2017年6月2日金曜日

イ・サン長いあらすじ11話~20話

「イサン」11話 あらすじ
サンは、王様から受け取った答案用紙を読み終わると、ぼう然とした。
それはサンの父さん、サド王世子を殺した王様を責める内容だった。
文書は、こうしめくくられていた。
 ~我らの君主は王世孫様だけである ~

王様は試験の中止を宣言して、足早に会場をあとにした。サンは、慌てて追いかけて、中門の外に待たせておいたコシに乗ろうとしていた王様を呼び止めた。
「王様、あの答案の件で私のことをお疑いですか? 書かれていた内容が私の意志だとお考えですか? そうでないことは王様がよくご存知のはずです!」
王様はサンの悲痛な表情をじっと見てはいたけど、その眼差しは怖いくらい冷たく、また何か言いたげでもあった。
王様は怒りを抑えたような物静かな声でたずねた。
「では、そなたの父のことはどうだ? 私が無実の王世子を死に追いやったと、一度でも考えたことはないのか・・・?」
サンは急に黙り込んでしまった。王世子が謀反の罪で処罰されたことは公の事実となっている。それに対して今さら意見を言うのは、王様を否定するだけではなく、胸の奥に隠し持った古傷を刺激してしまうことにもなるだろう。
サンが何も言わないのを見て、王様はコシに乗り込んだ。四隅の棒を抱えた男達は、ハシゴ型の床をふわりと持ち上げて門を出て行った。

夜になると宮中は嘘みたいにひっそりとなった。
茶色い覆面で顔を覆った怪しい男らが、ちょうど石垣をよじ登って侵入するところだった。
男たちは、御殿の柱の隅にまず小さな穴を掘り、その中へ火薬を注ぎいれた。それから残りの火薬をアリの行列みたいに地面に垂らしながら、建物に沿って歩いた。
火薬が大爆発すると、男達の一部は石垣を飛び越えて逃亡し、残りは王様のいる大殿に向かった。

デスクで物思いに沈んでいたサンの耳にも、その派手な爆発音は届いた。
大殿へと通じる渡り廊下は、すでに護衛部隊と刺客の戦場になっていた。
応援部隊の灯りが遠くにチラチラ見えてくると、刺客達は雲の子を散らしたように闇の中に姿を消した。
夜が明けてすぐ、禁軍別将が昨晩の騒ぎを報告しに、王様の部屋にあがった。サンは神妙な顔つきで別将がデスクに白い封筒をのせるのを、いぶかしげに見つめていた。
「刺客の死体に入っていたものです・・・」
王様は、即座に封をとり、中の紙を広げてみた。
“会高千司”
書かれていた内容はこれだけだった。何かの暗号のようでもある。首を傾げる王様に向かって、同席していた兵曹判書が、言いにくそうに口を開いた。
「恐れながら、会高千司とは王世子様の昔の墓の地名ではありませんか? 王世子様を慕う一派が事件の背後にいるのでないかと・・・」
刺客がそんな証拠をわざわざ残して行くわけがないと、サンはそのときすぐに思った。
ところが王様は、兵曹判書の話に釘付けになっている。古傷を刺激されたことで、冷静さを失っているように見えた。
王様は王世子の墓に兵を派遣することにした。いけにえとなったのは、偶然、墓参りに来ていた前護衛部隊長、ソ・インスをはじめとする部下一同だった。
王様に迷いはなかった。うずき出す心の痛みから逃れるために、王世子は悪者でなければならなかった。
それにソ・インスは、王世子に長年、仕えていた男だった。彼の自宅からは、サンを王にしようと決議された連判状と15名の署名も見つかったのだ。

フギョムの作戦は、こうしてまんまと成功した。町ではサンが謀反を起こそうとしているとの噂までもが流れた。
ただ一つ、王様が前護衛部隊長の取調べに、サンを起用したことだけが、フギョムには意外だった。
サンに残された道は、ソ・インスらを処刑することしかない。もし無罪なら、サンは一味の黒幕だと噂されるに違いなかった。
逆にサンの謀反の疑いを晴らすには、ソ・インスを有罪にすることが必須だった。
当然そうなればサンを陥れる作戦は、水の泡となるだろう。しかしフギョムは、それほど心配してはいなかった。
結局、気弱なサンには、無実の人間をいけにえにすることなど、できないと思ったからだ。

ホン・グギョンは、小さな風呂敷包みを手にぶら下げて、刑曹判書ホン・イナンの屋敷を訪れた。ホン・イナンとは王世孫の大叔父で、グギョンとは遠い親戚という間柄だった。グギョンは座敷に通されると、イナンのひざのそばに風呂敷包を置いた。
「ただの記録係などしていたら、もんもんとするのも当然だよ。どれ、それでどんな官職につきたいのかね?」
イナンは風呂敷包みの中身を気にしながら、ご褒美を待つ犬のように、だらしない笑みを浮べた。
でもグギョンのその要望には、思わず顔をゆがめずにはいられなかった。
司諫院の正言の職といったら、王様のご意見番だ。
随分と欲張りな男だ・・・とイナンは思った。
これはよほどの大金を用意してきたのに違いない。
さっそく、いそいそと手土産の包みを開いてみると、じゅずつなぎの銭が、小箱の底のところへ、たった1本転がっていた。
「私をからかっているのか?! 朝廷の人事は遊びではないぞ?」
イナンは急にニワトリみたいに声を裏返して、小箱をつき返した。
グギョンは、解けた風呂敷を、黙って包み直してから、まんざらでもなさそうな顔で言った。
「遊びならまだましです。こんな汚いマネをしなくていい。残念ながらイナン様の寿命が長そうなので、朝廷に未来はないと父に伝えておきましょう。では失礼しますよ」

ホン・イナンの庭で、フギョムは、足早に屋敷の門を出ていグギョンをちょうど見かけた。
「あの男は何者ですか・・・?」
「一族の鼻つまみ者だ。虚勢ばかり張りおって!」
庭に姿を現したイナンが、負け犬のような顔をして答えた。
「しかしあの落ち着いた態度は、ただ者とは思えませんね・・・」
フギョムは少し気にかかったように、グギョンが去って行った方を見つめて言った。

朝、部署に官報を取りに入ったグギョンは、前護衛部隊長ソ・インス逮捕の記事に目をとめた。
王世孫を陥れようとする連中の仕業だな・・・と、グギョンはすぐにピンときた。
しかし暗号を元に拠点を制圧したという意味がわからなかったので、そこにいた官報係の男に質問した。
「刺客が持っていた紙に書かれた“会高千司”という暗号から割り出したそうですよ」
男はつまらなそうに答えた。
“会高千司”
グギョンはつい最近、この熟語を耳にしたばかりだった。
どうしても武科に受かりたいと相談にやって来たテスに、兵曹判書の執事が、武科のテスト問題を持って屋敷から出てくるはずだぞと、こっそり教えたことがある。
テスは、とりあえずその問題を盗み見ることには成功したらしい。
ところが実際の試験には、問題は出て来なかった。さっそくグギョンに文句を言いに来たテスの話によれば、その執事の紙に書かれていたのが、“会高千司”という文字だった。
テスが見たのは、テスト問題ではなく、ただの書状だった可能性がある。それでは何のために、誰に宛てた書状だったのか・・・?
あれこれ考えをめぐらせながら部署から出てきたグギョンを呼び止めたのは、フギョムのそばに仕える男だった。

2008/1/4更新



「イサン」12 あらすじ

ソ・インス達は、椅子に体を縛られ、中庭で判決を待っていた。ひどい拷問を受けて、すっかりやつれ果てている。
ソ・インスらは無罪であるというサンの判決を、王様はちょうど庭の門をくぐっていたときに聞いて、聞き違いかと思うほど驚いた。
ソ・インスを捕らえろという王命に、サンが異議を唱えたことになる。
「今そなたは、私の命令が聞けないと言っているのだな・・・?」
「恐れながら、さようです・・・」
サンは、うなだれながらも、はっきり答えた。
周りにいた重臣達は、こりゃあどうなることかと息をのんで、王様の方を見た。
王様は、まるで金縛りにでもあったみたいに、サンの顔をじっと見つめつづけた。

宮殿に戻ったサンは、王様の部屋に呼び出された。もう一度、落ち着いた状態で話をすれば、サンが考えを改めるだろうと思ったらしかった。
それでもサンの考えが変わることなどありえなかった。これまでじっと身を小さくして生きてきたのは、父さんとの約束があったからだ。
でも死んだように生きて何になるのだろう? ソ・インスらに無罪を宣告したことは、サンの叫びでもあった。
「彼らが無実ならそなたの父はどうだ? 言ってみよ」
サンはこの前も王様に同じことを聞かれた。王様はどうしても、はっきりさせたがっているようだった。王様の乾いたような目は、必死に何かに追いすがろうとしていた。
「本心をお尋ねでしょうか・・・? 一時逃れの嘘ではなく、胸のうちをお話してもよろしいのでしょうか」
サンは、いつのまにかぽろぽろと涙をこぼしながら答えた。
その涙が王様の古傷に染みて、ついには怒りとなった。
「王世子は罪人だ。さもなくば私が罪のない息子を殺したことになる。あやつは国の秩序を乱し、反逆を企てたのだ! 重臣たちもそう口をそろえた。もう何も聞きたくない。今すぐ出て行け!」
王様は、サンに向かって反論した。でもサンを責めれば責めるほど、おかしなことにそれらは全部自分に跳ね返ってくるのだった。

サンは刺客の遺体を調べるために、捕盗庁の死体小屋に顔を出した。
前護衛部隊長を無実にしたからには、その根拠を示さなければならない。
王様に許された期限は3日だった。
寝台に並べた死体には、それぞれむしろがかけてあった。爆発事件で、刺客は6人が死亡した。護衛部隊が何十人も死んだのに比べたら、はるかに少ない数だ。刺客はよほどの精鋭部隊に違いない。
遺体の傷からは、特に手がかりは得られなかった。パク・サチョや2名の護衛官と一緒に、いったん小屋の出口へ行きかけたサンは、遺体のブーツにふと目をとめた。
ブーツに絡まった沼地でしか育たない水草を手に取って、しげしげと眺めた。隣の遺体にも、やっぱり同じ水草が付着していた。

フギョムとホン・グギョンとの顔合わせは、わずかな会話を交わしただけで終わった。
賢い者同士、多くの説明などいらなかったのだ。
フギョムは、グギョンを部下にするために、国王直属機関勤務というすごい役職を用意していた。
「簡単に決めるわけにはいきません。あなたがどのようなお方か調べる必要がございますので・・・」
グギョンは、こう言い残した。
グギョンが帰ったあと、フギョムは、しばらく手つかずの料理を前にして、一人で宙を見つめるように物思いに沈んだ。
正直、面白い男だと思う。でも味方にできないなら、つぶさねばならない・・・
フギョムはおつきの男に、こんな風なことをぽつりと漏らした。

グギョンは、テスを呼び出して、兵曹判書の執事を尾行するよう指示した。
テスが見た“会高千司”という文字は、王世孫を陥れる計画に使われた暗号に違いない。その暗号を執事に持たせた兵曹判書は、恐らく敵の一味だろう。
兵曹判書の背後には、さらに謎の大物が控えているはずだった。

誰に仕えるかで運命は変わる。フギョムの誘いを簡単に決めるわけにいかないと言ったのはグギョンの本音でもあった。

執事を尾行したテスが、グギョンのところに舞い戻ってきた。
「さっぱりでしたよ。先生に言われて執事をつけ回したのにこの有様です!」
特に収穫はなかったらしい。
グギョンは質問を変えることにした。その男の行動を詳しく話してみるようテスに言ったのだ。
するとテスの説明から、執事の行動が浮かび上がってきた。
執事はまず兵書を購入したあと、一日中、女遊びを楽しんだらしい。それから米屋に立ち寄って、麦30俵、肉20斤の代金を先払いして帰った。
グギョンは眉を潜めた。麦30俵と肉20斤は数百人分の食事にあたる。
兵曹判書はなぜ、そんな大量の食料を調達したのだろう・・・? 

テスは、すっ飛んで米屋に戻り、店主に執事の行き先を聞いた。
「執事なら、もうとっくに荷を積んでいったさ! 谷の方へ行くって言ってたよ」
店主は、執事の去っていった方角を指差した。
テスは運よく執事のその馬車が、市場の宿屋に横づけされているのを発見することができた。
ところが随分とおかしなことに、宿屋に運び込まれた米俵は、再び裏口から外へ出されて、大きな荷車に積み上げられていく・・・
テスは隙を見計らって、その馬車の荷台の米俵の下に隠れた。

馬車はテスを載せたまま、ゴトゴトと走りはじめた。
やがて目的地に到着すると、辺りがすっかり暗くなるのを待ってからテスが動き出した。
草の茂みの向こうに、闇に浮かぶ巨大訓練場があった。
夜だというのに、たいまつがボーボー燃え盛り、地面から、温泉みたいな白い煙が立ちのぼっている。
旗が何本も、たなびいていた。
朱色の丸太を組んだアスレチックジム。声を張りあげる兵士たち。綱渡りをする者がいれば、火のついた桶を叩き割る者もいる。格闘の稽古に励む姿もあった。
そこは黒い海に浮かぶ別世界のようだった。

私兵の秘密養成所を見つけたとのテスの通報を、フギョムはその夜、耳にした。
訓練所に人の侵入を許すとは、大失態だった。すぐ養母ファワンに、このことを知らせて、私兵訓練所に人を送らなければならない。
それにテスの始末も必要だった。
フギョムに指示された部下は、捕盗庁をあとにしたテスを追って姿を消した。

「処理すべきことが山済みだ・・・」
考えごとをしながら捕盗庁の建物の中から庭へ出てきたフギョムは、まるでお化けでも見たみたいに、急にビクッとして足を止めた。
目の前に、歯をむき出しにして愛想よく笑うテスが立っていた。
「なぜここに戻ってきた・・・?!」
焦るフギョムに、テスはヘコヘコと腰を低くした。その隣にいるのが王世孫であることに、フギョムはようやく気づいた。

2009/1/10


「イサン」13 あらすじ
その晩、グギョンは兵曹判書の屋敷の前に突っ立っていた。馬が駆けてくる足音に気づいて建物の影に隠れていたら、馬からおりた男が、辺りを警戒しながら屋敷の門をくぐっていくのが見えた。
グギョンはその男の顔に見覚えがあった。フギョムの屋敷までグギョンを案内した男だ。

同じ頃、サン率いる軍が、山道を駆けのぼっていた。激しい雨粒が、フギョムとテスの顔を直撃した。軍はぬかるんだ山道を進んで、やがて沼地の広がる、ある村に到着した。

おかしなことに、秘密訓練場は、もぬけの殻になっていた。まるで夢の跡みたいに静かで、ただ土を踏みしめたり、タイマツの火が燃える音だけがした。
「兵士も武器もこの目で確かに見たんです!」
テスは、目をまん丸にして必死に訴えた。

サン自身、この光景を信じることができなかった。
焚き火の跡に手をかざしてみると、まだ温かかった。
サンは地面に落ちていたやじりを摘んで、サチョに言った。
「王様との約束まで、あと1日ある。私はあきらめない」
兵士たちが手にしたタイマツの煙が、どろどろと切れ目なく空に流れて夜の闇を白くしていた。

渡り廊下を歩いていた王様は、ふと立ち止まって空を見上げた。昨晩からの雨は小降りになってはいたけど、まだ白い雲が残って薄暗かった。
「王世孫の様子はどうだ。何か進展はあったのか?」
王様に尋ねられたおつきの男は、体を板みたいに折って答えた。
「昨晩、宮を出て先ほど戻られたところです。義禁府に行って聞いて参りましょうか」
「いや、よい」
王様は断った。
どちらにせよ、明日の朝、イ・ソンスの最終判決が下されたら全てがわかるのだ。

宮中内にあるファワンの御殿から出てきたフギョムは、石段を下りながら、兵曹判書としばらく立ち話を楽しんだ。
襲撃を受ける前に、秘密訓練所の兵士や武器の移動が無事に済んで、気持ちにもだいぶ余裕が戻ってきたところだった。
兵曹判書と別れたあと、フギョムは、少し離れたところから意味ありげにこっちを見つめていたグギョンに近寄っていった。
「2日経ったが、私について何かわかったか?」
「ええ、いろいろと。少なくとも敵には回したくない方ですね・・・」
グギョンは、愛想なく言うと、さっさと立ち去っていった。
フギョムは、思わず振り返って、軒下の長い石畳を歩いているグギョンの後ろ姿を目で追った。グギョンの目が、気のせいか笑っているように見えたのだ・・・

テスがグギョンの家にすっ飛んでいったとき、グギョンは静かに書物を読んでいた。
ひざのそばには、まだこれから読まれる本が、きれいに積み重ねてあった。
テスは、さっそく昨晩の事を夢中で話したものの、思ったような反応がない。
ようやく書物から顔をあげたグギョンは、イライラした様子のテスに、わりと真面目な顔つきで言った。
「私はもう手を引く。王世孫は終わりだ。巧みな狩人たちに囲まれたも同然なのだ。望みがないなら見限らねば。だがそう怒るな、私も不本意なのだ・・・」

サンとパク・サチョは、馬に乗って都の田舎町に向かっていた。
ソ・インスの自宅から発見された連判状は、偽造である可能性が高かった。
謀反を企む仲間らと連判状を書いたとされる日付は10月15日。その日、彼は光州で開かれた王様の宴に出席していた。
サンはその出席者にアリバイを証言して貰うつもりだった。
馬をとめたサチョは、かやぶき屋根の廃れた感じの屋敷の中へサンを案内した。
証言を依頼したのは6人。しかしサンがこの部屋で待っている間、とうとう誰もやっては来なかった。
ただ質素な服に外出用の黒帽子を被った男が、事情を説明しに屋敷に立ち寄った。
「事件に巻き込まれるのを恐れて、みんな逃げ帰ったのです」
男は狭い座敷の入り口に座り込んで、手短にそう話した。

サンは町を通って宮殿に戻りはじめた。賑やかな人通りだ。
巨大な石が裁断されて、ちょうどロープで橋の上にゆっくりと引きあげられているところだった。橋の周りには細かい足場が組まれている。巨石はずらりと橋の中央に並べられていた。
「橋の補修工事中です。迂回しましょう」
サチョに声をかけられ、サンはくるりと馬をUターンさせた。
ソ・インスを救う方法が何も見つからないまま、時間だけがこうして流れていく。サンには全ての手は全部、出し尽くしてしまったように思えた。
橋のそばの道に、テーブルが出してあった。そのうえに紙を広げ、数人の画員が工事記録を描いていた。その光景が、サンの目に強く焼きついていた。

判決の朝、王様はサンの姿がないことに気づいた。フギョムの他、数名の大臣達は、すでに王様の椅子を囲むようにして、軒下の壇上に顔を揃えている。
前衛隊長のソ・インスら数名が、とんがり帽を被った男達に連れられて庭に入り、椅子に縛りつけにされた。
兵曹判書は赤い巻物を広げて、いよいよ判決を大声で読み上げた。
「辛卯年10月! 罪人達を取り調べた結果、謀反を企てていたという大罪が明らかになった。この者たちを斬首の刑に処し・・・」
でも兵曹判書はこの続きを言うことができなかった。パク・サチョとチェ・チェゴンを率いて、サンが門をくぐってきたのが目に入ったのだ。

サンは王様の前まで進み出ると、丁寧におじぎをして言った。
「この者たちに罪はありません。そのことは王様もご存知のはずです」
「この者たちの無実を、私が知っているだと・・・?!」
王様は怒ったように言い返した。
サンは、短い石段の途中までのぼって、大きな紙を差し出した。
王様はさっそくその紙を広げてみた。
なんのことはない。広州の宴の出席者達、それに踊り子達や楽器の演奏者が、こびとみたいに小さく描かれるだけの、たわいもない記録画だ。
しかしさらに目線を下にやったとき、がく然とした。前護衛部隊長ソ・インスの姿と名前が、はっきり記されていたのだ・・・

記録画は、図画署の膨大な資料の中から発見されたものだった。
サンに10月15日の宴の記録画を探して欲しいと頼まれたパク別堤は、画員を狭い倉庫へ総動員して作業にあたらせた。
本物は広州に保管してあった。はたして都にその写しが残っているかどうかも、わからないまま、この作業に全力をかけたのは、それが前護衛部隊長、ソ・インスを救う唯一残された道だと、サンが考えたからだった。

判決のあと、王様は部屋にこもって机に記録画を広げた。
サンの言う通り、ソ・インスの事件は、王世孫を陥れようとする者たちが、でっちあげたものに違いなかった。
王世子を殺して以来、王様は必死に迷いを打ち消してきた。心が揺れ動くたび、大臣達の口添えとか、ときには自分の弁解で、そのほころびを直して、より守りの殻を頑丈にした。
しかしどうだろう。その中のどの言葉が、はたして真実だったのか・・・?!
王様は、何度も何度も確かめるように記録画を指でなぞった。
イ・ソンスと書かれたその文字は、王様の古傷にしみた。

2009/1/18更新


「イサン」14 あらすじ
とつぜん呼び出されたフギョムが、養母ファワンの屋敷へ行ってみると、何やら深刻な顔をした兵曹判書ハン・ジュノの姿があった。
フギョムは、このハン・ジュノが持ってきた匿名の警告文を見て、とても驚いたのだった。
ハン・ジュノに書状を送りつけた正体不明のこの人物は、我々が仕組んだ“会高千司”の暗号から私兵養成のことまで、全てを知っているようだった。
フギョムはどうも気分が落ち着かなかった。
恐らくさっき、兵曹判書がのこのこと、この屋敷に入っていくところも、その人物は見ていたに違いない・・・
いくら後悔してみても、もう取り返しがつかなかった。

兵曹判書が嫌な予感に目をしょぼしょぼさせながら告白した。
「ここに来る前、実は私兵を他の場所に移すように妙寂山に使いを送った」
フギョムは、ぼう然となった。
もし、その使いが誰かにあとをつけられていたとしたら・・・?

兵曹判書の執事は妙寂山に着くと、兵曹判書からことづかった急報を兵士のリーダーに伝えた。
ところがおかしなことに、そばに立っていた兵士の顔がとつぜん白光りして、地面にバッタリと倒れた。
兵士の腹には、火のついた矢が突き刺さっていた。
執事は口をあんぐりと開けたまま、雑草や樹木の生い茂った広場やらを見回した。
その瞬間、禁軍の放った炎の矢が、風を切るようにびゅんびゅん空から舞い落ちてきた。続いて軍が、いっせいに突入してきた。火の雨は、やぐらや小屋にまで飛び移った。軍と私兵が激しく入り乱れ、あたりは戦場となった。

激しい戦いのあと、また静けさが戻り、虫の音だけが残った。
護衛2名が草をかきわけて、戦場から少し離れた空き地にたたずんでいたサンのもとへ駆けつけた。
「彼らの拠点を壊滅させました。武器を押収し、兵曹判書の執事も捕らえています!」
サンが小さく頷いた。

激しい雨が降り、雷がゴロゴロなっている。
テスは頭の上にムシロをかけて、塾の縁側へ駆け込んだ。
ちょうどグギョンが座敷に風呂敷を広げた中に、書物を重ねているところだった。なんと塾をやめるのだという。
テスは本当にびっくりして、縁側から座敷をのぞき込むようにして、文句を言った。武官に合格させてくれる約束だったのに、無責任にもほどがあると思ったのだ。
手をせっせと動かしながら、耳を傾けていたグギョンは、テスの話が、王世孫が敵を一網打尽にして危機を脱したというところまで来たとき、ようやく風呂敷を結び終えて、テスに言った。
「その話なら知っているとも。だからこれから挨拶に行くところだ」

グギョンが東宮殿に現れると、サンは卓上デスクに1通の書状をのせた。
「そなたの書状が役にたった。おかげで兵曹判書をおびき出し、敵の背後を暴けたのだ」
サンはねぎらいの言葉をかけながらも、グギョンのその目には野心があることに気づいていた。
でもなぜ、大臣達から攻撃ばかりされている自分につかえる道を、この男は選んだのだろう?
サンのこの質問に対して、グギョンは自信たっぷりな口調で答えた。
「手にした力は手段を選んで使うべきでしょう? 王世孫様にお使えすれば、それを実現できると確信しています・・・」

王様の顔はすっかり曇っていた。大臣達の話を鵜呑みにし、危うくソ・インスら罪のない人の命を奪うところだった。
最悪の事態は避けられた・・・。しかし王様は苦しんでいた。
その夜、正室がご機嫌伺いに部屋にやってきた。
王様は白いパジャマ姿で、まだ何かしきりに考え込んでいた。
「ではあの件はどうだろう? 私が判断を誤っていたとすれば、あの件は・・・!」
王様の呟きに中殿が思わずドキッとさせられたのも無理はない。あの件とは、紛れもなく王世子の死のことを指していた。
中殿が大臣達と共謀して、王世子を死罪に追いやった事件だった。

兵曹判書とファワンの共謀は、もはや言い逃れができない状況となった。
にも関わらず王様は、ファワンの処分を棚上げにすることにした。
兵曹判書ハン・ジュノが、単独犯行を自白する遺書を残して、檻の中で首をつったからだ。
係の男が血で書かれたハン・ジュノの遺書を持ってきたとき、サンは悔しさでいっぱいになった。
黒幕にまた先手を打たれたのだ・・・!
重臣の大部分とファワンが陰謀に関与していると気がつきながらも、真実は闇に葬られたままだ。

テスとソンヨンが東宮殿に招かれた。テスは私兵養成所のことを通報した件で、ソンヨンはソ・インス前衛部隊長の記録画を見つけた件で、褒美を賜ることになったのだ。
テスはサンに貰った小包のヒモをさっそく解いた。弓を射るときに使う指ぬきみたいな丸いのが入っていた。サンの愛用品らしい。
ソンヨンの手にした大きな平べったい風呂敷の中には立派な筆が並んでいた。柄の部分が色とりどりの数珠玉になったものだ。
「それらは王世孫ではなく、友として贈るものだ」
サンはすごく嬉しそうに言った。
謁見が終わると、テスはパク・サチョに案内されて、護衛官の訓練場を見学しにいった。
ソンヨンの方は、サンに連れられて書庫に行った。
サンは、金具のついた引き出しの扉を開けて、清の画集をいろいろと見せてやった。苔むした風合いの山水画が、ソンヨンの目に次々と飛び込んだ。
サンは夢中で語った。
「この画集はヨ・スクチンという女性画員のものだ。清では女性たちも画員になる。女だからダメだという古い考えは私が変えてみせよう。そなたも才能を生かして、図画署の画員になりなさい」

その頃、サンの妻、嬪宮は長い渡り廊下を歩いて書庫に向かっているところだった。
おつきの女は、布をかけた盆を持っている。中身は嬪宮が夫に用意した薬だった。
朱色の渡り廊下とつながった書庫は、壁扉が全て折りたたまれて開放感があり、山々の景色がずっと見渡せた。
書庫の前まで来たとき、嬪宮が足を止めた。
ソンヨンの小さな手を両手で優しく握りしめる夫の姿が目に映った。

2009/1/25更新


「イサン」15 あらすじ

廊下におつきの女を待たせて、嬪宮が書庫へ入った瞬間、サンとソンヨンの手は、リボンが切れたみたいに放れていった。
棚が並ぶ書庫の中は、3人でも少し狭苦しいくらいだった。
サンは温かい笑顔を嬪宮に向けた。嬪宮の方も、実家にいたときに、お菓子を作ってくれたあの女だと気づいたらしい。急にホッとしたように微笑んだ。
サンはそのまま嬪宮と一緒に部屋に戻って、テスとソンヨンのことを簡単に妻に説明した。
嬪宮には、なぜ夫が身分の低い者達を友達と思うのか、本当のところよくわからなかった。
ただ聞いてみても、「話すと長くなる」と、懐かしそうな顔をするばかりだった。

王様はサンを部屋に呼び出した。
サンが秘密訓練所の事件に関わった者たちをどう処分するのか、とても興味を持っているようだった。
「嵐のあとには澄んだ空が広がるだろう・・・」
王様は言った。

でも実のところ、サンはしばらくの間、何もする気になれなかった。敵を根絶やしにするには、まだ自分には力がなさすぎると思ったのだ。

フギョムの屋敷を大物大臣ソクチュが訪ねていた。
事件後、生き残った私兵と新たに補充した男達を、禁軍庁にもぐりこませるつもりだ。
こうしておけば私兵の隠れ場所になるばかりか、王世孫を狙うのも容易になる。
澄み渡ったと思われた空は、王様の知らないうちに、また少しずつ曇りつつあった。

ソクチュが帰ったあと、フギョムは新たな計画を模索しはじめた。
養母ファワンの失態に対する責任が、肩に重くのしかかっていた。
調査から戻ってきた部下が、フギョムの耳に興味深い話を入れた。
王世孫が、テスとソンヨンという人物と親しくしているというものだった。
図画署の雑用係と仲がいいとは随分と奇妙な話だ・・・と、フギョムは思った。

絵の具皿を洗いに川べりに来たソンヨンは、砂にナスみたいなお役人の帽子を描いた。
お役人の肖像画は、今日の授業で、男性画員たちに与えられた課題だった。
雑用係で女でもあるソンヨンは、授業に参加することが許されず、絵の具皿を運ぶ合間に、そっと耳を傾けるだけだった。
 ~なぜ才能を伸ばそうとせず、ダメだとあきらめてしまうのか ~
書庫で言ったサンの言葉が、ソンヨンの胸に焼きついている。
ソンヨンは、ふと思い立って市場の本屋へ顔を出した。
店内の棚に所狭しと並んだ本の中には、女性が描いた画集は見当たらないようだった。
本に囲まれた一段高い板の間に座った店主も、そういうのは、ちょっと聞いたことがないねえと首を傾げた。
店主が奥の倉庫へ本を探しに行ってくれている間、若い男がソンヨンに声をかけてきた。
ソンヨンの目には、背が高く、家柄の良さそうな男に見えた。
「ヨ・ソクチンの画集だな。広通橋に行け。あそこの本屋なら探している画集があるだろ
ソンヨンの手に持っていた画集の表紙を見て、フギョムが言った。
フギョムは棚にある別の本を読みながら、お礼を言って店から遠ざかっていくソンヨンの足音に、じっと耳を傾けていた。

宮殿の中庭では、護衛兵の訓練が熱気をおびていた。
訓練を眺めているサンも、かなり真剣だ。
グギョンがサンのそばに駆け寄って、手帳を渡した。
そのページには、グギョンが解雇を決めた護衛官の名前がずらりと並んでいた。
多くは、フギョムの働きかけで軍に加入したばかりの護衛達の名だった。
サンが何か値踏みでもするような目つきでグギョンを見ていると、グギョンがもう一つ、大事な話があると急にささやいた。

それは近々行われる科挙についてだった。テスを何とか合格させる相談をしたかったらしい。
武術の腕が抜群のうえ、忠誠心も強いのに、学科がてんでダメなおかげで、合格する見込みが全くないという・・・
サンはここで1つ、グギョンを試してみたくなった。グギョンを信頼するには、まだわかりかねる部分が多かったからだ。
「特別扱いや不正を認めるわけにはいかない。私の策士になりたいのなら別の方法を探すのだ。そなたがテスを合格させるまで、私は今いる者を一生懸命きたえて、名誉を回復することにしよう」
グギョンはまるで首を締めつけられたみたいに、ガッカリした顔になった。

グギョンは、塾の仲間達と机を並べてのんきに勉強しているテスを見つけ、すぐに自分の家に連れ帰って、まず小さな机に教科書を広げた。
思ったとおり、むやみやたらに丸暗記ばかりして、何も身についていない。
さっそく要点を絞って、語呂合わせにしてみた。ところがどうしたことかテスには、さっぱり効果が見られない。
今回ばかりは根気強く、教え続けるよりしょうがないようだ。テスだけでなく、グギョンにとってもこれは初めての挑戦となった。
いよいよ科挙の前日には、苦肉の策でテストのヤマをはった。出題予想を5つに絞り、ただそれだけを覚えさせた。これが正当な方法でグギョンに出来ることの全てだった。

試験当日、グギョンは書類の束を抱えた男を呼び止めた。その男がめくって見せたページをのぞき込み、グギョンは、ほくそ笑んだ。
陣法図が出題されている・・・。ヤマが見事にあたったのだ。
ところが夜、家を訪ねてみると、テスがやけにしょんぼりしている。
5つのヤマのうち、うる覚えで済ませた1つが、よりによって出題されたという。
あんまり申し訳ないと思って、テスはグギョンに謝った。
「なぜ謝る? おまえは必ず合格する。これからは私の勝負だ」
それまで思いつめたような顔をしていたグギョンは、何か決心したように強く言った。

グギョンは、その夜のうちに科挙の部署にすっ飛んでいった。
もう時間も遅いというのに、部署ではまだ数人の男達が、テーブルに書類を広げて何か作業をしていた。
グギョンは、科挙の責任者である吏曹正朗の席へ真っ直ぐに進むと、今回の科挙で行われた組織的な不正について話しはじめた。
吏曹正朗は、思わず書類から目を離し、驚いてグギョンを見上げた。
不正なんか日常茶飯事なのに、いまさら大きく取り上げることでもないのだ・・・
にも関わらず、グギョンは真面目腐った顔で、吏曹正朗のデスクに小さな紙を広げ、てきぱきと名前を読み上げている。
吏曹正朗は、思わずうなり声を漏らした。グギョンが挙げた名前の中には、かなりの地位の男の孫まで含まれている。
「すでに名簿を上に提出したのだ。よほどの物証がないと・・・!」
煮え切らない態度で渋るばかりの吏曹正朗を前に、グギョンは懐からまた別の紙を取り出して、デスクにのせた。それは課題を漏らした男が、受験者の親族と交わした証拠の手紙だった。

グギョンがサンの部屋に現れた。
不正に合格した者の合格が取り消され、パク・テスが繰上げ合格したのは、つい今朝がたのことだった。
「今だから言えますが、あの者を合格させるのは、とてつもない難題でした。ですが私は成し遂げましたし、不正の芽も摘みました。いい仕事ができたと思うのですが・・・」
自信たっぷりに微笑む男を、サンが、さもおかしそうに見つめ返した。

2009/02/09更新


「イサン」16 あらすじ

グギョンがある記録を持って、サンの部屋にあがった。そこにはここ5年間で新たに採用された老論派の名前がズラリと並んでいた。大部分は推薦で採用された者たちばかりだった。
権力をたてに私腹を肥やし、ワイロで身内を要職につかせ、再び権力を維持する・・・
こんな構図を崩すためにも、グギョンは、彼らの資金源を探り出し、最終的には老論派を一掃させるつもりでいた。

打ち合わせが終わると、サンは休む暇もなく訓練場を見に行った。大きな白幕で周りを囲った広場には、ところどころテントも見える。
今回新しく入った武官達が、木刀やら盾で模擬試合をしていた。夜になっても訓練は続き、中華鍋みたいなのにボーボーと焚かれた火が周りを明るく照らした。前に比べたら、現場の雰囲気は、随分と熱気をおびているようだった。
サンが感慨深げに、1組の試合を眺めていた。盾を手にした男が、木刀の攻撃をかわすことができずに、とうとう地面に倒れた。勝利を手にし、威勢のいいおたけびをあげているのは、武官としてスタートを切ったばかりのテスだった。

忙しい日が終わり、夜も更けてから東宮殿に戻ってきたサンを、首を長くして待っていたのは、母、恵嬪だった。折り入って何か話があるようだった。
最近、妻の部屋を訪ねたかと聞かれると、サンは急に罰の悪い顔になった。
母さんが世継ぎのことで気をもんでいるのは知っている。寝室用に男の子の誕生を願うザクロの屏風絵を描かせようと、図画署の画員を宮殿に呼んだのも恵嬪のアイデアだった。
「毎晩、読書に没頭して、その気にならなかったのでしょう・・・?」
母さんのフォローは、何だかサンをますます恐縮させた。

その頃、ソンヨンは嬪宮の部屋に招かれていた。屏風絵の仕事の助手を務めるために、宮殿に来たものの、嬪宮に個人的に部屋へ呼び出された理由は、検討もつかなかった。
「王世孫様と昔からの友人だというのは本当ですか?」
ソンヨンにお茶と菓子を勧め、嬪宮が嫌味のない微笑みを浮かべて聞いた。
「私ごときが友になれるはずがありません。ただ卑しい私どもによくしてくださっただけです・・・」
ソンヨンは、ちょっとびっくりして、かしこまった風に答えた。
サンとどうやって知り合ったのか聞こうと、嬪宮がもう一度口を開きかけたとき、東宮殿のサングンが小走りで戸口へ現れ、サンがすぐそこまで来ていると告げた。
庭先に立っていたサンは、慌てて迎えに出た嬪宮を見て微笑んだ。サンのそばには、おつきの者達がぞろぞろと従えていた。
嬪宮はホッとした。何か急の用事とかではなく、どうやら自分に会いにきてくれたようだ。
嬪宮に案内され、部屋の方へと歩き出したサンは、ふと足を止めて振り返った。
会釈するおつきの者達の中に、ソンヨンがいたのだ。ソンヨンは、サンの視線に気づいて、何か決まりが悪そうに身を硬くした。
「ソンヨン・・・」
サンは、後ろ髪を惹かれるような声で思わず呟いた。サンの目はソンヨンに釘付けだった。再び歩き出しても、またすぐにソンヨンの方を振り返った。部屋に入ってからもそれは続いて、嬪宮がいくら声をかけても気づかないほど、うわの空になった。

ソンヨンは、画材道具の入った風呂敷を手にぶら下げて、一人で宮殿の石畳の道を引き返していった。
足取りはトボトボとしているのに、なぜかさっきから胸がドキドキと高鳴っている。
ある思いに気づきながらも、それを必死に打ち消そうとする自分がいた。
 (私なんかが、どうして王世孫様のことを・・・?)
嬪宮の庭でサンを見たときから、なぜか切なくなるばかりだった。
胸の鼓動は、なかなか静まりそうもなかった。

夜が明けると、グギョンが再びサンの部屋を訪れた。役人とつるんだ罪で大物達を摘発できるだけの十分な証拠を手にしたらしい。
ここからサンの忙しい日々が、また始まった。
まず王様の視察の旅に同行することが決まった。王様はこの旅で、役人の不正や、日照りで苦しむ民の姿を自分の目で確認するとともに、先代王の墓まいりを予定していた。
大臣達の反対を押し切り、10日も日程を早めた理由は、王室の力を世に見せしめることのほかに、王世孫を人々に印象付けようという狙いが隠されていた。
ほとんどの大臣達が、王様のこのような動きを警戒した。しかし逆に、王世孫を暗殺するには、この旅は大きなチャンスになるだろうと考えたのが、大物大臣ソクチュだった。
「やってみます。何か妙手を講じます!」
フギョムは興奮した。旅での警戒は一段と厳しく、暗殺は容易ではない。それでも養母ファワンの汚名を晴らすのに残された道は、これだけに思えた。
さっそく禁軍庁に編入した私兵の中から射撃の名手を選び出し、山の中に配置させて時が来るのを密かに待った。

いよいよ旅の一行が出発する日になった。兵士の掲げた旗が高く伸びていた。武官の乗った馬が2頭、列の先頭を進んでいる。赤や黄色の制服の兵士がそぞろ歩き、その後ろに王様のコシがゆっくりと続いた。サンや大臣らは、馬でコシのそばについた。行列のうんと後ろの方には、ソンヨンたち図画署の顔ぶれもあった。
コシは朱色のジャングルジムみたいな形のもので、てっぺんにカブトの屋根がのっている。チャルメラ楽器隊の演奏が賑やかに鳴り響くなか、民衆達が道端で深々と頭をさげた。コシの内部に吊った房飾りの間から、険しい表情の王様の顔が、ちらちらと見え隠れしていた。
一行は都を抜けたあと、広いすすき野原を歩いて、やがて細い山道に入った。
道の両側から、斜面になった深い林が広がっていた。
馬に揺られながら、フギョムはしきりに林の奥の方をうかがった。
隠れているはずの狙撃兵の姿は、まだどこにも見えない。
少し不安になり、首を伸ばすようにしてもう一度、林の奥をのぞいた。
木と木の間、枝と枝の隙間、根元に広がる土。やはりどこにも刺客の姿はない。
心の中で焦りながら、フギョムは林の奥と、自分の前を行くサンの背中を交互に見返した。しかし山の風景は、ただ静かに流れていく。
そのうちに狙撃ポイントを完全に過ぎてしまったことがわかった。フギョムは体から力が抜け落ちるようにガッカリとした。
グギョンがすっとどこかから現れ、馬の手綱を操りながら、さりげなく行列に加わった。
チェゴンのそばに馬を寄せ、何かヒソヒソ話している。
それから今度はチェゴンの馬が、サンに近づいていった。フギョムは、それらの動きを不安そうに、ただ後ろから目で追うばかりだった。
「刺客がいたそうです。王様に報告し行列を止めては?」
チェゴンがささやいた。
「もうすぐ今日の宿場に着く。このことは内密に・・・」
サンは、後ろの者達に気づかれないようわざと顔を動かさずに答えた。
もちろんフギョムにその会話は聴こえていなかった。それでも暗殺が完全に阻止されたらしいことくらいは、彼にも薄々感じるものがあった。

やがて一行は、宿泊予定の村に入った。
「恐れながら、村にはお入りにならず迂回して下さいませ」
役人の格好をした村長が、小走りに王様のコシに駆け寄ってきて言った。村で疫病が発生したという。
「かまわぬ。コシを降ろせ。村長は案内せよ」
王様の命令で、コシがゆっくりとおろされた。
王様は地面に立ち、疲れ果てたような村を見渡した。昼間なのに火がもうもうと焚かれ、煙が広がっている。
あちこちから病人達のうめき声が聴こえた。

2009/02/19 更新


「イサン」17 あらすじ

王様が疫病に感染した。
御医の診断によると、この長旅には、とても体がもたないということだった。
老論派の大臣達は、さっそく小部屋に集まり秘密会議を開いたものの、みんな渋い顔で黙り込んでいるだけだ。
空気の読めないホン・イナンが、しびれを切らしたように、それまで誰も口に出して言えなかった不安を、ついに吐き捨てた。
「もし王様が死んだら、王世孫が王位を継ぐことになるのではないのか・・・?!」

吏曹判書ソクチュは会議が終わると、フギョムと2人で庭を歩きながら重い口を開いた。
「油断していたよ。宮殿に人を送って中殿様に状況を伝えよう・・・」
王様は70を過ぎた高齢だ。もし本当に亡くなったら、イナンの言うとおり、一気に情勢が変わることになる。
フギョムは命令通り、すぐ中殿に緊急の書状を送り、その返事をソクチュに渡した。
「中殿様は、王様に回復の見込みがなければ、王世孫様を始末しろと言っている・・・」
ソクチュは読み終えた中殿からの手紙を、折りたたんだ。
「どうなさいますか・・・?」
「刺客は一度失敗したからまずい。中殿様は確実な方法を使えとおっしゃっているのだ」
言いながら、指先で手紙を筒状に丸め、そっとデスクに置いたロウソクの火の中へ通した。
炎は勢いよく紙に燃え移り、その黒い灰が逆流するように上へ広がっていった。

もう夜だというのに、釜戸からのぼる煙が、疫病の村に深くたちこめていた。
ソンヨンたち図画署のメンバーが、1日中、食器の煮沸消毒をしているのだった。
サンは王様の代わりに、村の患者達の様子を見て回っていた。体力のある若者が回復する一方で、子供と老人は命を落としている。香附子や黄柏などの治療薬が、清から届く知らせが来るのが、待ち遠しかった。
サンが、部屋にあがったとき、王様は屏風の前の布団に横たわっていた。人払いをしたのか、他には誰もいない。障子窓から青い光が透け、部屋の隅に1本のロウソクが灯っていた。
サンが手を握りしめると、王様はゆっくりと目を開けた。
「そなたは今すぐ宮殿へ戻れ・・・。宮殿を空けるわけにはいかん」
サンは悔しそうに唇を噛んだ。弱り果てた王様を地方に置いていくなど、とても考えられなかった。それでもそうしなければならないことが悲しかった。

役所前の広場に集められた護衛の数は20名 ~30名ほどだった。帰還命令が出てから、まだそれほど時間は経っていない。重臣をはじめとする多くの家臣は、そのまま現地に残って、王様の回復を待つことになっていた。
先頭のサン、グギョン、ナム尚侍の馬が出発すると、護衛部隊が、馬の首をくるりとうねらせながら方向転換し、1人ずつ隊列から外れ、サンの後を猛スピードで追っていった。

都まであと8里という村はずれの役所に到着したのは、もう夜が明けかけた頃だった。
ここから先、都に向かうには、多楽院方面と楊根方面の2通りの道があった。
「多楽院を通って帰りましょう。馬の準備を整える間、王世孫様はお休みください」
グギョンがサンに声をかけた。
多楽院方面は遠回りの道だ。ただ、山道に敵が潜伏しやすい楊根方面よりは、ずっと安全だった。
サンは時間を一刻も無駄にするのが、さも惜しいという風に、イライラして馬から降りた。グギョンの言う通り、確かに馬を少し休ませる必要があった。
そのまま役所の座敷へあがりこむと、険しい表情で、アゴのリボンをほどいて帽子を脱いだ。グギョンが、ナム・サチョにそっと目配せを送ったのは、そのときだった。

サンが寝室に入ったのを見計らって、グギョンは、外に待機させた護衛部隊に、楊根方面へ出発するよう直ちに指示を出した。
楊根へ向け、先頭の馬を飛ばしているのはテスだった。王世孫のきらびやかな服を身にまとっていた。
やがて山から白い朝日がのぼりはじめた。その光を道連れにして、護衛部隊は草原を駆け抜け、峠の入り口に入った。
急カーブになったところで、部隊はいったんストップし、本部隊がゾロゾロと引き返しはじめた。敵の目を惹きつける役目を終え、多楽院方面へと向かうサンの護衛につくためだった。その場には、テスを含む8名だけが取り残された。
本部隊が去ると、テス達は、砂埃をたてて一気に丘を駆け下り、先へ進んだ。
その直後、両側の松林に潜伏していた敵の私兵たちが大声をあげて、土煙の中へと一斉に飛び込んできた。
王世孫を狙った敵の矢が、テスの胸に突き刺さった。テスはその矢を自分で引き抜き、片っ端から私兵を切り倒しにかかった。しかし敵の数があまりに多すぎて、状況はいつまでたっても変らないように見えた。
周りの馬が次々と、よじれるように倒れていくなか、テスもいつのまにか枯葉だらけの地面に振り落とされていた。仲間の撤収の声に気づいて、刀を振り回したり、足で敵を蹴り飛ばしたりしながら、じりじりと後退をはじめた。
力尽きて、もう完全にダメだと思ったとき、グギョンが手配していた援軍が、ようやく向こうの山道から現れ、なだれのようにどっと荒地へ押し寄せてきた。

ひと眠りして目を覚ましたサンは、嫌な予感がした。テスら一部の護衛兵の姿が消えているのに気づいたのだ。
「お許し下さい。彼らは楊根へ向かいました。敵の目をあざむくため、偽の行列を組んだのです」
グギョンは説明した。
サンは、いてもたってもいられなかった。こうしている間にも、テスや兵士達が自分の身代わりになって、命を落としかけているのだ。かといって今さら追いかけて間に合うわけもない。
残された道は、ただ宮殿に戻ることだけだった。

サンは予定通り無事宮殿に到着すると、まず母さんと妻に元気な顔を見せて安心させてから、グギョンやナム・サチョらと今後の対策について話し合った。疫病騒ぎによる薬の高騰問題や、テス達の安否など、気に病むような内容ばかりだった。
翌日には、いい知らせと悪い知らせが入った。
いい知らせとは、テスが傷を負いながらも生きて宮殿に帰ってきたことで、悪い知らせとは、疫病の治療薬をのせた清の船が、波が高くて港に近づけないことだった。

病室小屋でテスを見舞った帰り、サンは医員を石畳の渡り廊下まで呼び出した。
船が足止めされた江華までは馬で1日、さらに王様のいる楊州へ薬を届けるのにもう1日かかる。それよりも、効能は劣るものの、清の香附子に代わる薬材を街で買い求めた方が、いいように思えた。
サンは医師に、すぐ薬を購入して楊州に届けるよう指示し、さらに疫病地域へ内医院の医師たちを派遣することに決めた。

同じ日、フギョムは、王世孫の暗殺が再び失敗に終わったことを知った。
サンはすでに宮殿で、王様に代わって政務を取り仕切っている。
こうなったら一刻も早く、王様を宮殿へ連れ帰るしかないという意見が出るのも、もっともなことだった。
「無理やり動かして、王様の容態にもしものことがあったらどうしますか?」
「それより回復を待つ方が無謀というものだろう・・・?」
思わず不安を口にしたフギョムに、ソクチュが淡々と答えた。

2009/03/01 更新


「イサン」18 あらすじ

サンは本当にびっくりした。信じられないような光景を見たからだ。
疫病の村から帰ってきた一行が、ちょうど宮殿の朱門をまたいでいるところだった。
コシの中で、じっと目をつぶっている王様の顔には血の気がなく、肌にはまだ斑点が残っていた。
コシが地面におろされると、王様は、おつきの男に手と肩を支えられて、もうろうと歩きだした。ソクチュら重臣たちは、その役割を終えたように、王様の病んだ姿をただ遠巻きに眺めている。
サンが駆け寄り、急いで王様の腕を取ると、王様は、肩に棒をさされたカカシみたいにサンに身を任せた。首はぐらつき、歩くというよりは、足の先で地面を掃いているようだった。
王様は何か言いたそうにサンの顔を見つめた。でももう、口を開くほどの力も残っていない。
「早くお部屋にお連れせよ!」
サンの命令で、侍従や侍女らが慌しく王様のもとに駆け寄っていった。
そのかたわらで、騒ぎを傍観する重臣たちの間には、ゆったりとした無の時間が流れ続けた。

サンは、重臣たちの無情さに本当に腹が煮えくり返るような思いがした。
回復するまで体を動かしてはならないと言っていた御医でさえ、どう重臣たちに丸め込まれたのか、都の方が薬を手に入れやすいからと、ころりと主張を変えている。
王様の寝室の隅には、医女2名が控え、廊下にサングンが立っていた。他は誰もおらず、薄暗く、ひっそりとした室内だった。
王様は寝床に横たわったまま、サンの報告にじっと耳を傾けていた。
疫病に関する噂で、薬代のみならず米や塩の価格まで高騰したこと、品物を買占めた商人に追徴金を課したこと、銀の需要が増えたので、民間の採掘を5ヶ所ほど許可したこと、地方長官の要請で、兵営を城津から吉州に動かしたことなど、ここ数日間の政務について・・・
「商人たちの横暴を取り締まったことについては誉めてやろう。また銀山の数を5か所に制限したのは妥当な措置と言える。兵営の件はやや早急な感がある」
王様は、重病なのが嘘みたいに迷いなく次々と喋った。サンがよくやっていると安心したのか、目の奥が微かに笑っているようにも見える。
しかしそんな王様の思いに気づく余裕もないほど、サンの表情はいつになく悲しげだった。
「ですが王様の病を治す策は見つかりません。どうしたら見つかるのか、わからないのです・・・」

サンが退出してまもなく、王様は代筆係を枕元に呼びつけた。
「私は病が重く、国事を取り仕切るのが難しい状態である。ゆえに王の職権をすべて王世孫に一任する」
代筆係は、その内容を聞いて戸惑いながらも、床に広げた紙の上に、王様の声明を筆でつづった。
書き終えると、その書状を手にしてすぐさま王様の寝室を出た。
サンの東宮殿に真っ直ぐ向かうつもりだったのが、中殿のおつきの者に声をかけられ、途中、中殿の部屋へあがった。代筆係の手にあった王様の声明文は、そこで日の目を見ないまま、中殿に取り上げられることとなった。

声明文の内容は、中殿を通してソクチュやフギョムに伝えられた。
だからと言って、何か対策を思いつくわけではなかった。王様が生きているなら、いずれはサンに伝わってしまうだろうし、死んだら死んだで、サンが世継ぎであることに変わりはない。結局は王様に政権を握ってもらうしかないのだ。
恒例の老論派による会合のあと、フギョムは各部署から届いた陳情書を、ソクチュに見せた。
陳述書の内容は、王世孫が王様の病に便乗し、朝廷を我がものにしようとしているというものだった。
ソクチュは読み終わるとそれを2つに折りたたんで、イライラとした様子で奥歯をかんだ。この程度の陳述書を提出したところで、形成が覆るはずもない。
「何もしないよりはマシではありませんか・・・?」
真剣に顔色をうかがうフギョムに、ソクチュは取りあえずゴーサインを出し、大きなため息をついた。
この先のことが何も見えず、黒い海をふわふわと漂っているような気分だった。

フギョムはそのあと養母ファワンの屋敷に顔を出した。
ファワンは、用意した風呂敷包をフギョムの前に差し出した。中身は疫病に効くとされる民間治療薬だった。
私兵訓練所の摘発のあと、宮殿への立ち入りを禁止されたファワンにとって、この薬こそが頼みの綱だった。
フギョムは風呂敷包を受け取ったものの、その表情は暗かった。薬が王様に効くかどうかという以前に、御医が薬の使用を認めるかすらわからない。ただ陳情書の効果が、あまり期待できない以上、ワラにもすがりたい思いなのはファワンと同じだった。

サンは王様の病状を見守りながら、政務をこなす日々を送っていた。
貨幣がなかなか市内に流通しない問題解決に向け、新たな貨幣を発行しようと、銅の産出国である倭国へすぐに使節を送るよう指示した。
その一方で、世に出回らないまま塩漬けとなっている隠し財産の存在も気になった。この金を掘り起こすということは、常日頃、私腹を肥やし続けている大臣らへの挑戦状でもあった。薬材の方も、そろそろ疫病の村へ到着する予定だった。
会議を終えたサンのもとへ、チェゴンがやって来て、ファワンが王様に、御医の許可もおりてないような怪しい民間薬を献上したということを伝えた。

フギョムとソクチュは、中庭を歩いているとき偶然、サンを見かけた。サンに続いて、ジェゴン、ナム尚洗、医女、御医の姿もあった。御医は布のかかった盆を持っていたが、中にはファワンのせんじ薬を入れた椀がのっていた。
フギョムは心底ホッとした。御医とサンがファワンの民間薬を使うことを、ようやく承知したのだ。
この薬を使ってもらうのに、フギョムはここまでいろんな人を説得しなければならなかった。当初、効果が検証されてもいない薬を王様に試すことを、御医はとても恐れた。王様の体には、毒になるとまで主張したのだ。
残念ながら、サンの心を直接自分が動かしたとは思わない。
サンの説得に成功したのは、皮肉なことに、やはりあのグギョンだったのだ。

すれ違いざまに、サンが立ち止まって、フギョム達に吐き捨てるように言った。
「万が一、王様の病状が回復しなければ、お2人には薬の責任を取ってもらいます」
サンの厳しいまなざしは、フギョムの用意した薬に、まだ疑いを振り払えずにいる何よりの証拠だった。それでもサンだって、やっぱり他に王様の病気を治す手立てが見つからなかったのに違いない。
王様の部屋に向かって再び歩き出したサンを見送ろうと、ソクチュがかしこまって深く頭を下げながら、フギョムにそっとささやいた。
「治ると思うか・・・?」
それは何か独り言のようでもあり、また運を天に任せるしかないのを、十分知っているようでもあった。

医女に背中を支えられ、王様は寝床から体を起こした。御医が王様のアゴにハンカチをあて、口元にさじを運んでいる。
王様は口を開けて、ゆっくりと薬を飲み干すと、それから長い夜の眠りについた。
それはフギョムやソクチュ達にとっても、長く暗いトンネルのような時間のはじまりだった。

2009/3/24更新


「イサン」19 あらすじ

王様の容態が急変したのは、ファワンの薬の処方をはじめて3日目の夜のことだった。
知らせを受けたサンは、侍従たちを引き連れ、すぐに大殿に向かった。ちょうど石畳の通路を渡っていたところで、王様の寝室へと急ぐ御医と医女に出くわした。
寝室に入ったサンの目をまず引いたのは、枕元の王様に必死で呼びかける中殿の姿だった。王様は布団にぐったりと横たわっていた。高熱で額に汗が浮かんで、呼吸は乱れ、すでに危篤の状態となっていた。
御医が診療セットの木箱を開けて、ハリを取り出した。サンや中殿に見守られるなか、親指の付け根と頭のところに、慎重に打ちはじめた・・・

夜が明けるまでの間、サンはいったん自室へ引き上げた。頭の中には考えるべきことが山ほどあった。
蒸し人参は、気力を高める優れた薬材だ。でも症状が悪化したからには、今すぐにでも処方を中止したい。
その一方で、ホン・グギョンのある言葉がサンの脳裏に引っかかっていた。
「まれにではありますが、薬を飲んだあと高熱を発した患者が回復に向かった例があります・・・」
その根拠は、町医者が記した病状日誌にあった。まだ民間レベルの話で、しっかり検証されたものではないけど、高熱は一種の好転反応かもしれないという考えは、御医の意見と一致していた。
薬が効くと体中の毒素が抜けて、一時的に病状が悪化するらしい。事実、サンが読んだ医書の中にも、呼吸が乱れるのは、弱った肺が力を取り戻して澄んだ空気を吸い込むためだと書かれてあった。
今、全てはサンの決断一つにかかっている。それは大きな賭けであり、責任であり、王様の生命そのものと言えた。
サンは、おつきの侍従に、このまま人参を続けて処方するよう伝えた。
サンのこの決断は、最後の望みでもあった。

ソクチュをはじめとする重臣たちは、別室に集まり、重い顔をつきあわせていた。彼らにも考えることが、いろいろとあった。
「ファワン様も軽率なことをなさるものだ。得たいの知れない薬のおかげで我々は一巻の終わりですよ!」
鶏みたいに声を高くするホン・イナンをソクチュが渋い表情でいさめた。
「ともかく、王様はまだ生きておられるのだ・・・」
しかしそんなソクチュも、内心では落ち着いてなどいられなかった。ただイナンとの大きな違いが1つあった。彼は待つということの出来る人間だったのだ。

夜が明けたあと、宮殿は物々しい雰囲気に包まれた。宮殿周辺の警備が強化されたことは誰の目にも明らかだった。その中にはテスの顔もあった。
兵士が町をうろつく姿も見られる。すべては王様の崩御に乗じて予想される反乱軍に備えたものだった。
水面下では別の私兵の動きもあった。中殿がフギョムに集結させた軍だ。サンが政権を握った場合、その出方によっては宮殿を襲撃するつもりのようだった。
薬材庫では、医女たちが、次々と人参を大鍋で蒸していた。蒸しあがった人参はざるの上で天日干しにされ、さらにポットで煎じてから王様へ処方される。
その日1日が過ぎるのを、誰もがそれぞれの思いを胸に待ち続けた。しかし大殿からは何の知らせもないままだった。
再び日が暮れかけた頃、ホン・グギョンは思った。
ひょっとしたら、もう手遅れなのかもしれない・・・
王様のいる大殿へは、相変わらず薬を運ぶ内官が行き来するばかりだった。

深夜もかなり回ると、御医も大殿を退出していった。王様のそばにはサンと、担当医と医女2名だけが残った。
サンは、乾いた白布を盆から1枚取り、水をはった金の洗面器に浸して指でしぼった。
サンが異変に気づいたのは、王様の額から外した布おしぼりを、脇へ置こうとしたときだ。
サンは何かを確かめるように布の表面をなでてみた。おしぼりは冷たかった。王様の熱が下がったのだ。
意識を失って4日目、王様の病状はついに快方へ向かいはじめた。

王様がようやく健康を取り戻したのと同時に、フギョムの養母ファワンが、堂々と宮中を歩く姿が見られるようになった。ファワンが提供した薬材によって命を救われた王様が、彼女の名誉を回復させ、宮殿に呼び戻したためだった。
何もかもが以前の状態に戻ったように見える。でも王様には、どうしても、ふに落ちないことがあった。
王世孫に摂政を任せると、代筆係に宣旨を書かせたのは、意識を失う直前のことだ。
それなのに、それについての話が、宮中では全くナリを潜めている。
そして驚いたことには、王様はその真相を、サンからではなく、中殿から聞くことになった。しかも彼女は自らそれを、手に持ってやって来たのだった。
「この宣旨をお捜しではありませんか?」
中殿は、まさしく4日前に書かせたあの宣旨の巻物を、王様の机の前にのせた。
「王様、どうか怒りをお静め下さい。わたしはこれを預かっていたのです! もし摂政の話を知れば、大臣達は一斉に王世孫を責め立てたはずです。王様がご病気なのに、一体誰が王世孫をかばうことが出来たでしょう?」
中殿の頬は涙で濡れながらも、その口調はしっかりとしていた。
確かに宣旨は、サンが王座を狙おうとしているとの噂にも、いっそう拍車をかけることになっただろう。
今、ようやく王様の病状は回復し、サンも、中殿も、大臣もが、ホッと胸をなでおろした。
これで何もかも、元に戻ったのだと誰もが思ったに違いない。
ところが王様は、そんな彼らをとつぜん衝撃の渦に引き戻した。
サンに摂政を任せることを、改めて宣言したのだ。

宣旨の発表のあと、王命の取り下げを求める重臣たちの声が、四六時中、宮殿内に鳴り響いた。チェ・チェゴンは、そのとき王様のお供をして渡り廊下を歩いていた。大殿の前に土下座する重臣の嘆きが、今も念仏のように耳に届いた。王様の耳には、彼らの声が聞こえていないのとかと不思議に思って、チェ・ジェゴンは、かしこまって尋ねた。
「王様、何ゆえ無理に摂政を命じられるのですか? 王世孫様も王命を受け入れづらいはずですが・・・」
「今度のことで私は悟った。私はいずれ死ぬ。千年万年生きるわけにはいかないだろう・・・?」
王様は静かな口調で言った。しかしその言葉の影には何か自信が込められているようだった。すでにサンに政治の才能があることは、ある程度わかった。今回の決断は、その能力をさらに見極めたいという思いからだった。

サンはここにきて、またしても難しい決断を迫られることになった。
王様が生きているのに、なぜ自分が摂政をする必要があるのか・・・
大臣たちが猛反発するのも当たり前のように思えた。国事の全権を握るなど手にあまる。思い浮かぶのは、迷いと戸惑いばかりだった。
執務室にこもって、いつも通り仕事をこなしていると、ホン・グギョンがふらりとやって来た。
「王様への処方薬は、熊胆と黄連、そのあと附仔中湯を使うそうです」
サンは何か珍しいものでも値踏みするように、思わずグギョンをまじまじと見つめた。
こんな一大事に、グギョンの報告が、たったこれだけなのがサンにはかえって面白くもあった。
野心のあるグギョンなら、摂政について何かしら自分に意見をしたいのが本音だろう。
それなのに素知らぬフリをしているのはなぜか・・・?

2009/04/20更新


「イサン」20 あらすじ
サンが政務報告会の場に現れたとき、板の間にずらりと座っていた重臣たちは一斉に驚いた。
サンが摂政を引き受けるために来たのだと、わかったからだ。
王様はサンのお手並みを拝見しようと、さっそく玉座で注意深く耳を傾けた。

報告会での摂政の仕事は、重臣たちの報告をもとに、的確な指示をするというものだ。
いったん作業が始まると、重臣たちの戸惑いもなりを潜め、まるで何かの儀式でも行うように、淡々と進められた。
ある重臣は、市場で数を増している違法営業についてサンに報告した。
取り締まりの特権をあらたに専売店に与えるという説明をして、いつものようにさらっと報告を終わらせようとした男は、突然、サンに待ったをかけられることになった。
「市場の統制は国がするものなのに、専売商人に違法営業を取り締まらせるとは、随分とおかしな事案だ。まさか便宜を図っている商人でもいるんじゃないだろうな・・・?」
ソクチュとフギョムは、渋い表情になった。案の定、男は返事に困ってノドをつまらせている。
これ以上、まずい方向へ話が進むのを恐れ、仕方なくソクチュが助け舟を出した。
「確かに市場を統制するのは国の権限ではありますが、専売商人による取締りは決まりごとになっており、王様も容認なさっているのです・・・」

会議のあと、ソクチュとフギョムは、ようやく息をつけるといった様子で、外の渡り廊下を歩いた。
王世孫が示した専売商人の特権の廃止案のことが気にかかっていた。
「王世孫は、我々の資金源を絶とうとするはずです」
「おそらくな・・・」
ソクチュの表情は、いつになく重かった。この最初の報告会で、早くも波風が立ち始めているのを、ひしひしと感じる。
専売商人や受験者からのワイロを禁止されたら、老論派はかなりの打撃を受けるだろう。
まさか王世孫は、老論派を一掃するつもりなのか・・・?!
ソクチュの脳裏に、最悪のシナリオがちらりとよぎった。 
 
改革案が発表されて以来、宮中は急に騒がしくなった。
司憲府のおえらいの一人は、フギョムが屋敷に戻ってくるのを庭で待ちかね、走りよって来た。
「この騒ぎは何だ! 司憲府にも査察が入ったぞ!」
フギョムは何か心当たりがあるように一瞬、目をじろりとさせた。
王世孫がグギョンを持兵に任命したのは、つい最近のことだ。役人達の不正を暴こうと躍起になるグギョンの姿が、嫌でも目につくようになった。
「その件は我々の息のかかった者が処理いたします・・・」
フギョムは落ち着いた声で答えた。

続いて図画署のカン別提まで、バタバタと慌てた様子でやってきた。
「図画署の責任者であるパク別提が、嬪宮様の部屋に飾る妊娠祈願の屏風絵を、雑用係の女に任せたのです!」
カン別提の話は、むしろ司憲府の話よりもフギョムの心をとらえた。
雑用係の女が国事の絵を描くなど前代未聞の話だ。しかもその女とは、王世孫とやたら関わりの深いあのソンヨンなのだった。

日がとっぷり暮れた頃、サンが部署の門から出てきた。改革についての意見を、直接下級役人に聞いているうち、つい話し込んでしまったのだ。
灯篭をさげたおつきの者が、サンに声をかけた。
「寝殿に行かれますか・・・?」
「いや、侍講院に行こう」
サンは、真っ直ぐ暗闇の侍講院の方を見つめて答えた。
侍講院の執務室では、すでにチェ・チェゴン、ナム、グギョンがサンを待っていた。
たまった仕事を早く片付けてしまおうと席についたサンは、テーブルの上に積み上げられた巻物の山に気づいて、一瞬、気力が抜けたようになった。
どれも司憲府からの上奏書で、判で押したように改革を非難したものばかりだ。
自分達の私腹を守るために、これほど改革を煙たがるとは・・・!
ナムが、かしこまったように四角い盆をサンに差し出した。わずかながらサンの意見に賛同し、改革案を出してきた部署もあるようだった。
サンはその巻物の1つを手に取って広げた。
身分や性別にこだわらず、才能あるものを選抜し、画員を養成したいとある・・・

翌日、さっそく図画署に足を運んだサンは、いきなりヤリを持った兵士たちに遭遇した。図画署の中庭は、実に物々しい雰囲気だった。
驚いたことに、図画署の責任者、パク別提が連行されようとしているところだった。
「図画署の規則を乱す事件が起こったとの画員の訴えを受けまして。恐れながら卑しい身分である雑役の女に、パク別提が王室の絵を描かせたのでございます」
参議が、おずおずとサンに事情を説明した。
“事件“というわざとらしい響きが、サンをイライラとさせた。
「身分や性別の関係なしに誰にでも機会を与えられる有益な案だと思うが!?」
「王世孫様は、図画署の慣例をご存知ないのでは・・・?」
参議は少し言いづらそうに、目をしょぼしょぼさせた。
また慣例か・・・という風に、サンは顔をこわばらせた。
この古い常識が、今までどれだけ大きく自分の前に立ちはだかってきたことだろう・・・

ソンヨンが、とつぜん競技会へ出ることになったのは、サンの提案によるものだった。
身分や性別に関係ない人材登用への道を切り開くには、絵の才能を証明するしかない。
パク別提の改革案を進めるのに必要な条件として、出場者の中でソンヨンが20名中5位以内に入ることが課せられた。
競技会の前の晩、グギョンがサンの部屋に顔を出した。
多くの重臣たちとは違い、サンの摂政の話を聞いたとき、グギョンは別に驚きもしなかった。サンの中に、本人さえ気付かずにいた大きな野心があるのを、見抜いていたからだ。
そのサンの志は、決して王座にのぼるためのものではない。ただそれが、どれほど未知で広いものであるかは、グギョンですら、まだ計りかねるところがあった。
専売商人が物価を操作して、一部の利益を朝廷の重臣に流しているという情報や、貧しい民にも商売の機会を与える改革案のことなど、一通りの報告が済むと、グギョンは、少しためらいがちに、サンにこう助言をした。
「図画署の件ですが、恐れながら事を荒立て過ぎではないでしょうか。連中は王世孫様のあら探しに必死です。もし競技会であの者が失敗すれば、王世孫様は改革の出足をくじかれることになるでしょう・・・」
「図画署の古い体質が変われば、他の者たちにも恩恵がある。それにソンヨンは古い友達なのだ。私が欲張ったせいで、あの者に負担をかけているようだ。きっと今ごろ思い悩んでいることだろう・・・」
それまで作戦のことで頭がいっぱいだったグギョンは、サンの言葉に、ふいをつかれたような顔をした。

パク別提も、グギョンと同じく不安を抱えていた。
先日ソンヨンに試し描きさせたザクロの屏風絵・・・。紙の中央から枝が大胆に伸び、その先に大きな黄色い花が垂れ、葉はぼかしの効いた実に鮮やかな色あいだった。
しかし、幼い王世孫との思い出を描いたあの時の絵と比べたら、どうだろう・・・!!
ザクロの絵は、小手先の技だけを使って、どことなくうわの空で描かれている。審査をつとめる元老の厳しい目をあざむくには、決して良い出来とは言えなかった。

2009/05/07 更新

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...