このところ、テスはホン・グギョンの小屋へ入り浸っていた。
テスが初めてこのみすぼらしい小屋を訪ねて来たときには、障子は破れ、壁は黄色く汚れて、あばら家と言っても良いほどの状態だった。
宮中を離れてからというもの、グギョンは背中に樽を背負って、1日中、肥やしを集めて回っている。
見るに見かねて、せめて部屋の中を片付け、服まで洗ってやったのはテスだ。
だからと言って、野心を捨てたわけではないことは、狭い部屋のあちこちにうず高く積まれた書物を見てもわかった。
「いくら汚くても権力が欲しい」とテスに世話を焼かれながら、ふとグギョンが漏らしたのは、彼の本音だった。
サンのもとを去った今となっても、グギョンの関心は常に、サンを取り巻く情勢にあった。
もし王様が倒れたら、もう回復するとは限らない。そのうえサンの廃位が困難となれば、敵はてっとり早い方法をとりたがるだろう。
年末最大の行事である儺礼戯は、サンの暗殺にはまさに絶好の機会だった。
花火や祝砲の披露の他、武術の実演も予定されているので、怪しまれずに準備ができる。
何より老論派の新勢力であるキム・ギジュが宮中に呼び戻されたことが、予兆のようにも思えた。
暗殺がどう企てられ、どう実行されるのか・・・
儺礼戯の出席者は何百人といる。
その中から刺客を特定するのは、実はグギョンでさえ、雲をつかむような話だったのだ。
「左承旨殿。ここで何をしている?」
サンは中庭の朱門のところに立っていたキム・ギジュに声をかけ、彼の手にのった小さな袋を、訝しげに見た。
直前までそわそわしていたキム・ギジュは、急に愛想の良い笑みを浮かべ、袋を見せた。
「火薬でございます、王世孫様。今回の儺礼戯は例年にもまして見応えのある花火です。王世孫様にも一生の思い出になるかと・・・」
「そうか。楽しみにしていよう・・・」
サンは嬉しそうに頷いて、おつきの者たちを後ろに従えて去っていった。
キム・ギジュはそのあと、儺礼戯で予定されている射撃演習の模様を視察した。
宮中の中庭の一角に、禁軍随一の射撃の名手たちが、5人×3列の隊を組んでいる。
彼らは地面に肩ヒザを立てて座ると、さっと銃を構えた。
引き金が指から外れた瞬間、前方の5本のとっくりが、水しぶきを吹き上げ、こっぱ微塵に砕け散った。
その様子を見て、キム・ギジュは、かしわでを打つように派手に手をたたいて大喜びした。
サンの母、恵嬪は嫌な夢を見た。
御殿の軒に大掛かりに張られた日よけテントの下で、儺礼戯の夜なべをサンと共に楽しんでいる。
広場の龍と鳥のオブジェは、昼間の派手な感じとはうって変わり、その内側から灯された強い光で、暗闇の中でひときわ赤白く浮き上がった。
御殿はひな壇席、広場は中央の通り道を除いてムシロを敷いただけの席になっている。
ムシロ席の役人の前には、一人ずつに酒盆が振舞われた。しかしその祭りの賑やかさの影で、激しく降りしきる雪が、広場全体を一枚の絨毯のように真っ白に、冷たくした。
やがて禁軍随一の射撃の名手たちが隊列を組んで登場した。
儺礼戯の目玉である実演が、いよいよ始まるらしい。
広場の中央の道を、兵士が小走りで駆け抜けていくのを、恵嬪はサンとその妻の横の席で、感心したように眺めていた。
兵士らは白い雪の上にひざまずき、銃を構え、その銃口を一斉に御殿の方へ向けた。
パンパンッと火花が散り、煙が立ちのぼった。
デモンストレーションの終わった兵士のうち、前列に並んだ数名だけが、銃を構えたまま残り、サンのいる席の真ん前まで、一気に石段を駆け上ってきた。その中のある一人の兵士の顔を見たとき、恵嬪は凍りついた。
それは紛れもなくキム・ギジュだった。
兵士に化けたキム・ギジュは、サンに狙いをさだめると、次の瞬間、引き金を引いた。
恵嬪は、目を覚まして寝床から上体を起こした。まるで現実のことのように、息が激しく乱れている。
まだ明け方だからと侍女に止められたにも関わらず、恵嬪がサンの部屋に顔を出したとき、サンは机について何か考え事をしているようだった。もしかしたら仕事のことが頭から離れずに、一晩中起きていたのかもしれない。
恵嬪は広がったスカートに埋まるようにして床へ座ると、落ち着かない様子でサンに言った。
「悪い夢を見ました。キム・ギジュが宮殿にいては、不安でなりません。あのキム・ギジュこそ、王世子様を王様と仲たがいさせ、死に追いやった張本人なのです」
恵嬪の頭にあるのはサンが父親の二の舞になるのではないかという恐怖だ。そしてこの意味はサンにも十分伝わったはずだった。しかし恵嬪はどうも不安でならなかった。
恵嬪の突然の告白に、サンは最初かなり驚いた様子だった。しかしそのあとは、何かを考え込むように、じっと黙り込んでしまったのだ。
テスは再びグギョンの小屋にいた。今度はソンヨンも一緒だった。
机に広げた紙を覗き込んでいる。テスに頼まれて、ソンヨンがさっき保管庫に忍び込んで取ってきたものだ。
それはグギョンがぜひ見たいと言った去年の儺礼戯の記録画だった。
「これは去年の記録画。こっちは今年の席次表だ。違いがわかるか」
グギョンは机に並べた2枚の紙を指さしてテスに聞いた。
テスが首を傾げていると、ソンヨンが答えた。
「最上列が違います。去年は王様の左が王世孫様、今年は1つ下の段です」
グギョンは小さく頷いた。ひな段席の頂上は、王様の左右に中殿と王世孫が座るしきたりになっている。それが今年はなぜか、サンだけが1段下の恵嬪の隣へとわざわざ席が変更されていた。そしてすぐ隣には、兵士たちがいる。
暗殺が企てられているのは、もう間違いないように思えた。
テスはこの緊急事態を知らせるため、チェ・ジェゴンとナムのところへすっ飛んで行った。
チェ・ジェゴンとナムの2人がサンの部屋を尋ねたとき、サンは書物を積んだ机の前に一人で座っていた。
ジェゴンが重々しく口を開いた。すっかり夜が更けて、ささやくのが、ちょうどいいくらいの静けさだった。
「折り入ってお話があります。来たる儺礼戯には出席なさいませんように。証拠はありませんが、王世孫様の暗殺を企てる者がいるようです。どうか体調などを口実に・・・」
サンは少し驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにきっぱりと言いきった。
「そうはいかない。危険は常につきまとう。それに脅えていては何もできない。儺礼戯は王族全員が一堂に会する宴だ。不確かな疑惑を理由に職務放棄するわけにはいかない」
ジェゴンとナムは、サンの意思を変えるのは無理だと一瞬で悟った。あとは困ったように2人で目をしょぼしょぼと瞬かせるばかりだった。
ソンヨンとグギョンが小屋の外でそわそわテスの帰りを待っていると、テスが息を乱しながら駆け込んできた。
「王世孫さまは儺礼戯に出席されるそうです! 責務を放棄できないと」
「暗殺は必ず実行されるのだぞ・・・!?」
グギョンは、びっくりして思わずテスに強く言った。
ソンヨンはグギョンをすがるように見た。王世孫を説得するよう、グギョンに何とか知恵を絞ってもらうしかないと思ったのだろう。
しかしグギョンには、もうなす術はなかった。テスやソンヨンより、そのことにいち早く気づいたのだ。しばらく黙り込んだあと、無念そうに深く息をつき、グギョンは言った。
「王世孫様の意思なら、やむをえまい・・・」
2009/1/1
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...