2017年6月2日金曜日

イ・サン長いあらすじ21~30話

「イサン」21話 

審査の発表を、首を長くして待っていた画員や茶母たちは、元老らを引き連れて中庭に戻ってきたパク別提に注目した。
パク別提は軽く挨拶をしてから、さっそく帳簿を開いて発表を読み上げはじめた。
その1等から4等までの中に、ソンヨンの名前はなかった。
タク画員は今度こそ自分が呼ばれる番だと思ったろう。もし入賞できれば昇格も夢じゃない。
しかしタク画員の耳に入ったのは、自分の名前ではなかった。
「5等・・・茶母、ソン・ソンヨン!」

喜びの声があがる中で、多くの画員たちが納得できないという表情をした。特にタク画員は、悔しさでいっぱいのようだった。
上司の話だと審査員のうち2人は、ソンヨンの絵は見る価値さえないと言っていたらしい。ところが残りの3名は、ソンヨンに最高点をつけた。しかもソンヨンのその絵は、秋の風景という課題にも関わらず、彩色さえされていないただの墨絵だったのだ。

タク画員らの抗議を受けて、まもなくパク別提の部屋へソンヨンが呼ばれた。
パク別提の横には、ソンヨンに最高点を入れたという元老らが座っており、その膝元の机にはソンヨンが描いた墨絵が広げてあった。
中心に流れる1本の川は、山に向かって紙の上下へ曲がりくねり、岸辺の岩や草、樹木、その向こうに田畑が広がっている。岩や草などが強い線で1本ずつ陰影が描かれているのに比べ、遠くにかすむ山は、線のタッチが全くわからない風合いで墨がのせられていた。

説明をする前に、元老がまずソンヨンに、なぜ色を全く使わなかったのかを尋ねた。彩色に自信がないとも考えられたからだ。
しかしソンヨンの答えは、意外なものだった。
「私の席に置かれた顔料は、どういうわけかどれも色が濁っていて使えるものがなかったのでございます・・・」
これで画員達が納得したとも思えず、かといってこれ以上の説明も出来ないまま、ソンヨンが困ったように言葉を詰まらせていると、別の元老が快活な声で急に助け船を出した。
「私には墨だけを使ったこの絵の中に四季の風景だけでなく、春や夏、冬の風景が見える。季節とは移りゆくもの。絵には目に見える秋の色合いだけでなく、四季の色合いが含まれているべきではないか・・・? 我々がこの者の絵を5等としたのは、線の描き方、墨の使い方に秀で、十分評価に値するからだ」
最初に質問をした元老も付け加えた。
「1等となったとしても何の不思議もない。女に絵が描けるものかと半信半疑であったが、今日は誠にいい物を見せてもらった・・・」

晴れて画員になる一歩を踏み出したソンヨンに、パク別提は改めて嬪宮の妊娠祈願の屏風絵を描かせることにした。一時はその絵の中に気負いが見られたものの、十分自信を持っていい腕だということは今回のことで証明された。これから必要なのは、むしろ壁にぶち当たっても、それを乗り越えていく力だ。
「何があろうと負けてはならん。意思を強く持ち、最後までやり遂げるのだ」
パク別提の言葉に後押しされ、ソンヨンもまた志を強くした。

しかしパク別提の言葉通り、状況が一変に好転するというのは難しいことのようだった。
画学生の講義をしていたタク画員は、遅刻してきたソンヨンを講義の席に座らせることを拒んだ。ソンヨンは仕方なく楼閣の階段を下り、皆の顔さえ見えない庭で授業を聴いた。
昼間は母茶としての仕事があるので、嬪宮のざくろの屏風絵を描くのは、もう皆が引きあげた夜になった。
ひっそりと静まりかえった図画署の小屋の中で、ソンヨンは一人で作業をした。
ふっくら垂れたざくろの花々に、淡い黄色の色をつけたあと、その細かい枝の一つ一つに、筆の先で茶色い影を丁寧に落としていった。

お忍びで外出したサンは、テスの叔父に頼んで集めて貰った3人の貧しい商人に会っていた。
サンの狙いは商業の改革にあった。数百年に渡って専売商人が握ってきた都の商権を、貧しい民に分け与え、自由に商売ができるようにしようというものだ。
「そのようなまるで夢のようなことが本当に叶うのでしょうか・・・?」
話を聞いた貧しい商人たちは、目の前にいるのが王世孫であると知っていながらも、まだ半信半疑という顔だった。
国が商売を保護する代わりに、商人が税を納める・・・
確かにそれは誰もが聞き慣れない新しい取り組みだった。
しかしその数日後、チェ・ジェゴン、ナム、グギョンは、100人以上の闇の商人たちが、税を納める意思を示した署名を、サンの元へ持ってきた。そしてその後も署名の数は、どんどん増え続けていったのだ。

港近くの狭い路地の家壁に貼られたビラに、人々が集まっていた。
そのビラを目にしたとき、テスの叔父は思わず大きく手を打った。
闇の商売を許可するおふれが出ていたのだ。
役所へ行き、登録を済ませれば、これからは誰でも自由に商売ができる。
人々の関心が高い証拠に、簡易テーブルを出した役所の中庭には、すぐ登録を求める商人たちの列ができた。
麻布を売りたがっている男は、ようやく自分の番が来ると、役員に税5両を払った。すると役人はその場でサラサラと筆を走らせ、文の最後に印をつき、男に紙切れを手渡した。男はさも嬉しそうに、紙をまじまじと見つめながら立ち去っていった。

ファワンの御殿に、珍しい客人が訪れた。市場の頭領オ・ユンソクだった。
ユンソクは、手をそでに隠したまま、細身の体を猫背にして座った。
「御無沙汰致しまして申し訳ございません。近頃、市場で妙な噂が広まっております。このたび摂政を任された世孫様が、政務報告会で我々専売商人の要望を退けられたとか・・・」
専売商人が取り仕切ってきた公設市場を廃止にし、違法営業を合法化するというサンの改革は、オ・ユンソクら専売商人にとって、不利益なものだった。
「今まで公設市場は国が支えてきた。私たちがいる限り、王世孫がいくら権力を振りかざそうと好きにはさせぬ。安心するがよい」
ファワンの自信たっぷりな答えを聞いて、不満を訴えているにも関わらず、商人らしいしたたかな笑みを浮かべていたユンソクの顔が、ホッと安堵したものに変わった。
ファワンは、ユンソクのそでの下から、机の上へそっとのせられた封筒を見つめた。
重臣たちの分も入れると、かなりの金額が入っているのだろう。ふっくらと厚みのある包みだった。

2009/12/28


「イサン」あらすじ 22話

サンは、グギョンたちと馬を飛ばして、もっとも活気のある市場へ入った。
しかし通りは、開店前のように静かだった。おかしなことに大きな壷や、ざるの中には、何も商品が入っていない。
広場の商品台にも白い布がかけられている。手持ちぶたさに売り物のミニテーブルを磨く男や、カゴ売りの女が、ぼんやり客を待つ他は、人っ子一人見当たらなかった。

サンが宮中へ引き返した後、グギョンは船着場の町の様子を見に行った。
グギョンの姿に気づいたテスの叔父が、悲壮な顔をしてやってきた。
「ひどいもんです! 品物を載せた船が来やしません。まさかどこかで戦でも?!」
テスの叔父は、ほんの1ヶ月ほど前に、念願の小さな画材屋を構えたものの、専売商人達の厳しい取り締まりに遭って、品物を台無しにされたばかりだった。
サンの考えた専売商人の特権廃止や市場の開放案は、貧しい民にとっては、唯一の希望の光だった。荷物の到着を、首を長くして待つ商人たちで、今も港はごった返していた。
「まあそう焦るな。明日には船が着き、店を開けられるだろう」
グギョンはわざとのんびりと微笑んでみせた。

グギョンが宮中の敷地内へ戻ってすぐに、テスとジャンボが駆け寄ってきた。
事態が深刻なことは、テス達の報告で、よりはっきりとした。
専売商人らが在庫品を燃やし、新たに相場の4倍の値段で品物を買い占めている。誰が止めているのか各地方からの船が入ってこず、町には仲買人の姿さえなかった。
市場中から品物が消えるわけだ。改革の邪魔をしようと言うのだろう。
サンは肩の力が抜けるほどガッカリした。でもすぐに落ち着きをとり戻すと、貧しい民に備蓄米を放出して、薪の不足を補うため山の伐採を許可するようチェ・ジェゴンに的確に指示した。
最後にグギョンに言った。
「不足分は開城の商人と行商人に相談をしろ」
地方の商人や行商人は、全国に販路を持っている。彼らから品物を供給できれば当面の危機は回避できると考えた。

サンの部屋を出たあと、中庭を歩いていたジェゴンが急に振り返って、グギョンとナムに不安を漏らした。
「果たしてうまくいくだろうか・・・」
「個人で少量の品物を扱う商人たちです。期待はできないでしょう」
ナムの不安は、ジェゴンよりもっと強いようだった。
改革に強気のグギョンでさえ、成功するとは言わなかった。
「試してみる価値はあるでしょう」

テスの叔父は、さっき山から帰ったばかりだった。山は薪拾いの人でごったがえしていた。
薪を背中からおろし、飯屋の庭で酒を飲んでいると、客達の妙な噂話が耳に入った。
真相を確かめるために通りへ出てみた。ビラを手にした人々が次々と立ち去っている。人だかりを掻き分け、屋敷の白壁に貼り出されたビラに目をやり、テスの叔父は、びっくりした。
米が四倍にも跳ね上がったのは、王世孫の政策のせいだと告知されていたのだ。

山里の外れには、男たちが数名集まっていた。
厚い草ぶき屋根の壁に生活用具をさげ、薪を高く積んである。廃墟になっているのか、男たちの他に人影はない。山や地面には雪が降り積もっていた。
フギョムのおつきの男は、フギョムから預かってきたビラを、ちょうど配り終えたところだった。このビラは、これから水標橋、広通橋、西小門に貼られる予定のものだ。
それとは別に、今日は特別な知らせを持ってきていた。
「明日、巳の刻。宮中の弘化門前に人を集めろ。その金を使えば数百人は集められる」
フギョムのおつきの男は、男たちの中の一人が差し出した手の平に、銭の小袋をずしりとのせた。
やがて男たちは足早に散っていった。おつきの男も去り、山は再び静けさを取り戻した。

今日の議題の口火を切ったフギョムの声には、どこか挑戦的な響きがあった。
「恐れながら、議案は特にございません。寄せられた議案の全ては、都の経済に関するものでした。物価が高騰し、民から不満の声があがっています。仲買人が専売商人との取引をやめたためです」
ソクチュも続いた。
「この状態が4日続けば都の経済は破綻します。営業の自由化をとりやめ、雲従街の市場を再開させるのです。民のために着手した改革が、かえって民を困窮させたのです」
サンはイライラと大臣たちを睨みつけた。
「つまり、今の事態は私の政策のせいだというのか・・・?」
大臣たちは、ソクチュへの賛同を示すように、ずっと黙りこんでいる。
サンは厚い壁にひとりで立ち向かっているような気分だった。

その夜、グギョンはテスから新しい情報を得た。
明日、フギョムが弘化門で民衆を使って、デモをでっちあげようとしているらしい。
金で世論を集めようとはあきれた話だった。
グギョンは仕事部屋に戻ると、ろうそく1本灯して手紙を書き始めた。
“必ず民衆を穏便に解散させるよう。誰も傷つけてはならぬ”
書きあがった手紙は、外の暗がりにいた侍従に、漢城府の判官に届けるよう渡した。

サンは夜遅くまでジェゴンやナム、遅れてやってきたグギョンと一緒に、執務室で仕事をこなした。
妻が執務室にサンを迎えに来たのは、この3日間、サンがろくに眠ってないのを心配したジェゴンらのはからいによるものだった。
サンは彼らの気遣いを尊重し、久しぶりに寝室に戻った。
そして王様に言われたある言葉を思い返した。
王座は恐ろしいもの。言葉ひとつで数万の民を生かしも殺すもする・・・
テスの叔父のような貧しい商人達は、新しい政策によって状況が変わるのを今か今かと心待ちにしている。
しかし壁は予想以上に厚かった。政策が思うように行かない今、ソクチュの言うように、かえって民を苦しめているのではないかと思えた。

朝、巳の刻。狭い通りいっぱいに民が足早に移動しはじめ、案内役の男が、ところどころに立ち、城の方角を手で示した。
やがて大勢の民衆が弘化門へと到着した。大扉からとつぜん武装兵が現れたとき、民衆はまだ顔見知りの者たちとお喋りをしながら、デモの開始を待っていた。
弘化門までの長い道は、流れが止まって立ち往生し、それでもまだ後ろにまだ大勢、人が詰め掛けた。
漢城府の兵士たちが、その民衆たちを片っ端から、蹴ったり殴ったりしはじめた。
最初は何が起こったかわからなかった人たちも、慌てて逃げ出した。兵士は逃げ惑う人たちを城壁に追い詰め、こん棒で殴りつけた。悲鳴をあげ、町の通りまで引き返した民衆は、今度は兵士達に待ち伏せされ、逃げ場を失った。
辺りはなぎ倒される人々で砂ぼこりがまい、庭の隅々まで、あちこち血の海に染まった。

やがて宮殿の石畳の廊下を、侍従が駆けていった。死傷者が百名にものぼった大惨事を、王様に知らせに行くところだった。
弘化門での惨劇を、まさに目の前で見てきたテスが、慌ててサンの部屋にあがってみると、うちのめされ、首をがっくり垂れたサンがいた。

2009/12/2更新


「イサン」あらすじ 23話

王世孫の摂政が取り消しになったとジャンボから聞かされたのは、テスがちょうど訓練場にいたときだった。さらに驚いたことには、グギョンが弘化門事件の責任を取って辞職したという。
テスが大慌てでグギョンに会いに行ってみると、ちょうど風呂敷をさげて、グギョンが一人、宮中の中庭を去っているところだった。
「王世孫様の一大事なんですよ! 先日の件が罠だったことは私からお話しますよ」
テスは、あたふたして言った。
「家出した女房を連れ戻すみたいだな。暇な時に家に遊びに来て酒でもおごれ」
グギョンはウッシッシと笑いながら、テスの肩をポンと叩いて、しがみつかれた腕を放した。しかしその笑顔とは逆に、宮中を去ろうという意思はとても硬そうに見えた。
もちろん民への攻撃命令は濡れ衣だった。漢城府の判官までもが、フギョムに買収されていただけのことだ。真実を話せば王世孫はきっとグギョンをかばおうとするだろう。でも大臣らにとっては、それが王世孫を退ける絶好の機会となる。グギョン自身、そのことを誰よりもよく知っていたのだ。

サンは、ホン・グギョンがどうしてあんな乱暴な命令を下したのかと思って、本当にがっかりしたけど、それは彼を起用した自分の責任であることも痛感していた。改革の失敗により起きたデモを、サンが武力で収拾しようとしたと、王様に誤解されたのも、そういう意味では仕方のないことだったのかもしれない。
サンの摂政の取り消しがされてまもなく、サンは王様に呼び出された。王様とたった2人きりの部屋は、悪夢の惨劇が嘘のように思えるほどの静けさだった。
事件の一報を聞いたときと違って、王様の怒りもだいぶ治まっていた。意外なことに、その口調にはサンに対する愛情さえ感じられた。
「そなたが11歳の時、私はそなたに王がすべき最も大切なことを尋ねた。覚えているか?」
「はい。王様・・・」
サンはうなだれた。3日のうちに答えを出せと言われて、夜なべであらゆる本や上奏文を調べつくしたにも関わらず、結局、わからなかった思い出がある。
ところが清に身売りされようとしていた子供達を救うために、サンが東宮殿の予算3千両を使い果たしたと知ったとき、王様は王世孫の廃位の決定をとつぜん取り消したのだった。
「そなたはそれを実行しながら答えられなかった。私が今日、その答えを教えてやろう。王がすべき最も大切なことは民を慈しむ心を持つことだ。よい者も悪い者も、強いものも弱いものも、そなたの子供であり、王はあらゆる民を包み込まねばならない・・・」
サンの表情が硬くなった。摂政を撤回されたのは、てっきり弘化門の事件が原因とばかり思っていたのに、どうも王様の考えは、それよりもっと深いところにあるようだった。
話し続けるうち、王様の口調はだんだんといつもの厳しい口調に変わっていった。
「専売商人どもは確かにけしからんやつだ。重臣たちにワイロを渡し、利権をむさぼっておる。その上、商権を独占して貧しい民を食い物にしているのだ。だがそんな専売商人もこの国の民である。その子に対し、親がすべきことは何か。短所を正す一方で長所を伸ばしてやることではないか。しかしそなたはどうだ? 短所ばかりか長所まで潰そうとした。害を被る者のために、何か準備したか。そなたはじっと安座して、改革だと騒いだだけではないかっ!」
サンは何も言い返すことができなかった。
自分がいかに未熟で半人前だったかということが、王様の荒々しい言葉と一緒に、体中に伝わってきた。

結局、多くの人々を苦しめただけの独りよがりの改革だったのかもしれない・・・
サンがそんな風に考え込んでいたとき、書庫を訪ねてきたのはテスだった。もう5日も閉じこもっているサンを、心配したらしかった。
すっかり夜は更けていた。
ロウソクの明かりに照らされた薄暗いテーブルに、ソンヨンから預かってきた風呂敷をのせ、テスはカサカサと中を開いて見せた。
意外なことに中身は墨で書かれた書き損じの紙の山だった。
「ご覧下さい。ソンヨンが教えている茶母たちの絵です。王世孫様のお力添えで、ソンヨンが画員の教育を受けられるようになりました。そして今度は他の茶母に教えているのです・・・」
テスの話では、ソンヨンは最近、サンの妻の懐妊祈願であるザクロの絵も、8枚つづりの屏風に見事に描き上げたということだった。
改革で機会を得たのは図画署の者ばかりではなく、テスのいる護衛官たちにも及んでいた。
サンの改革は確かに失敗した。しかしサンが蒔いた改革の種は、少しずつ芽を出し、それぞれの場所で育ちはじめていたのだ。

ファワンはとても機嫌がよかった。
サンの摂政が王様によって撤回され、ようやく自分達が主導権を握れるときが来たのだ。
「うれしいですか? でもそう簡単にいきそうにはありません。中殿様がキム・ギジュ様を朝廷に呼び戻されたようです・・・」
フギョムが少し気弱な顔で言った。
ファワンがハッとしたのも無理はない。キム・ギジュと言えば中殿の兄だ。フギョムの話によると、朝廷に戻るなり、王世孫の幼い弟君2人を連れて中殿の部屋へ、こっそりあがったという。
サンの廃位を早くも視野に入れ、次の王位継承者選びの準備をはじめるつもりなのだろう。そしてその暁には、中殿が自ら摂政に乗り出すに違いなかった。
しかしいまだ自分たちには、その計画が何も知らされてない。それがどうも気にかかった。

夜も更けた頃、キム・ギジュとソクチュは中殿を交えて熱心に密談を交わしていた。
ソクチュの表情はどうも冴えなかった。
事を急ぎすぎるのは良くない。肝心なのはどうやって王世孫の身分を廃止するかの方だった。しかし王世孫に対する王様の信頼は今でも厚い。すべての決定は王様の心の中にあった。
「だからどうしようと言うのです! ひと思いに王世孫を消してしまいましょう」
熊のような風貌通り、どう猛で短気な性格のキム・ギジュには、ソクチュの慎重な考えは、あまりにまどろっこしいようだった。
特にソクチュとフギョムが企てた暗殺計画が、いずれもお粗末な結果に終わっている事実は、キム・ギジュの野心を掻きたてるのに十分といえた。

夜、キム・ギジュはソクチュを案内して、密かに山へ入った。
ギジュが到着したときには、すでに数名の下働きの男らが、準備を終えたところだった。
ソクチュは、渋い表情で辺りに目をやった。真っ暗なうえに霧がかかっていて視界は悪い。でもよく見ると、枯葉だらけの地面に小さな木箱が等間隔に並んでいる。箱の下からは何かネズミの尻尾のようなヒモが出ていた。
キム・ギジュが箱の方を手で示し、意味ありげに聞いた。
「数日後に悪魔を払う儺礼戯の儀式が行われます。その最後を飾るのが何か、ご存知ですか・・・?」
ソクチュが考えあぐねたように黙っていると、ギジュが待ちきれずに答えた。
「花火ですよ。今回の儺礼戯は花火とともに王世孫の死で締めくくられます」
とつぜん何を言い出すのかとソクチュが戸惑っているうちに、ギジュは荒々しく下僕の男らを怒鳴りつけた。
男たちは、きびきびと小走りで動き出し、箱から伸びたそれぞれの導火線の先に、たいまつの火を放った。
導火線の火は煙と一緒に地面をはい、箱の外から内側へと燃え移った。光が箱全体を明るく照らし、火花を散らしはじめると、ソクチュはその眩しさに思わず目を細めて、何が起こるのかを見守った。
次の瞬間、火花は70cmほどの火柱となって吹き上がり、物凄い音をたてて次々と爆発し、辺りを白い闇に変えた。

2009/12/12


「イサン」あらすじ 24話

フギョムがファワンの部屋に顔を出したのは、もう夜更けになってからのことだった。
ソクチュとキム・ギジュが山の中で密会していたという情報を持ってきた男を部屋から下がらせると、フギョムは緊張した様子でファワンにささやいた。
「どうするのですか? 下手に騒ぎ立てれば背後を探ったことが知られます。とにかく当分は平静を装いましょう・・・」
養母ファワンの苛立ちは、忠告が必要なほど、フギョムには少し危なげなものに見えた。
中殿は今、ソクチュだけを自分のそばに残し、自分達親子を遠ざけようとしている。しかしなぜそうするのかは、まだわからない。手探り状態でいるというのは、とかく不安に駆られるものだった。
翌日、キム・ギジュの新たな動きを報告しようと、フギョムがファワンの部屋を訪れたとき、障子から意外な人物が出てきた。ソンヨンだ。ソンヨンは驚いたように、背の高いフギョムのことを、まじまじと見上げた。
フギョムの驚きは、むしろ不安や戸惑いの方に近かったかもしれない。サンとソンヨンの関係を探るために、ファワンがわざわざ口実をつけてここまで呼び出したらしい。
フギョムが黙って軽く会釈をすると、ソンヨンもそのままうつむいて、御殿を去っていった。

ソンヨンは庭まで出てようやく、戸口で会った男が誰だか思い出した。いつか本屋で話しかけられたことがある。
どちらにしろ、ソンヨンにとってそれは、たわいのない出来事だった。それよりも、5日後の儺礼戯の準備の方に気をとられていたのだ。
図画署では、画員たちがパク別提を囲んで、説明に耳を傾けていた。
儺礼戯にそなえ、厄払いの絵を4日間で200枚ほど仕上げる必要がある。絵は宮殿に貼ったり、臨席した王族や外国の大使に渡されるのに使われるものだ。
説明が終わると画員たちは、それぞれ白い紙をテーブルに広げた。
大王様、4つ目の鬼、龍や虎の顔をした神様の全身像など、強い線で描かれていく。茶母たちは、彩色に使われる赤や緑など鮮やかな絵の具を、小皿に足す作業を手伝った。

ソンヨンがパク別提の作業室へ呼ばれたのは、ある理由があったからだ。
パク別提は、ソンヨンに普通の紙よりも薄くて光沢がある油紙を見せた。下の絵が透けて、描いた線が染みるという特徴がある。
画員が書いた手本にこの油紙をあて、母茶たちに木炭で線を写させるよう言われて、ソンヨンは最初、パク別提は、本気なのだろうかと戸惑った。
儺礼戯の絵の下書きを母茶に任せるなんて、聞いたこともない。恐らくこれがバレたら、責任者であるパク別提が、上の者からおとがめを受けることになるだろう。
でもパク別提は、どうもそんなことは承知のうえといった顔つきだった。
熱心に絵の勉強に励む茶母の姿を見て、ぜひ機会を与えてやろうと思ったらしい。
「彼女らがよい働きをすれば、今後、活躍の場が増えるだろう・・・」
サンの改革の挫折の影で、雪解けを待つように、新しい芽が育ちはじめていた。

サンの馬が土ぼこりをまきあげている。ここは王室で管理している広い畑だった。
サンは久しぶりに書庫から抜け出し、テスやナムなどを連れて、現場の視察にやってきたのだ。
畑といっても、うねのような溝が何本も平行にまっすぐ伸びているだけで、まだ草一本見当たらない。今もちょうど作業着をきた男たちが一列に並んで、クワを振り上げているところだった。
「通常はうね床に種をまきますが、うねの間に作付けをしては水に浸ってしまいます。この寒さでは苗も育たないかと・・・」
役人はかしこまった様子で、サンに説明をした。
畑は見晴らしのいい高台の急斜面にあった。辺りは海で囲まれている。
サンは思わず顔をしかめた。周りの林が、いくらか防風の役割を兼ねてはいるものの、塩風がサンの袖衣を強くひるがえし、波は荒々しい水しぶきをたてていた。
「この本を見て試してみよ。うね間に作付けすれば、風や寒さに耐え小雪の前でも実ると書いてある・・・」
役人の手に、とつぜん数冊の書物をのせて、サンは言った。

サンがこの書物を手にいれたのは、お忍びで村の様子を探りに行ったときだった。
最初サンが見たとき、その老人は、専売商人と老論派を一掃しろと、酒場で大声を荒げていた。この老人の跡をテスに追わせて行き着いたのが、粗末で汚らしい小屋だった。
老人を訪ねて、小屋の中に入ってみると、予想外の光景がサンの目に映った。
床には書物が積み重ねられ、ほとんど明かりを感じないほの暗い中に、壁一面の白い紙が目立った。今まで読んだことのない珍しい論文だと思って、まじまじと壁を見つめていたサンに、老人が言った。
「見たことないのは当然だ。わしが書いたんだからな」
老人が床へしゃがみ込んで作っているものは、鎌や草刈などの農具らしかった。こちらの方も今まで目を通したどんな農書にも載っていないオリジナルの形であることに、サンはすぐに気づいた。
「鎌を田と畑で使い分けるのは、作るものが違うからだ。頭を使えば今より倍の米が収穫できるようになる。王世孫とかいうやつが専売商人を片っ端からつかまえていたが、目のつけ所が間違っている。根本的な問題は、物資を増やして民を飢えないようにすることだ!」
老人はごく当たり前のように、サンに言った。今自分の目の前にいる、まあまあの身なりの若者ことは、親のすねをかじって遊び回っているお坊ちゃんくらいに思っているようだった。
小屋の前には、老人の開発したポンプ式の水やり機が置いてあった。
サンが試してみようと触った途端、長い弓形の取っ手の部分がぽろりと外れた。
「このおっちょこちょいめぇっ!」
老人は、サンに向かって困ったように声を張りあげた。
王室管理の役人にサンが渡したのは、この老人の書いたものだった。
ここにあっても薪の足しになるだけだから好きにするがいいと、吐き捨てるように老人が言ったこの書物の中に、かなりの価値があることを、サンは見抜いていたのだ。

木箱や樽、わらで包んだ大荷物がリヤカーで運ばれ、城壁のアーチ門をくぐっていった。儺礼戯の準備は着々と進んでいた。
中庭の裏通りでは、天狗のようなタレ目のお面をかぶった芸人らが、小太鼓にあわせて、踊りの稽古をしている。
石畳の広場はよりいっそう賑やかだった。御殿を挟んだ広場の左右には、うろこ模様の鋭い顔をした鳥と龍の巨大なハリボテが飾られた。赤、緑、ピンク、黄色でカラフルにペイントされ、広場の中でも特に目を惹いた。
役人の男たちは、1本1本きちんと寝かすようにして台の上に矢を揃えている。イベントに使うものだろう。
重い玉座を抱えて御殿の石段を下るのは、3人がかりでの大仕事だった。御殿の日よけテントの設置も、すでに終わっている。
そして広場の中ほどの足元には、儺礼戯のフィナーレを飾る花火の火薬を入れる小箱が、ずらりと並べられた。

御殿を囲う石廊に立って、ナムはにぎやかな儺礼戯の準備の雰囲気を、サンと一緒に味わっていた。中門の壁のそばでは、大道芸人たちが、太鼓にあわせてぴょんぴょん飛び跳ねている。彼らの手からたなびく白いリボンが、サンの目にも小さく見えた。
ナムは、サンの表情がとても明るくなったことに気づいて、とても嬉しく思っていた。じっと机で考え込んでいるよりも、現場を見回る方が気分がいいらしい。畑に設置した農具がどうなったか、今日も確かめに行くところだった。
「最近の王世孫様は生き生きとしておられますね・・・」
「そう見えるか? 摂政をやめたからだろう。私をこき下ろしていた重臣たちも静かになった。私に興味を失ったようだ・・・」
サンは、はつらつと笑って答えた。

2009/12/22


「イサン」あらすじ 25話

このところ、テスはホン・グギョンの小屋へ入り浸っていた。
テスが初めてこのみすぼらしい小屋を訪ねて来たときには、障子は破れ、壁は黄色く汚れて、あばら家と言っても良いほどの状態だった。
宮中を離れてからというもの、グギョンは背中に樽を背負って、1日中、肥やしを集めて回っている。
見るに見かねて、せめて部屋の中を片付け、服まで洗ってやったのはテスだ。
だからと言って、野心を捨てたわけではないことは、狭い部屋のあちこちにうず高く積まれた書物を見てもわかった。
「いくら汚くても権力が欲しい」とテスに世話を焼かれながら、ふとグギョンが漏らしたのは、彼の本音だった。

サンのもとを去った今となっても、グギョンの関心は常に、サンを取り巻く情勢にあった。
もし王様が倒れたら、もう回復するとは限らない。そのうえサンの廃位が困難となれば、敵はてっとり早い方法をとりたがるだろう。
年末最大の行事である儺礼戯は、サンの暗殺にはまさに絶好の機会だった。
花火や祝砲の披露の他、武術の実演も予定されているので、怪しまれずに準備ができる。
何より老論派の新勢力であるキム・ギジュが宮中に呼び戻されたことが、予兆のようにも思えた。
暗殺がどう企てられ、どう実行されるのか・・・
儺礼戯の出席者は何百人といる。
その中から刺客を特定するのは、実はグギョンでさえ、雲をつかむような話だったのだ。

「左承旨殿。ここで何をしている?」
サンは中庭の朱門のところに立っていたキム・ギジュに声をかけ、彼の手にのった小さな袋を、訝しげに見た。
直前までそわそわしていたキム・ギジュは、急に愛想の良い笑みを浮かべ、袋を見せた。
「火薬でございます、王世孫様。今回の儺礼戯は例年にもまして見応えのある花火です。王世孫様にも一生の思い出になるかと・・・」
「そうか。楽しみにしていよう・・・」
サンは嬉しそうに頷いて、おつきの者たちを後ろに従えて去っていった。

キム・ギジュはそのあと、儺礼戯で予定されている射撃演習の模様を視察した。
宮中の中庭の一角に、禁軍随一の射撃の名手たちが、5人×3列の隊を組んでいる。
彼らは地面に肩ヒザを立てて座ると、さっと銃を構えた。
引き金が指から外れた瞬間、前方の5本のとっくりが、水しぶきを吹き上げ、こっぱ微塵に砕け散った。
その様子を見て、キム・ギジュは、かしわでを打つように派手に手をたたいて大喜びした。

サンの母、恵嬪は嫌な夢を見た。
御殿の軒に大掛かりに張られた日よけテントの下で、儺礼戯の夜なべをサンと共に楽しんでいる。
広場の龍と鳥のオブジェは、昼間の派手な感じとはうって変わり、その内側から灯された強い光で、暗闇の中でひときわ赤白く浮き上がった。
御殿はひな壇席、広場は中央の通り道を除いてムシロを敷いただけの席になっている。
ムシロ席の役人の前には、一人ずつに酒盆が振舞われた。しかしその祭りの賑やかさの影で、激しく降りしきる雪が、広場全体を一枚の絨毯のように真っ白に、冷たくした。
やがて禁軍随一の射撃の名手たちが隊列を組んで登場した。
儺礼戯の目玉である実演が、いよいよ始まるらしい。
広場の中央の道を、兵士が小走りで駆け抜けていくのを、恵嬪はサンとその妻の横の席で、感心したように眺めていた。
兵士らは白い雪の上にひざまずき、銃を構え、その銃口を一斉に御殿の方へ向けた。
パンパンッと火花が散り、煙が立ちのぼった。
デモンストレーションの終わった兵士のうち、前列に並んだ数名だけが、銃を構えたまま残り、サンのいる席の真ん前まで、一気に石段を駆け上ってきた。その中のある一人の兵士の顔を見たとき、恵嬪は凍りついた。
それは紛れもなくキム・ギジュだった。
兵士に化けたキム・ギジュは、サンに狙いをさだめると、次の瞬間、引き金を引いた。

恵嬪は、目を覚まして寝床から上体を起こした。まるで現実のことのように、息が激しく乱れている。
まだ明け方だからと侍女に止められたにも関わらず、恵嬪がサンの部屋に顔を出したとき、サンは机について何か考え事をしているようだった。もしかしたら仕事のことが頭から離れずに、一晩中起きていたのかもしれない。
恵嬪は広がったスカートに埋まるようにして床へ座ると、落ち着かない様子でサンに言った。
「悪い夢を見ました。キム・ギジュが宮殿にいては、不安でなりません。あのキム・ギジュこそ、王世子様を王様と仲たがいさせ、死に追いやった張本人なのです」
恵嬪の頭にあるのはサンが父親の二の舞になるのではないかという恐怖だ。そしてこの意味はサンにも十分伝わったはずだった。しかし恵嬪はどうも不安でならなかった。
恵嬪の突然の告白に、サンは最初かなり驚いた様子だった。しかしそのあとは、何かを考え込むように、じっと黙り込んでしまったのだ。

テスは再びグギョンの小屋にいた。今度はソンヨンも一緒だった。
机に広げた紙を覗き込んでいる。テスに頼まれて、ソンヨンがさっき保管庫に忍び込んで取ってきたものだ。
それはグギョンがぜひ見たいと言った去年の儺礼戯の記録画だった。
「これは去年の記録画。こっちは今年の席次表だ。違いがわかるか」
グギョンは机に並べた2枚の紙を指さしてテスに聞いた。
テスが首を傾げていると、ソンヨンが答えた。
「最上列が違います。去年は王様の左が王世孫様、今年は1つ下の段です」
グギョンは小さく頷いた。ひな段席の頂上は、王様の左右に中殿と王世孫が座るしきたりになっている。それが今年はなぜか、サンだけが1段下の恵嬪の隣へとわざわざ席が変更されていた。そしてすぐ隣には、兵士たちがいる。
暗殺が企てられているのは、もう間違いないように思えた。

テスはこの緊急事態を知らせるため、チェ・ジェゴンとナムのところへすっ飛んで行った。
チェ・ジェゴンとナムの2人がサンの部屋を尋ねたとき、サンは書物を積んだ机の前に一人で座っていた。
ジェゴンが重々しく口を開いた。すっかり夜が更けて、ささやくのが、ちょうどいいくらいの静けさだった。
「折り入ってお話があります。来たる儺礼戯には出席なさいませんように。証拠はありませんが、王世孫様の暗殺を企てる者がいるようです。どうか体調などを口実に・・・」
サンは少し驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにきっぱりと言いきった。
「そうはいかない。危険は常につきまとう。それに脅えていては何もできない。儺礼戯は王族全員が一堂に会する宴だ。不確かな疑惑を理由に職務放棄するわけにはいかない」
ジェゴンとナムは、サンの意思を変えるのは無理だと一瞬で悟った。あとは困ったように2人で目をしょぼしょぼと瞬かせるばかりだった。

ソンヨンとグギョンが小屋の外でそわそわテスの帰りを待っていると、テスが息を乱しながら駆け込んできた。
「王世孫さまは儺礼戯に出席されるそうです! 責務を放棄できないと」
「暗殺は必ず実行されるのだぞ・・・!?」
グギョンは、びっくりして思わずテスに強く言った。
ソンヨンはグギョンをすがるように見た。王世孫を説得するよう、グギョンに何とか知恵を絞ってもらうしかないと思ったのだろう。
しかしグギョンには、もうなす術はなかった。テスやソンヨンより、そのことにいち早く気づいたのだ。しばらく黙り込んだあと、無念そうに深く息をつき、グギョンは言った。
「王世孫様の意思なら、やむをえまい・・・」

2009/1/1


イサン あらすじ 26話

キム・ギジュが中殿の部屋に呼ばれたのは、儺礼戯の前日のことだった。
「計画は王世孫に漏れています。成功するわけがありません」
中殿は恐ろしい顔をして、自分の兄キム・ギジュを睨みつけた。
情報元はサンの身辺を探っていたフギョムによるものだった。放っておけば、きっと自分達にまで失敗の火の粉が飛んで来ると思ったに違いない。
「今さら中止だなんて・・・」
さぞガッカリしたのだろう。中殿の前にひれふしたキム・ギジュは、目を白黒させて戸惑い、そして荒々しい息を吐いた。

商売けのある主人は、店先に清からの舶来物の花火を並べて、通りすがりの客に声をかけた。花火を売るには普通は許可がいるものだけど、この日ばかりは大目に見て貰えるだろうという祭り特有の雰囲気があった。
客は主人に一文を差し出し、こより花火を4、5本取った。
薄汚れた着物に樽を背負い、トボトボと道端を歩いているのはグギョンだった。少し先に石を積み重ねた塀が見える。その中庭の隅に、集めた肥やしを溜めるための穴があった。
しかし塀の前まで来たグギョンは、足を止めて、奇妙な光景に目をやった。
白い三角巾で鼻を覆った役人たちが、ヤシの実のようなひしゃくで肥やしをすくい出し、木の桶の中へ注いでいる。
「軍器寺から爆薬の原料を集めに来たらしいよ」
やはり背中に樽を背負った通りすがりの若い男が、庭に入りもせず突っ立ったままでいるグギョンに説明した。
肥溜めは火薬を作る煙硝の原料にもなる。花火に使われるのは煙硝の比率が小さく、火力が弱い。しかし最も比率が高いものだと、少量でも大爆発が起こる・・・
そんな風なことを考えていたグギョンは、爆竹に驚いて、思わず後ろを振り返った。

薄っすらと雪の降りかかった地面に、筒状の花火が1本立てられていた。その小さな筒から花火が吹き上がるのを眺めて、男の子たちがはしゃいでいるのだった。
グギョンは急に思いつめたようにうつむいて、今年の儺礼戯の座席表の記憶をたどった。
ひな壇席の足元に置かれた小さな8つの箱。
ソンヨンはあのとき、小人のように描かれた王族を、ひとさし指で一人ずつさしながら、グギョンにかなり詳しい説明をしてくれたのだった。
「これは花火を上げるときに使われる箱で、王族の方々の前にある台の上に置かれます。す。王族の方々が火鉢に火をつけると、その火が導火線をつたい、火のついた箱から火花が出るのです。安全な花火なので心配はいりません・・・」
グギョンは、市場の通りを一目散に戻りはじめた。向こうからやって来た男とぶつかった拍子に、地面に落っこちた樽とひしゃくは、二度とグギョンに拾われることはなかった。

「司憲府の持平だ。急ぎのようで参った!」
グギョンは、城壁門のアーチのそばで旗を持っていた警備兵の顔に、身分証を突き出した。
刺繍入りの青い光沢のある着物と、なすびのような形の帽子を身につけたグギョンは、かなりの地位のある役人に見えたはずだった。
それでも警備兵は、ひるむどころか、き然とした態度を崩そうとしない。
「許可証をお見せ下さい。今日は儺礼戯があるので許可証がなければ宮殿には入れません」
警備兵は忙しそうに大声を張り上げ、後ろの仲間に門を閉めて中に入るよう指示した。いよいよ儺礼戯が始まるらしい。
グギョンはハッと顔色を変えた。中に入れないということは、花火の爆発も止められないということだ。
しかし次の瞬間、城壁の大扉は無情にも、グギョンの鼻先でバタンと閉められた。

王様と中殿が、御馳走の並んだ長いテーブル席に姿を現した。ひな壇下段のサン達や侍従、ムシロ席のジェゴンやソクチュらも、腰を上げて王様に頭を垂れた。
予定通り、石段を挟んだ下段の右側に、ファワンとサンの弟達の計3名が、左側に恵嬪、嬪宮、サンの3名が並んでいた。
「始めよ」
王様は言った。
巨大な太鼓がドーンと三度鳴り、ついで石段の下に設置された8台の大砲から、それぞれ祝砲があがると、カランカランとおはやしの音色が風に吹かれるように聴こえてきた。
出席者たちの目は、ムシロ席に四方を囲まれた広場の中央へ集まった。
皿を回す芸人と、円を描くように白いリボンを振る芸人がいる。その周りで、頭からこぼれそうなほど大きい花笠をつけた男らが、腰の太鼓をたたいた。

禁軍随一の射撃の名手たちの実演は、もう日が暮れかけた頃になった。
2列の兵が、御殿と反対方向に銃を構えた。ムシロ席の後方に吊り下げられたひょうたんに、銃弾が次々と命中して、水しぶきを散らしながら砕け散った。残った部分は、ひもの先でぶらんと大きく揺れた。
王様と中殿は、満足そうに顔を見合わせて微笑んでいる。
それに比べてムシロ席で兵士の動きを見つめるフギョムの表情は、どことなく重かった。
とにかく暗殺は中止になったのだ。
しかしフギョムの心には、まだ引っかかるものがあった。
何百人といる公の前での暗殺など、無謀と考える方が自然だろう。
でもそうした常識が、野獣のようなキム・ギジュに果たして通用するだろうか・・・

やがて射撃兵の隊列は、銃をおさめるように縦に持つと、冷たい息を吐きながら、ざっざっと、一般兵らが配置された門前の定位置まで戻り、足踏みを止めた。
デモンストレーションが終わったのだ。
ナムは、ホッと息をついて、ジェゴンにささやいた。
「今回は取り越し苦労だったようですね。夜の花火が済めば儀式は終了です・・・」
「何事もなくてよかった」
ジェゴンは厳しい目線を広場に残したまま頷いた。彼の着物の胸についた大きな刺繍の紋様に、夕日があたって金色に光った。

広場の見世物は物々しい演習風景から、艶やかな踊りへと変わった。
袖から色とりどりのリボンを何本も垂らした女達が、両手をあげて花のようにクルクルと舞っている。
中華人のようなナマズ髭の面をかぶった男らが、チャルメラ楽器隊の演奏をバックに踊りはじめた頃には、辺りが薄暗くなった。
ファワンが王様の席に近づいて、声をかけた。
「もうすぐ花火が見られますね。今年は見世物が多く実に愉快です」
「皆も大いに楽しんでいるようで、私も嬉しく思う」
弘化門での惨劇のこともあり、儺礼戯の開催に難色を示していた王様は、すっかり満足した様子だった。

辺りが真っ暗になると、とつぜん火のついた矢が左右から飛び交い、広場の中央の高い聖火台に燃え移った。
火花は円盤状に広がって、雨のように地面へと降り注いでいく。
それを合図に、次々と夜空に花火が打ち上げられた。笛の音を響かせながら、蜘蛛の子を散らすように火花が散ったかと思うと、今度は色とりどりの丸い光が菊花模様に長く垂れた。花火を鑑賞しに城壁の周りにたかった民衆らは、弾け散る乾いた音に酔いしれた。

その頃グギョンは画員の許可証を使って何とか宮殿に入り、中門のバルコニーから広場を見下ろしていた。会場内への立ち入りは厳しく禁止され、なす術もない状態だった。
王様と中殿が席を立ち、いよいよ巨大な火鉢に、火のついた棒を入れたのを見たときには、グギョンの顔はすっかり青ざめた。
グギョンの隣にはテスもいた。テスは会場内への進入は絶対ダメだという生真面目な警備兵を、とっさに殴り倒して、銃を奪い取った。

ムシロ席からフギョムが見つめているのも、やはり同じ火だった。嫌な予感はいまだ消えない。いつのまにか激しい雪が降り始めて、フギョムの肩を白くしていた。
導火線は予定通り箱をつたって下段へおり、右側の3番、4番へと移動していった。
やがて左方向へと火が伸び、7番の箱から豪快に吹きあがった火花が、嬪宮の笑顔を照らし出した。
サンは待ちかねたように目の前の8番の箱に目をやった。
次の瞬間、一発の銃声がして、サンの席に一番近い大きな花瓶が砕け散った。
大爆発が起きたのは、サンと恵嬪たちが銃声にびっくりして席から離れた直後だった。
整然とムシロが敷かれた広場は、逃げ惑う人々で、ごった返した。黒々とした爆風が押し寄せ、破片が大量に降り積もる。王様をはじめとする王族たちは、おつきの者に腕を抱えられ、席をあとにした。
フギョムの不安な目は、ひな壇に注がれていた。爆発の犠牲になって倒れた者が何人かいる。王世孫か・・・。いや違う。フギョムは愕然とした。

2010/1/10


「イサン」あらすじ 27話

護衛部隊、右洗馬パク・テスが逮捕された。容疑は王世孫の暗殺未遂だった。
瀕死のファワンを含む負傷者を出して、儺礼戯の夜は幕を閉じた。
翌日、サンはテスを捕えた禁軍府の部署へ駆けつけ、その責任者を叱り飛ばした。
困り果てた様子の責任者に助け舟を出すように、ちょうど部署に入ってきたキム・ギジュが、、かしこまりながらも何か確信でもしている感じの口ぶりで言った。
「王世孫様。パク・テスは宴の最中に銃を撃ったのです! あの者が銃を撃ったのは、本当に王世孫様に暗殺の危険を知らせるためだったのでしょうか? むしろこうも考えられます。すぐ後ろには王様の席がありました。王様を狙ったものの、撃ち損じたのでは・・・?」
キム・ギジュの言葉に、サンはイライラとした顔つきになった。
「いいだろう。証拠を持ってきてやる。だが、それまで私の部下に指一本触れるな!」


王様は座卓のひじかけに片腕をもたれていた。前室に控えている侍女2名が、かしこまってうつむいているのが、丸障子の隙間から少し見える。壁際には、おつきの男が1名、王様の突き刺さるような視線をまともに浴びて立っていた。
しかしよく見ると、王様のその視線は侍従から少し外れており、瞳孔は小刻みに揺れていた。
王様は深く考え込んでいるのだった。思い返していたのは、雪の降る、あの惨劇だった。
鍵は2つある。一発目の銃声と、そのあとの花火の大爆発だ。
事故なのか、暗殺なのか…。もし暗殺だとしたら、その狙いはファワンだったのか…
王様の耳には、王世孫がファワンを狙ったのではないかという噂まで入っていた。
いや、王世孫か自分が狙われていたとも考えられる。ではその首謀者は?
それとも、首謀者を動かした陰の黒幕のような者が、どこかに存在しているというのだろうか・・・?

牢の中で1日を過ごしたテスは、その夜とつぜん3人の兵士にすっぽり目隠しをされ、石の道をしばらく歩かされた。
目隠しを取ってみると、そこは前室の中だった。
半円状のアーチ門から3 ~4段ほどの短い階段を下りた向こうに、ひとり掛けの椅子が1つと、赤い布のかかったテーブルの部屋が見えた。
テスはおずおずと階段をおりていき、テーブルの前に立った。ひと目見ただけでも、身分の高い人の部屋だとわかる。
四面の壁すべてが、龍の細工があしらわれたアーチ状のくぐり門になっていた。両脇のカーテンは光沢のある高級生地だった。壁際の飾り棚には、壷や宝石箱などがずらりと並んでいる。
兵士の1人が、早く床にひざまずくようにとささやくので、テスはとにかく言う通りにした。
「頭を上げよ…」
声の主の方に顔をあげたテスは、そのとき息が止まりそうになった。
肖像画の中から抜け出てきたような独特の威厳を漂わせて、王様がテスのことをじっと見ていたのだった。
いつのまにか兵士達は消え、今この同じ空間にいるのは、椅子に腰掛けた王様とテスだけだった。
「これから私が尋ねることに正直に答えよ。宴のときに発砲したのはそなたか」
テスは亀のように恐縮して首を縮めて、儺礼戯の夜のことを思い返しながら、できるだけ詳しい説明をした。
「はい。花火の箱に爆薬を仕掛け、王世孫様を暗殺する企てが進行していると知ったのですが、会場には許可証がなく入れませんでした。それで王世孫様を避難させる目的で花瓶を狙って撃ったのです。以前、王世孫様が視察の旅に出られた時にも暗殺の動きはありました」
テスの話は、王様には初めて聞くことばかりだった。
王様はしばらく黙り込んだあと、もう1つ質問をした。ところがテスの口から出たその答えもまた、王様にとっては意外なものだった。
「私は銃を撃っただけなのです。暗殺の企てに気づいた方は、他にいました」
「それは誰だ? 誰かと聞いておる?」
何か言いにくそうに急にモジモジしはじめたテスを、王様は急かした。
するとテスは、ためらいがちに、ようやくその名を口にしたのだ。
「前司憲府、持平 ホン・グギョン様でございます…」

王様はいったん座卓のある寝室に戻って、今度はサンを呼び出した。
なぜ今まで危険な目にあっていながら、重大な報告がなされていなかったのか…
この点に関して、サンは考えあぐねることもなく、落ち着いて答えた。
「暗殺の動きはこれまで幾度もありましたが、私が声を上げると気が触れたと言われたのです」
どうやら儺礼戯での大爆発は、事故ではなく陰謀と考えた方が良さそうだ…
そんな風に王様は思った。しかし常に何者かの監視の目があるとなると、水面下に捜査をすることなど、できるだろうか。
迷ったように、ふと目をふせた王様に、サンが突然、言葉をかけた。
「王様、適任者がおります」
「誰だ?」
王様は目を見開くようにして、サンの発言に注目した。
「今回の件の捜査は、前司憲府、持平 ホン・グギョンにお任せ下さい。弘化門での件は、彼も罠にはめられたのです」
儺礼戯の夜更け、テスから真相を聞かされたサンが、久しぶりにホン・グギョンに会い、深い話を交わしたうえでの結論だった。
前司憲府、持平 ホン・グギョン…
権力を乱用し、弘化門で大勢の民に暴行を負わせたというその名を、王様はわずかな間に、また聞くことになった。

ホン・グギョンを、王様はまじまじと見つめていた。グギョンは、テスが呼び出されたのと同じ部屋に立っていた。
薄い帽子のつばから、うつむいた顔が透けて見える。随分と緊張してアゴを硬くしているようだった。
色白で頼りなさそうな若造だ…。弘化門で民を武力鎮圧したというから、どんな悪人面かと思えば・・・
王様はそう思いながら、ようやく口を開いた。
「この場でそなたを司憲府の執義に任命する。事件の証拠をつかみ、全容を解明せよ」
グギョンはビクッと顔をあげ、王様を見た。予想に反して王様の表情は穏やかだった。しかしその目の奥に、決して失敗を許さない厳しさと、激しい怒りが見えるようでもあった。

グギョンに犯人の心当たりは、とっくについている。
席順を変え、花火の準備をしたキム・ギジュを、今すぐにでも逮捕したい。
しかし重要なのは、誰が王世孫を暗殺しようとしたかではなかった。
背後で陰謀を操っている黒幕を暴くこと…
そして、今や王室と朝廷の全員が、その容疑者なのだった。

芸子のいる料亭の中庭にグギョンが入ってすぐ、ちょうど座敷から、儺礼戯のとき身分証を貸してくれた図画署の小太りな男が庭に下りてきた。
男はグギョンに気付くと、赤い鼻を近付けて大真面目に聞いた。
「なかなかやりますね。女遊びができるほど肥やし集めは儲かるんですかい?」

グギョンがこの料亭にきた目的は、テスとジャンボらに、御馳走と酒をふるまう他に、もう1つあった。
テーブルの間に座った芸子たちに馴れ馴れしく愛想をふりまかれて、居心地の悪そうにしているテスをよそに、グギョンはとても楽しそうな笑い声をたてた。
やがて芸子達が部屋からさがっていくと、テスが待ちきれずに真剣な顔つきをして言った。
「そろそろ私たちを呼び出した理由を話してくださいよ」
グギョンは御馳走にも手をつけないうちから、話を聞きたがるテスにあきれながらも、さかずきを置いた。
「いいだろう。そななたちを呼んだ理由を話そう…」

布で覆った荷物を背負い、船から下りてきたばかりの男は、テスに何か尋ねられると、首を横にふってみせた。
ジャンボたちも、わらに包んだ荷を船に載せた男や、船着き場の前でむしろを広げてザルやかぼちゃを売っている女に、熱心に聞き込んでいる。しかし成果はあがらないようだった。
ちょうど船から下りてきたフギョムの助手は、テスたちを見たとき、その目的が自分と同じであることを一瞬で悟った。
キム・ギジュに頼まれ花火に爆薬を細工した男を捜しているのだ…
身を隠すように足早にその場を立ち去った助手が向かった先は、フギョムの屋敷だった。

儺礼戯の夜のうちに送りだした助手を、フギョムは座敷で出迎えた。
しかし助手の報告に、いちだんと気分が重くならざるを得なかった。
キム・ギジュが起こした爆発事件で、養母ファワンが瀕死の重傷を負ったにも関わらず、フギョムがわりと冷静でいられたのは、幸いファワンが回復したことと、皮肉にも考える問題が山積みなせいでもあった。
愚かなキム・ギジュは、きっと自分の不始末をもみ消そうとやっきになって、ますます事態を悪くさせるだろう。
そうなる前に、爆薬を仕込んだ男を捜し出し、何としてでも始末するつもりでいた。
しかし助手の報告によると、すでに男は行方不明だという…。恐らく危険を察知して逃げてしまったに違いない。
王世孫付けの護衛官も、その男を捜し回っている。事件の首謀者として、キム・ギジュの名があがるのは、もう時間の問題に思えた。そうなれば中殿が苦境に立たされるのは明らかだった。
「面目ありません! 今から居場所を探して…」
肩をあげて意気込む助手の言葉を遮り、フギョムはどこか遠くを見つめるような目をして呟いた。
「いや、もうよい。この辺で手を引こう。こうなったら、もう関わらない方がいい…」

翌日、フギョムは御殿の石回りの廊下でソクチュに偶然あった。
「今さら手を引くだと?! 無事でいられると思うか?」
フギョムの報告を聞いて、ソクチュは眉を潜め、非難めいた声でささやいた。
「さあ。でも矢面に立つよりはましでしょう。ソクチュ様もどうか賢明な御判断を」
フギョムは、あまり余裕のない表情で真剣に答え、軽く一礼して去っていった。
慎重なソクチュが、どう判断したかはわからない。でもフギョムは本気だった。逃げ道を作っておくほうが得策だ。
内心ではむしろ、王様にすべてを告発したいほどの気分だった。

2010/1/26更新


「イサン」あらすじ 28話

左承旨 キムギジュが失踪して、もう2日になる。
中殿から相談を受けたソクチュは、だからと言って手立てを何も思いつかないまま、部屋をあとにした。
中殿は、兄が拉致されたことを確信していた。
不可解なのは、まるでキムギジュの失踪を予想でもしていたかのように、王様が平然としていることだった。
途中、石畳の広場を歩いてくるフギョムに出会った。
フギョムはゆっくりとソクチュに近づいてきて、わりと丁寧に会釈をした。
「中殿様に会われたのですか? ご様子はいかがでした」
「焦っていらっしゃる…」
ソクチュは冴えない顔をして、冷たい息を吐き出した。
2人の赤い衣がまくれ上がり、中の白いもんぺが見えてしまうほど、風が強く吹いていた。

港の桟橋付近で死体があがったという知らせをテスから受けて、グギョンが現場に行ってみると、枯れ草の中に寝かされた遺体があった。
村人がわいわい群がったそばに、警備兵が仁王立ちになっている。
役人がむしろをめくって、男の首筋の脈をみた。鼻の穴に手をかざしても息の反応はなかった。
遺体は、キムギジュに頼まれて花火に細工をした男のものだ。
火薬を用意した役人も、行方不明になっている。
王命を受け、グギョンが捜査を任せれてから3日目のことだった。

成果があがるまでいっこうに報告に来ないグギョンを、サンはいったん部屋に呼んだ。
「どうした? キムギジュがなかなか口を割らないか」
グギョンはハッと驚いたように、うつむういていた顔をあげた。
サンがいたずらっぽい笑みを浮かべているので、すでにキムギジュを監禁していることは、王世孫に見抜かれているのだと初めてわかった。
しかし責めるよりも、サンはむしろ、事を動かしたがっているように見えた。
水面下で進められていたグギョンの捜査方法に変化が起こったのは、その直後からだ。

フギョムは助手の知らせに、慌てて門の外へと飛び出した。
その光景は、フギョムが想像したもの以上だった。
屋敷の周りを、ヤリを持った禁軍兵が、ずらりと取り囲んでいる。
禁軍による監視は、吏曹判書、刑曹判書の屋敷にまで及んだ。
王様に委ねられた権力を、思うがままに振るまうホングギョンの手腕は、まさに騒動といってよいほどだった。

フギョムはファワンを訪ね、まだ衝撃が抜け切れない白い顔で、ゆっくりと言い聞かせるような口調でささやいた。
「分かりませんか、母上? 禁軍は王命によってのみ動く兵なのです」
「父上が命じられたと申すのか。つまり、キムギジュが王世孫に捕まって、すべてを白状し父上の耳に入ったと?」
気の強いファワンは、はっきりそう口にした。
様子を探ろうにも、王様はここ数日、部屋に閉じこもっている…。それがファワンを余計にイライラさせる原因となった。
人払いされたのはファワンだけではない。重臣も中殿も、みんな同じだった。王様に何も聞けないまま、それぞれの抱えた不安ばかりが大きくなっていく。
「実に不吉なことです…」
フギョムは思わず声に出した。
すべてはホングギョンの狙い通りなのか。王世孫…もしかすると王様の手の上で、自分たちは踊らされているということなのだろうか…?

ソクチュは、自室の卓上机の前で、身動きもせずに悩んでいた。
監視の目があるなか、むやみに動き回る大臣など、いるはずもなかった。
そっと耳をそばだてて成りゆきを見守るだけの時間が、何とも長い時間に思える。
今頃、中殿は1人取り残されて、ますます焦っているだろうことくらいは、唯一想像がついた。
「チョンフギョム承旨様がおいでです…」
外からの呼びかけにひどく驚いて、ソクチュは白毛まじりのヒゲの生えた頬を震わせた。
屋敷の短い石段を下りたった中庭で、フギョムが会釈をして待っていた。
ソクチュは、いぶかしげにキョロキョロと辺りを見回した。夜更けとはいえ、禁軍に見張られているさなか出向いて来るフギョムのうかつさが、まったく信じられなかった。
しかしその緊迫した表情からして、危険なのは重々承知のうえの訪問のようだった。
安全な部屋の中へ招き入れられると、息をかみ殺すように沈黙していたフギョムが、ようやく口を開いた。
「我々が仲間であることはすでにばれています」
「それで? 私を訪ねてきた理由はなんだ?」
すでに驚き慣れたソクチュは責めるような目つきで、ささやいた。
「そもそもの発端は儺礼戯の事件です。責任を負うのはキムギジュ様と中殿様の2人で十分なのです。王世孫がここまで事を大きくするのは黒幕を暴くためでしょう。…我々はそこから身を引くのです。背後関係からという意味ですよ」
「つ…つまり、中殿様を裏切れと…?!」
言葉にもならないくらい驚いて唇を震わせるソクチュに、フギョムはこっくりと頷いてみせた。

「王世孫様…夜風が冷たいというのに、なぜ外に出ておられるのですか」
中庭の石ろうのそばでたたずんでいるサンに、ジェゴンが後ろから心配そうに声をかけた。
水面下で行っていた調査が、敵を大胆に揺さぶる戦略ヘと様相が変わってきている。
グギョンが巻き起こした騒動が、毎日のようにサンの耳に届いていた。
「胸が騒いで本を読んでいても目に入りません。叔母上の陰謀が発覚したとき、私はそなたにこう言った。王世孫に生まれていなければこんな目に遭わないと。今度は何が明かされるのかと思うと、実は怖くてたまらないのです」
そう打ち明けたサンの目は、その日が近づいているのを感じてか、とても緊張していた。

図画署の男性画員たちは、ある話題に夢中だった。
その詳細が、まもなく作業場に入ってきたパク別提によって、正式に発表された。
画員の最高の名誉である御真画師が選ばれることになったのだ。
来月にも本部が設置されて、首席画員と随従画員が各1名ずつ選抜されるということだった。
「選ばれる可能性は全員にある。各自精進するように…」
とパク別提は言葉をしめくくった。
洗濯板を抱えて、ソンヨンが他の茶母たちと洗い場から戻って来たとき、男性画員は中庭の縁台に山積みになった筆の中から、我先にと、気に入ったものを奪い合っているところだった。
筆の先を手でなめすように触って、動物の毛や質を熱心に見定めている。
なかには画員を選抜する礼曹の役人を接待しようと、密かに企む者までいた。

「王様の肖像画を描くことは画員たちの一生の夢なんです。引退した大画員様もなれなかったくらいよ」
図画署からいったんテスたちと暮らしている小屋に戻ってきたソンヨンは、テスの叔父にそう説明した。
「お前もいつか選ばれるといいな」
「え? 私が?! まさか私なんかが選ばれるわけ…」
ソンヨンはあきれて笑ったものの、叔父さんは大真面目な顔で、興奮したように両手を天に捧げた。
「いつか王世孫様が王になったときに、お前がそのお姿を絵に残して差し上げろ。こんな名誉なことがあるか…?」
着物を詰めた風呂敷包の結び目を縛って、ソンヨンは、夜遅くまで任務についているテスに着替えを届けるために立ち上がった。
祈るように漏らした叔父さんのその言葉は、確かに夢のような話だと思った。

テスはグギョンに頼まれた手紙を、フギョムの屋敷の庭へ放り込むと、屋敷の並んだ通りを戻りはじめた。
闇の中に、白いもやがたった夜だった。しかし道の上は月夜の照り返しで明るかった。昼間、人々が行き交った足跡が、光の筋となって道の真ん中に伸びている。
じりじりと土を踏みしめて、2人の女性がその光の筋をたどるようにやってきた。
1人が前を行き、もう1人がすぐ後ろについていた。歩くたびにマントの裾からふっくらと広がったスカートの光沢が動いた。すっぽりかぶったマントの端が深く額に垂れかかり、顔は全く見えなかった。特に後ろの女はそうだった。
2人とすれ違ったあと、テスは何となく振り返って、その姿を目で追った。
そして女たちが会話もせずに、ただ黙々と歩いて、フギョムの屋敷のある方へと曲がっていったのを見て、屋敷の壁に体をすり寄せるようにしながら、2人の後をつけはじめた。
やがて小柄な女の方が、チョンフギョムの屋敷塀の扉の前に立って、呼びかけた。
「たのもう…。たのもう…」
それは、すがるような声だった。
すぐに下働きと見られる男が扉を開け、深々と一礼した。
後ろにいた方の女が、何のためらいもなくさっそうと塀の中へ入り、そのあとを小柄な女が続いた。
下働きの男が木戸を閉め、辺りはしんとなった。

その夜、グギョンがサンの部屋に突然あらわれた。
チョンフギョムの屋敷を今晩、訪ねた者…つまり、サンを陰謀に陥れようと、フギョムや大臣らを動かした黒幕の正体を報告するためだった。
「今夜、チョン承旨を訪ねたのは、他でもない中殿様でした」
報告を終えて、グギョンが返事を待ち構えていると、一瞬の間をおいてからサンが呟いた。
「今なんと申した…?」

2010/1/31更新


「イサン」あらすじ 29話

東宮殿からグギョンが出て来たのを見たテスは、そわそわと手もみをして近寄っていった。
「どうなりましたか? 王世孫様に伝えましたか?」
「信じて下さらなかった…」
グギョンは残念そうに微笑んだ。
中殿は国母だ。陰謀の黒幕であるなどと口に出すのさえ失礼にあたる。王世孫にぴしゃりと話を遮られたのも無理もない話だった。
王世孫は、事件の黒幕をフギョムとファワンによるものだと考えているらしい。グギョンもやっぱりそう思ってはいた。
中殿はかつて、王様に王世子の救済を進言したほどの方だったからだ。
キムギジュが閑職どまりなのも、妹である中殿が政治や老論派の世界から距離を置いているためだと言える。黒幕であるなど、とうてい信じられない。
その一方で、今晩、テスが見たこともまた事実だった。
中殿が侍女と2人でチョンフギョムの屋敷の門を出きたところを目撃し、宮殿まで尾行したのだ。
この矛盾を説明するのに必要なものは、さらなる調査なのだろうか。それとも事実を受け入れる時間なのか…
テスが歯がゆそうに目を丸くした。
「あれは間違いなく中殿様でしたよ」
「分かっている…」
グギョンは思い悩んでいた。

フギョムの家の下働きの男は、庭を掃いている途中に、砂の上に落ちた白い封筒を見つけた。
そしてすぐにフギョムの助手へ渡し、フギョムの手元へと届けられた。
昨晩、中殿に屋敷に来られた衝撃が、フギョムの肩にまだ重くのしかかっていた。
窮地に立たされた中殿の怒りと焦りは、相当だったのだろう。
フギョムは中殿に対策を迫られたが、同時に中殿を裏切るための処理にも苦しめられた。
助手の持ってきた封筒を逆さにすると、軍器寺の証明がぽろりと落ちた。丸型の木札に赤いストラップの房飾りがついている。
同封の手紙はキムギジュに頼まれ火薬を準備した役人が助けを求めるものだった。丑の刻に天蔵山で待つと書いてあった。

「容疑者の名でチョンフギョム承旨に書状を送っただと?! ではその役人を捕らえたのか?」
同じ頃、執務室ではジェゴンが思わず目を丸くしていた。
「ええ。捕らえはしました」
グギョンは意味ありげな言い方をした。
「”捕らえはした”とはどういうことだ?」
ナムが噛み付いた。
「捕らえた時はすでに死んでいたのです。恐怖に耐えかね自害したようです…」
グギョンは答えた。

丑の刻が近くなって、グギョン、テスら護衛部隊は、大勢の禁軍兵を引き連れ、天蔵山へ向けて出発した。
天蔵山のふもとの集落までは、まっすぐ木が高く生え揃った1本道だった。月明かりが木漏れ日のように降り注いで、木々に白い霞をかけている。テス達の姿は真っ黒い影となり、人と馬の吐く息だけが生々しかった。
馬のひずめが、落ち葉を踏みしめ、激しい雨のような音をたてた。
やがて1本道を抜け、兵は集落に着いた。民家のわらぶきが、薄らと闇の中に浮かんでいる。
兵達が背中を深く折り曲げて、蜘蛛の子を散らすように村の中へ侵入すると、テスも十数名の兵を引き連れて、狭い迷路のように入り組んだ通路を進んだ。
廃虚の村らしい。兵がそれぞれの場所に落ち着き、集落はひっそりとした静けさを取り戻した。

ほどなくフギョムの助手が、黒い忍びの服を着た20名ばかりの手下を連れて、集落に現れた。
花火を準備した役人を殺しに来たのだ。
彼らは禁軍兵の通った道をたどるように、村落の奥へ奥へと入り込んだ。
3本松の曲がり角のところで手下を半分残し、助手は第一陣と一緒に、小さな空き地にたどり着いた。
長家と長家の間にわずかな抜け道があるだけで、行き止まりの閉ざされた空間だった。
助手は刀に手をかけ、木扉に向かって呼びかけた。
「いるのか…?」
返事が何も返ってこないので、恐る恐る木戸のリングに手をかけたそのとき、サッと扉に矢が突き立った。
振り返ってみると、兵士らが弓を構えて、後ろにずらりと立っている。
「罠だ。撤収だ。撤収せよ!」
助手は泣きそうな顔で必死に大声をあげた。
しかし刀と弓での激しい攻撃を交わしての後退は状況が厳しく、山中へ戻るまでに手下は次第にばらばらと減っていった。

フギョムは人さし指でコツコツと机を鳴らしていた。
天蔵山からの知らせはまだ届かない。
ようやく障子越しによく通る声がかかった。
庭へ出てみると、夜はすっかり開けて白い朝もやがかかっていた。
封筒を拾ったのと同じ下働きの男が、うっすら積もった雪の上で、ぽつんとしていた。
男はフギョムに何かを伝えようとしているのに、すっかり動揺してどうも上手く言葉が出てこなかった。
「何事だ?! 早く言わないか」
フギョムはたまらず悲痛な声をあげた。そのとき表の門扉のきしむ音がしたので、慌てて庭へ回ってみると、槍を持った兵士らがぞくぞくと入ってきた。
その後ろでグギョンが義禁府と平市署のお役人を引き連れ、門をくぐった。
フギョムを睨みつけるようにグギョンは微笑んだ。
「他の客をお待ちでしたか? それなら義禁府にいます。天蔵山にはもう誰もいません。おかげでこの家を捜査する名目ができましたよ。前から興味があった家でしてね。たたけばほこりが出るでしょう」
そうこうしているうちに兵士らが、フギョムの姿が目に入らないかのように風を切って前を通り過ぎ、裏帳簿を押収する目的で一目散に屋敷へとあがり込んでいった。
バタバタした雰囲気の中、フギョムは、ただなす術もなく悔しそうに庭に立ちすくんだ。
捜査は王命だったからである。

その日、グギョンは一通の書状を受け、日が暮れる頃に料亭へ顔を出した。
芸子は離れの部屋へグギョンを案内すると、自分はどこかへ引きあげていった。
障子を開けたグギョンに、フギョムがねぎらいの笑みを浮かべた。小さなテーブルには御馳走が並んでいた。
彼は口をつけた盃をいったんテーブルへ置き、代わりに急須を手に取り、グギョンの盃に注いだ。
「私の手下を解放してくれ。どうせ自白などするものか。死を選ぶはずだ。その代わり助言を与えよう。そなたはキムギジュというウサギを餌に私と母上を捕らえたと錯角している。しかし黒幕は他にいるのだよ。我々はただの手先にすぎない」
フギョムの正直な言葉は、どうもグギョンには受け入れられなかったようだ。
「承旨様ともあろう方が言い逃れですか。押収した裏帳簿には、最近、1万両の多額の資金が使われたと書いてありましたよ。商人から受け取ったワイロがファワン様からキムギジュ様に渡って、暗殺の準備に使われたのではないですか?」
グギョンがそう声をたてて笑ったとき、フギョムの顔にあきれたような笑みが浮んだ。
それがどうもグギョンの心に最後まで引っかかった。

今日も王様は誰にも会われないと聞いて、中殿はおつきの侍女数名を連れて、御殿を結ぶ石畳の廊下を途中で引き返した。
向こうから王世孫がやってくる。それもどうも王様の御殿の方から来たような気がした。
中殿はサンに優しく声をかけ、微笑んだ。
「あとで中宮殿に寄りなさい。ちょうどいいお茶がある。忙しいのに呼び止めて悪かった」
「いえ、忙しくはありませんが…」
サンはあまり元気のない声で、妙な言い方をした。
会釈だけし、広場の方へと歩きだしたサンの背中を、中殿が怪しむように睨みつけた。
サンのおつきの者達が深く頭を垂れたまま、中殿の前を足早に横切っていった。

キムギジュは憔悴しきっていた。ただぐったりと空っぽの棚に体もたれている。瞳孔は上を向き、もう何も考えられない状態だった。
辺りには人陰すらなかった。何日間もこうやって小屋の中に放っておかれたのだ。
換気窓から差し込む月明かりが、格子の影を壁に映した。
いっそのこと拷問され続けた方が、はるかにマシだったかしれない。中殿の秘密を守るためなら自分を犠牲にする覚悟はあった。
立ち向かう相手すらいないことが一番こたえた。気力をみるみる奪い取っていった。
キムギジュは、とつぜん口に猿ぐつわをはめられたことに驚き、野獣のようなうめき声をあげた。
それからグギョンとテスに連れられ、随分と長い間、山の中を歩かされた。

2010/2/6更新


「イサン」あらすじ 30話

目隠しと猿ぐつわを外されたキム・ギジュに、あれこれ考える余裕などなかった。
王様が、何か言いたそうにじっと自分のことを見ていたのだ。
そのすべてを知り尽くしたような眼差しと威圧感は、キム・ギジュにとって底知れぬ恐怖となった。
そして幸か不幸か、その恐怖はキム・ギジュを完全に目覚めさせた。
「王様、私は怖かったのです…! 王世孫様と恵嬪様は、私が王世子様を死に追いやったとお考えでした。王世孫様が王位に就けば私の命はないでしょう? 中殿様は悪くありません。王世孫様を殺すなど、とんでもないと言われたのです! 信じてください。本当です。王様ぁぁっー!」
キム・ギジュは野獣のように泣き叫んだ。

王様の執務室を出て、とぼとぼと東宮殿へと戻るサンの後ろを、グギョンが声をかけるタイミングをうかがうようにして歩いていた。
しかし思った通り、サンは一人になりたいと言って、途中でグギョンをさがらせた。
翌朝、ジェゴンとナムが心配して部屋へ訪ねていったとき、サンは言った。
「心を静めようと努めている…」
キム・ギジュの自白を、自分の耳ではっきりと聞いたサンの衝撃はとても大きかった。
それどころか王様の悲しみまでもがサンの心に重くのしかかった。どんなときでも自分を支えてくれていると思っていた中殿の裏切りを現実に受け止めるのには、老齢の王様にはあまりにも過酷なことのように思えた。

もう夜も遅いというのに、王様は寝室にも戻らずに、しばらく椅子に腰かけたまま考えごとをしていた。
キム・ギジュの泣き叫ぶ声が、今はもう幻のことのように静かだった。
中殿は大きな罪を犯した。王世孫の暗殺を事前に知っていたのだ。
王世孫をかばうフリをして、何度も頬に嘘の涙を流した。
しかし今、王様の心に真っ先に思い浮かぶのも、またその中殿の涙だった。
王様は66歳のとき、国母の座を埋めるために中殿を正妻として迎えた。中殿はわずか15歳だった。
そんな彼女を不びんだと思いながらも、政務に没頭するあまり、優しい言葉すらかけてやれなかった。
中殿の欲のすべては、そうした孤独に耐えるためのものだったのではないだろうか…
そのこぼれ落ちる涙に、王様は中殿の悲しみが見えるような気がした。

フギョムは、墨の乾くのも待ち兼ねたように手早く書状を折りたたんで、下働きの男に手渡した。
まもなく書状を受け取ったソクチュが、ファワンの御殿を訪ねてきた。
ソクチュは渋い顔だった。暗殺事件の矢面に、中殿を立たせることには、まだ迷いがある。
かと言って、他に手立てがあるわけでもない。少なくともはっきりと証拠が出ていない以上、関与を否定すれば、まだ自分たちには助かる道が残されているように思えた。
しばらくの沈黙のあと、ソクチュがあきらめたように口を開いた。
「誰が中殿様にお伝えする…?」
表だって賛成とは言わないまでも、彼の中でようやく決心がついたらしい。
「私が会ってお話しします…」
まるで若い自分が背負うものだと心得ているように、フギョムが重い表情でそう約束した。

キム・ギジュを見舞いに義禁府の獄舎から出てきた中殿を待ち伏せていたフギョムは、突然、足元が揺らぐほど、中殿に頬を思いきりひっぱたかれた。
「裏切り者め! 私を陥れる気か!」
ここ数日、大臣らにそっぽを向かれ、ついには兄が獄舎に入れられた中殿の怒りはひどかった。一人でしびれを切らしていたのは、簡単に想像がつく。
フギョムは恐縮したように深く頭を垂れた。残念ながら頬の痛みがこの重圧感から自分を解放してくれるわけではなかった。
「こんなことになり申し訳ありません。ですが中殿様もお気付きでしょう? 無傷で逃れるのは不可能だと…。わずかでも希望をつなぐためには、他のものを生かしておくべきなのです。どうかすべての責任を負ってください」
嫌な役目を果たしたフギョムは、丁寧に会釈すると、くるりと背を向け、宮殿の方へ去って行った。足元には雪が降り積もっている。その足取りは、意外にも力強かった。

サンの大叔父であるホン・イナンは、御殿の長い回廊をそわそわと歩いた。
角を曲がると、御殿の前に大物大臣らがすでに集まっていて、本日、未の刻に御前会議があるとの王様の通達について、それぞれが噂しているところだった。
「この際、1人残らず爆発事件の関係者を割り出す気でしょう。望みはありませんよ!」
何事にも悲観的なホン・イナンは、今にも泣きそうな顔で吐き捨てた。
中殿が全責任を負うべきだとする者や、中殿の無実を訴えるべきだというくらいの考えの違いはあった。
しかしホン・イナンでなくても、誰1人いい想像をするものはいなかった。

王様が一段高い奥座敷の玉座につくと、大臣らは一斉に頭を垂れた。サンは王様と大臣らを取り持つようにその間に腰掛け、グギョンは朱柱のそばに控えた。入り口に2名ほど速記係が机を並べていた。
「そなたたちを呼んだのは、爆発事件の真相が明らかになったからだ。先日私は司憲府持兵ホン・グギョンを執義に昇格し、事件の真相解明を命じた。だが調べたところ、あれは単純な事故だったと判明した。火薬の扱いを誤ったためで、王世孫を狙ったものではない」
ソクチュ、ジェゴンは発表に驚いて思わず顔をあげた。サンの目にも、王様の発言をどう捉えようかという迷いが、はっきりと浮かんだ。
「恐れながら王様…」
グギョンが思いきって口を開こうとしたのを、王様がぴしゃりと跳ね除けた。
「ゆえに、この件はこれにて落着とする。二度と言及しないように。分かったな」
大臣らのなすびみたいな帽子が、あちこちで揺れ動いた。
そのざわめきを背に、フギョムは目の奥でじっと考え込んだ。でもいくら考えてみても、この結果だけはよくわからなかった。

「辰の刻の重臣会議に続き、各部署からの業務報告があり、末の刻には肖像画を描く画員が参ります…」
翌朝、王様に今日1日のスケジュールを読み上げていた男は、ひじ掛けにもたれていた王様の手が、額に動いたのに気づいた。
「王様、お顔の色が悪いですね。すべて中止にして御医を呼びましょうか…」
「いや、少し疲れただけだ。予定通り進めよ」
王様は少し慌てたように、疲れた目を瞬かせた。

このたび御真画師に選ばれたタク画員は、予定の刻に王様の部屋に通された。
タク画員が随従画員にソンヨンを指名したのは、ソンヨンのことが個人的に気になりはじめたという理由の他に、もう1つある。絵の腕の確かな者がそばにいてくれた方が、心強いと考えたのだ。それくらい若いタク画員は、少しナイーブなところがあった。
テーブルの端に並べた文鎮の1つで、まずは紙ジワを伸ばし、小筆の先を指で整えた。それから適当に折り畳んだ捨て紙に、試し線を引こうとして、タク画員は首を傾げた。
緊張のあまり、手の震えが止まらないのだ。
焦りばかりが募るなか、おつきの男と役人2名を従え、王様がいよいよ部屋に姿を見せた。
「始めよ」
王様が椅子に腰掛けたのを見計らって、役人が指示を出した。
タク画員は仕方なく、震えるまま筆を握り、紙の上に墨をのせた。案の定、線が途中で大きくそれた。慌ててソンヨンに新しい紙と取り替えさせたものの、タク画員の手の震えはおさまるどころか、どんなに手首を強く押さえ付けても、ますます激しくぶれる有り様だった。
「下絵は私が描きます…」
ソンヨンが見兼ねて声をかけた。しかしそばにいた役人が、それを聞き逃さなかったらしい。眉間にしわを寄せて、途端に文句を言ってきた。
「ふざけているのか! 卑しい女の茶母ごときに王様の肖像画を描かせるだと?!」
「この者は茶母ではありません…。図画署の画員なのです…」
タク画員は今にも死にそうな顔で言い訳をした。
彼らのやり取りが耳に入ったのか、それまで眠ったようにじっと目を閉じていた王様が、とつぜん興味を持ったように口を開いた。
「その女が画員だと? そんなことがあるのか。どれほどの才能があるのか私も見たい。よかろう、そなたが筆を取れ」

その夜、タク画員とソンヨンが、それぞれ風呂敷包みを1つずつ手にさげて、御殿の短い石段を下りてきたのは、もうすっかり暗くなってからだった。
ソンヨンのおかげで何とか下絵を完成させることができたタク画員は、ホッと胸をなでおろした。
宮殿に背を向けて2人が歩きだしたとき、急に後ろから呼び止められ振り返ってみると、王様のおつきの男が、短い階段を駆け下りてきた。
「何かご用でしょうか?」
タク画員は深々と頭を下げた。
おつきの男は、タク画員の隣に立っているソンヨンの方にちらっと目をやって、急かすような冷たい口調で言った。
「そなたではなく、この女だ。王様が今夜、寝所に来いと仰せだ」

2010/2/14更新


韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...