。
弓に巻きつけた糸から、幼いもみじの手の感じが伝わってくるようだった。

サンの政務は相変わらずの多忙をきわめた。
水原よりヤギョンの自室が何者かに荒ら探しされたとの一報が入った。
水原にはレンガの生産を急ピッチで進めようと、大勢の職人が集まっている。スパイはその職人の中に潜んでいたようだ。
サンは水原だけでなく、宮殿内の警備も強化して数の足りている熙政堂から演慶堂へ兵士を移すことに決めた。
興味深いのは、逮捕後に拷問へかけられたスパイが、自分たちのボスが老論派の逃亡犯ミン・ジュシクだと自白した点である。

レンガを作る一帯には、わら屋根が目立つ。建物は土壁や障子つきの他に、ガレージ風なのもあった。
作業に借り出された女らは、板の上にレンガを一列に干した。その脇を役人がリヤカーをひいてあがる姿も見える。
みすぼらしい男が、軒の高さほどに盛った赤土をスコップでかき崩した。土はこれから細かい網のふるいにかけられるのだ。
別の男がロープにつなげた板を踏むとカマが自動的に高く持ち上がり、足をはなした瞬間、振り下とされ、わらが切断される。この仕掛けを使って土と水に混ぜ込むのに良い長さに、どんどんざく切りにしていった。
泥土を素足でこねているのは、ヒゲずらのがっしりした細い男だ。これにはかなりの力がいる。男は天井の真ん中に渡した棒につかまってはジャンプして泥土を踏んだ。
練りあがった泥は、別の男がスコップですくいとり、マス型の組板に満タンまで流し込む。
表面を平らにならしたあと、ひっくり返し型を外すと、刃物で切ったように美しい四角形のかたまりが短い脚のついた板に残った。
レンガは最終的に壺をねかしたような土の大窯で焼いていった。
窯の入口は肩の高さほどもあり奥もずっと深い。雨風をしのぐため窯1つにつき、わら屋根のガレージ1つがあてがわれた。

サンは視察に訪れた際、黒っぽいすす色に焼き上がったレンガのサンプルを見せられた。
「これが黄土を混ぜて作ったレンガです。強度もすぐれています。これを華城の築城にお使いください。城にレンガを使うのは一般的ではありませんが、清では城はもちろんのこと民家を建てる時も使うのです」
とヤギョンはうっと唸りながらレンガを抱えあげた。
「石は採取と運搬が困難なうえ、時間と費用がかかります。劣化の早い点も問題です」
とパク・チェガら検書官は、従来の工法の問題点を指摘した。
「だがそれほど強度の高いレンガを作る技術があるのか」
「それについてはご心配及びません。私が作ったレンガ工房では、すでに開発を進めているところです」
ヤギョンは自信たっぷりだった。
後日、出来あがったサンプル品を、さっそく腕っ節の強い兵士に金づちで破壊させたところ、どんなに絶叫をあげ力まかせに金づちを振り下ろしても、レンガは割れるどころか、硬くて台の上でぼんと跳ねあがったのだった。
このレンガは華城の築城の際に石と併用して使われることになった。

わざわざお忍びで呼ばれた町医者は、ソンヨンの脈診をみて、だいたいの病状がのみこめた。
「どうだ。正直に話してくれ。私の病は肝硬変なのか?」
ソンヨンは勇気を奮い起して聞いた。
医者は背をしょんぼりと丸めた。そうしてソンヨンが病名を言い当てたことに恐れ入りながら、そうだと認めた。
自分で医学書を調べて見当はついていたものの、いざ宣告されると、さすがにソンヨンもがっくりきた。しかしまだ尋ねたいことがあったので再び気を入れ直し、
「これから…どれくらい生きられるのだろうか?」
「それは何とも断言できません。温白元という良い薬がございますから、快方に向かう可能性もありますし…」
「いや、薬は飲まない。温白元は毒性の強い薬だ。飲めばお腹の御子を失うかもしれない。私が知りたいのは薬を飲まずに、どれだけ生きられるかだ。答えてくれ。お腹の子を産むまで私の体はもつのか」
「もつかもしれませんが、すでに痛みの症状があるかと思います。薬を飲まなければ、さらに耐えがたい苦痛が続くでしょう」
医者の言うことは本当だった。
そのあと息がとまるほどの激痛がソンヨンを襲ったのだ。痛みが引くまで一人で堪えながら、ソンヨンには急きょ決断が迫られた。
宮殿をしばらく離れ、静養先でお産をしたいと申し出たのである。
宮中にいて御医の診察を受ければ、王様も病気を知るところとなる。そのうえ赤ん坊を産むと言ったら、きっと止められてしまうだろう…
そんな秘められた事情を知るよしもなく、恵慶宮は深い同情をソンヨンに示した。
「王世子を失ったのです。その気持ちは痛いほどわかりますよ。お腹の御子のためにもそのほうがいいでしょう…」

夜のうちすぐにも出発することになって、庭へコシが用意された。
見送りに来たサンは、ソンヨンの小さな両肩をわしづかみし寂しそうに微笑んだ。出産まで4か月ほどの別れになると信じているようだった。
その力強い手に勇気づけられる半分、行くなと言っているようにソンヨンには思えた。
ソンヨンがコシへ乗り込んだタイミングを見計らい、チョビが金の折れ扉をパタリとおろした。
前後左右の役人8人が角材の取っ手をかついで立った。ベルのような金の屋根がゆっくりあがり、灯篭をさげた女官、風呂敷を胸に抱いた女官がついて歩き出した。数人の槍兵のあと、赤服兵のかかげるタイマツの火が後ろに伸びた。
一行は宮殿を出て、静かな闇の通りを抜けた。
輿の窓に八角模様の障子がついている。ぼんやりと赤色に透けたその窓は閉じられたままだ。
中ではソンヨンが人知れず唇を噛んで泣いていた。
激しい痛みや、一人で産むことや、もうすぐ死ぬこと、そして王様との別れが何よりも悲しかった。

中軍パク・テスがお目通りを願っているとナム尚膳が伝えにきたので、こんな夜中に何事だろうかとサンは思った。
話によると、テスはソンヨンの病状がどうも心配でたまらず、町医者の家へ押しかけ、病状を聞き出してきたらしい。
サンは今ならまだ間に合うと判断し、すぐさまテスを含む壮勇衛5名を送りだした。
ソンヨンは王命を受け、その夜のうちに宮殿へ引き返さざるを得なくなったのである。

宮中へ戻ったものの、診察をこばみ続けるソンヨンに周りは苦労した。
途方にくれた顔で御殿の前に立ち尽くす御医から薬の盆を受け取り、サンはとうとう自らソンヨンの部屋へ説得に入っていった。
御医によればすでに病はソンヨンの体をむしばんでおり、回復は極めて厳しい状況という。
そのわりにソンヨンは普段通りしゃんと座り、まるで罪でも犯したように後ろめたい目つきでサンを迎えた。泣いていたのか病のためか目は真っ赤であった。
サンはソンヨンの心と向き合うように目の前へ座り込んだ。そうして煎じ薬を差し出すと、ソンヨンは言った。
「王様、王世子が亡くなった夜、夢を見ました。あの子が私に戻って来ると、そう言ったのです」
子供を産むことへのソンヨンの覚悟は、サンにも痛いほどよくわかる。
それでも厳しいこの現実がどうにももどかしくてならない。
どうしてこんなことになったのか…
「生きてくれ。一生そばにいると約束したではないか」
説得に来たはずのサンは、ソンヨンの前でうちひしがれ、むせび泣いた。そんな夫のことも自分以上にあわれに思え、ソンヨンはサンの首を抱き寄せて一緒に泣いた。

2010/1/15


「イサン」あらすじ 74話

サンはジェゴンと水原へ行って、ヤギョンら検書官のいる築城現場に立ち会った。
切り石の城壁は半円形で、二重構造の壁。その底はかなり深い。
職人らは内壁と外壁の間の通路に立って、最上段へ切り石を1つずつ積み上げた。半円形の直線部分の道にあずま屋が建ててある。獣と鳥の混じった絵柄の旗が頂上で力強い風をまともに浴びて、ひるがえった。
この城壁から作業場の全景が見渡せた。山と丘がすぐ迫っていて、地上ではザルや樽など頭にのせた婦人が歩いていく。木づちを肩に抱えた労働者や、切り石を運ぶ棒を2人で担いだ役人らも見える。
筒型の壁に沿って丸太の足場が竹林のように組まれ、上まで荷物を運ぶのには、板の道か丸太の階段が使われた。
白い前かけの作業員が背負子に切り石を3つのせて、足場の途中に作った踊り場へと運んだ。
下にいる役人は2人かかりで、しゃがみ込むほど力を込めて巨大な糸巻きハンドルを押し下げた。すると7つのハンドルが回転して荷物がロープで引き揚げられていく。押したらまた立ちあがり、ハンドルを回す作業を繰り返した。
石工や木工職人の賃金は4両2文、日雇いの人夫は2両5文だった。賦役と違って、民にはちゃんと賃金が支払われる。おかげで城壁工事の遅れをのぞいて、だいたい予定通り進んだ。

「奇器図説」を参考にしたヤギョンの試作モデルを見ようと、サンは部署へ移動した。
「想像以上に大規模ですな」
ジェゴンは期待を込め、運搬クレーンの出来栄えに目を細めた。上から足元まで10本のロープが川の字に伸びた巨大な仕掛けだ。
丸太を井の字に組み、てっぺんからロープが吊ってある。内訳は鉄の滑車つきロープが4本と滑車なしが2本で、一番外側に装着したものが、この仕掛けそのものを支えるように両側のハシゴに結びつけられていた。
「滑車を固定しないことで、2万5千斤の物を40斤の力で持ち上げられます。この機械を挙重機と名付けました」
「ではなぜすぐに城壁の工事に使わない?」
とサンは自分でその理由を確かめるべく、ハシゴに結わえたロープを1本、引き下げた。次の瞬間、ふわりと足元から宙へ持ちあげられた枕木は、バランスを崩したように大きく傾いた。
サンはしばらくロープを上げたり下げたりしてみながら、やがてガッカリしたように手を放した。ロープがスルスルと滑車から滑り、枕木はぷらんと水平に戻った。
この滑車の問題点がわかったのだ。
両側から同じ力で縄を引っ張らない限り、これでは重心が崩れて石が落下してしまう。
安全に作業するには荷物を水平に保つ工夫が必要であった。

町におふれを出してからというもの、宮中にはソンヨンを診察しようと、はるばる遠くから医者がやって来るようになった。
なかには肝硬変の患者を実際に治したことがあると主張する医者もいた。
しかしやはりその医者さえも、サンが解雇した医官らと同じように、診察した後には手の施しようがないと頭を垂れるのだった。
もはやソンヨンの回復は、サンの悲願であった。
サンは自ら医学書を読んだりもした。そこには首から膀胱まで内臓の正面と背面が描かれ、臓器の名称と一緒に説明も添えられてあった。
1つ前にページを戻すと、こちらの方は横向きの人体図で、長い背骨に沿って肝と腎、肺、心臓、脾臓、胃、大腸などが明記されていた。
清から戻った通訳官の話では、そこには西洋医術で肝硬変を治した医者がいるらしい。
噂に聞くばかりで実際には誰もこの国で治療を受けたことがないのだから、ソンヨンに試すには大きなリスクがあるだろう。
そのうえ明日にでもソンヨンが息を引き取るのではないかと思うと…
あれこれ考えれば考えるほど、サンは苦しかった。
その後、王命を受けたテスは、一瞬も馬を休ませないで清へ向かった。
「私が知るところ西洋の医術は体を刃で切り裂き、臓器をくりぬくなど残忍極まりない治療を施すそうです」
清から医者を連れて来ることに対して、最後まで難色を示したのは年老いたジェゴンであった。

テスが清から医者を連れて帰るまで、時間が長く感じられた。それはサンだけではなくて、テスの叔父パク・タロも同じだった。
宮中での仕事など、どうせ手につかないのだからと、たわら型のカバンを背中に垂らし、パク・タロはテスを迎えに旅へ出たのである。上手くいったら王様の親衛隊より早くテスに遭遇するかもしれないと思った。
そうして山へのぼり、草野の丘から遠くを眺めていたパク・タロは、鼻筋に白い線の通ったテスの栗色馬を誰より一番先に見つけた。
親衛隊の早馬が医者の到着を知らせようと、赤い三角旗を背中に立て一足早く宮中へ突っ走った。
かなりの名医がテスの後からついて来ており、間もなく都入りするというのだった。

太いおさげ髪を布団に寄り沿わせていたソンヨンは、寝間着を脱いだら少しは調子がいいだろうと思った。それで普段通り編み髪を後ろでまとめ、リボンを胸のところで結んだ。
それから芙蓉亭へサンを呼び出した。
お供を大勢つれて来たサンの前で、ソンヨンはすでに絵を描く準備を整えていた。楼閣の広々とした板間に、チョビが女官と用意した下敷きや紙、筆、絵の具皿などの画材が揃えてあった。
「これは私のかねてからの夢でした。おきてでは王様の肖像画は画員が描くものですが、日々深みを増す王様のお姿を心に焼きつけたいのです。どうかお許し下さい」
「肖像画なら病が治ってからにしても…」
こんな風のあたる楼閣で絵を描くなど、ソンヨンの今の状態ではとても無理な話だった。
「絵を描くことで病と闘えるような気がするのです。それにもう一つだけお願いがございます。今後何があっても絶望せず、必ず乗り越えてみせると。どうか王様。私のためにそう約束してください」
「わかった。そなたの願いは私が叶えてみせる…」
あまりソンヨンが必死なので、サンはソンヨンと一緒に乗り越えようという気持ちで誓った。

ソンヨンはさっそく王様の肖像画の製作に取りかかった。
デッサンを終えると、1本ずつ眉へ葉脈のような細かな線を入れていった。
顔全体には肌色をさっとつけ、まぶたに薄い赤をのせた。
楼閣で線書きの下絵をして、色塗りは夜、部屋へ戻ってからした。作業中ずっとお守り代わりのように、金ボタンが2つ付いた王様の腰ひもをそばに置いた。それは子供の頃、王様が自分のをほどいて怪我をしたソンヨンの包帯として使ったものであった。
日が経つにつれ、ソンヨンの脈はだんだん弱くなっていった。
それでも深く色を重ねた肌が仕上がった。赤い衣と黒の烏帽子も描けた。きなりの下地に白い襟を塗り、筆先で3度ずつ点をおとして目の焦点を丸く整えた。
絵の中の王様がしっかり前を見つめた。引き締まったピンクの唇から今にも話しかけてきそうだった。
肩にかけてウロコ状の紋様を明るい黄色で塗り重ねていたとき、徐々にさわさわと風がたち始めた。床に流れるソンヨンのスカートが余震のごとく波立ったかと思うと、急に龍が通ったように楼閣の中を風が1本吹き抜けた。
若い女官たちの頭のリボンや胸帯、スカートが真上へバタバタはためき、王様の帯が房ごと引きずられて、すっとどこかへ吹き飛んでいった。

チョビは女官らを動かして、慌てて帯を探しに行った。
階段ブロックになった花壇へあがり込んで、葉や低木、大きな黄色い花など掻き分けて根元まで探した。そのうち楼閣に残してきた女官が泣きながら、宣嬪がいつの間にかいなくなったとチョビに報告した。
女官らはブロックに草の生えた土手を行ったり来たりしてソンヨンを捜した。内官らは高床式の楼閣の谷底まで下りていった。
楼閣の外掘に岩を敷き詰めた1本の道がある。サンはその道の外れへと入った。オレンジのコスモスに誘われるうち、道はだんだんと寂しく先細り、ついには消え果て土手になった。
その土手にソンヨンが倒れ込んでいた。そこから横に今も皆が必死になってソンヨンを探している楼閣が望めた。
「ソンヨン、しっかりしろ。ソンヨン!」
サンはソンヨンのぐらつく首を押さえながら、手のひらをぴしゃりと頬にあて揺り起こした。
するとソンヨンが死んだように真っ白な顔で、うつろに目を開いた。
「申し訳ありません…。私は先にヒャンのそばへ行かねばならぬようです。でも悲しむことはありません。泣かないで下さい。幼い頃からの王様への想いを置いていきます」
「テスが清から医者を連れて来たのだ! もう少しの辛抱だ。もう少しだけ耐えてくれ…!」
「王様…これを探していたのです…」
ソンヨンは握っていた帯を見せた。
それきり力が抜けたように、急に腕の中へと落ちたヨンソンの頭を受けとめながら、サンは密かに驚いた。
ソンヨンはとうとう死んでしまったのだ…
後ろから様子を見ていたナム尚膳には、そのとき王様が亡きソンヨンを胸に抱え込えたまま、もう手放さないんじゃないかと思うほどに、その悲しみが伝わってきた。


水原府の城が完成間近となり、サンが正式な発表を下した。便殿に集まった大臣らが恐れ、危機感を募らせたその内容とは、以下の通りであった。
「水原府を格上げし、朝廷の機能を分散させる。築城中の城郭は華城と命名する。直ちに水原に移す部署を選別せよ!」

2011/1/23


「イサン」あらすじ 75話

巨大な糸車がロープを巻きあげていく。5つの滑車に平行に渡した鉄棒と、そこからつり下げられた鉄の鎖によって、人間ほどの大きさもある切り石がゆっくりと引きあげられた。
ヤギョンの改良した挙重機は水原の築城現場へ設置されて以来、大活躍をみせている。
でも城壁が高くなればなるほど、重臣らの不安もいっそう高まった。
「王様、恐れながらそれは荒唐無稽な計画です。水原は片田舎ですぞ。都の民を移住させ田畑と家を与えるだけでなく、官庁まで分散させては国の中心が変わります」
ソクチュは唇を震わせ抗議した。
「確かにそうなるだろう。何か問題でも? 完成次第、母上の還暦祝いと亡き父上の祭祀も華城で行う。名言しておくが、いかなる抗議があろうともこの決定は決して覆らない」
サンの平然とした態度は挑戦的だった。
都で甘い汁を吸ってきた老論派への宣戦布告なのはあきらかだ。
重臣らの中には、王様がこの先、遷都すると言い出しかねないだろうとの声もある。そういうのを聞いていて、ソクチュにはそれが大げさな噂話だとも思えなかった。
ソクチュの足は必然と大妃の部屋へと向いた。
こうして度々、大妃に相談する回数が増えてきたのだ。
「水原の城が着々と完成に近づいているようだな」
「大妃様。我々はこのまま手をこまねいているのですか…?」
「いや。恐らく今度が老論派の生死を賭けた最後の戦いになるだろう」
準備を着々と進めてきたのは、何も王様ばかりではない。大妃の豊富な情報源は、密偵、五営軍の上官、王様が武官2千名を登用した際に潜り込ませた私兵たちによる。
そしてその私兵の訓練を一手に引き受けているのは、指名手配中のあのミン・ジュシクであった。

頑丈なかんぬき門の隅っこに、酒と書いた小さな灯篭がぶら下がっている。庭には客どころか店員さえ見当たらない。せめてもの救いは温かな湯気があがっていることだ。月夜の光が縁台まで届いて、長屋から漏れる明かりが上り口の石を照らした。
タンスにせんべい布団が3枚。ソクチュはこの部屋でジュシクと密会した。
2人の他に五営軍の上官2名の姿もあった。一人はえびす顔だが抜け目のない目をし、口の周りに細ヒゲを生やしている。王様の暗殺計画の成功をどうも疑っているようだ。もう一人の男も困ったような顔でそわそわしていた。
「しかし壮勇営は精鋭部隊ですよ。彼らを突破できるでしょうか…?」
「準備は万端だと言ったはず」
とミン・ジュシクは少しイラっとした。自信があるようだ。
「大丈夫だ。きっと成功する。すでに五軍営の兵士たちにも手を回してある。失敗するはずがない」
とソクチュも、ひそひそと2人を叱り飛ばした。もう迷っている段階ではないのだ。

執務室にジェゴンが築城の報告書を持ってやってきた。4600坪に及ぶ工事が30カ月で終わった。サンの口の端が満足そうにあがった。
「あの者を承政院の承旨に任命するつもりだ」
「え? 承旨でございますか」
とジェゴンは思わず重臣らの反発を予想して心配そうにした。
だがサンは当然のように「もちろん」と答えた。
経費が4万も節約できたのはヤギョンの作った挙重機のおかげだ。
行幸の準備も進んでいる。
恵慶宮の還暦祝に合わせ、準備に万全を期すように言って打ち合わせを済ませると、サンは築城の報告書をもう一度、味わうように読みはじめた。

五軍営の上官らが老論派の重臣らの会合に参加後、山へ逃走したとテスより報告が入った。
「会合を行っただけでは罪にはならない。私兵の養成所の存在も疑われるが、証拠がない限り摘発は不可能だ。壮勇営は行幸の準備で忙しい。兵士を数人選抜し、彼らの追跡に当たらせよ」
サンはむしろこのことを予想していたかのように的確な指示した。そばで聞いていたナム尚膳は眉を潜め、ひょっとしたら敵の裏をかく極秘の作戦でもあるのだろうかと勘ぐった。

行幸は明朝の虎の刻に敦化門から出て、8日間の予定である。
特に夜間訓練は、壮勇営の威厳を世に示す絶好の機会となるため、大規模なものが企画されていた。
華城行幸で通過する24カ所の要所すべてに配置される見張りの分担は、以下の通り。
1班 敦化門外
2班 鐘桜
3班 崇礼門
4班 右隅
5班 蔓川
6班 鷺梁
7班 方背

出発当日の顔ぶれには、金のうろこのような鎧に身をまとった禁軍別将チャン・テウ。ソクチュら重臣一同らに加え、ジェゴン、ナム尚膳の姿があり、この他にパク・チェガ、ヤギョンら検書官の一員と、図画署のパク別提に署員と茶母らが、道中を記録に残すために同行した。

野次馬たちは、わざわざここまで見に来たという感じで、なかでもパク・テロの妻である女将は、「これだけの人が行くなんて華城は大きいんだねぇ」とさっきから感心ばかりする隣の奥さんに向かって、
「漢陽にも負けないってうちの人は言ってるよ。ところでうちの人はどこかね? 小さくって見えやしない」
と亀のように首を伸ばし、いつまでも城壁の前を通過する長い行列を眺めた。

20本の軍旗がまとめて通過するなかには、玄、武など一文字だけの旗もある。人々の目に最も焼きついたのは、壮勇軍司命と堂々と書かれた旗だった。
鼓太鼓、平太鼓、ラッパ、ミニシンバルなど黄色い衣装の楽器隊員が通過し、テスら親衛隊に王様、重臣、恵慶宮をのせたコシに続いて、首まですっぽりベールで顔を覆った貴婦人たちの乗った馬が役人に引かれて目の前を行った。
銃兵50人のあとは、大きな盾ばかりが行進し、次は槍兵ばかりが続いた。矢を納めた筒を肩からさげた弓兵は各自の馬を操った。
ところどころ行列の切れ目になると、鹿の旗や玉に長い房がついた旗などが間に入った。

やがて一行は高い石垣のある広い土手までやって来た。ここにも野次馬が大勢あつまっている。旅の途中の者も近くに住む者も、皆ぺたりと地面に頭をつけてひれ伏し、まるで草むらに尻と荷物が浮かんだように見える。
テスら親衛隊が馬から下り、手綱をくるりと引いて後ろへ逃げた。王様が景色をよく見渡せるようにしたのである。
入江からの波が穏やかな線を描いて無限に広がり、その行きつく先に山々が見える。
その山へ向かうように真っすぐ走る橋を眺めて、サンは思わずニヤリとしたのである。
川岸まで板の道が見事に一直線に伸びている。しかしよく見ると道の下には小船が隙間なく浮かんでおり、船尾に取り付けた糸車から、水中へロープが張られているのだった。
丸太で作った手すりが弓なりの影になり、すべての舟の前後で旗が舞った。

見事な浮き橋を通過した一行は、その後、無事に水原城へ到着した。
中陽門からいよいよ広場への入場である。
この記念式典のために、女官らは相当の量の昼食を準備した。
平たい鍋を庭に出し、太モヤシをしっかり炒める女官もいれば、山と盛られた瓜をスライスしては、ザルに放りいれる女官もいる。瓜の次にはリンゴ、大根、ジャガイモ、人参、菜っ葉が待っていた。
出来あがった大皿料理は、一人用の膳にのせられ、次々と運ばれた。

本格的なスケジュールはまだ明日からだ。
まずはサド世子が眠る顕隆園の墓参、夕方申の刻には龍珠寺で住職に会う。
ソクチュ、戸曹判書、刑曹判書、刑曹参判など重臣は、この間、宿場にて待機の予定だった。
その後、城に戻って、夜間訓練がお披露目される。

警備態勢は以下の通りである。
顕隆園の警備は五軍営と壮勇営のみ。
龍珠寺での王の護衛が少人数の禁軍というのがポイントだろう。
龍珠寺の外郭は五軍営。
ただし壮勇営は、一足遅れて顕隆園から龍珠寺へ移動した後、王様と合流する。
龍珠寺での警備場所については不明。

これに対し、同時進行しているソクチュの極秘計画は以下の通り。
五軍営から集めた兵士は合計500人に及ぶ。
ただし王様暗殺を実際に仕掛けるのはジュシクの部隊である。
暗殺は寺で行う。
※壮勇営が墓参りの後、顕隆園に居残りしている隙に実行する。

ソクチュは慎重な性格であった。だから生死を賭けたこの戦いに、万一、失敗したときの策を事前に練っておこうと思ったのだ。

ジュシクとその一味が逮捕されたとの一報が入ったのは、サンが3人の僧侶たちと談話をしていた際のことだ。
この日、サンは悲願だった夫の墓参りを済ませた恵慶宮と別れ、予定通り龍珠寺を訪れていた。
手薄な警備と見せかけ、実はテスら壮勇営が敷地に潜んでいたとは露知らず、ジュシク一味はまんまと罠に掛ったのである。
農業技術の師匠であった奎章閣の直提学の殺害および検書官襲撃事件の容疑者だったミン・ジュシクは、ようやく逮捕された。
その共謀者であるソクチュ、戸曹判事ら大臣は、素早く宿場から行方をくらました。

あんな騒ぎがあったのでは、今晩の夜間訓練は延期した方がいいというジェゴンの心配をよそに、サンの強い希望で壮勇営のお披露目がされた。
国中に威厳を示すこの重要なイベントは、もちろん図画署の記録画にも残される。
パク別提は、行幸の間に書きためた記録画を整理するよう図画署のメンバーに指示を出すとともに、特に夜は作業しづらいから心得ておくようにと注意した。
と言うのも、演習のなかで敵軍の侵入を防ぐのに四方の火がすべて消される瞬間があるからだ。
ミン・ジュシクを捕えたあとの現場は、いつになくホッとしたムードが漂い、そのため火についての話題は壮勇営の兵士たちの間にものぼった。
「火が再びともる光景は壮観でしょうねぇ。消えた瞬間は何が起きても分からないでしょうから…」


2011/1/30


「イサン」あらすじ 76話

敷石の広場で合同訓練が行われている。盾、槍、刀兵が、それぞれ縦横無尽に隊をなす。入れ替わり立ち替わりする兵士の多さは、肩が触れ合うほどである。
空は闇。宮殿の赤い柱も奥に行くほど闇に包まれた。
大砲と大太鼓は、これほど大量の兵をひとまとめに動かす合図に使われる。
壇上に沿い半円状に広がった石の土台が、階段とバリケードの役目を果たしている。板で囲ったマス席から見物するのは、黄金のうろこ鎧を着たサンに、ジェゴン、パク・チェガら検書官、そして重臣らだ。
ジェゴンが王様に声をかけると、サンが「はじめよ」と静かに答えた。
「火を消せ!」
禁軍別将の合図で、横長く伸びていたタイマツの炎は、兵士の手で次々に足元へおろされて鎮火した。
同じとき、城内が暗闇になるのを待っていた刺客たちは、五営軍の招きにより城門を抜け、王様を暗殺しようと城内へ侵入した。

1日に2度の襲撃までは誰も予想しないだろう。敵の狙いはそこにある。警戒する兵士の気が、どうしても緩んでしまうからだ。
そう気づいたとき、なんとテスは会場からだいぶ離れた所にいた。それで大慌てで、自分は西暗門から城内へ入るから、今すぐ警砲で王様に危険を知らせるよう仲間に頼んでいた矢先、「火が消えます」と、ちょうど部下がやって来た。
テスは思わず遠くの城に目をやった。レンガ塀や石塀に吊るされたすべての灯篭の灯が、それこそ流れ星を描くように素早く消えていき、城は闇に包まれた。

サンはまるで周りが見えているかのように、宙へ視線を流した。ナム尚膳やジェゴンも眉を潜めた。
何かの影が動く気配がする。しかしまさか目の前で護衛兵が無残に切り殺され、さらに壇上の兵士まで、足元をさらわれたように地面に落ちていったとは、想像していなかった。
黒ずくめの男らは、刀を突き立て、いよいよサンのいる壇上へ忍び寄り、石段にのぼろうと足をかけた。
とっさにサンが、サヤに龍の巻き付いた王の刀をテーブルから取り、テスもまた、ひらりと壇上へ飛び入ってきた。
テスはそのままイノシシが頭から突進するように、刺客らの中へと走った。刺客たちは、切り倒されて、なだれのように石段の下へ振り落とされていく。
「火をつけろ!」
騒ぎに気づいたジェゴンが、怒鳴り散らしたとき、警砲の代わりに放った花火が、空へ高く舞い上がった。火の粉をちりちり飛ばしながら、まるで夜明けのように辺りを紅く染め、下の方に濃い煙を残した。
その数秒後には、広場すべての灯篭の火が灯って、辺りが再び明るくなった。
合同訓練に参加していた大勢の兵に取り囲まれた20名の刺客は、そのまま逃げ場を失い、立ちすくんだ。

城の外れの草地に、高床式の見張りやぐらがぽつんと建っている。ようやく偵察から戻って来た部下が、五営軍の上官の耳元に、ヒソヒソと何かをささやいた。
五営軍の上官は、すぐに五営軍を東門から退却させることに決めた。しかし次の瞬間、木戸と木窓を蹴り破って突入したテスの壮勇営の姿を見たのだった。
焚き火が鍋ごとひっくり返って、草地はたちまち逃げまどう五営軍と壮勇兵の戦場となった。
五営軍を鎮圧したあと、テス率いる壮勇営は、続いてソクチュら重臣とその護衛兵の潜伏先へ向かった。彼らの身柄が捕獲されたのは、役所の敷地内にわりと見られる屋敷風の宿泊場である。

翌日には予定通り、恵慶宮の還暦の催しが開かれた。
かんぬきを閉めた正面の扉門の両側に、同じ門が少し引っ込んで3枚の門になっている。屋根つきの木塀が周囲にわたり、その区切りごとの高い位置に小窓が1つずつあった。
門の手前には、赤と黄の配色がくっきりした塔が左右に2つ立っている。黄色い布柱がキノコのようにぐんと伸び、赤い六角形の傘のてっぺんから、白い鳥が会場を眺めているのだった。
チャン・テウをはじめとする重臣は、赤い布に紫の布を上掛けしたテーブル席から、催しを楽しんだ。
立って見ているパク・チェガら検書官らの後ろには、さらに大勢の役人らがひしめいていた。
中央のスペースに敷かれた赤じゅうたんが、王族たちの壇上席まで道のように伸びている。
広場の後方で演奏される合奏は、笛、琴、びわ、太鼓によるものだ。
鑑賞用の大太鼓の周りを、舞女がくるくるとコマのように回る。大太鼓に描かれた龍や花の模様は、優しくさわやかで色とりどりだった。
舞女は頭に桜の造花を、手には牡丹のような造花をつけ、その先に垂れた布びれをひらひら動かした。
舞女が回転するたびに、衣のスリットが、ふっくらしたスカートに何本も巻き付いては、また巻き戻る。
代表の舞女は、背後の踊り子たちより、うんと幅広の袖を、ゆったりなびかせながら、サンと恵慶宮の方を向いて踊った。
王族のテーブルには、果物、おこし煎餅などが、先っちょを結んだ袋に詰めて並べてある。料理はどれも白地の平皿に放射状に盛られ、白い瓶にはツバキが飾られた。
大柄の花をあしらった背後の屏風は、やはり色とりどりで明るく淡い。恵慶宮の心もまた同じように晴れやかだった。


翌日、一行は都へ戻り、すぐまた現実に向き合った。
重臣らの拷問は朝から晩まで気絶するほど続けられたが、担当官は無駄骨に終わるのがわかっただけだった。
重臣たちは連判状に名前がないことを根拠に、大妃の関与をきっぱり否定した。
暗殺計画の前に、慎重なソクチュが念には念を入れたもう1つの作戦とは、本当に合同訓練の会場へ第二の刺客を送り込むことだったろうか?
処刑前日、ソクチュが獄中で、仲間の重臣らに強く誓わせたことがある。
「数百年続いてきた老論派の根を絶やしてはならぬ。忘れるな。老論派だけが我々が生きた証しを…!」

この小屋の石床は冷たい。土壁には手足に装着する鎖や、拷問用の長棒を立てかけてある。
サンが小屋を訪れたとき、大妃の目の周りは赤く、やつれ果てていた。それでも椅子に縛り付けになっているのを感じさせないほどに、威厳を保ち続けた。
「生きたところでどうなるのです? 宮殿を追われ、草葉に埋もれて暮らしたところで。私の命に価値があるのは大妃でいる時だけです。どんな手を使ってでも、私のいるべき場所に戻ってみせます」
「このまま重臣らの命を犠牲にするのですか?」
「ええ、そうです。私はそのつもりです」大妃はサンに小さく頷いた。
「いつかわかるでしょう。そうして手に入れた権力など風に舞い散る一握の灰に過ぎないことを。そんなもののために同士を捨てたことを」
大妃はもう聞くのが辛そうだった。歯をじっと食いしばり、耐え忍ぶ姿が、皮肉にもサンの問いかけに小さく頷いているように見えた。実際、サンの言っていることは、染み入るように理解ができた。自分の命はまさに重臣らの犠牲から成り立っているのだと。
サンがあきらめて小屋を出て行くと、場はしんと静かになった。事件の関与を認める代わりに、重臣らを助けたいとは、大妃はとうとう口にしなかった。それがソクチュとの最後の約束でもあった。
重臣一人一人の命のともしびが降り注ぐように、天袋の小窓から木漏れ日がさした。
外の声に大妃は哀れに耳を傾けた。
「刑場へ連れて行け。特にチェ・ソクチュは厳重に護送せよ。」役人がちょうど重臣らを連行しているようだった。じりじりと土を踏みしめる足音、そしてその様子を眺めているらしい男らの立ち話が聞こえた。
「ついに罪人たちが首を切られるらしい」「全部で8人だそうだ」
ともしびは今にも燃え尽きようとしている。大妃はとても孤独だった。
ふっくらした大妃の頬と、小さく1つに丸めた後ろ髪が、土壁に真黒な影となって映った。赤いひもで、ひじ掛け椅子に縛り付けられた両手は、動かすことさえできない。

特例で貸付米の返納の必要なくなったはずなのに、県監が私的に処罰し、民から米を収奪している。
暗行御史はそもそも地方役人の取り締まりを行う国王直属の官吏のはずだ。その暗行御史の懐に金を入れてやり、うまく丸めこむのも、また地方官吏が至福を肥やすための手段だった。
王命により、地方官吏と暗行御史の不正を、取り締まるよう命じられたヤギョンは、自らも暗行御史として地方を回ることになった。
暗行御史と県監をさっそく逮捕したあと、貸付米を滞納したとして牢に入れられていた民を解放、倉庫に貯めこまれた米も民にすべて返し終わった。
地方へ出たついでに、チャン・テウの屋敷を訪ねることにした。
今や朝廷を離れて隠居生活を送っていたテウは、質素だが質のいい服に、花のがくを3段重ねたような室内用の薄絹の帽子をかぶって、ヤギョンを部屋に迎えた。無駄なものを一切そぎ落としたゆえの品の良さで、中殿の孤独さとはまた違うものだった。
ヤギョンは、ついに五軍営が解体され壮勇営が取って代わったこと、現在は華城の貯水池の建造を進めていることをテウに伝えたが、細かいところではその他にも変化があった。
長い間、図画署に勤めたパク別提が退職することになったこと。
そしてパク・テロは従二品、壮勇営の大将に昇進するテスへの贈り物にと、明の刀匠が作った有名なホウォル刀を市場で品定めした。

その日、サンはまずパク・チェガらの案内で川の上流を視察した。
山から川にふりかかる霧が、空気を重くしている。川べりの小石の間に、飛びぬけて長く成長した1本の草が白い小花を咲かせていた。地面から豊富な水が浸み出すように、川はごく浅くなだらかに流れた。
「こちらが松竹に続く眞木川でございます。」とパク・チェガは説明した。
川幅が広く水量も十分で、堤防を築けば民のための貯水池が作れる。干ばつによる被害も格段に減るというわけだった。
部下の説明だと、すでに着工しており、ふた月もあれば完成するとのことだ。

現場を早々に引き揚げ、宮殿に戻ってからは武官の任命式をこなし、夜は執務室で遅くまで調べものをした。
恵慶宮に仕えるイ尚宮が、寝室へ帰る前に寄って欲しいとの恵慶宮のメッセージを伝えに来たので、すぐに行くと返事をし、ついでに調べものの方も、手じまいにすることにした。
今日はやけに疲れたとサンは思った。

2011/2/6


「イサン」あらすじ77話 最終回♪

王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。
上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。
それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。
もう3日も食事をしていないと言って、ナムは王子の体をとても心配する。山菜などの小皿3つに、お椀、つけダレの膳は、手がつけられていないままだった。
王子は民と同じ食事でなければ、この謎は解けないと思い込んでいるらしい。
ひとまずこれが答えだと思うと、すぐに王様に会いに行った。
王様は丸メガネのひもを耳から外して、読みかけの文書をおろした。
「どうだ。答えは見つかったか。聖君になるために最も重要なものは何か」
とよほど答えを楽しみにしているらしく、机に前のめりで聞く。
「はい。民の願いを知ろうとすることです」
「その民の願いとは?」
「えっ? それは…安らかに暮らすことではありませんか?」
王子は目をぱちくりとした。
「ではそのために王がすべきことは何か」
すかさずまた質問が入る。
「王がすべきことですか。まずは…懸命に学問を修めることです。それから税金を減らして…」
うつろな目で答える王子に、サンが優しい父の声で結論を言った。
「それらも王がすべきことだが、最も重要とはいえない。もう一度ゆっくり考えてみよ」
王子は思わず首をひねった。
サンは正解の出なかったのを少しは残念に思っていたが、期待を失ったわけではない。なにしろ自分も幼い頃に同じ質問をされたのだ。根気強く付き合うつもりでいる。
祖父はもっと厳しく、怖い人だった。ときどき火のように怒った。しかし今となっては、愛情の深さがしみじみとよくわかる。

以前から仕事中に、頭痛とめまいに襲われていた。
どこまでが持病で、どこまでが過労なのかが曖昧だ。病状について御医とは詳しく話を交わしている。
市のたつ日だと聞き、市場へ視察に出かけた。景気が悪くてまるで賑わいはなかった。
宮殿に戻ってから、パク・チェガらと緊急会議を開いた。議題は荒銭 (デフレ)対策である。
銭の原料となる銅が高騰しているのだ。その対応策として、清の銅銭を輸入し市場に流すことに決めた。
会議の後、訓練場に出向いて、壮勇営の試技を見学した。
執務室にて、テスから新しくまとめた軍の訓練書を受け取ったのが、サド王世子の「武芸新譜」に加筆された「武芸図譜通志」であった。

王の食事係の水刺間は、供え物の準備に追われていた。
特に羅州と聞慶から献上された梨は、宣嬪様の好物だから丁寧に扱うように指示された。
翌日、サンは孝昌園で行われたその祭祀へ出席したのだった。

お供の者は大勢いるのに、出席者はそう多くない。
囲いも柵もない芝生の塚の周りに、脚が短く地面にお腹が付きそうなくらいぷっくりした石像の馬が、のんびり立っていた。安らかな顔立ちの古来の学者風の像もある。ソンヨンらしい温かな雰囲気の漂う墓地である。
お参りし、ソンヨンの墓碑からなかなか離れなかったワケを、テスはサンにこう言い訳した。
「王様のお体を守って欲しいと頼んでいたのです。健康を顧みず政務にばかり没頭されるので、休むよう言って欲しいと…」
「そうか。今夜は夢の中でソンヨンに小言を言われそうだな」
サンは冗談と受け取ったのか、笑みなど浮かべている。テスもつられて一瞬ホッとした気分になったが、じゃぁ仕事を減らそうかと王様は言いやしない。現実はより深刻だ。
「どうだテス? こうして見ると都の景色は壮観ではないか。私は民にとっていい王でありたい。額に汗して生きていく彼らのために力を尽くしたいのだ」
「王様、その願いはもう叶えられています。こんな太平な世はかつてなかったでしょう」
「いや、満足するのはまだ早い。私にはやりたいことも、やるべきこともたくさん残っている」
テスは何だかまた心配になってサンを見つめた。雑木林の間から、光がこぼれ落ち、葉の1枚1枚がサンの背後で白くぼんやり大きくなった。サンは目を細めて、都の景色をじっと見下ろしている。希望と寂しさの入り混じった目である。これから成し遂げることへの不安と緊張感が、サンにふと重いため息を吐かせた。

墓所からの帰り、清銭の使用に対し、デモが起こっていると聞いて、興仁門の現場へ寄った。後から後から抗議に押し寄せて来るのは商人たちだ。
原因は緊急輸入した清の銅銭が偽造されて、市場へ大量に流れていることにあった。
サンは4日間もまともに眠らず仕事に没頭した。寝床できちんと休んで欲しいとわざわざ執務室まで迎えに来たナム尚膳に、サンは言った。
「これしきのことで倒れはしない。地方に広がるニセ銭の状況を把握しなければならないから」
ナムは仕方なく執務室を後にすると、前庭へ控えていた尚宮に、王様は熱がおありのようだから御医を呼ぶようにと、深刻に指示した。
王様への報告のため、執務室の前庭までヤギョンがやって来たが、急ぎでなければ日を改めるようナムが断りを入れた。

そのためヤギョンの報告は、翌日の会議でとなった。参加者の顔ぶれはサンの他、パク・チェガ、ヤギョンをはじめ検書官6名である。
それから店を再開できずにいる商人に直接、話を聞こうと、ナムを伴い、サンがお忍びで市場へ繰り出した。
鋳造工房を見学し、すぐその足で、今度は銭の保管部署へも立ち寄った。
四角い穴あき銅銭の詰まった赤い木箱が、使い道のないまま土埃とともに壁の両側へ積み上げられている。問題は追加分がさらに清からまもなく到着予定だということであった。

御前会議を召集し、サンが重臣らに向けて発表した解決策は以下の通り。
「清の銅銭の流通令を撤回する。回収によって朝廷は莫大な損失を被るが、民の生活を脅かしてまで信用できない通貨を使うことはできない。これが最善の策だと私は思う」

サンもたびたび鋳銭所に足を運んでは、検書官らと一緒に、文献と銭を虫めがねで照らし合わせて、もっと安く銭を鋳造できないかと、新種の鉱物の調査にも取り組んだ。
磁鉄鉱を使った硬貨の見本をヤギョンが持ってきたとき、サンは昨夜からの泊まり込みで、支えなしで立ってはいられない状態だった。しかしヤギョンの前では、椅子の背に手をもたれて頑張り通した。
サンがつまんだ銭を熱心に眺めながら、「常平通宝と比べてみたい」と言うと、
「では取って参ります」とヤギョンはいったん部屋を出ていった。

まもなく王様が鋳銭所で倒れられたとの一報が中殿に入った。
年老いた恵慶宮は嘆き悲しみ、心配のあまりその場に倒れ込んでしまうかと思われた。が、持ち前の精神力で気力を奮い立たせると、慌ただしくサンの寝室へと飛んで行った。
御医はサンの枕元で中殿らに病状を報告した。
「体中に腫れものが出ております。それが膿んで高熱を発したため気を失われたのです。熊臓膏を処方していますが、意識の回復は何とも言えません。加減逍遥散をお出ししましょう。王様もこの処方を望んでおられましたので。これまで医官が反対していましたのは、解熱効果はあっても腫れものには効かないからです。ですが腫れものの治療はあきらめます。3日以上、熱が下がらなければこれ以上打つ手がありません…」

御医や医官、医女たちがそれこそ付きっきりで王様の看病をした。
3日目の夜には、金の燭台と、模様のついた黄色いろうそくを残して、いったん全員、部屋から引きあげていった。
サンはまだ深い眠りから覚めようとしない。息をするたび、花の刺繍をあしらった絹の掛け布団が、胸のところで持ちあがる。四角い枕にのせた頭は、哀れにもぐらぐらと揺れ続けた。唇は乾いてしぼみ、ときどきソンヨンを呼んでいるかのような形になった。
ふと迷路のような格子に人影がさし、白い足袋が敷居をまたいだ。花と印の模様を銀の刺繍であしらったスカートに、小さめの足を持つその人は、王様のそばへそっと忍びより、赤い盆を置いた。持ち手がリボンの布がかぶせてある。その布を取り払うと、煎じ薬の入った白磁の器があらわれた。
ソンヨンは目の周りを涙で赤く濡らしながら、いかにも懐かしそうに、自分の大切な子供でも見るように、サンをのぞきこんだ。
どうしてもっと体を大切しないのかと責めたい気持ちも少しある。でも仕事をやめろと言うことは、やっぱり無理そうだ。だからこそより愛しく、また可哀そうなのだ。
ソンヨンは白ひげのまじったサンの顔に、自分の小指を触れ、手のひらで頬を包みこんだ。
ぽたりと落ちたソンヨンの涙が触れ、サンが薄っすら眩しそうに目を開けた。
手を伸ばしたいのに、腕が動かない。するとソンヨンがサンの手を取って、抱き込むように握り返した。かぼそい息しか出せずに、声が声にもならないままサンは言った。
「そなたなのか。そこにいるのは…。ソンヨンなのか?」
「はい。王様、私です。私はここにいます。元気を出してください。まだ王様にはやるべきことが残っているではありませんか」
ソンヨンは微笑みながら泣いた。でもサンは何だか急にホッとして胸をなでおろした。
大殿の前庭が急に慌ただしくなったのは、その直後のことである。
御医から知らせを聞いた中殿らも、ナム尚膳と一緒に寝室へバタバタと入っていった。

「王様、私です。お分かりになりますか?」
中殿が涙目で、サンの顔をのぞき込んだ。
ナムも後ろに立っている。医女が薬を飲ませようと、ぐったりした王様の体を起こした。お尻の骨だけで座っている王様が、コマのように後ろへ倒れないよう首と肩を支えた。
皆の目には意識もうろうとした姿に映っているサンだったが、サンの頭の中は意外と冷静だった。
さっきまでそばにいたソンヨンがいないのがただ残念だ。まだ死ぬには早すぎたかと自分でも面白おかしくなった。

サンは何とか自力で座イスに座っていられるようになると、また1日中、卓上机の前で上奏文に目を通しはじめた。
ナムやテスが心配して忠告もしたが、サンにとってみれば残りわずかな時間だからこそ、1秒も無駄にはできなかった。
新しい上奏文を盆にのせ、部屋に運び、ナムはまたすぐにさがる。
するとサンはおぼつかない手で丸めがねのひもを耳にかけ、何とかして書類を読もうとした。落ちくぼんで腫れた目にどんなにしっかりレンズの位置を合わせても、文字がかすんで見えてしまう。1つ読み終わると筆を取り、紙にめいいっぱい目を近づけて根気よく署名した。それからまた次の上奏文を広げて署名する。首をうずめた姿は、羽の折れた白鳥のようだ。夜が更けても一人孤独に延々、サンはこの作業を続けた。

王様に呼ばれてテスが大殿へ顔を出してみると、王様はテスを見るなり、まるでいたずらでもしたみたいに、肩をちょこっと、すくめてみせた。
純祖、第23代国王である。
亡き王様の友人とあって、テスによく懐いている。テスは純祖と一緒に時敏堂まで散歩に行った。
「私が11歳の時でした。私が亡き王様にお会いしたのは」
「今の私と同じ年頃だな」
「はい。そうです、王様」
サンとの思い出話は、純祖の方がいつも聞きたがった。

サンの墓は石柵と塔で囲まれている。塚の方は周りの松林と同じに見えるくらいに盛ってあった。
テスは墓へ話しかけようと、石碑の厚いテーブルに手をのせた。大きな丸脚の台座にのせてあり、肩の高さある。今の時期は供え物もなく、まっさらとしていた。
「王様、いかがお過ごしですか? 宣嬪様とは再会されましたか? まだ決して終わってはいません。止まってもいません。いつしか民は王様の夢を形にしてくれるでしょう」
テスは丘を振り返り、芝生がぷっつり途切れた水平線を眺めた。その遙か下方にはサンが大切に思ってきた都が広がっている。
時敏堂で偶然、出会った幼い子供は、頼もしい王子と優しい図画署の茶母へと成長した。その幸せな姿のまま、きっと今頃、2人は天国で再会し、新しいスタートを切っていることだろう。
そんな2人が手を取り合い、まっ先に向かったのは、宮中を象徴するあの仁政殿の大広場であった。

2011/2/14

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...