2017年6月9日金曜日

イ・サン29話「追い詰められた虎」

東宮殿からグギョンが出て来たのを見たテスは、そわそわと手もみをして近寄っていった。
「どうなりましたか? 王世孫様に伝えましたか?」
「信じて下さらなかった…」
グギョンは残念そうに微笑んだ。
中殿は国母だ。陰謀の黒幕であるなどと口に出すのさえ失礼にあたる。王世孫にぴしゃりと話を遮られたのも無理もない話だった。
王世孫は、事件の黒幕をフギョムとファワンによるものだと考えているらしい。グギョンもやっぱりそう思ってはいた。
中殿はかつて、王様に王世子の救済を進言したほどの方だったからだ。
キムギジュが閑職どまりなのも、妹である中殿が政治や老論派の世界から距離を置いているためだと言える。黒幕であるなど、とうてい信じられない。
その一方で、今晩、テスが見たこともまた事実だった。
中殿が侍女と2人でチョンフギョムの屋敷の門を出きたところを目撃し、宮殿まで尾行したのだ。
この矛盾を説明するのに必要なものは、さらなる調査なのだろうか。それとも事実を受け入れる時間なのか…
テスが歯がゆそうに目を丸くした。
「あれは間違いなく中殿様でしたよ」
「分かっている…」
グギョンは思い悩んでいた。

フギョムの家の下働きの男は、庭を掃いている途中に、砂の上に落ちた白い封筒を見つけた。
そしてすぐにフギョムの助手へ渡し、フギョムの手元へと届けられた。
昨晩、中殿に屋敷に来られた衝撃が、フギョムの肩にまだ重くのしかかっていた。
窮地に立たされた中殿の怒りと焦りは、相当だったのだろう。
フギョムは中殿に対策を迫られたが、同時に中殿を裏切るための処理にも苦しめられた。
助手の持ってきた封筒を逆さにすると、軍器寺の証明がぽろりと落ちた。丸型の木札に赤いストラップの房飾りがついている。
同封の手紙はキムギジュに頼まれ火薬を準備した役人が助けを求めるものだった。丑の刻に天蔵山で待つと書いてあった。

「容疑者の名でチョンフギョム承旨に書状を送っただと?! ではその役人を捕らえたのか?」
同じ頃、執務室ではジェゴンが思わず目を丸くしていた。
「ええ。捕らえはしました」
グギョンは意味ありげな言い方をした。
「”捕らえはした”とはどういうことだ?」
ナムが噛み付いた。
「捕らえた時はすでに死んでいたのです。恐怖に耐えかね自害したようです…」
グギョンは答えた。

丑の刻が近くなって、グギョン、テスら護衛部隊は、大勢の禁軍兵を引き連れ、天蔵山へ向けて出発した。
天蔵山のふもとの集落までは、まっすぐ木が高く生え揃った1本道だった。月明かりが木漏れ日のように降り注いで、木々に白い霞をかけている。テス達の姿は真っ黒い影となり、人と馬の吐く息だけが生々しかった。
馬のひずめが、落ち葉を踏みしめ、激しい雨のような音をたてた。
やがて1本道を抜け、兵は集落に着いた。民家のわらぶきが、薄らと闇の中に浮かんでいる。
兵達が背中を深く折り曲げて、蜘蛛の子を散らすように村の中へ侵入すると、テスも十数名の兵を引き連れて、狭い迷路のように入り組んだ通路を進んだ。
廃虚の村らしい。兵がそれぞれの場所に落ち着き、集落はひっそりとした静けさを取り戻した。

ほどなくフギョムの助手が、黒い忍びの服を着た20名ばかりの手下を連れて、集落に現れた。
花火を準備した役人を殺しに来たのだ。
彼らは禁軍兵の通った道をたどるように、村落の奥へ奥へと入り込んだ。
3本松の曲がり角のところで手下を半分残し、助手は第一陣と一緒に、小さな空き地にたどり着いた。
長家と長家の間にわずかな抜け道があるだけで、行き止まりの閉ざされた空間だった。
助手は刀に手をかけ、木扉に向かって呼びかけた。
「いるのか…?」
返事が何も返ってこないので、恐る恐る木戸のリングに手をかけたそのとき、サッと扉に矢が突き立った。
振り返ってみると、兵士らが弓を構えて、後ろにずらりと立っている。
「罠だ。撤収だ。撤収せよ!」
助手は泣きそうな顔で必死に大声をあげた。
しかし刀と弓での激しい攻撃を交わしての後退は状況が厳しく、山中へ戻るまでに手下は次第にばらばらと減っていった。

フギョムは人さし指でコツコツと机を鳴らしていた。
天蔵山からの知らせはまだ届かない。
ようやく障子越しによく通る声がかかった。
庭へ出てみると、夜はすっかり開けて白い朝もやがかかっていた。
封筒を拾ったのと同じ下働きの男が、うっすら積もった雪の上で、ぽつんとしていた。
男はフギョムに何かを伝えようとしているのに、すっかり動揺してどうも上手く言葉が出てこなかった。
「何事だ?! 早く言わないか」
フギョムはたまらず悲痛な声をあげた。そのとき表の門扉のきしむ音がしたので、慌てて庭へ回ってみると、槍を持った兵士らがぞくぞくと入ってきた。
その後ろでグギョンが義禁府と平市署のお役人を引き連れ、門をくぐった。
フギョムを睨みつけるようにグギョンは微笑んだ。
「他の客をお待ちでしたか? それなら義禁府にいます。天蔵山にはもう誰もいません。おかげでこの家を捜査する名目ができましたよ。前から興味があった家でしてね。たたけばほこりが出るでしょう」
そうこうしているうちに兵士らが、フギョムの姿が目に入らないかのように風を切って前を通り過ぎ、裏帳簿を押収する目的で一目散に屋敷へとあがり込んでいった。
バタバタした雰囲気の中、フギョムは、ただなす術もなく悔しそうに庭に立ちすくんだ。
捜査は王命だったからである。

その日、グギョンは一通の書状を受け、日が暮れる頃に料亭へ顔を出した。
芸子は離れの部屋へグギョンを案内すると、自分はどこかへ引きあげていった。
障子を開けたグギョンに、フギョムがねぎらいの笑みを浮かべた。小さなテーブルには御馳走が並んでいた。
彼は口をつけた盃をいったんテーブルへ置き、代わりに急須を手に取り、グギョンの盃に注いだ。
「私の手下を解放してくれ。どうせ自白などするものか。死を選ぶはずだ。その代わり助言を与えよう。そなたはキムギジュというウサギを餌に私と母上を捕らえたと錯角している。しかし黒幕は他にいるのだよ。我々はただの手先にすぎない」
フギョムの正直な言葉は、どうもグギョンには受け入れられなかったようだ。
「承旨様ともあろう方が言い逃れですか。押収した裏帳簿には、最近、1万両の多額の資金が使われたと書いてありましたよ。商人から受け取ったワイロがファワン様からキムギジュ様に渡って、暗殺の準備に使われたのではないですか?」
グギョンがそう声をたてて笑ったとき、フギョムの顔にあきれたような笑みが浮んだ。
それがどうもグギョンの心に最後まで引っかかった。

今日も王様は誰にも会われないと聞いて、中殿はおつきの侍女数名を連れて、御殿を結ぶ石畳の廊下を途中で引き返した。
向こうから王世孫がやってくる。それもどうも王様の御殿の方から来たような気がした。
中殿はサンに優しく声をかけ、微笑んだ。
「あとで中宮殿に寄りなさい。ちょうどいいお茶がある。忙しいのに呼び止めて悪かった」
「いえ、忙しくはありませんが…」
サンはあまり元気のない声で、妙な言い方をした。
会釈だけし、広場の方へと歩きだしたサンの背中を、中殿が怪しむように睨みつけた。
サンのおつきの者達が深く頭を垂れたまま、中殿の前を足早に横切っていった。

キムギジュは憔悴しきっていた。ただぐったりと空っぽの棚に体もたれている。瞳孔は上を向き、もう何も考えられない状態だった。
辺りには人陰すらなかった。何日間もこうやって小屋の中に放っておかれたのだ。
換気窓から差し込む月明かりが、格子の影を壁に映した。
いっそのこと拷問され続けた方が、はるかにマシだったかしれない。中殿の秘密を守るためなら自分を犠牲にする覚悟はあった。
立ち向かう相手すらいないことが一番こたえた。気力をみるみる奪い取っていった。
キムギジュは、とつぜん口に猿ぐつわをはめられたことに驚き、野獣のようなうめき声をあげた。
それからグギョンとテスに連れられ、随分と長い間、山の中を歩かされた。

2010/2/6更新

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...