2017年6月2日金曜日

イ・サン長いあらすじ31話~40話

「イサン」あらすじ 31話

王様が白い寝間着で、長枕を置いた寝床に座っている。
特別に用意された赤いチョゴリに身を包んだソンヨンと2人きりだった。
ソンヨンは、床に広げた紙の上に覆いかぶさるようにして、筆を走らせていた。
2本の太い枝から、さらに細かく線を枝別れさせ、筆の先で春の芽をつけた。淡いもの、濃いもの、ピンクの梅の花びらが枝いっぱいに浮かんだ。
王様に見つめられているような気がして、ソンヨンはふと筆を止めた。藤色のスカートが長く床に流れるソンヨンの姿は、横たわる人魚のようだった。
しかし王様はソンヨンではなく、じっと絵に見入っていた。その表情はとても寂しそうで、疲れてもいた。
最後にソンヨンが枝と同じ色で、外側へ向かって筆を払い、1本ずつ花弁を描き込むと、梅の図は完成した。艶やかでありながら、心落ち着ける風合いでもあった。
「よく似ている。死んだ息子の描く梅花図とそっくりだ…」
王様は首を垂れたまま、梅の花をしみじみと眺めて、微笑んだ。
この女の腕前は他の画員にも引けを取らない… とそんな風にも思った。
しかし華やかな梅の花を映した王様の目の奥には、苦悩がにじんでいた。
決して中殿を許したわけではない。一生、中宮殿に閉じこもって、残された人生を死人として生きよと告げたのだ。
王世子サドを殺した過ちを、再び繰り返すのではという恐怖が、皮肉にも中殿を救わせることになった。
しかしどうだろう。王世孫が自分に見せたあの恨めしい目は…
それが王世孫にとって、どんなに酷なことか、王様はよくわかっていた。
それでもなお、自分の死後に、王世孫が中殿を生かし続けてくれたらと、願わざるをえない。今はただつくづく、王世孫に申し訳ないと思うばかりだった。

同じ頃、内官や侍女らは、バタバタと駆け足で庭や渡り廊下を行ったり来たりしていた。
嬪宮のおつきの女が、どこかからか血相を変えて戻ってきて、王世孫が行方不明になったのだと尚宮に耳打ちした。護衛もつけずに、こんな夜更けに1人で宮殿を出たことに、誰も気づかなかったらしい…
尚宮は険しい表情で、控えの宮女が数名立っている嬪宮の部屋の前に目をやった。まだ騒ぎを知らないのだろう、障子越しに灯った明かりが、ひっそりしていた。

薄らと夜が明けはじめた紺色の空に、細かい枝葉が 影を落としている。その木々の下には、 円形に盛られた芝土が青白く浮かんでいた。
花模様の石台に築かれた墓は、無念の死を遂げた王世子サドのものだった。
サンはその前に、ひざまずいていた。
米びつのわずかな隙間から絞り出す父の最後の言葉と、そのそばにすがって泣いた幼い自分の声が、耳に響いていた。
 (サン、誰かを恨んではならぬ。怒りと憎しみで身を滅ぼしてはならぬぞ…)
サンを探しに丘をのぼってきたナム尚洗は、そのときサンがお墓にうずくまるようにして、むせび泣いているのを見つけたものの、しばらく声をかけることはできなかった。

ソンヨンが昨夜、王様の寵愛を受けた、またはソンヨンが王様の寝所で夜のおとぎをしたのだという言い方をする者もいた。
大殿から王様の使いの男女数名が、図画署へ訪ねて来たとき、いよいよその噂は本当だったと、図画署の誰もが思った。
ソンヨンがパク別提に呼ばれて小屋へ顔を出してみると、パク別提のそばで、王様のおつきの男と尚宮がソンヨンを待っていた。いつもの小屋なのに、どこか華やいだ空気が漂っていた。
おつきの男は、テーブルの上で風呂敷包を解いて、王様からの贈り物を見せた。その口調は、眠った気分を揺り起こすほどに、はつらつとしていた。
「昨夜描いた絵に対する褒美だ。王様は大変お気に召したようだ」
いつかソンヨンは、宮殿の倉庫にお宝のように並んだ画材用具を、うっとりと眺めたことがある。
そしていま目の前には、それにひけを取らないほど立派な、清の皇室で使われる端渓硯というすずりが置いてあった。

給仕の女は、庭のかまどで酒をあたためていた。古びた夫でもいそうな女だった。
さっきからしきりに振りかえっては、縁台であぐらをかいている若い男性客のことを気にして見ていた。
男は黒いつばの帽子を脱いで、1人で酒を飲んでいる。服はこぎれいな方だが薄着だった。
女はついに思いきって男のそばに駆け寄り、暖かい部屋へ入らないかと誘いをかけた。
「結構だ。部屋よりもこの胸の方が熱い」
男が眠そうな目をして答えると、女は大胆にも、男の胸元に手を入れて喜んだ。
「あらま、本当に熱いわ! 私の体もほてってるのよ」
男が文句を言わないのをいいことに、女はますます体をしならせて、部屋へ入らないかともう一度誘った。
しかし男の方は、軽く冗談を吐いて女を喜ばせては、やっぱり酒ばかり飲んでいる。酔っぱらっているわりに、心底酔えていないような風だった。
テスとソンヨンを連れ、ナム尚洗が現れたとき、その男の表情がパッと明るくなった。
ナムは男にべったりと寄り添う給仕の女に向かって、小声で忠告を入れた。
「その方は王世孫様だ…」
女は大慌てで地面にひれふし、一目散に店の奥へと逃げていった。
サンはテスとソンヨンに、縁台へ座るよう誘った。でも2人が戸惑ったように立ちすくんでいるので、一人で酒を飲みながら、ときどき微笑んだり、冗談交じりに2人に愚痴を呟いたりしたのだった。
「これまで幸せだったのは3人でいた時だけだ。友に会うのに場所など、どうでもいいだろう。ソンヨン、なぜ泣くのだ。そなたたちは、よく泣くなぁ…。私は涙さえ枯れてしまったのに」

翌日、恵嬪の部屋をとつぜん嬪宮が訪れたのは、昨夜、夫が1人でまた宮殿を出て、泥酔して戻ったという知らせを聞いたからだった。
「まさかっ…!」
嬪宮の話を聞いた恵嬪も、随分驚いて大きく息をのんだ。

まもなくナム尚洗が、恵嬪と嬪宮が東宮殿に訪ねてきたと、サンにうかがいをたてに来た。
卓上机で考えごとをしていたサンは、我に返ったように顔をあげ、2人を部屋へ通すように言った。
「あなたの気持ちは分かります。行き場のない憤りを抱えていることでしょう。でも、どうか自分を大事になさいませ…」
恵嬪は、サンを責めるというより、心底心配している様子だった。
「恐れ入ります、母上。情けない姿をお見せして申し訳ありません…」
サンは静かに答えた。
嬪宮は夫であるそんなサンの姿を、どこか恨めし気に見つめていた。
疲れた顔を見せない夫…。それどころか自分に顔をしかめたことさえ一度もない。
いつも温かい笑顔を向けてくれるのに、どこか寂しい気持ちがするのも本当だった。

次の日から、サンに忙しい日々が戻った。
爆発事件で敵の輪郭は見えたものの、全容を把握するには至っていない。
王様の強い希望もあって、老論派の実体を暴き出すこと、そして王様もほとんど成果をあげることの出来なかった公平な人材登用の実現と、滞っている清との貿易を正常化する計画を、一気にスタートさせたのだ。
「11月に派遣する冬至使は特別な使節団とする。特に毛皮や人参などの輸出品目と絹や紙などの輸入品目の数量に関して合意を得たい」
サンの指示を受けて、グギョンとジェゴンも再び動き出した。

フギョムは、しばらく御殿に顔を見せなかったことを、まずファワンに詫びた。
事態は思わぬ方へ転んだ。どちらかというと良い方向のように思えた。
「母上の望みは何ですか?」
王世孫を廃位させ、摂政の座を狙った中殿の計画が水の泡となって、今後の自分たちの行方が気になっていた。
「そなたは王になる素質を備えている」
ファワンは鋭い目つきで即答した。前から頭の中に計画はあったのだろう。
大きなファワンの期待を噛みしめ、部屋をあとにしたフギョムは、ちょうど執務室から出てきたばかりのソクチュに会った。
爆発事件で罪を逃れたことでホッと息をついたにしては、やけに顔色が暗かった。
事情を聞いてみると、さっきいきなり王世孫に呼ばれて、爆発事件の重要人物の筆頭に、自分の名があがっていることを告げられたらしい。
「捜査は終わっていなかったのだよ…」
ソクチュは重い表情でフギョムに呟いた。

2010/2/21更新


「イサン」あらすじ 32話

恵嬪は深刻な噂を耳にした。
噂というよりも、泥酔したサンが宮殿までの道のりを、図画署の茶母と連れ立ったというのは、確かな筋からの情報だった。
実は恵嬪には前にも似たような経験があった。かつて王世子サドが、ちまたの女を宮中に連れてきたことが、王様との確執につながったのだ。
何かとサンの揚げ足取りをしたがる者は大勢いる。もしこの噂が広がったとしたら…
「あの茶母をどうするかは、すでに考えてあります」
恵嬪はそばにいた嬪宮に、ぴしゃりと言った。
恵嬪の底知れぬ怒りを間近に見た嬪宮は、サンの友達というだけで変な誤解を受けたソンヨンのことが、そのとき本当に気の毒だと思ったのだ。


ソンヨンは、すぐにも恵嬪の部屋へと呼び出された。
しかしどうして呼び出されたのはわからなかった。ただ恐縮したように、お膳に用意された湯のみを握りしめて、うつむいていた。
恵嬪は用件を話しはじめた。
「王世孫の支えになってくれて、そなたには改めて感謝する。だからといって王世孫に近寄ることは許されない。そなたが特別な存在であればなおさらだ。…明日、清に発つ使節団にそなたを加えるよう手配した。思う存分、絵を学べるよう取りはからってある。清にとどまり画員を目指して修行をしなさい。短くても5年、長くて10年はかかるだろう」
驚きのあまり顔をあげたソンヨンに、恵嬪は硬い笑みを返した。疲れたように肩で小さく息をつき、内心苛立っているのが目に見えるようだった。


サンは、珍しくソンヨンが宮中の中庭にいるのを見つけて、嬉しそうに声をかけた。
でも妙に視線をそらすので、のぞきこんで見ると、長いまつげが涙で濡れていた。
なんで泣いているのか聞いてみても、ただ「あのぅ。あ、あ、あのぅ…」と呟いては、しょんぼりとするばかりだった。その代わり、大きな瞳からは涙があふれ出た。
サンは何だかとても心配になって、そっと身を寄せるようにソンヨンの手を握りしめた。
庭にたたずむ夫とソンヨンの姿を見かけた嬪宮は、とっさにその場から立ち去っていった。
ソンヨンに向けられた夫の横顔が、しばらく目に焼き付いていた。2人はとても親密そうに見えた。

その夜、ソンヨンは図画署の作業場へ、清に持って行く荷物をまとめに戻った。
すでに画員や茶母たちは、全員引き揚げたあとで、室内はがらんとしていた。
道具箱へ1本ずつ丁寧に筆をしまい、カゴのふたをかぶせ、風呂敷に包んで結んだ。ふと人の気配を感じたので振り返ってみたら、入口にサンが立っていた。

夜の市場は、人でごったがえしていた。どの軒先にも、提灯の明かりが灯っている。
花火の明るいオレンジの光が、市場の狭い通りを、いっそう賑やかにした。王世孫に気づく者など誰もいなかった。
サンは護衛の2人に離れてついて来るように言って、人々のうねりの中にいるソンヨンのところへと、また戻っていった。
穂先の長い花火を持ち歩いている人が大勢目につく。ソンヨンとサンのそばをすれ違うたびに、それが時の流れのように、パチパチと可憐な火花を散らした。

ソンヨンは、いつのまにかサンとはぐれたことに気づいた。さっき一緒に見物した大道芸人たちのシンバルや小太鼓の音が、カランカランと響いている。
露店の台に並んでいる潰れた飴状ものが気になって手に取ってみると、薄らと浮き上がった線が、バラの花のように見えた。
「めのうの風かんざしさ。冠がずれないようこいつで留めるんだよ。ひとつ一両だ」
おじさんが言った。これ以上は絶対に負けないという顔つきだったので、ソンヨンは黙って1両を支払い、風かんざしを受け取った。
しかし次の瞬間、誰かがソンヨンの風呂敷包みをひったくって、すごい勢いで狭い通りの方へ走り去っていった。金目の物でも入っているとでも思ったのだろう。
地面に倒れ込んだソンヨンを偶然サンが見つけ、そばへ駆け寄って助け起こした。ソンヨンに気づかれないよう、力強い手で合図を送ると、護衛の2人が、泥棒を追って人ごみの中へと姿を消した。あとはもう元通り、太鼓や鐘の賑やかな音がするばかりだった。

次の日の朝、いよいよ使節団が旅立つ日を迎えた。
布でくるんだ荷物ケースが図画署の縁台に積み上げられている。使節団に同行するメンバーや、見送りの茶母たちが、集合時刻までの時間を潰していた。いつもと違う、どこか落ち着かない雰囲気だった。
家の垣根を出てすぐ、ソンヨンは、いきなりテスに手荷物をもぎとられた。
テスが怒ったように荷物をぶら下げて、黙々と先を行きはじめたので、ソンヨンも手ぶらのまま、とぼとぼと道をついて歩いた。
「清まで会いにいくよ。それまで体に気をつけて元気でな」
急に立ち止まって、テスは泣きそうな顔をして言った。
王世孫にとうとう何も言わずに清へ行こうとしているソンヨンのことが、不びんでならないようだった。


「いざ行くとなると寂しいものだな」
ファワンは、清の使節団の一員として旅立つフギョムにねぎらいの笑みを浮かべた。
爆発事件と老論派の再調査が始まったことで、ほとぼりが冷めるまで身を潜めた方がいいと判断したためだった。機会はきっとまたいつか来る。
別れの挨拶を終え、座敷に座ったまま軽く会釈をしたフギョムに、ファワンが言った。
「そうだ。今朝、クァク尚宮に面白い話を聞いた」
「といいますと…?」
「使節団に例の茶母も加わっているのだ。その後も清にとどまり画員の修行をするとか。一体どういうわけだろう」
思わぬことを耳にして、フギョムは首を傾げた。


旗あげの兵士をのせた馬が2頭ほど先頭を行き、その後にフギョムら身分の高い者たちの馬が続いていた。
歩兵、図画署、医女など各部署からの者たちの他、商人の姿もある。
タク画員は背中に1つ、大荷物を背負い、副業でひと儲けしようと企むイ・チョン画員の方は、荷物から切り裂いた毛皮がひらりと垂れさがっていた。マフラーをしたうえ、さらに帽子ですっぽりと頭から首まで深く覆うという、万全の防寒だった。
テスの叔父もこの一行に加わっていた。人参が数十倍の値で取引されるという噂を聞いて、飛びついたのだ。

一行は、きれいに刈り揃えられた枯れ草の野原を延々と歩いて、賑やかな港町を抜け、やがて桟橋に着いた。そこから帆が一枚だけの小船に、何組かに別れて乗り込んだ。
船はまもなく出発し、滑るように海を進んだ。


サンの目の前に、梅花図を広げて見せた王様は、満足そうな笑みを浮かべた。よほど気に入っているのだろう。ソンヨンをこの部屋にもう一度呼んで、絵を描かせることを、とっさに思いついた。
「恐れながら、それは難しいようです…」
おつきの男が少し言い辛そうに、腰を深く折り曲げて申し出た。
「なぜだ?」
ふいをつかれ、王様は尋ねた。サンも不思議に思って、おつきの男の返事を待った。
「その茶母は使節団に同行し、今日清に向かいました」
サンはいったん自分の部屋に戻った。とつぜん訪ねてきたテスと少しだけ話をし、未の刻には予定通り、執務室での政務報告会に出席した。
人事権が一部の官僚に握られているという件に対して、サンの回答を待っていたグギョンは、まぶたを垂らしてずっと何か思いつめているサンに、そっと声をかけた。
サンは手から滑り落ちそうになっていた報告書をつかみなおし、ようやく返事をしたものの、それはそこにいた家臣の7名が期待した内容ではなかった。
「すまないが日を改めよう」

サンは、ぼう然とするグギョンらを部屋に残したままその場を去り、馬を飛ばして港へと向かった。
テスが届けてくれたソンヨンの手紙が、鮮明に心の中に浮かんでいた。
「いつかお約束した通り、画員になってみせます。同封した風かんざしは、取るに足らない物ではありますが、その輝きは、数千年が過ぎても変わらないといいます。数千年が過ぎ去っても、王世孫様を忘れることはありません…」

港につくと、桟橋の先まで駆けていき、目を凝らすようにして海を見回した。
遠くに重なった山々があり、水平線がまっすぐ長く広がっていた。船の姿はもうどこにもなかった。
うろこのような小さい波が、ずっと遠くの方まで伸びていた。

2010/3/1


「イサン」あらすじ 33話

サンは港から戻って、すぐに図画署のパク別提を訪ねた。ソンヨンの使節団への参加の経緯が、どうも腑に落ちなかった。
「ソンヨンにとってはまたとない機会でしょう。女に異国暮らしはこたえると思いますが、画員としてこの上ない光栄といえます」
パク別提は、迷いのない明るい口調で答えた。
それでも出発1日前になって、なぜ使節団への参加が決まったのかと理由を聞いてみると、パク別提は急にそわそわして、こうつけ加えたのだった。
「推薦の件をご存じないのでしょうか…? ソンヨンを推薦されたのは、恵嬪様のお父上であるホン・ボンハン様なのです」

その夜、とつぜんサンの部屋を訪れた恵嬪は、サンに静養へ行くことを強く勧めた。
「体の弱い嬪宮には温泉療養がよいそうです。しばし国事を忘れ、嬪宮との時間を作ってください。王様が外出を許されたのも、世継ぎの誕生の重大さをよくご存じだからです」
「わかりました…。そのとおりに致します」
サンは素直に頷き、もう席を立とうとしていた恵嬪を少しばかり引きとめた。ぜひ聞いてみようと思っていたことがある。
「図画署の茶母であるソンヨンをご存じでしょうか。お祖父様があの者を推薦し、清へ行かせたということですが…」
「ああ、その件ならもちろん知っていますよ。私が父上に頼んだのですから…。あの者が描いた屏風絵を見て、才能に感服したのです。すばらしい機会に恵まれたと本人も喜んでいました」
恵嬪は自然な笑みを浮かべた。怪しい様子はない。パク別提の説明とほぼ同じだった。
どうやらソンヨンは、清に望んでいったらしい…とサンは結論づけた。
画員になる夢を果たそうとしているのだから、もちろん応援する気持ちはある。
なのに、何かすっきりしないものが心に残った。
恵嬪が退出し、部屋に1人きりになると、胸元から風かんざしを出して、花模様の線をなでた。
「それにしてもつれない…」
サンは思わず呟いた。
御殿の屋根の上に、ぼんやりとした黄色い半月が浮かんだ静かな晩だった。

身の凍るような寒さと風、冷たい霧が、闇を白くかすめていた。
その頃、使節団の一行は、義州に向かって進んでいるところだった。フギョムらの乗った馬が、前へ進むたびに、ひずめが草と雪のぬかるみに埋まり込んだ。
たいまつの炎は、背丈まである枯れ草と雪を、異様なほど明るく照らしていた。

一行は夜になるとストップし、野原にいくつも鉛筆型の丸いテントを張った。
テント脇には1本ずつ旗をたて、リヤカーと荷物をそのそばに転がした。
厳しい夜が明けたとき、改めて使節団の規模の大きさが目についた。大勢の部署の者や商人らが、槍を持った兵士らの間をぬって、アリのように行ったり来たりしたりしている。炊き出しの前は、長い行列になった。
ソンヨンら図画署の仲間とテスのおじさんは、テントの裏に小さくまとまって、支給された握り飯と汁の朝食を済ませた。枯れ草の上におろした荷物が、椅子代わりだった。

フギョムの天幕には、調度品や書物などが持ち込まれ、備えつけのベッドもあった。
天幕の壁に描かれた鹿や虎や龍には、渋い色合いのオレンジ、緑、青などが使われ、ここだけは外の騒ぎが嘘のように静かだった。
フギョムは、書き終えた手紙を封にしまい、助手に差し出した。
「燕京のウィ様に届けよ…」
ウィと言えば、香妃の兄で、乾隆帝の信頼が厚い人物だった。フギョムの留学時代の師匠でもある。
使節団に参加したのは、ただ身を潜めるためだけではない。皇室の人々と親交を深めながら、次の一手を考えるつもりだった。
ソンヨンが三角に折り畳んだ小さな入口から天幕の中へ姿を見せると、フギョムは、まるで懐かしい友人を迎えたように温かく微笑んだ。
ソンヨンは言われるがままに席についた。勧められた朝食を断ったら、フギョムの顔が少し残念そうになった。
「面白い話を聞いた。画員の修行をするとか。王世孫様からの推薦かな?」
思ってもみない質問に、ソンヨンはとんでもないという口調で答えた。
「王世孫様はご存じないことです」
「そうか…。私も清へ留学した経験がある。困ったことがあれば私を訪ねよ。今日はこの辺にしてまた会おう」
フギョムが今のところ知りたかったのは、とりあえずそれだけだった。
ソンヨンは何の疑いもなく、澄んだ笑顔を見せてテントを出ていった。
テーブルに用意されていた2人分のお椀と、おかずの小皿は手つかずのまま残った。

使節団の一行は、無事に清の都に着いた。
旅館で同室になった先輩茶母のチョビにせがまれて、ソンヨンは荷物を片付けるのも早々に、街へ出ていった。
古い石畳の商店街は、人込みであふれかえっていた。
店先に吊り下げられているのは、絹織物やビビットな色合いの傘、虎の毛皮などだった。貿易が盛んなのか、頭にターバンを巻きつけた外国人とも、すれ違いになった。
そりあげた頭の後ろから三つ編みを1本垂らした男たちの周りには、特に野次馬が集まっている。男が口から吹きかけた炎が、流れるように棒の先まで燃えあがっていった。

そのあとソンヨンは紹介されていた技芸院を1人で訪れた。
皇室で使う工芸品を扱う所で、150人の画工がいるらしい。
通された部屋は、最初、通訳の男と2人きりだった。ほどなく頭の上に、逆さ台形の帽子をのせた男が現れ、そで口どうしを前にぴったりくっ付けてお辞儀をした。
通訳の男とその中国人は、しばらく何かを話をしている様子だったけど、そのうち中国人の方が、ソンヨンを足元から頭のてっぺんまでじろりと見あげて、急に不機嫌な顔になった。

いよいよ遠出の日が近づき、サンは王様の部屋に挨拶にあがった。
「お体が万全でない時に、宮殿を留守にし申し訳ありません…」
「気にするな。ひと月でもふた月でも休むがいい。私はそう簡単には死なぬ。王座を譲るまではそなたを助けてやる。重臣らを追放してもかまわない。私はそなたの決定に従うつもりだ」
王様は穏やかに言った。

王世孫と大臣一行が華やかな行列を作って、予定通り出発したあと、宮殿は急にガランとした雰囲気になった。
王様は、おつきの男が差し出したお椀の水を、一気に飲み干し、指で口の周りをぬぐった。
「何か他に持ってくるものはありますか?」
空になった椀をお盆に受け取り、おつきの男は聞いた。王様の表情は、目を開けていられないほど疲れているように見えた。
「温かいものがいい。この前、中殿が持って来た茶があるだろう。あれを入れてくれ…」
王様がふと思い出したように言った。

騒がしい女の声が近づくにつれ、中殿と庭を歩いていた年配の尚宮は、この若い侍女にすっかりあきれ果てた。
目の前まで来たその女は、息せき切って声をあげた。
「王様がぁ…! 王様がぁ…!」
これはただ事ではないと思い、中殿が慌てて御殿の前庭へ回ってみたら、王様が中宮殿の扉が開くのを、じっと待っている。そしてその後ろには、王様のお供をせざるを得なかったおつきの男が、あきらかに不安の色を顔に浮かべて、かしこまったように小さく背をかがめているのだった。
中殿に気づいた王様は、優しい笑みを浮かべた。それはかつて中殿を信頼していたときに見せていたあの笑み、そのものだった。
「恐れながら、てっきり二度と会ってはいただけないものと…」
王様を部屋に招き入れ、中殿は深々と頭を下げた。
「どうして? 私がそなたに会わない理由でも? この前もこのお茶を飲んだら目の疲れが取れた。老いた私が生き長らえているのはそなたのおかげだ」
王様は美味しそうに菊花茶をすすりながら答えた。
これはどういうことだろう…?! 言葉通り、素直に喜んでいいのだろうか!
中殿は緊張した。でも考えれば考えるほど、いっそう不安になり、じっと息をしているのが辛いくらいだった。
「ところでキムギジュだが…。最近姿を見ないが旅にでも出たのかな? 相談事があるから大殿に寄るよう伝えよ」
王様はそう言うと、一口かじった饅頭の黄色いあんこを、物珍しそうにまじまじと見つめた。

2010/3/8更新

「イサン」あらすじ 34話

屋敷前の庭を通り抜けようとしていた恵嬪の父ボンハンは、ソンヨンを見かけて、自分の部屋へと呼び出した。あれから10日も経つのに、入学についての連絡がまだないことに、ソンヨンがどれだけ気をもんでいるのか、知らないはずもなかった。
しかし下唇をねじ曲げてソンヨンを見るボンハンの目つきは、よからぬ噂を聞いていたこともあって、まるで値踏みでもするようだった。
「入学はあきらめろ。清でも女の絵描きは、まれらしいのだ。それでもそなたには清に残ってもらう。帰れない理由は、察しがつくはずだ」
ボンハンは眉間にしわを寄せて言った。もう留学が単なる名目に過ぎなかったことを、否定する気もないらしい。 とにかくソンヨンを帰国させないこと、それが最重要だった。
ソンヨンは、かなりオロオロした様子で、いくつか質問をしようと食い下がった。
するとボンハンは、控えの役人に向かって、ソンヨンを部屋から追い出すよう、手を小さく払うような仕草をしてみせたのだ。

ソンヨンは嘆願書を持って、この前、面接をしてくれた中国人に会おうと、画員教育機関の中門で待ち伏せた。
わざわざ清に来て、10日間を棒に振ったあと、画員になる夢を果たすには、自分で何とかするしかないことが、よくわかったのだ。
しかし面接官も、ボンハンとそっくり同じだった。恐らく中国語でこの女を追い出せとでもまくしたてたのだろう…そばにいた役人がとっさにソンヨンの腕をつかんだ。
「その手を放しなさい」
落ち着いた中国語だった。
声の主を確かめようとした面接官らは、自分たちより頭一つ分は背の高いフギョムをまじまじと見上げることになった。
「これはこれは! ウィ様のご紹介で参られたフギョム様ですね? お待ちしておりましたよ」
面接官の隣に立っていた男が、急に気さくな笑みを浮かべた。金の刺繍入りの丸帽子と、豪華な花模様の衣を身につけた裕福そうな男だった。恐らく画員の監督か何かなのだろう。 灰色の口ヒゲの先が、 ピンと跳ね上がっていた。

監督はフギョムとソンヨンを建物の中へと案内した。
決して小さい部屋ではないのに、壁に大筆が何本もつり下げられ、動物の模様を描いた工芸品の壷の数々が飾られた部屋は、手狭に見えた。
フギョムと監督は丸テーブルに腰かけ、ソンヨンは2人のそばに立った。
事は簡単に運んだ。 こうも変わるのかと思うほどにスムーズだった。手紙の方もちゃんと読んで貰えたらしい。
監督官は妻が朝鮮人らしく、流暢な朝鮮語さえ話した。 喋ってみると、竹を割ったような温かい人物だということもわかった。
「確かに清にも女性画員がいますが、その者たちは類い稀なる才能の持ち主です。ウィ様のお知り合いとあれば入学は許可しますが、口利きで入学して物になるほどこの世界は甘くありません。恐らく苦労するでしょう」
「恐れながら、そんな入学は私も望みません。試験の機会さえ与えられれば、実力で入学します」
ソンヨンの大胆な発言に、監督官は驚いて目を丸くした。しかし同時にこの提案に、とても心をくすぐられたようでもあった。

作業場に移ったソンヨンのテーブルの周りには、野次馬がたくさん集まった。
紙袋型の帽子をかぶった男子や、三つ編を頭のてっぺんでリボンのように結い、オデコを出した少女など、みんな若い修行生だった。
フギョムと監督は、テーブルのすぐそばで、ソンヨンの思いをのせた筆が、白い紙におろされるのを見つめた。
まず紙の左端から大胆に枝をはわせ、筆の先で細かい葉を茂らせた。左上には背後の山をさえぎる木々を空高くまで伸ばし、中央には断がい絶壁の大きな塔の岩山を2つ、右へ流れるほどに塔を小さくして、紙に余白部分を残した。
不思議なことに、ソンヨンはこの同じ構図のものを4枚描きあげた。
出来上がった4枚の絵は、テーブルにきれいに重ねて置かれた。
一番上の絵を見つめながら、監督が思わず首をかしげた。
「同じ山のようだが…」
そこには、枝に雪がこんもりと積もった冬の山が描かれていた。続いて1枚目の絵を脇にずらし2枚目の絵を鑑賞した。今度は岩肌の雪がすべて消え、枝の先にちょびちょびと伸びた新芽の淡いグリーンが目立った。3枚目の山には緑の濃い葉が茂り、4枚目は、赤や黄色で染めあげたような味わい深い山となった。
「これは季節ごとに違う名で呼ばれる、朝鮮の金剛山でございます…」
この絵を書いた理由を聞かれて、ソンヨンは、自信を持って答えた。
監督は満足して深く頷き、そして夢中になって喋った。
「それなら私も聞いたことがある。北宗のソトウバもこの山にほれ込み、高麗に生まれたかったと言い残したたそうだ。彼が絶賛したのもうなずける。季節ごとに趣の異なる絶景が見られるとは。私も朝鮮に行ってみたくなった。才能豊かな女がいる国へな…!」

宿泊所の中門に、帰りの使節団の一行がぼちぼち集まりだすにつれ、広場が慌ただしくなった。
「お前を置いて行くと思うと、後ろ髪を引かれる気分だよ。つらくてもぐっと我慢するんだぞ」
テスのおじさんが、両手でソンヨンの手をぎゅっと握りしめて言った。清に到着したときと同じように、背中に大荷物を抱え、首にマフラーを巻いている。おじさんは、とうとう涙をこらえきれなくなって、声をあげて泣きだした。
出発の声がかかり、一行が門の外へと出ていった。おじさんやタク画員、チョン画員も出発した。ソンヨンから預かった土産物の包みを手にしたチョビが、最後に門のところから、小さくソンヨンに手を振ってみせた。
使節団は3ヶ月の滞在を終えて、元来た道を通り、朝鮮へと向かった。
大草原の道の両端に、 延々と残り雪が続いた。空は明るく晴れ、日射しが眩しいくらいだった。

皆が旅立ったあと、ソンヨンは宿泊先のバルコニーから1人で裏山を眺めた。
霧がたちこめて、山はぼんやりと霞んでいた。近くにあり過ぎ、山向こうの様子は全くわからなかった。
軒先から雪解け水が、しとしと滴り落ちてくると、ソンヨンの目からも涙がこぼれ落ちた。

ソンヨンは順調に絵の勉強に打ち込むことができた。
監督もソンヨンのテーブルの前でふと足を止めては、親切丁寧に絵の書き方を教えてくれる。
仕上がった絵を乾かそうと鴨居に紙を吊り下げたり、ロール状の用紙を持ち運んだりする学生たちの中で、詰めえりのチャイナスモックを着たソンヨンは、ごく自然に見えた。メインの三つ編を頭の上で舟盛りにまとめて、長い髪と一緒に残りの細い三つ編をおろした異国のスタイルが、ソンヨンに新しい輝きをくれたようだった。

中殿は、こっそり尚宮を呼び出し、町医者を宮殿に連れてくるように言った。 その際、誰の目にもつかぬようくれぐれも用心するよう念を押した。
その夜、中殿の部屋にあがった町医者は言った。
「恐れながら王様の症状を聞いた限りでは、その可能性が高いということです」
診断結果は簡単についた。認知症である。
しかし周りにも、もちろん王様自身にも伏せておかなければならないことだった。
ただこの診断結果が確かであることを、どうしても知りたかった。それによって、事が大きく変わる予感がした。
「葛根をお召しになると診断がつくでしょう。認知症患者に与えると症状が悪化すると言われていますので。ご心配はいりません。症状は効能が切れれば回復します…」
緊張とも脅えとも取れるぎこちない目をして、町医者がささやいた。

町医者が帰ったあと、中殿はしばらく考え込んだ。
王様に葛根を飲ませるなら、 王世孫が静養に行っている今がチャンスだった。
実行者は王様のお食事を用意するスラッカンの女官で、信頼できる人間がいいだろう…
決心がつき、障子の外へ声をかけると、軒先で待機していた尚宮が小走りに部屋に入って来た。

王様は箸の先で麺を3、4本持ちあげて、スルスルと口に入れた。
見なれない麺だった。 ソバのような灰色をしている。
「葛根で作った麺でございます…」
美人尚宮が、かしこまり、ゆったりとした口調で説明した。

その夜更け、床に就いて休んでいた王様の耳に、ざわざわとした物音が聞こえはじめた。
刀、銃、皿の割れる音、そして逃げまどう人々の悲鳴だった。
見覚えのある風景が広がった。ひな壇にいる王様は、中殿らと楽しげに、祭典の催し物を鑑賞している。
次の瞬間、広場で演習を披露していた鉄砲隊の銃口が、突然ひな壇に向けられた。
火の粉を散らした銃口からドスンと煙があがり、王様のすぐ目の前にいた世話係や護衛たちが、のけぞるように次々と倒れていく。
広場は、あっという間に王様の兵と敵の兵が激しく刀を向けあう戦場に変わった。
おつきの男が、王様の背中を押して、ひな壇から裏庭へとエスコートした。
御殿の外廊下を抜け、高い城壁道を走り出した王様の一行は、反対から城壁道を駆けてきた敵の集団と鉢合わせになった。
集団は王様の前でストップすると、刀を高く構えた。その集団の奥から進み出てきた王世子サドに、王様は叫んだ。
「王世子よ。何のまねだ!」
しかし王世子サドは何も言わない。ただ深い恨みのこもった目をして、王様をいつまでも睨んでいるだけだった。

王様は手に汗にぎって目を覚ました。
うなされているのを聞いたのだろう…。おつきの男が障子ドアを開けて、足早に寝室へ入ってきた。
「なぜ起こさない。重臣会議の時間ではないか!」
王様にとつぜん声を荒げられ、おつきの男は戸惑ったように言った。
「王様、今はまだ夜中の子の刻ですが…」
王様は、何か思い出そうとするように眉間にしわを寄せて、ため息をついた。ひどく疲れている様子だった。
「あぁ…それにしても息が詰まる。風にあたろう。すぐ会議に行く支度をするのだ」
王様は額に汗を光らせ、ゆっくりと寝床から起き上がった。

静養先から、サンの一行が宮中に戻って来た。
世継ぎの誕生を期待して、嬉しそうにねぎらいの言葉をかける恵嬪を気遣い、実のところ、夫が静養先でも政務に没頭していたということを、嬪宮は言わないでおいた。
特にソクチュと王世孫が、2人きりで話を交わしていたというのは、他の大臣たちも知るところだった。
冬の使節団が帰国したのは、それから少しあとのことだ。
フギョムは、母ファワンの前で、両手を床につけ深々とお辞儀をし、また立ち上がって軽く会釈してから、ようやく落ち着いて腰をおろした。
久しぶりの再会で、晴れやかな笑顔を見せるフギョムに、ファワンは淡々と言った。
「まだ話を聞いていないようだな…。状況が一変したのだ。たぶんソクチュが王世孫側に寝返ったのだろう。それなら合点がいく」

2010/3/19


「イサン」あらすじ 35話

ホン・イナンをはじめとする計5名の大臣が、ソクチュの屋敷に押しかけていた。
朝の政務会で、ソクチュが突然、今まで老論派の独占状態だった重要な地位に南人派を採用し、平等な人事をめざそうと言ったからだった。
ソクチュが王世孫側に寝返ったと思うのも無理はない。
しかしソクチュは渋い表情で、珍しく声を荒げた。
「老論派が無惨に崩れ去ってもいいのですか…? 生き残るのが先決でしょう?!」
ホン・グギョンの調査がこのまま進めば、老論派が一掃されるのは、もう時間の問題だ。事実、重臣と専売商人の癒着は昔からの慣例になっていて、ほとんどの者が金品を受け取っているのだ。
確かに自分たちの首を絞めるこの案は、堪えがたい屈辱ではある…
しかしこれはあくまで取引なのだ。賢い王世孫はそれにちゃんと気付き、応えもしてくれるだろう。
老論派の生き残りのために、 他にどんないい方法があるというのだろうか…?!
ソクチュはそう強く信じて疑わなかった。
だが悲しいことに、この厳しい現実をきちんと直視できているのは、どうも自分一人だけのようだった。

その夜、サンは部屋にグギョン、ジェゴン、ナムを集めて、新たな指示を出した。
「捜査はもうしなくてよい。南人派の登用をジェゴン、商業の自由化推進をグギョンに任せる」
いつまでも後ろを見ていても仕方がなかった。老論派の反発は、吏曹判書ソクチュが抑えてくれる。いよいよ温めてきた政策を進める段階に入ったのだ。
「私はどうもふに落ちない…」
サンの部屋を退出して、執務室に戻ってきたナム尚洗が、ぽつりと漏らした。任務をまっとうすることに気を取られていたグギョンは、少し意外だという顔をして、ナムを見返した。
結局、王世孫の命を狙う敵を、1人も罰せずに終わったのだ。 
ファワン…フギョム…そして中殿さえも…
改革を進めるために混乱を避けたとはいえ、怪しい火種が平然とそのまま朝廷に残っていることが、どうもナムには不安なようだった。

王様の様子がおかしいと、大殿の内官から新しい連絡が入り、中殿は女官を連れずに、尚宮と2人だけで大殿へ向かった。ひと目に触れては困る。
何の問題もなく、すぐに部屋へ入ってよいとの許可が出たことで、ホッと息をついた。ちょうど今は、症状が現れている最中らしい。

王様がニヤニヤと嬉しそうに微笑んだ。
いとも簡単に中殿がするりと結び目をほどき、卓上机に巻き物を広げて見せたからだ。
さっきまで腹の虫が煮え繰り返っていたのが嘘のように、これですっきりとした。
なぜ自分には、結び目が上手く解けなかったのだろう…。引っ張れば引っ張るほど、ますますコブは硬くなっていった。こんな些細なことで腹が立つのは、疲れているせいなのではないか。あぁ…中殿が来てくれて本当に良かった。
王様はしみじみ思った。
「王様、いっそこの際、兄を呼び寄せてはいかがでしょう? 王様は兄の豪快な性格を気に入っていらしたではありませんか。裏表がない人なので話していると楽しいと」
中殿が、それとなく王様に話を持ち出した。
彼女の心安らぐような笑みにつられて、王様が嬉しそうに言った。
「そうだったな。あのような豪傑は他にはおらぬ…」

こんな夜に王様が通達を出すというので、都承旨が内官に連れられて部屋にあがってみると、驚いたことに幽閉生活を送っているはずの中殿が、王様のそばに座っていた。
「キム・ギジュを、都に呼び寄せなさい」
王様は言った。
都承旨がうろたえたのも無理はない。王世孫の暗殺未遂事件のまだ草の根も乾かないうちに、流罪となったキム・ギジュを、呼び寄せるとは何かの間違いではないのか…!?
そうこうしている間にも、内官と尚宮が紙と筆をのせた台を、都承旨の前に運び終え、そろりそろりと後ずさりしながら姿を消した。部屋には王様と中殿、都承旨の3人になった。
今、一体ここで何が起きようとしているのか…。中殿がじろりとこっちを盗み見た目の中に、その答えが隠されているのだと都承旨には思えた。
「都承旨、何をしている。王様の仰せだ」
中殿に厳しい口調で急かされて、都承旨は慌てて筆を握った。
王様が通達の文句を言いはじめようと、まんざらでもない顔で都承旨の手元に視線を落とした。

無事とは思うが心配だ…。ソンヨンが不自由をしていないか調べて欲しいとサンに頼まれて、テスは今、清の地にやって来ていた。
商店街の人のうねりがずっと奥まで続いている。走り出したテスのかかとが、石畳のタイルの浮いた部分を勢いよく踏んで、泥水を跳ね上げた。
アーケードの終点から裏通りへ入る道沿いに、小さい窓が並んだ長い石壁があった。
案内役の毛皮帽を被った男が、ここだと小さく頷いて見せたので、テスは飛び越えるようにして、壁門をくぐっていった。
工芸部屋に通されると、いよいよソンヨンに会えると思い、ワクワクした。
ところがソンヨンの代わりに現われたのは、ナマズひげを生やした面接官だった。随分といばり腐って背中をそりかえらせていた。
以前ソンヨンの通訳も務めたことのある通訳官は、この面接官に事情を聞き出し、今にも泣き出しそうな顔でテスに告げた。
「あの者はここを去ったようです! 新しい方が赴任するなり追い出したとか…。実は最近、政変がありまして前任の監督官が投獄されたのです」

ソンヨンの情報については、10日前に宿屋を出ていったらしいというのが、わかっただけだった。
途方に暮れ、帰国したテスから噂が伝わり、ソンヨンを心配する声が次々にあがった。
「なぜすぐに知らせないのですかっ! 私があれほどきちんと面倒を見ろと言ったのに!」
ソンヨンを清に行かせた張本人である恵嬪も、行方不明と聞いては気が気ではなかった。
「申し訳ありません。茶母ごときのことと簡単に考えておりました。清に残った者から数日前に届いた知らせでは、しばらく燕京にいたようですが…」
サンの母方の祖父であるボンハンは、やり場のない様子で、目をしょぼしょぼとさせた。
図画署では、先に帰国したタク画員をはじめ、茶母ら20人ばかりが心配して庭に集まった。もしかしたら朝鮮に向かっているのではないかと、チョビがふと口にしたけど、タク画員はそれをきっぱりと否定した。
というのも燕京から船で帰国してみて、あの極寒の中、とても女が一人で歩ける距離じゃないとわかったからだ。

サンの命令を受けて、義州差使が燕京一帯の捜査にあたった。
捕盗庁のような機関で人捜しの専門家がいるという清の錦衣衛にも、協力を依頼した。
サンは、テスが清から持ち帰ってきたソンヨンの風呂敷包を卓上机に広げた。
宿賃の代わりにと、ソンヨンが置いていった物らしい。きっと一文も金を持っていなかったのだろう…。かごの中には、色あせた下敷きとすずり、水ボールが2つと毛の乾いた筆が数本入っているだけだった。

夜更けになって、とつぜん嬪宮がサンの部屋を訪れ、涙で目を赤くして、さめざめと夫に告白した。見ているのが気の毒になるほど、後悔した顔だった。
「ソンヨンは進んで清に行ったのではありません。二度と戻れないと知りつつ、追われるように行ったのです。恵嬪様があんなことをされたのは、私を思ってのことです。ソンヨンを遠ざけるのが、王世孫様と私のためと思われたのです…」

質素なチョゴリとチマを身につけて、とぼとぼとソンヨンは歩いていた。手持ちの荷物は風呂敷包1つだった。
ソンヨンが下ってきた道には、薄茶色の荒れ山が広がっていた。これから進む先にも同じ景色があった。白い空と地面に挟まれて、ソンヨンは背丈ほどもある枯れ草の細い道の中を、ただひたすら歩いた。歩いても歩いても延々と続く荒れ山が、ソンヨンの小さな体を飲み込んでいった。
ようやく町の通りにたどりついたとき、意識はもうろうとしていた。それでもコクリコクリと首をうなだれ、足を引きずるようにして歩いた。
地面が大きく揺らいだように見えたのが最後だった。ソンヨンは糸が切れた人形のように、ぱったりと倒れた。
家々の軒先が並び、普段ならそれなりに人通りのある場所のはずだった。薄っすら雪の降り積もった地面のあちこちに、黒く透けた足跡がついていた。
しかし再び降り始めた雪が、その足跡さえも、消そうとしていた。ソンヨンの背中にゆっくりと雪が舞い落ちる他は、時間が止まったように今は静かだった。
地面の雪が横たわるソンヨンの体と頬を冷やした。足元に転がった風呂敷包から、いつかサンに貰った筆先がのぞいていた。

2010/3/27


「イサン」あらすじ 36話

ソンヨンが瀕死の状態で見つかったとの知らせを聞いて、サンは町の診療小屋へ馬を飛ばした。
行ってみると、テスと町医者が小屋の外でサンを待っていた。
テスと医者が遠慮したので、サンは一人で小屋へ入った。
ソンヨンは静かに寝かされていた。せんべい布団1枚を敷くのがやっとの狭さで、すぐ足元には、薬ダンスが置いてあった。
薬草袋が鴨居から何個もぶら下がり、床の間の棚の木箱には、薬草が仕分けられている。
「ソンヨン…ソンヨン…」
サンのすがるような声は、ソンヨンには届いていないようだった。ソンヨンはすでに虫の息だった。
サンは実感を確かめるように、オロオロとソンヨンの手を両手で握りしめた。
ソンヨンの額や頬には転んだような痕があった。唇は腫れたように荒れ、目のふちは、ほんのりと赤黒かった。汗だくで、髪の毛が頬に張り付いている。それでもあの懐かしいソンヨンには違いなかった。
気が付いたら夢中でソンヨンを寝床から抱き起こしていた。大切な物を放すまいと、頬が潰れそうなくらい強く抱きしめた。それでもソンヨンの小さな体は、ただぐったりとしていた。

宮廷の医官と医女を連れて、ナムが町医者の診療所へ駆け付けた。
診療にあたった医官は、ソンヨンの脈の数をじっと数えて、サンに告げた。
「町医者の言うとおりです。脈が取れないほど気力が衰えています…」
医官は王世孫と目を合わせるのを避けた。それほど回復は難しいようだった。
医官が去り、医女が小屋の前で薬材を煎じはじめると、サンは眠ったままのソンヨンと、ずっと2人きりになった。

外が暗くなりかけた頃、サンが、いったん政務状況を聞くために、小屋の外に出て来た。
ナム尚洗は、会議にチェゴンが代わりに出席したこと、ホン・グギョンが、人事の件を検討中だということを手短に伝えたあと、ちょっと硬い表情で聞いた。
「明日の政務報告は、いかがされますか…?」
これ以上、王世孫が仕事に穴をあけるのは、まずいと思ったのだろう…
しかしサンはきっぱりと言った。
「まだ宮殿には戻れない。ホン・グギョンに戸曹の者と協議するよう命じよ」
ナムは正直、驚きながらも、諦めたように深いため息を漏らした。
王世孫が泊まり込みで看病する気でいるのを、やめて欲しいと説得するのは、無駄だとわかっていたからだ。
宮殿に戻るナムのために、テスが気をきかせて馬の縄を軒先の柱から外してくれた。テスもこれから出勤するところだと言う。
そのテスの表情が、ナムの目に切なく映ったのは、子供の頃からソンヨン一筋だったのを、知っていたせいもある。テスはずっと遠慮して、小屋の外へいた。
「王世孫様がそばにいたら、あいつきっと目を開けますよ。私には分かります。王世孫様に会いたい一心で、やっと帰ってきたのです。だからそろそろ王世孫様にも、あいつの気持ちに気付いて欲しいんです。何も変わらないだろうけど、それでも分かってやって欲しいんですよ」
テスが言った。

サンはソンヨンの額に替えのおしぼりをのせて、首筋の汗を拭き取ったあと、そっと耳をそばだてた。ソンヨンの唇が微かに揺れている。何か喋っているように見えたものの、息が漏れているだけだと気づいた。他に聞こえるのは、たらいの水音くらいだった。
ソンヨンは夢を見ていた。
夢というより思い出したくもない厳しい現実の記憶だった。やっと辿りついた清の検問所では、うんざりするほどの行列が待っていた。それを通過したら、今度は超えなければならない荒れ地がいくつも広がっていた。
物騒な裏通りにうずくまって、夜を明かした。酔っぱらいが目の前を通り過ぎる間、息を殺して身を縮めた。
あんまり心細くなって、ソンヨンはそのとき思わず呟いたのだ。
「王世孫様…」
おしぼりを水に浸していたサンは、ハッと振りかえった。 今度はちゃんとソンヨンの声が聞こえた。指先もぴくりと動いている。
「誰かおらぬか。誰か来てくれ。誰か!」
ぼんやりと開いたソンヨンの目に、小屋の外に向かって怒鳴りつけるサンの背中が、一番に映った。
「王世孫様…。どうしてここにおられるのですか…」
ソンヨンが、枯れたような声でささやいた。
「言わなければ分からないのか。そなたの姿を見て、どれだけ心配したと思っている。どこまで愚かなのだ。分からないか…? そなたが去ったあと、残された私は1日たりとも心休まる日はなかったのだ…」
サンが泣きながら答えた。

「王世孫様はだいぶ前に出かけられ、お戻りになっていません。医官を呼ばれたそうですが、内医院でも理由がわからないとか。どうやらただ事ではなさそうです…」
尚宮の報告を聞き、サンの母、恵嬪は肩で大きく息をついた。
サンは一体どこで何をしているのか…。国一番の医術を持った医官を呼び寄せたというのだ。よほどのことがあったに違いない。 嫌な予感がした。

意識が戻ったソンヨンを診察した医官は、気つけ薬と附子理中湯で体力を補うようサンに言い残して、小屋を去っていった。
日がだいぶ高くなった頃、サンは東宮殿に戻ってきた。御殿の前に並んだ内官と尚宮が、あたふたした顔で、サンの方へ寄ってきた。
「お部屋で恵嬪様がお待ちです…」
部屋に入ると、身動き一つせず、主人のいない空席をじっと見つめている恵嬪の背中がサンの目に映った。
サンが座席につくのをじりじりと待ったあと、恵嬪はトゲのある口調で聞いた。
「どこに行っていたか聞いてもいいですか?」
「ソンヨンを、見つけました…母上…」
サンは何か考え事でもするように、ゆっくりと声を吐き出した。 留学の経緯を知って、どこか母親を恨んでいるような顔つきでもあった。
しかし恵嬪は引き下がらなかった。
「あの者に罪がないという考えは間違いですよ。その証拠に、今日もあなたは国事を放り出し、あの者のそばにいました。正直に話して下さい。あの者に関して母が抱く不安は、本当に誤解にすぎないのですか…?」
恵嬪に疑問を投げかけられ、サンはふと、何かに目覚めたような目になった。
そして胸に浮かんだその正直な気持ちを告白した。
「誤解ではありません、母上。これまでは気付いていませんでしたが、どうやら母上がお考えの通り、私はあの者がいとしいようです…」

嬪宮が、東宮殿の前室でぴたりと足を止めた。
夫が恵嬪に淡々と話す声が、偶然、障子越しに耳に入った。息が止まりそうなほど動揺した嬪宮は、おつきの女を連れて、こっそりと自分の部屋へ引き返した。
夫が嬪宮の部屋を訪ねてきたのは、その晩のことだった。
しくしくと泣きたい気持ちを隠して、できるだけの笑顔で夫を迎えた。
サンは嬪宮が空けてくれたピンクの座椅子に、あぐらをかいて座り込み、用件を言った。
「嬪宮…。ソンヨンの件は嬪宮も気がかりだったろう。自責の念をそなたに抱かせたのは私の責任だ。申し訳なく思っている…」
嬪宮の顔色が曇った。夫の口から出たのは、謝罪の言葉だった。将来、王になろうという夫を支えるどころか、こうして余計な心配をかけている…
夫の心を和ませたり、笑わせたりできない自分の無力さが、惨めで、悲しかった。

ソクチュが大臣たち同士で、会議を開いていたとき、ホン・イナンが、息もつけないほど慌てた様子で駆けこんできた。
「ここにおられたか! どういうことですっ。なぜキム・ギジュが赦免されたのです?」
ホン・イナンは、まるで鶏を後ろから急かすみたいに、手の平をパチパチとソクチュに向けて鳴らした。
「左承旨が赦免されただと…?」
ソクチュは、ホン・イナンに比べたら、ずっと落ちついた声で言った。しかし気分はふさぎ込んでいた。もしホン・イナンの言うことが本当だとしたら…。
せっかく道筋が見えかけたと思ったところなのに、また風向きが変わるのだろうか…?

王様は一人、寝床で考え込んでいた。
今日は、さっぱりわからないことだらけだった。
なぜキム・ギジュが赦免されたのか…? 都承旨の話では、通達を書かせたのは、他でもない自分だという。内宮もそばでそれを見ていたと証言した。
通達には王の印もあった。偽造したものでないことは確かだ。
王世孫も、かなり戸惑ったのだろう。キム・ギジュを赦免にした理由について、大殿まで理由を聞きにきた。
しかし王様は何も答えることができなかった。本当に身に覚えがなかったからだ。
「尚膳はいるか…?」
王様は、障子の外に控えているおつきの男に、御医を呼ぶように声をかけた。
てっきり年のせいだと思っていた。だが自分のしたことも忘れてしまうなんて、確かに度が過ぎるではないか…!
王様の脈をとり、診察を終えた御医は、急にオロオロとうつむいた。
「申してみよ。何の病だ。なぜ何も言わぬ…」
王様は御医をじっと見た。

2010/4/9


「イサン」あらすじ 37話

「ウーフ…」
王様は滞っていた息をのどの奥から一気に吐き出して、背もたれにぐったり頭をもたれた。
自分の病名を知って、ひどく疲れが出たようだった。
これから先、周りにかける迷惑を考えると、気分が重かった。
またいつキムギジュを赦免するようなことを、繰り返すかもわからない。
翌日、王様は気持ちを切り替えて、もう一度、御医を呼んだ。
病気の進行を遅らせることができるなら、何でも試してみるつもりだった。
御医は今にも消え入りそうな声で、悲しげに言った。
「恐れながら、最近の記憶やささいな記憶から失われていき、病状がさらに進むと人も見分けられなくなるでしょう。さじや筆を動かすこともできなくなります…」

御医にいくつかのアドバイスを貰い、王様は読書堂にこっそり史官を呼び出した。
朝起きたときから寝るまで、ひとつも漏らさずに、言動を記録しておくよう命じたのだ。
後でチェックしてみれば、物忘れの度合いがわかる。
「ひと月だ。その間、私から一瞬も目を離してはならぬ…」
王様は史官に念を押した。
御医に処方させ、強い薬も飲みはじめた。体にかなり負担はかかるけど、なんとか耐えられそうではあった。

心に引っかかっているのは、王世孫の問題だった。
王様に呼ばれて部屋にあがったサンは、 思った通り眠れていないらしく、顔色が悪かった。 突然キムギジュが息を吹き返して、宮中に舞い戻って来たのを目の当たりにしたのだから、驚くのは当然だった。
キムギジュを許した理由について、サンがとても知りたがっているのを、王様は痛いほどわかっていた。
しかし話せる時が来るまで待てとしか、今はどうしても言えなかった。
「長くはかからぬ…。もう少し様子を見て、何も変わらなければ、そなたにすべてを話そう」
王様はきっぱりとサンに約束した。

まもなく読書堂に、王様がリクエストした京畿の地図が届けられた。
疲れた目を眩しそうにこじ開け、使いの者の顔を見た王様は、急に明るい笑みを浮かべた。
「そなたは梅花図を描いた茶母ではないか。また会いたいと思っていたがよく来てくれた」
ソンヨンは、ちょうど今日から仕事に復帰したばかりだった。こうして元気にまた図画署で働けることが、何よりも嬉しくて、自然と笑顔になった。
「そなたは残っておれ」
王様がソンヨンの方だけを見て言ったので、一緒に来ていたタク画員は、内心がっかりして読書堂を出ていった。
ソンヨンがテーブルに広げた地図には、山や川、村が描かれていた。
王様は、まずは北の右側の村から、地図を見ないで順繰りに地名を読みあげた。 ソンヨンはその地名が合っているか、地図を見て確認する係だった。
吐月、亭坪、内大池、中通、玄岩、ソンゴル…
北を全て言い終えると、今度は次の地図を広げさせ、南の左側から、険川、間村、古盆峠、岸下洞、遜基、庄義、瑞峯、新鳳、洪川と、地名を唱えていった。
そのどれもがスムーズに正解したので、王様は無邪気に喜んだ。とても満足そうでもあった。
ただソンヨンには、何のために王様がこんなことをしているのか、さっぱりわからなかった。

ホンイナンは、ソクチュの屋敷に押し掛けていた。今後のことを相談しに来たのだった。
中殿が急に王様に許されるなんて、思いもよらなかった。自分たちの生き残りのために、中殿とキムギジュを見捨てたことは、間違いだったのだ。
しかし中殿の恨みは、どうも野望の強いファワンとフギョムの2人に、主に向けられているようだった。ホンイナンでなくても、それくらいのことは皆、気づいていた。
「ファワン様が会合を開くそうですね…。皆戸惑っていますよ。ソクチュ殿は出席するおつもりで?」
心配性のホンイナンは、ソクチュのデスクに、すり寄るようにして聞いた。
「もちろんだ…。1人残らず出席せよと、あの方が仰せだ」
「え? あ、あの方ですと?」
ホンイナンは、すっとんきょうな声をあげた。 ソクチュは渋い顔で黙りこんだままでいる。しかしうつむいた目線の先には、デスクの端に置かれた白い封筒があった。
どうやら中殿から届いた手紙のようだ…とホンイナンは思った。ということは、いよいよ中殿が老論派の会合に復帰するのだろう。
ホンイナンは今晩、会合に行くことにした。他の大臣たちも、きっと集まって来るはずだ。
ファワンの会合だからではなく、そこに中殿が来るから行くのだ。今や自らファワンに近寄ろうとする者など誰もいなかった。彼らの多くがキムギジュの屋敷の方へ出入りした。

「辰の刻には会議があった。貿易仲介所の要請で市を月6回から12回に増やした。未の刻には礼曹の参議と…。今日の出来事のうち忘れていることはないかな」
王様は寝床で、ちょうど1日の復習をしているところだった。
史官は記録帳をぼんやり眺めながら、少しためらいがちに答えた。
「すべて覚えていらっしゃいます…」
王様のホッとした笑みを前に、史官は心苦しそうに顔を硬くした。
彼は王様の部屋を退出したあと、王様の病状を中殿に事細かく知らせるため、まっすぐ中宮殿へと向かった。
史官にとって、王様に対して正直でいることより、ずっと重要な任務だったからだ。

その晩、王様はまた夢を見た。
おつきの者を連れ、王世子サドの部屋を家宅捜査している場面だった。王様をここまで案内したのは、あのキムギジュだ。
取り調べの役人が2名ばかり、書物のページを1枚ずつめくっている。本をパタパタと振り払っても、証拠の紙は落ちてこなかった。
道具箱や書物が床に散らかり、キャビネットの両扉は開けたままにされた。 飾り棚や足元に作りつけてある長い戸棚も、隅々くまなく調べられた。
弓矢の稽古から慌てて戻って来た王世子サドが、王様に言い寄った。
「父上、謀反の証拠など私の部屋にあるはずがありません!」
王様は、王世子に疑ぐり深い目を向け、そして黙って顔をそらした。
そのとき奥の部屋から役人が出て来て、キムギジュに白い封書を手渡した。
封の中からするりと書状を引き抜いたキムギジュは、その謀反の証拠を王様の前に広げて見せた。
王様は王世子をきつい目で睨んだ。もう疑う予知はない。反乱を起こし、父の命を奪おうと、この書状にはっきりと書いてある。そうまでして王になりたかったとは…!
しかし王世子サドは、切実に訴えた。その声の響きには失望と怒りが入り交じっていた。
「父上はいつもそうです。口では信じると言いながら、私をお疑いなのです。信じているならこんな仕打ちができるでしょうか…!」
頭に血の昇った王様は、そばあった金具付きの小引き出しをとっさに手に取った。
着物のたもとが大きくひるがえるほど、勢いよく、王世子サドの頭に向かってふりかざした。
その瞬間、あまりの重苦しさに、夢から目を覚ましたのだった。
王様は寝床から跳ね起きた。息があがって、額から汗が吹き出てくる。 青い月明かりは、王様の老いた背中をまざまざと照らしつけていた。
王様は急に、認知症特有のかんしゃくを起こして、そばあった湯のみをカッと投げつけた。
湯のみは割れるでもなく、ただ鈍い音をたてて、床の間の掛け軸の下へ転がっていった。

2010/4/16


「イサン」あらすじ38話

事件は翌日の政務報告会で起きた。
永祐園の補修工事をしようという議案が、王様の逆鱗にふれたのだ。
永祐園とは王世子サドの墓である。
王様の怒りは、補修工事を言いだしたジェゴンではなく、サンに向けられた。
その裏には、王世子サドが罪人として処罰されたときに、王様がサンをサドの兄、孝章王世子の養子にした背景がある。
「罪人の子は罪人である! 答えよ。そなたの父は誰だ。そなたは誰の息子か!」
王様はサンを熱く睨みつけた。まるでサンが謀反でも企でいるかのような異常な興奮ぶりに、サンだけでなく、大臣らもそっと息をのみこんだ。

「去る甲申の年、私は孝章王世子様の養子となりました。私の父は孝章王世子様です」
サンが静かにこう答えた瞬間、大臣らは一斉に胸をなでおろした。
ところがサンの言葉にはまだ続きがあった。
「でもこの体をくださったのは、この世で1人だけ…サド王世子様です」

報告会の座から庭に出た大臣らは、ソクチュの後ろを、競うようについて歩いた。
ここ数年、話題にもならなかったサド王世子の話を、なぜ王様は今さら持ち出し、激怒したのだろう?
ホン・イナンをはじめとする大臣たちは、中殿が王様に何か吹き込んだのではないかと予想しながらも、やはり一番にソクチュの意見を聞きたがった。
「そう単純ではあるまい…」
ソクチュは渋い表情で答えた。
王世孫に対する王様の信頼が、中殿の言葉ごときで簡単に崩れるとも思えず、かと言って、ホン・イナン以上の説明が、何か思いつくわけでもなかった。

「王様は認知症を患っておられます」
政務室に戻り、ホン・グギョンはサンに伝えた。
理由はいろいろ考えられる。王様が地名の暗記を日課にしていること、史官に自分の行動を記録させていること、診察のとき、人払いをしていること…。中殿がこっそり町医者を宮殿に呼び出したという情報もあった。
認知症であるという確かな証拠をつかむため、グギョンはさらに、テスの叔父に薬材庫へ忍び込んで貰うことにした。
テスの叔父は、実に十数年ぶりに内官の服に袖を通しただけでなく、薬材の色と形を、しっかりと事前に覚えこまされたのだった。

幸い、内兵曹の正郎の命令で処方箋を調べに来たと言ったら、すぐに薬材庫には入れた。
ただし責任者の医員が、そばに付きっきりで、棚の物1つに触れるのも難しい。
王様の処方箋は、さらにその奥の別室の方へ保管されているらしかった。
医員は、棚の書物をいくつか調べたものの、正郎の処方箋を見つけるのは、思ったより時間がかかるとわかって、他の医員へ聞きに少しの間、小屋の表へ出ていった。
テスの叔父は、とっさにテーブルの升箱から鍵の束をつかみ取り、格子扉の前へ立った。
しかし鍵が何本もぶら下がっていて、どれが合うのかさっぱりわからない。クシ型、栓抜き型など手当たり次第に鍵を差し込んでいくうち、急に金属の外れた音がし、格子扉がすっと開いた。
奥は狭い一室になっていた。仕分け箱、薬だんす、薬草袋、書物がきちんと整理されている。
「遠志、石菖…」
テスの叔父は、丸暗記した薬材の名前を呟きながら、バタバタと棚を荒探しした。
足元にあった銀の出前箱を抱えあげ、テーブルへ載せた。扉には御の字がついている。王様のものに間違いなさそうだった。
大慌てで両扉を開き、小引き出しの中から処方箋の束をわしづかみにしたちょうどそのとき、外から戻って来た医員の方は、升箱から鍵がなくなっていることに気付いた。おまけにさっきの見慣れぬ内官の姿も消えている。
血相をかえ、テーブルの上やら足元を探していると、部屋の端からふらりとテスの叔父が現れた。
「そこで何をしている? ここに置いていた倉庫の鍵は?!」
医員はテスの叔父を疑い、声を荒げた。
しかしテスの叔父は、派手なくしゃみを1つした。その隙にこっそり袖の下から鍵の束を滑り落とし、とぼけた顔で、床を指さしたのだった。
「座って待ってたんですよ。鍵っていうのはもしかすると、床に転がっているあれのことで?」

テスの叔父が懐に忍ばせて持って帰った王様の処方箋は、無事にグギョンの手に渡った。
その結果、王様に遠志や石菖蒲が処方されていることがわかった。
認知症の疑いがあるのは、もう間違いなさそうだった。

そんな中、急きょ新しい宣旨を出そうと、都承旨が王様の部屋へ呼ばれた。
王様の言葉は都承旨の手で書きとめられ、翌日、王世孫や重臣たちを召集した講堂の場で発表された。
以下は都承旨が王様の代わりに読み上げた宣旨の一文である。
「丙申年2月11日 辰の刻に再度、王世孫に父の名を問う。もしそこでも罪人の息子と称するなら、私は王世孫を廃位させる」

発表のあと、サンは書庫にこもった。
王様にあらぬ疑いをかけられて、苦しい思いをした父の気持ちが、体の隅々にまで浸み込んでくるようだった。
テーブルに積み重ねた書物を半分ほど手前におろすと、書物と書物の間に挟まれていた王世子サドの梅花図が、当然のように一番上にあらわれた。紙の裏側から、鮮やかな花びらの色が透けて見える。
その小さく折りたたまれた梅花図を、サンは丁寧に広げた。
ソンヨンが描いた梅花図より、幹は太く、大ざっぱな筆遣いをしている。ぼってりと墨がにじんだやさしい風合いの中に、赤い花びらが活発に息づいていた。
その眩い絵を見て、ふと14年前の父の声が、サンの耳に宿った。
 (飾り箱の中に、私が描いた絵がある…)
その絵は、もう別の場所にあった。サンは、まるでかゆいところに手が届くといった素早さで、かがみ込んで書棚の扉の中からその巻き絵を取り出した。
こうして改めて眺めてみても、平凡な山水画だった。なぜ父が、王様にこの絵をわざわざ渡そうとしたのか、時が経った今でもわからない。
この絵を見て意外なことを言い出したのは、ナムだった。
「ソンヨンに調べさせてはいかがでしょう。絵を描く者の視点で見れば、込められた意味が分かるのではないですか?」

図画署を訪ねたナムは、ソンヨンの記憶力に目を丸くした。ひと目見るなり、これは14年前に、王世孫様と一緒に王様に届けようとした絵だと、すんなり答えたからだ。
夜、一人で作業室にこもって、ソンヨンはさっそくテーブルにその山水画を広げた。
切り立った山の奥から、川が二股に分かれている。中央の三角州には、3人の男の姿があった。
何かを語りかける老人、それを聞く若者、そして若者の後ろに隠れた子供。下流に浮かんだ小さな島の松の根元には、亀が1匹、うずくまっていた。
指で川の流れをたどるうち、何となく違和感を覚えて、掛け軸を裏返してみた。普通の紙よりも、どうも厚いようだ。
もう1つおかしな点に気付いた。老人と若者と子供の手が、何気なくみんな亀の方を指している。
亀は指で引っかいたら簡単にはがれた。
ソンヨンはハッと息をのんだ。亀のいた場所から、みるみる紙がはがれていき、掛け軸と絵の間に、手紙が挟み込んであった。

サンの住む東宮殿は王様の宣旨が発表されて以来、禁軍に包囲されていた。手紙はサンではなく、王様に直接、見て貰うしかない。
大殿の前に立っていたおつきの男は、夜更けに突然、茶母のソンヨンが王様に会いたいと訪ねてきたことに、最初、面食らった。しかし王様に頼まれた絵が仕上がったという口実は、もっともらしく聞こえたようだった。
「こんな時間に持って来たのか?」
おつきの男は、そわそわとして聞いた。

王様はそろそろ寝床で休むところだった。白い着物姿で、卓上机の前にじっと座っていた。
「私がそなたに絵を頼んだそうだな…。いつのことだ。最近、物忘れがひどくなってな。どうやら昨日頼んだようだな」
王様は、穏やかな口調でソンヨンにあれこれと尋ねた。
「恐れながら王様。先ほどの話はウソなのです。王様に至急お渡ししたい手紙があり、死に値するのを承知でウソを申し上げました」
ソンヨンは怯えながらも、王様の目の前で正直に打ち明けた。
しかし王様はソンヨンを、ねぎらうような優しい目で見つめていた。
怒る気力がないほど疲れているようにも、それほどまでに渡したいと言ってきた手紙に、少し興味が出たようにも見えた。
王世子サドの手紙は、14年ぶりに王様に渡された山水画の上にのせられた。
王様はその手紙を手に取った。手のひらほどの小さな薄い紙切れだった。
1枚目には無実に関する説明がつづられ、2枚目には証拠が箇条書きにされていた。几帳面な字で隅々びっしりと書かれてある。
目を小刻みに揺らしながら、小さな文字を読んでいた王様は、やがて、がっくりと首をうなだれた。
ソンヨンが部屋を退出した後も、ほじくり返すように、何度も手紙を読み返した。
でもいくら読んだところで、事実は何も変わらなかった。
とんでもないことをした。罪もない息子を処刑したのだ。恐れていた不安がとうとう現実になった。それより何より、もう息子が戻らないことが、残念でたまらない。
王様の老いた体は、丸くすぼんで、ますます小さくなった。

明け方、王様は墓参りに出かけた。
羽つき帽子をかぶり、護衛のお供を引き連れ、何とか丘までやって来た。
うっそうと草の生えた空き地には、ほんの少しまだ雪が残っている。
王様はサドの墓をまじまじと見つめて、渋い表情になった。
墓はこの十数年間、一度も手入れされていなかった。墓石が破損し、痛みがひどい。
墓石の後ろにそびえた盛り土は、ススキでうっそうとしていた。ジェゴンが補修工事を提案したわけだ。
王様はススキを掻き分けて、墓のもっとそばへ寄った。
風邪でも引いていないかと心配するような目で、ちらりと盛り土に目をやり、急にうちひしがれて、ついには声をたてて泣いた。
「そなたには生きている間も、死んでからもひどいことばかりをした。王世子よ、すまぬ…」
盛り土に手のひらをあててみると、息子の体温の代わりに、指の隙間までいっぱいに枯れ草の感触が伝わった。

罪人サドは、両脇を護衛に抱えられて、時敏堂の広場に姿を現わした。
罪人用の白い着物姿でありながら、頭のてっぺんに丸く結った髪は、美しく整っていた。
サドは護衛に体を押されて、石畳の道に立った王様の前へパタリとひざまずいた。
彼の背後には米びつが1台、用意されていた。
王様は王世子サドを、厳しく睨みつけ、そして声をあげた。
「罪人を米びつに入れよ!」
合図とともに護衛が、嫌がるサドの腕脇を捕り、無理やり米びつの中へと押し込んだ。
「父上、誤解です。私は無実なのです。父上! 父上…!」
サドは米びつの中から必死に叫んだ。しかし2人がかりで抱えあげられた木ブタは、無情にも、米びつの上にどっしりとかぶせられた。

石階段の庭にたたずんでいたサンに、内官と尚宮が恐る恐る声をかけた。
そういえばもう辰の刻である。いよいよ王様に、父親が誰であるかをもう1度、問われるときが来たのだ。
サンはすぐに大殿に向かった。

2010/4/25


「イ・サン」あらすじ 39話

ホン・イナンは、まじまじと講堂の入口の貼り紙に目を近付けた。王様の体調が優れないため、政務報告会を明日の同じ辰の刻に延期すると書かれてある。
慌てて石段を駆け下り、重臣らと話し込むホン・イナンの姿を、ソクチュが、ため息でもつくように眺めている。彼もまた講堂まで来て、ムダ足を踏んだ1人だった。
 (王様が王世孫に猶予を与えたということなのだろうか…?)
そう考えるソクチュの隣では、フギョムが辺りを見回していた。
フギョムの目や耳に入ったのは立ち話をする重臣たち。講堂の屋根づたいに、とめどなく流れ落ちる雪解け水、小鳥のさえずりだった。
たわいもない風景に、どこか物足りなさを感じながら、フギョムはふと眉をひそめた。
グギョンやジェゴンは一体どこに行ったのか…?
重要なこの場に、なぜか王世孫側の人間だけが一人も来ていない。
とっさに思い浮かんだその理由は、フギョムの腹をじわりと冷やした。
講堂まで来る必要がない人間…それは前もって、政務報告会の延期を知っていた者だ。

報告会が延期になり、仕方なく家路に着いたソクチュを出迎えたのは、グギョンだった。
ソクチュは、降りたばかりのコシにまた乗り直し、グギョンと一緒にユーターンするはめになった。
コシが再び地面におろされたのは、王様が即位前に住んでいたという屋敷の前だった。
案内された部屋に入ってみると、王様と王世孫が座っていた。
ソクチュは、驚いて声にならなかった。
王様は、外出用の透けた黒帽子と模様のない着物を1枚着ている。着ぶくれたソクチュより、よほどシンプルな格好だった。極秘のお忍びであることは明らかで、そこにただ事ではない気配を、ソクチュはとても強く感じたのだ。むしろ人質にでもなったような気分といっていい。
事実、屋敷の周りは護衛部隊による厳重な警戒が張られていた。
「申してみよ。老論派の手に染まっているのはどの軍だ?」
王様は腹の底で何か知ったような目つきで、ソクチュにいきなりそう尋ねて、じっと返事を待った。
「王様、恐れながら理由をお聞きしても…? そのようなことをお尋ねになる理由をです」
ソクチュは珍しくガタガタと頬を震わせて、床に触れるほど頭を下げた。どんな緊急事態でも常に慎重な点だけが、ソクチュらしいところだった。
王様はゆっくりと、笑うように目を細めた。
「私は明日…王位を王世孫に譲る」

もし譲位が発表されたら、きっと朝廷で血の嵐が吹き荒れるだろう…
ソクチュはこの状況の中で、必死になって考えた。
根底から朝廷が覆されてしまうような事態だけは、何としてでも避けたい。
内部情報を漏らすのと引き換えに、その旨を申し出ると、王様がちらりとサンを見た。新しい王の判断に委ねようということらしい。
サンはソクチュを値踏みするような目つきで見つめ、口を開いた。
「いいだろう。約束しよう」
ソクチュは緊張のあまり、こもった声を吐き出した。
「すべてです! 禁衛営以外は、すべての軍が王世孫様に刃を向けるでしょう…!」
彼の必死の告白は、王様とサンに、予想以上の厳しい現実をまざまざと見せつけた。

ソクチュとの密会のあと、サンは屋敷の庭へ出て、グギョンへ新しい指示を出した。
総戒庁の総兵を広州以南に動かすこと。守禦庁、御営庁は都の百里外まで動かすこと。
禁軍の中にも老論派の私兵が潜んでいるので警戒すること。
宮殿の警護は護衛部隊と禁衛営に任せること。ただし禁衛軍もすべては信用せず、護衛官を配置することを決めた。
まもなく宮殿の兵士たちが、続々と都を離れはじめた。
刀と銃を手に、都を過ぎる数千もの兵士の姿は、水汲みに出かけた茶母の目にすら止まったほどだった。
軍の指導者の中には、戸惑いの色もあった。
禁軍の教官チャン・ドイクは、片時も都を離れるなという裏ルートからの密命を、ずっと気にかけていた。
水原までの移動中に、王命を放棄して軍と共に都へ引き返そうとしたところ、山中でテスたち護衛部隊の待ち伏せにあい、失敗に終わった。

譲位のことは、明日の辰の刻の発表まで伏せられた。
もしもこの計画が途中で洩れたら、間違いなく反乱が起きただろう。
それまでに万全の準備が整うように、事は進められたのだ。

話は少し前に戻る。政務報告会は延期されたものの、サンは辰の刻に、ちゃんと王様のいる大殿へ顔を出していた。
そのときに見せられたのが、例の王世子サドからの手紙だった。
その手紙の中で、サド王世子は謀反の罪を自ら認めていた。
それは、むしろサドが王になることを熱望する声がそうさせたと言った方が正しい。
サドが一旦、その計画に乗るフリをしてみせたのは、行き過ぎた期待を持つ臣下から、謀反の証拠を押収して、計画の中止を説得する狙いがあった。
サドには王様に刃を向ける気など、最初からなかったのだ。
しかし中殿とキム・ギジュは、これを絶好の機会と見た。無実の王世子が老論派によって謀反の張本人に仕立て上げられた経緯は、そういうことだった。

サドの手紙はこう締めくくられている。
「今となっては自分の愚かさが悔やまれ、胸が裂けそうです。でも分かってくださいますか? 親不孝者ですが、心ではいつも父上を思っていました。もし私を許していただけるなら、最後に切にお願いしたいことがあります。王世孫を守ってやってください。私の息子だというだけで、苦難の道を歩むことになる子です…」
手紙を読んで泣き晴らす王世孫に、王様は優しく声をかけた。
「よいな。そなたは生き延び、聖君になれ」
その言葉はサンの心に、父の声を蘇らせた。
かつて、米びつの中で父もサンに同じことを言った。

おじいさんと父上との3人で、仁王山に行った記憶は、サンの記憶の中では、もうおぼろげになっている。
幼いサンは、サドに手を引かれて、切り立った崖を歩いていた。
崖下の川底には見渡す限り、階段状の岩場が広がっている。その中央に亀そっくりの岩を見つけ、指をさしてはしゃぐ幼い子の姿に、大人2人も喜んだ。王様とサドが仲良く笑いあったのは、そのときが最後だった。
王世子サドの山水画は、あの光景を描いたものだった。
確か庚辰年6月のことだったと、サンは覚えている。

父を無実の罪に陥れたに者ついては検討がついていたものの、その罪を問うには証拠を手に入れる必要があった。
サンが王世子の元護衛隊長を務めたソ・インスとその部下たちに、はるばる会いに出かけたのは、彼らの証言から手がかりを探るためだった。
「老論派の連中がやり取りした書状を手にいれた王世子様は、山に向かわれました。お人払いをされたので、書状をどこに埋めたかまでは分かりませんが…。いや、待てよ…。確か仁王山だったはずです…」
集まった部下のうちの1人が、記憶を辿り、サンにこう証言した。

グギョンが全軍を動かして、兵を城外へ続々と移動させているのは、嫌でも中殿の目に入った。
不吉な兆しは他にもある。 朝から何度、大殿を訪ねても、王様に会うことができないでいた。
熱を出し、薬を飲んで休んでいるというのがその理由だった。

夜になって、ファワンとフギョムが突然、中殿を訪ねてきた。
中殿のそばには、あのキム・ギジュがいた。
中殿に恨まれていることを知りながら、ファワンが軽く笑みさえ浮かべていたのは、中殿が喉から手が出るほど欲しい情報を、自分たちが握っていると知っていたからだ。
「今、中殿様が知るべきことは一つ。王様のお考えではありませんか? 王様が禁衛営を除くすべての軍を城外に移された理由を、知らせに来たのですよ」
情報と引き換えに、キム・ギジュが復帰したトリックを問われた中殿は、すぐに機転を利かせた。
「教えてやろう。王様は認知症なのだ。もう随分になる…」

2010/5/2更新


「イサン」あらすじ 40話

テスの叔父は、全速力で民家沿いを走り抜けた。
暗闇のうえ、足場は泥雪で悪い。獣の爪のように盛り上がったツララが、屋根から何本も垂れ下がっていた。
テスの叔父が到着したのは、画員のイ・チョンの家の前だった。
ここの草屋根にも雪がたっぷり積もっている。
イ・チョンが大あくびをしながら表に出てきた。こんな夜分遅くに木戸を激しく叩くなんて、どこのどいつだと思ったらしい。
しかし図画署のパク別提からの呼び出しとわかって、イ・チョンは職場へすっ飛んで戻った。
作業場には、すでに他の画員や茶母らが集まっていた。一体何事だろうと不安を浮かべているのは、皆もイ・チョンと同じだった。
「王世孫様の命令で至急、絵を書くことになった」
パク別提は、わりとにこやかに言った。
続けてソンヨンがステップ台に乗って、王世子の山水画を高くかかげて説明をした。
「ここにある小さな亀の形をした岩が見えますか? これを拡大して描いてください。この岩を探すためのビラを作るんです」
パク別提の合図で、画員らはすぐ作業に取りかかった。
というのも、もうあまり時間がない。期限は夜中の子の刻だった。

その頃、重臣たちは、横長い建物に囲まれた狭い中庭のあちこちで、不安な声を漏らしていた。
雪の照り返しと、障子から漏れる灯りは、大臣らの緊迫した表情をあらわにした。
王様が兵を動かすのを今日1日、目にしたあとだから無理もなかった。王世孫に王位を譲る噂は、もうすっかり広まっていた。
「冗談じゃない! 数日前まで廃位すると言っていたのに、いきなり譲位だなど!」
ホン・イナンは、じたんだを踏み、肩を揺らした。その火の粉はソクチュにも向けられた。
「王世孫が王になれば、我々は死んだも同然ですよ! 何とか言ってくださいよっ!」
鶏の雄たけびから逃れるように、黙って顔をそむけたソクチュは、屋敷の影にたたずんでいたフギョムと目が合った。いつから見られていたのか、まるでソクチュの心の変化を疑うように、眉を潜めている。
ソクチュはフギョムからも目をそらし、仕方なく闇夜の宙を眺めた。
この先のことはわからない。ただ夜が明けるのを、息をのんで待つばかりだった。

明日の辰の刻までに、サンは水面下でいくつかの作戦を練った。
譲位の宣布の際に、王世子を死に追いやった罪を暴いて、老論派の反発を押さえること。
禁衛兵による金虎門、崇敬門、天将門の警備の徹底。
禁衛兵のシン大将宛てに、弘化門に兵を集めるよう通達も送らせた。
しかしテスがその通達を禁衛営の執務室に届けに行ったときには、すでにシン大将は殺された後だったことになる。ただ死体がなかったので、テスが気付くことはなかった。
テスが届けた通達は老論派の息のかかった禁衛兵から中殿の手へ渡り、また中殿はその男に禁衛営の指揮を任せた。禁衛営はこうして密かに中殿に掌握された。
中殿はさらに、兵士たちを任王山へ派遣したが、その目的は王世孫の暗殺であった。

執務室のテーブルに、サンは里山の地形図を広げた。
亀岩の場所は、ある程度予想がついている。仁王山にのぼった日に泊まった黄鶴亭に近い山を探せばいい。
サンが地図のその地点を指し示したのを見たナム洗尚は、訂正するように、周りの四ケ所を指でなぞった。実際には四方に渡る広範囲を散策する必要があったからだ。

仁王山に到着したサンの軍には、亀の描かれたビラと、筒の花火が1人ずつに配られた。花火の方は、亀の岩を見つけたときの合図に使われるものだった。
兵は1組4人ずつで行動し、そのうちの1人がたいまつを持った。
兵士らは駆け足で山奥へと潜って行った。サンがその長い列を見届けるのに、しばらくの時間がかかった。
サンもさっそく林へ入り、ナムとグギョンが適当にその後に続いた。
ふぞろいに並んだ松のそばを、兵士たちが黙々と通り過ぎていった。その人影と炎は、蛍のように移動した。
川底へおりると、頭や腰の高さまである大岩が、浜にうちあげられた鯨のようにいくつも横たわっていた。大小の岩で埋めつくされた河原を、兵士たちは、またぐように歩いた。
山の空き地でグギョンに再会したナムが、サンの早い動きについて行けず、途中で見失ったと言った。グギョンのヘルメットには、空から舞い落ちる雪が降りかかっていた。

サンはその頃、森の入り口に立っていた。木の間から放射状に伸びたまばゆい光の筋が、サンの体を照らした。奥はモヤがかかっていて、見通しが悪かった。
サンは護衛から、たいまつを受け取って、森の中へと足を進めた。
森を抜けた先から崖へ出た。谷底へたいまつの炎をかざすと、川の黒い水面に映った炎が揺らめいて、赤と黒の縞模様になった。
サンは辺りを見回して、急に興奮した。
確かに見覚えがある場所だった。

見渡す限りの岩場の中央に、あの頃と同じ姿で、ひっそりと首をもたげた亀の岩があった。
護衛数名も、サンと一緒に川岸へおりていった。膝まで水に浸かって川を渡り、向こう岸へあがった。
亀の甲羅に見える部分を、サン一人で抱えあげようとしたものの、びくとも動かない。少し考え込んだ後、サンは地面を強く踏みならした。
泥の滑る音のみで、下は岩盤ではなさそうだった。
素手で地面を掘り起こし、土を掻き分け、地中からのぞいた風呂敷の結び目を一気に引っ張り上げた。
包の中身は木箱だった。さらに木箱の中には、もう1つ留め鍵つきの木箱が入っていて、フタを開けたら、また風呂敷包が現れた。その風呂敷を取り払い、また木箱のフタを開け、最終的にヒモでくくられたロール状の紙を指でつまんで、サンは嬉しそうに言った。
「早く花火を…!」
そのとき、背後の護衛らが急に刀を抜いて、サンのアゴにピタリとつけた。
サンはくるりと地面を転がり、4本の刀から素早く身をかわすと、1人の兵の腕をねじり、別の兵士の腹を思いきり蹴りあげた。さらに後ろから襲ってきた兵士をひじで突いて、奪い取った刀で切り倒した。
2人がかりでの攻撃を、刀で押し返すうち、サンはじりじりと後退し、根株に足をとられて尻餅をついた。
兵士がとどめを刺そうと大声をあげ、刀を振り上げた瞬間、花火が発火して、松の陰から猛烈な火柱がパチパチと吹きあがった。
サンはその隙に、血まみれた刀を地面から拾い上げたが、少し離れた斜面に倒れていた兵士は、懐からそっとピストルを出した。
無理な体勢からくる手ぶれを押さえるため、兵士はしっかりと銃を握り、片目を閉じた。
縄の先についた火種から、細い煙がたちのぼっている。その銃口は別の兵士と格闘中のサンに狙いをさだめた。
サンの行方を探していたグギョンとナムとテスは、山に響き渡る一発の銃声を聴いた。

明け方、サンは風呂敷包をさげて宮殿に戻り、王様の御殿へ足を運んだ。
銃弾はサンではなく、サンと争っていた兵士の方に命中したのだ。
サド王世子が残した資料は、無事、王様に手渡された。サドを無実の罪におとしいれた証拠として十分役立ちそうな資料だったけど、陰謀に関与した者の一覧に、ほとんどの重臣の名前が並んでいるのを見て、王様の心は疲れ果てた。

おつきの男は、王様のせんじ薬を取りに一人で小屋へ入った。
奥のテーブルに用意されたものが、どうもそれらしい。
お盆にかかった布をめくると、せんじ薬が、器の中できらりと黒光りした。
おつきの男は青ざめた顔をして、そわそわと落ち着かなくなった。
この薬は中殿が実家から取り寄せたもので、御医の許可は出ていない。
体力を補う薬との中殿の説明は、きっと嘘に違いないと、おつきの男は確信していた。
王世孫が無事に宮中へ帰って来たということは、暗殺が失敗に終わったということだった。
辰の刻には予定通り政務報告会がはじまり、王世孫の譲位が王様の口から発表されるだろう。
結局、中殿はその前に王様を殺すことにしたのだ。
おつきの男は唇を噛みしめ、しばらく悩み抜いたすえ、そそくさと布を元通りにかぶせ、盆を抱えて小屋を出た。

ところが卯の刻を過ぎ、辰の刻が間近に迫っても、王様が亡くなったとの知らせは入らず、中殿の我慢も限界になった。
まもなく全ての事情がわかった。
大殿のおつきの男は迷った挙句、せんじ薬を捨てたのだ。
何もかも終わった。すでにサンや大臣らは便殿に集まっていて、あとは王世孫の譲位が告げられるのを待つばかりになった。

確かにサンたちは長い間、政務報告会が始まるのを板の間に座って待っていた。
しかし辰の刻を過ぎても、王様は姿を見せなかった。
迎えのため大殿へ顔を出したジェゴンは、座布団にうつ伏せになって倒れている王様を発見した。
その知らせは、便殿の板の間を駆け抜けるようにして入ってきたチェゴンによって、サン達に伝えられた。

2010/5/9

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...