左承旨 キムギジュが失踪して、もう2日になる。
中殿から相談を受けたソクチュは、だからと言って手立てを何も思いつかないまま、部屋をあとにした。
中殿は、兄が拉致されたことを確信していた。
不可解なのは、まるでキムギジュの失踪を予想でもしていたかのように、王様が平然としていることだった。
途中、石畳の広場を歩いてくるフギョムに出会った。
フギョムはゆっくりとソクチュに近づいてきて、わりと丁寧に会釈をした。
「中殿様に会われたのですか? ご様子はいかがでした」
「焦っていらっしゃる…」
ソクチュは冴えない顔をして、冷たい息を吐き出した。
2人の赤い衣がまくれ上がり、中の白いもんぺが見えてしまうほど、風が強く吹いていた。
港の桟橋付近で死体があがったという知らせをテスから受けて、グギョンが現場に行ってみると、枯れ草の中に寝かされた遺体があった。
村人がわいわい群がったそばに、警備兵が仁王立ちになっている。
役人がむしろをめくって、男の首筋の脈をみた。鼻の穴に手をかざしても息の反応はなかった。
遺体は、キムギジュに頼まれて花火に細工をした男のものだ。
火薬を用意した役人も、行方不明になっている。
王命を受け、グギョンが捜査を任せれてから3日目のことだった。
成果があがるまでいっこうに報告に来ないグギョンを、サンはいったん部屋に呼んだ。
「どうした? キムギジュがなかなか口を割らないか」
グギョンはハッと驚いたように、うつむういていた顔をあげた。
サンがいたずらっぽい笑みを浮かべているので、すでにキムギジュを監禁していることは、王世孫に見抜かれているのだと初めてわかった。
しかし責めるよりも、サンはむしろ、事を動かしたがっているように見えた。
水面下で進められていたグギョンの捜査方法に変化が起こったのは、その直後からだ。
フギョムは助手の知らせに、慌てて門の外へと飛び出した。
その光景は、フギョムが想像したもの以上だった。
屋敷の周りを、ヤリを持った禁軍兵が、ずらりと取り囲んでいる。
禁軍による監視は、吏曹判書、刑曹判書の屋敷にまで及んだ。
王様に委ねられた権力を、思うがままに振るまうホングギョンの手腕は、まさに騒動といってよいほどだった。
フギョムはファワンを訪ね、まだ衝撃が抜け切れない白い顔で、ゆっくりと言い聞かせるような口調でささやいた。
「分かりませんか、母上? 禁軍は王命によってのみ動く兵なのです」
「父上が命じられたと申すのか。つまり、キムギジュが王世孫に捕まって、すべてを白状し父上の耳に入ったと?」
気の強いファワンは、はっきりそう口にした。
様子を探ろうにも、王様はここ数日、部屋に閉じこもっている…。それがファワンを余計にイライラさせる原因となった。
人払いされたのはファワンだけではない。重臣も中殿も、みんな同じだった。王様に何も聞けないまま、それぞれの抱えた不安ばかりが大きくなっていく。
「実に不吉なことです…」
フギョムは思わず声に出した。
すべてはホングギョンの狙い通りなのか。王世孫…もしかすると王様の手の上で、自分たちは踊らされているということなのだろうか…?
ソクチュは、自室の卓上机の前で、身動きもせずに悩んでいた。
監視の目があるなか、むやみに動き回る大臣など、いるはずもなかった。
そっと耳をそばだてて成りゆきを見守るだけの時間が、何とも長い時間に思える。
今頃、中殿は1人取り残されて、ますます焦っているだろうことくらいは、唯一想像がついた。
「チョンフギョム承旨様がおいでです…」
外からの呼びかけにひどく驚いて、ソクチュは白毛まじりのヒゲの生えた頬を震わせた。
屋敷の短い石段を下りたった中庭で、フギョムが会釈をして待っていた。
ソクチュは、いぶかしげにキョロキョロと辺りを見回した。夜更けとはいえ、禁軍に見張られているさなか出向いて来るフギョムのうかつさが、まったく信じられなかった。
しかしその緊迫した表情からして、危険なのは重々承知のうえの訪問のようだった。
安全な部屋の中へ招き入れられると、息をかみ殺すように沈黙していたフギョムが、ようやく口を開いた。
「我々が仲間であることはすでにばれています」
「それで? 私を訪ねてきた理由はなんだ?」
すでに驚き慣れたソクチュは責めるような目つきで、ささやいた。
「そもそもの発端は儺礼戯の事件です。責任を負うのはキムギジュ様と中殿様の2人で十分なのです。王世孫がここまで事を大きくするのは黒幕を暴くためでしょう。…我々はそこから身を引くのです。背後関係からという意味ですよ」
「つ…つまり、中殿様を裏切れと…?!」
言葉にもならないくらい驚いて唇を震わせるソクチュに、フギョムはこっくりと頷いてみせた。
「王世孫様…夜風が冷たいというのに、なぜ外に出ておられるのですか」
中庭の石ろうのそばでたたずんでいるサンに、ジェゴンが後ろから心配そうに声をかけた。
水面下で行っていた調査が、敵を大胆に揺さぶる戦略ヘと様相が変わってきている。
グギョンが巻き起こした騒動が、毎日のようにサンの耳に届いていた。
「胸が騒いで本を読んでいても目に入りません。叔母上の陰謀が発覚したとき、私はそなたにこう言った。王世孫に生まれていなければこんな目に遭わないと。今度は何が明かされるのかと思うと、実は怖くてたまらないのです」
そう打ち明けたサンの目は、その日が近づいているのを感じてか、とても緊張していた。
図画署の男性画員たちは、ある話題に夢中だった。
その詳細が、まもなく作業場に入ってきたパク別提によって、正式に発表された。
画員の最高の名誉である御真画師が選ばれることになったのだ。
来月にも本部が設置されて、首席画員と随従画員が各1名ずつ選抜されるということだった。
「選ばれる可能性は全員にある。各自精進するように…」
とパク別提は言葉をしめくくった。
洗濯板を抱えて、ソンヨンが他の茶母たちと洗い場から戻って来たとき、男性画員は中庭の縁台に山積みになった筆の中から、我先にと、気に入ったものを奪い合っているところだった。
筆の先を手でなめすように触って、動物の毛や質を熱心に見定めている。
なかには画員を選抜する礼曹の役人を接待しようと、密かに企む者までいた。
「王様の肖像画を描くことは画員たちの一生の夢なんです。引退した大画員様もなれなかったくらいよ」
図画署からいったんテスたちと暮らしている小屋に戻ってきたソンヨンは、テスの叔父にそう説明した。
「お前もいつか選ばれるといいな」
「え? 私が?! まさか私なんかが選ばれるわけ…」
ソンヨンはあきれて笑ったものの、叔父さんは大真面目な顔で、興奮したように両手を天に捧げた。
「いつか王世孫様が王になったときに、お前がそのお姿を絵に残して差し上げろ。こんな名誉なことがあるか…?」
着物を詰めた風呂敷包の結び目を縛って、ソンヨンは、夜遅くまで任務についているテスに着替えを届けるために立ち上がった。
祈るように漏らした叔父さんのその言葉は、確かに夢のような話だと思った。
テスはグギョンに頼まれた手紙を、フギョムの屋敷の庭へ放り込むと、屋敷の並んだ通りを戻りはじめた。
闇の中に、白いもやがたった夜だった。しかし道の上は月夜の照り返しで明るかった。昼間、人々が行き交った足跡が、光の筋となって道の真ん中に伸びている。
じりじりと土を踏みしめて、2人の女性がその光の筋をたどるようにやってきた。
1人が前を行き、もう1人がすぐ後ろについていた。歩くたびにマントの裾からふっくらと広がったスカートの光沢が動いた。すっぽりかぶったマントの端が深く額に垂れかかり、顔は全く見えなかった。特に後ろの女はそうだった。
2人とすれ違ったあと、テスは何となく振り返って、その姿を目で追った。
そして女たちが会話もせずに、ただ黙々と歩いて、フギョムの屋敷のある方へと曲がっていったのを見て、屋敷の壁に体をすり寄せるようにしながら、2人の後をつけはじめた。
やがて小柄な女の方が、チョンフギョムの屋敷塀の扉の前に立って、呼びかけた。
「たのもう…。たのもう…」
それは、すがるような声だった。
すぐに下働きと見られる男が扉を開け、深々と一礼した。
後ろにいた方の女が、何のためらいもなくさっそうと塀の中へ入り、そのあとを小柄な女が続いた。
下働きの男が木戸を閉め、辺りはしんとなった。
その夜、グギョンがサンの部屋に突然あらわれた。
チョンフギョムの屋敷を今晩、訪ねた者…つまり、サンを陰謀に陥れようと、フギョムや大臣らを動かした黒幕の正体を報告するためだった。
「今夜、チョン承旨を訪ねたのは、他でもない中殿様でした」
報告を終えて、グギョンが返事を待ち構えていると、一瞬の間をおいてからサンが呟いた。
「今なんと申した…?」
2010/1/31更新
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
2017年6月9日金曜日
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...