目隠しと猿ぐつわを外されたキム・ギジュに、あれこれ考える余裕などなかった。
王様が、何か言いたそうにじっと自分のことを見ていたのだ。
そのすべてを知り尽くしたような眼差しと威圧感は、キム・ギジュにとって底知れぬ恐怖となった。
そして幸か不幸か、その恐怖はキム・ギジュを完全に目覚めさせた。
「王様、私は怖かったのです…! 王世孫様と恵嬪様は、私が王世子様を死に追いやったとお考えでした。王世孫様が王位に就けば私の命はないでしょう? 中殿様は悪くありません。王世孫様を殺すなど、とんでもないと言われたのです! 信じてください。本当です。王様ぁぁっー!」
キム・ギジュは野獣のように泣き叫んだ。
王様の執務室を出て、とぼとぼと東宮殿へと戻るサンの後ろを、グギョンが声をかけるタイミングをうかがうようにして歩いていた。
しかし思った通り、サンは一人になりたいと言って、途中でグギョンをさがらせた。
翌朝、ジェゴンとナムが心配して部屋へ訪ねていったとき、サンは言った。
「心を静めようと努めている…」
キム・ギジュの自白を、自分の耳ではっきりと聞いたサンの衝撃はとても大きかった。
それどころか王様の悲しみまでもがサンの心に重くのしかかった。どんなときでも自分を支えてくれていると思っていた中殿の裏切りを現実に受け止めるのには、老齢の王様にはあまりにも過酷なことのように思えた。
もう夜も遅いというのに、王様は寝室にも戻らずに、しばらく椅子に腰かけたまま考えごとをしていた。
キム・ギジュの泣き叫ぶ声が、今はもう幻のことのように静かだった。
中殿は大きな罪を犯した。王世孫の暗殺を事前に知っていたのだ。
王世孫をかばうフリをして、何度も頬に嘘の涙を流した。
しかし今、王様の心に真っ先に思い浮かぶのも、またその中殿の涙だった。
王様は66歳のとき、国母の座を埋めるために中殿を正妻として迎えた。中殿はわずか15歳だった。
そんな彼女を不びんだと思いながらも、政務に没頭するあまり、優しい言葉すらかけてやれなかった。
中殿の欲のすべては、そうした孤独に耐えるためのものだったのではないだろうか…
そのこぼれ落ちる涙に、王様は中殿の悲しみが見えるような気がした。
フギョムは、墨の乾くのも待ち兼ねたように手早く書状を折りたたんで、下働きの男に手渡した。
まもなく書状を受け取ったソクチュが、ファワンの御殿を訪ねてきた。
ソクチュは渋い顔だった。暗殺事件の矢面に、中殿を立たせることには、まだ迷いがある。
かと言って、他に手立てがあるわけでもない。少なくともはっきりと証拠が出ていない以上、関与を否定すれば、まだ自分たちには助かる道が残されているように思えた。
しばらくの沈黙のあと、ソクチュがあきらめたように口を開いた。
「誰が中殿様にお伝えする…?」
表だって賛成とは言わないまでも、彼の中でようやく決心がついたらしい。
「私が会ってお話しします…」
まるで若い自分が背負うものだと心得ているように、フギョムが重い表情でそう約束した。
キム・ギジュを見舞いに義禁府の獄舎から出てきた中殿を待ち伏せていたフギョムは、突然、足元が揺らぐほど、中殿に頬を思いきりひっぱたかれた。
「裏切り者め! 私を陥れる気か!」
ここ数日、大臣らにそっぽを向かれ、ついには兄が獄舎に入れられた中殿の怒りはひどかった。一人でしびれを切らしていたのは、簡単に想像がつく。
フギョムは恐縮したように深く頭を垂れた。残念ながら頬の痛みがこの重圧感から自分を解放してくれるわけではなかった。
「こんなことになり申し訳ありません。ですが中殿様もお気付きでしょう? 無傷で逃れるのは不可能だと…。わずかでも希望をつなぐためには、他のものを生かしておくべきなのです。どうかすべての責任を負ってください」
嫌な役目を果たしたフギョムは、丁寧に会釈すると、くるりと背を向け、宮殿の方へ去って行った。足元には雪が降り積もっている。その足取りは、意外にも力強かった。
サンの大叔父であるホン・イナンは、御殿の長い回廊をそわそわと歩いた。
角を曲がると、御殿の前に大物大臣らがすでに集まっていて、本日、未の刻に御前会議があるとの王様の通達について、それぞれが噂しているところだった。
「この際、1人残らず爆発事件の関係者を割り出す気でしょう。望みはありませんよ!」
何事にも悲観的なホン・イナンは、今にも泣きそうな顔で吐き捨てた。
中殿が全責任を負うべきだとする者や、中殿の無実を訴えるべきだというくらいの考えの違いはあった。
しかしホン・イナンでなくても、誰1人いい想像をするものはいなかった。
王様が一段高い奥座敷の玉座につくと、大臣らは一斉に頭を垂れた。サンは王様と大臣らを取り持つようにその間に腰掛け、グギョンは朱柱のそばに控えた。入り口に2名ほど速記係が机を並べていた。
「そなたたちを呼んだのは、爆発事件の真相が明らかになったからだ。先日私は司憲府持兵ホン・グギョンを執義に昇格し、事件の真相解明を命じた。だが調べたところ、あれは単純な事故だったと判明した。火薬の扱いを誤ったためで、王世孫を狙ったものではない」
ソクチュ、ジェゴンは発表に驚いて思わず顔をあげた。サンの目にも、王様の発言をどう捉えようかという迷いが、はっきりと浮かんだ。
「恐れながら王様…」
グギョンが思いきって口を開こうとしたのを、王様がぴしゃりと跳ね除けた。
「ゆえに、この件はこれにて落着とする。二度と言及しないように。分かったな」
大臣らのなすびみたいな帽子が、あちこちで揺れ動いた。
そのざわめきを背に、フギョムは目の奥でじっと考え込んだ。でもいくら考えてみても、この結果だけはよくわからなかった。
「辰の刻の重臣会議に続き、各部署からの業務報告があり、末の刻には肖像画を描く画員が参ります…」
翌朝、王様に今日1日のスケジュールを読み上げていた男は、ひじ掛けにもたれていた王様の手が、額に動いたのに気づいた。
「王様、お顔の色が悪いですね。すべて中止にして御医を呼びましょうか…」
「いや、少し疲れただけだ。予定通り進めよ」
王様は少し慌てたように、疲れた目を瞬かせた。
このたび御真画師に選ばれたタク画員は、予定の刻に王様の部屋に通された。
タク画員が随従画員にソンヨンを指名したのは、ソンヨンのことが個人的に気になりはじめたという理由の他に、もう1つある。絵の腕の確かな者がそばにいてくれた方が、心強いと考えたのだ。それくらい若いタク画員は、少しナイーブなところがあった。
テーブルの端に並べた文鎮の1つで、まずは紙ジワを伸ばし、小筆の先を指で整えた。それから適当に折り畳んだ捨て紙に、試し線を引こうとして、タク画員は首を傾げた。
緊張のあまり、手の震えが止まらないのだ。
焦りばかりが募るなか、おつきの男と役人2名を従え、王様がいよいよ部屋に姿を見せた。
「始めよ」
王様が椅子に腰掛けたのを見計らって、役人が指示を出した。
タク画員は仕方なく、震えるまま筆を握り、紙の上に墨をのせた。案の定、線が途中で大きくそれた。慌ててソンヨンに新しい紙と取り替えさせたものの、タク画員の手の震えはおさまるどころか、どんなに手首を強く押さえ付けても、ますます激しくぶれる有り様だった。
「下絵は私が描きます…」
ソンヨンが見兼ねて声をかけた。しかしそばにいた役人が、それを聞き逃さなかったらしい。眉間にしわを寄せて、途端に文句を言ってきた。
「ふざけているのか! 卑しい女の茶母ごときに王様の肖像画を描かせるだと?!」
「この者は茶母ではありません…。図画署の画員なのです…」
タク画員は今にも死にそうな顔で言い訳をした。
彼らのやり取りが耳に入ったのか、それまで眠ったようにじっと目を閉じていた王様が、とつぜん興味を持ったように口を開いた。
「その女が画員だと? そんなことがあるのか。どれほどの才能があるのか私も見たい。よかろう、そなたが筆を取れ」
その夜、タク画員とソンヨンが、それぞれ風呂敷包みを1つずつ手にさげて、御殿の短い石段を下りてきたのは、もうすっかり暗くなってからだった。
ソンヨンのおかげで何とか下絵を完成させることができたタク画員は、ホッと胸をなでおろした。
宮殿に背を向けて2人が歩きだしたとき、急に後ろから呼び止められ振り返ってみると、王様のおつきの男が、短い階段を駆け下りてきた。
「何かご用でしょうか?」
タク画員は深々と頭を下げた。
おつきの男は、タク画員の隣に立っているソンヨンの方にちらっと目をやって、急かすような冷たい口調で言った。
「そなたではなく、この女だ。王様が今夜、寝所に来いと仰せだ」
2010/2/14更新
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
2017年6月9日金曜日
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...