「イサン」あらすじ 41話
御医の診断によると、王様の倒れた原因は脳硬塞だった。
フギョムはこの騒ぎの少し前、王様を殺せば、結局は王世孫に王位が譲られることになるのに、中殿の狙いは一体何だろうと、ファワンに疑問を漏らしていたが、その鍵は、王様が都承旨に書かせた王世孫廃位の通達にあった。
この最後の通達こそが、正式な王命というわけだった。
大臣らも意識不明の王様に、意思は確かめられないとして、譲位の無効を主張した。
王世孫と王様の暗殺が失敗に終わったあと、王様の危篤は中殿にとって、まさに天にも昇るような奇跡といえた。
昼間のうちに召集された極秘の会合には、老論派の大物メンバーが揃った。
それは会議というより、むしろ中殿の独壇場と言った方が正しかった。
今晩、老論派の息のかかった禁軍営と禁軍を動かし、王世孫の住む東宮殿を総攻撃することを聞かされた大臣らは、驚きながらも中殿の指示にすすんで従った。
今この瞬間こそが、最大のチャンスだった。
会合の中で、中殿は“王世孫をひきずり下ろす”という大胆な表現を使った。
王世孫を軟禁、さらに便殿にて王様の宣旨を発布するのを、明朝とした。
会合が終わると、ソクチュとフギョムは石庭へ出た。のどかな鳥のさえずりが聞こえ、会合のピリピリした感じが嘘のようだった。そのせいかソクチュもここでは本音を口にした。
「これは明らかに謀反だ。王様は私に譲位を告げたのだ」
「まさか、手を引くおつもりですか?」
「密告するつもりはないと言っても、どうせ信用しないだろう。私に見張りでもつけるがいい…」
ソクチュは少し投げやりに答えると、不安の色を浮かべたフギョムを置いて、その場から立ち去った。
この話を聞いたホン・イナンは、今度ばかりはソクチュが判断を誤って、貧乏くじを引いたのだと言い張った。
一方、禁衛営の執務室へシン大将を訪ねたサンは、その苛立ちを隠そうとはしなかった。
シン大将の代理を務める兵士は、シン大将は武器を確認しに行ったきり、昨晩から戻って来ないのだという言い方をした。
宮殿の警備を預かる大将が、任務を怠けて消えるなど、信じられるだろうか…?!
シン大将の正直な人柄を知っていればなおさらのこと、事件に巻き込まれたと考えた方が自然だろうとサンは思った。
とすれば宮殿を守るはずの禁衛営には、すでに敵の息がかかっているということになる。
さらに禁軍の方を指揮する別将チョ・ジョンスは、老論派の一味でもあった。
ジェゴンは口を硬く結んだまま、深いため息をついた。
「もし禁軍も反旗を翻せば、ひとかたまりもない…」
残る東宮殿を守る護衛部隊の数は、たった数十名にすぎなかった。
「今夜、千人を超える兵士が私の首を狙ってくるのだな…」
サンは目の奥で考え込むように、ぽつりと呟いた。
その数、禁軍700名、禁営軍400名にのぼる。
サンは、テスら護衛部隊に、城内の禁軍と禁衛営の動きを警戒するよう指示を出した。
事実、普段は護衛部隊の警備区域となっている東宮殿の前を、兵の一部が、堂々と昼間から偵察にやって来るほどだった。
テス達は、刀のさやを布で拭き、武器の準備を整えた。
長ヤリを手にした赤服の禁軍や、銃を縦に構えた灰色の鎧をつけた禁衛営の兵士が、宮中の庭を足早に行進する姿は、サンの目にもとまった。
彼らは敵のようにも、味方のようにも見えた。
町は反乱の噂でもちきりだった。
テスの叔父が、市場を通ったときには、すでに人どころか猫一匹、見当たらなかった。
市場の屋根、柱の骨組み、そして丸裸の縁台だけがその場に残された。
図画署でも当分の間の業務の休止が決まった。茶母達は、庭の洗濯物を竿から取り込んだり、縁台に広げた器類を、手早くしまい込んだりした。
作業場では画員が描きかけの絵を折りたたんで、筒状のバックに入れて肩にかけた。 絵の具用の小皿はすべて膳の上に集められて、筆は汚れをとり去り、フックに吊り下げられた。
夜には、中門の警戒も強化され、部外者の出入りは禁止となった。
サンは一度、大殿まで王様の様子を見に行った。王様は白い肌着に、きなり色の厚衣を着て横たわっていた。相変わらず意識不明のままだったけど、額にびっしょり浮かんだ汗が、生とのきずなに見えた。
御医が王様の親指の付け根の辺りに、針を刺しているのを見て、サンが尋ねた。
「症状が改善したのですか?」
「そうではなく、脳硬塞で片腕に麻痺が生じたようでございます…」
御医はかしこまって答えた。御医の後ろには医女が2名ほど、針を並べた平らなカバンを膝にのせて座っていた。
夜になり、宮中内の禁衛営が、王世孫を捕えようと東宮殿の庭をいきなり占拠した。
ところが老論派の一味の禁軍別将チョ・ジョンスが、禁衛営を武装解除させたことで、騒ぎは一気に終息に向かった。
禁軍が王世孫の味方についたのは、禁衛営にとっては予想外の出来事だったが、それはサンにとっても同じだった。
禁軍別将チョ・ジョンスは、事前にキム・ギジュから、協力を依頼されていた。
しかし“王世孫が王様の病にかこつけて、王座をのっとろうとしている”とのデタラメな話を、そのまま鵜呑みにはしなかったのだろう。
また彼は真面目な性格でもあった。王様の宮殿を守る任務を、忠実にまっとうしたのである。
禁軍別将チョ・ジョンスの裏切りは、中殿には全くの想定外だった。
総攻撃の失敗で、中殿は宮殿を逃亡するはめになった。
誰の目にもつきやすい金のとんがり屋根のコシは、途中で乗り捨てなければならなかった。
頭からすっぽりとマントで顔を隠し、キム・ギジュ、尚宮の3人で、貧しい民家に沿って、闇の中を足早に駆け抜けた。
彼らを逮捕しようとグギョンが中宮殿に乗り込んだときには、すでに部屋はもぬけの殻となっていた。
一方、サンは禁軍別将チョ・ジョンスを部屋に招いた。お礼とねぎらいの言葉をかけてやるためだったが、そのとき別将は、中殿が老論派に宛てた密書を卓上机にのせて告げた。
「この密書は城外に移動させられた五軍にも伝えられています。彼らの兵2万が都に攻めて来たら、事態は収集不可能になりましょう…」
翌日、図画署では、パク別提がいよいよ部署の閉鎖を画員と母茶に伝えた。
五軍営に攻められ、都中が戦場になるなど、さまざまな噂が飛び交うなか、その詳細については、パク別提も分からないとした。
サンは五軍の攻撃に備え、平安道の兵使イ・サンピルに援軍を求めることに決めた。
イ・サンピルは、王世子に最後まで尽くし、サン自身も力になって貰った経験のある人物だった。
イ・サンピル宛の密書は、王世子の護衛隊長だったソ・インスに託された。
仁王山を超えるまではテスが護衛し、そこから1人で早馬に乗った。
ソ・インスが楊州の関所を無事に突破したという知らせを聞いたサンは、執務室で作戦を練りはじめた。
会議には別将チョ・ジョンス、ナム、グギョン、ジェゴンの他、よろい姿の兵3名が参加した。
平壌から援軍が到着するまでは4日ある。その間、何とかして城を持ちこたえさせるのが重要な課題だった。
「各門に100名の禁軍を配置し、残りは城郭を守ります」
チョ・ジョンスは、山に囲まれた宮中の敷地図の東西南北それぞれに手を置いた。するとサンは右端の山の周りを手でなぞりながら言った。
「敵はこちらから攻めて来る。ここに追加の人員を」
現在、すでに1万を超える五軍が、都へ近づいていた。
さらにサンにとって不運だったのは、この無謀な戦いに命をかけることを疑問視した声が、内部にあったということだ。
そのうちの禁軍部隊長2名が、自分の軍を引き連れて宮殿を飛び出し、中殿側に寝返った。
禁軍部隊長2名と離脱した一部の禁軍を受け入れたことで、中殿は再び風向きが自分の優位に変わったのを感じとった。
城に残っているのは、数十人の護衛官と300名足らずの兵士に過ぎない。
進撃中の五軍営も、じきに都に到着するところだった。
中殿は急きょ、避難先の屋敷から宮殿に戻ることに決めた。
もう夜まで待つ理由はなくなったのだ。
圧倒的な軍の数を見て、門番の兵士らは、慌てて持ち場を離れて逃げ出した。
金の丸型ヘルメットをかぶった大群のあとには、ヤリを手にした禁軍が雪崩のように駆けこんだ。
続いて、中殿、キム・ギジュ、ファワン、フギョム、逃亡した禁軍の部隊長2名、ソクチュを除いたホン・イナンら大臣総勢が、堂々と城に入場した。
押し寄せる軍の歓声が、門からまた次の門へと地響きのように広がっていった。
兵士が中門を突破するのとは別に、大臣らの長い列を引き連れた中殿が、屋根付きの外廊下を大殿に向かって静かに突き進んだ。
「左承旨。王世孫を捕らえよ!」
中殿の凍るような声が、大殿の前に響き渡った。
キム・ギジュがさっそく兵数名と一緒に、大殿へ踏み込もうとしたそのとき、大殿の扉が開け放たれ、サンが自ら姿を現した。
そのサンの背後にある顔を見て、中殿は青ざめた。
王様が立っていたのである。
2010/5/16更新
「イサン」あらすじ 42話
王様の意識が戻ったことを、サンに知らせたのはナム尚洗だった。
サンが慌てて寝室まで様子を見に行ってみると、王様が天井を見つめるように薄らと目を開けて、床についていた。
体力を消耗しきった体は、ぐったりとして見えた。それでもサンの方に伸ばしてきた手は、ふっくらとしていた。
王様はたった一言だけ、声にもならない声を漏らした。
「サンやぁ…」
サンは王様の手を両手でしっかり握りしめて、一筋の涙をこぼした。サンが幼かった頃から王様はずっと孫のことを、そなたと呼んだ。
すぐに体を起こせるようになった王様は、御医に処方された烏薬順気散を飲み干した。色を失い、腫れぼったくなった唇に、自分でナフキンをあて、水滴をぬぐった。
おつきの男に支えられながらではあったけど、王様が自分の足で立っているのを見た中殿や重臣たちは、それこそ心臓が止まるほど驚いた。
王様の前に慌ててひれふす彼らの列は、渡り廊下のずっと後方にまで長々と続いた。
しかし中殿らが大殿に攻め込もうとしたその一部始終を、王様は見ていた。
てっきり病が快方に向かっているものと、サンが期待を持ったのも無理はない。
御医が後でサンに話したところによると、王様の容態は依然として極めて深刻で、意識が戻ったのは、まるで奇跡とのことだった。
激怒した王様は、その場で大臣らを捕り押さえるよう指示し、中殿、ファワンを部屋に軟禁した。そして全員を大逆罪に問うよう、サンにくれぐれも言いつけた。
禁軍別将チョ・ジョンスの指揮によって、中宮殿の周りには、監視の軍が配備された。
事態を知らない五軍営の兵は、南泰嶺を超え、あと数時間で都に到着するところまで迫っていた。
サンは王様に頼んで臨時の通達を書いて貰うと、万一のため、城外へ禁軍を配備した。
グギョンに手渡された通達は、緊急の赤旗を背中になびかせた早馬で、五軍営のもとへと届けられた。
テスの叔父さんとソンヨンは、その頃、ちょうど町の通りを歩いていた。
人々が避難したあとの通りは、ただガランとしていた。城外に移動する禁軍の列が、砂ぼこりをまき散らして走り抜けるのを見て、2人はいよいよ戦争がはじまるのだろうと思った。
しかし意外なことに、禁軍兵の2列の影が、道に引きずられて消えたのと入れ替わりに、町には五軍営の解散のニュースが流れてきた。
王世孫の廃位を狙った謀反は、終えんを迎えたのである。
宮中の各部署に下りていた休止令も、まもなく解除された。パク別提から業務再開の発表を聞いた画員や母茶らの表情には明るさが戻った。
その一方で、謀反に関係した者が3日後には少なくとも100人は処罰され、都に血の雨が降り注ぐだろうとの噂が流れた。
重臣たちが尋問されるとか、勢力の一斉排除がはじまるなどの話もささやかれた。
パク別提は、朝廷の問題に気を取られることなく、それぞれの職務をまっとうするよう、画員や茶母らに注意を付け加えた。
こうして事件が終わってみると、サンは改めて思うのだった。
この激動の数日間、いかに死が目前に迫っていたのか…
1万の兵を抱える五軍営が、都に近づいてくる間、サンの頭に浮かんだのは、グギョンのことだった。
「死なせるには惜しい男だと思った。そなたの抱いた大志や夢が、私に仕えたために実現できずに終わるかと…」
サンにこう打ち明けられたグギョンは、感極まって涙まで流した。
グギョンが野心家だというのは、前々からサンの承知するところだった。案の定、彼はその後、事件に関わった者を根絶やしにしようと、活発に飛び回りはじめた。
陰で関与した者も含めて、サンの卓上机に提出されたとき、その一覧は分厚い1冊の書物になっていた。
ところがグギョンは、サンの表情に、どこか暗い影があることに気付いた。
断罪できる喜びよりも、何かを迷っているように映ったのだ。
処罰の一覧にあげられた名は、王様の妻である中殿の他、サンの叔母のファワン、大叔父のホン・イナンと、サンの身内ばかりだった。
「そなたの言う通りだ。処罰をためらっている…。だが心配するな。やるべきことを躊躇せず、実行することが必要なのだ。罪を罰しなければ国が立ちお直らない」
サンはきっぱりとグギョンに約束をした。
その言葉に勇気づけられたグギョンは、ますます調査に本腰を入れて奔走した。
罪の大小はあれ、中殿の密書を受け取った者まで全てをリストアップした。
禁軍別将チョ・ジョンスの協力で内幕を暴き、中殿がウンジョン君を王座にのしあげようとしていた事実もつかんだ。
これで腐った朝廷がようやく一心されるだろうと、グギョンは期待を膨らませた。
王世孫を苦しめた敵を根絶やしにすることは、もはやグギョンの悲願でもあった。
しかし突然、グギョンはサンに大きく失望して、朝廷を離れることになる。
編み傘をかぶり、海岸の岩場で釣り糸を垂れる彼の姿は、さながら失恋した放浪者のようだった。
そのきっかけとなったのは、内兵曹の留置場に投獄されたフギョムが、檻の隙間から助手に手渡した1枚の書状にあった。
書状は助手の手から、吏曹判書ソクチュの屋敷へ届けられた。
手紙の内容は、助けを求めるものであった。
ソクチュはじっくりと考え、やがて書状を軽く折りたたむと、下働きの男を呼んで、宮殿へ行く身支度を整えるよう伝えた。
王世孫の部屋に通されたソクチュは、適当な線で事件をもみ消すようサンに提案した。
具体的には、キム・ギジュの他、離脱した禁軍の部隊長、工曹判書、刑曹参議、官曹参判らに罪をかぶせる範囲で、手を打つというものだった。
サンは当初、とんでもない案だと苛立ち、ソクチュを怪しむように睨みつけた。しかしソクチュにも言い分はあるようだった。
「処罰の対象になる重臣は100人を超えます。王世孫様は朝廷が覆ることはないと私に約束されました。私はそれを守って頂きたいのです」
サンが厳しい表情ながらも黙り込んだのを見て、ソクチュは根気よく説得を続けた。
「以前、王様は王世孫様を廃位する宣旨を出されました。しかしその翌日には、一転して譲位を決めたのです。廃位の無効を説明するためには王様の病名を明かす必要があります。それは記録され、後世の歴史に残ることにもなりましょう。ここまでの事態になっても病のことを隠す理由は何ですか? 王様の御心が傷つくのを、恐れているからではありませんか…」
まもなく、サンは投獄された重臣らを便殿へ一同に集めて、処分を言い渡した。
その内容は、大臣らはもちろんのこと、グギョンをひどく困惑させた。
左承旨キム・ギジュと禁衛営の指揮官、禁軍の部隊長2名は、官職をはく奪したうえ流刑とし、内通した工曹判書イ・テソク、刑曹参議オ・インチョル、吏曹参判ペ・ヨンスにも同様の処罰を下した。
死刑をまぬがれ、あっさり釈放になった多くの大臣らは、胸のつかえが下りたようにホッとし、水が浸みこむような速さで、以前と同じそれぞれの日常生活に戻って行った。
グギョンの猛抗議も空しく、捜査はサンの一存で打ち切りになった。
またサンの母、恵嬪は、王世孫の譲位を妨害しようと軍まで動かし、大殿へ押し寄せた罪にしては、あまりに刑が軽すぎることにどうしても納得がいかず、直に王様へ訴えてみようと、密かに大殿へと足を運んだ。
フギョムは釈放されてすぐ、ファワンの御殿へ挨拶に顔を出し、今回の処分は王様の認知症が公になるのを、王世孫が恐れた結果だろうと言った。
ただ1つだけ気になったのは、大臣の内輪でのミーティングに出席していた都承旨を、大殿のおつきの男が、慌てて呼びに来た点だった。
理由を尋ねるホン・イナンとフギョムに、大殿の男は、かしこまってうつむきながら、王様が新しく宣旨を出すようだ、とだけ答えた。
さっぱり釣れないので、さては魚に心を見透かされたかとグギョンは思った。
グギョンを朝廷に連れ戻しに来たテスが、心配そうにそばに突っ立っていた。
黄色い夕日が空を隅々まで染め、海岸の岩を黒い影にした。その強すぎる光は、海面に白い道筋を作って、波打ち際にしゃがみ込むグギョンに向かって真っすぐに伸びていた。その周りで波は尽きることなくツノを立てた。
釣り場所を変えてみよう…そうグギョンは独りごとのようにテスに呟いた。
見切りをつけ、岩の隙間に引っかけておいた2本の竹ざおを撤収していると、背中越しから、突然ジェゴンの穏やかな声が流れた。
「そなたが今釣るべきは、王世孫様の心であろう? どうせ場所を変えるのなら、宮殿に帰りなさい」
2010/5/23
「イサン」あらすじ 43話
兵曹判書ハン・テス、工曹参判チョン・イクソンなどが正体不明の男達にさらわれた。
大臣らは連日1人、また1人と消えていった。
特に前左議政オ・ヒョンス、前刑曹参議イ・ジョンホの2人は、かつて王世子の死に関与した者だっただけに、残った大臣らはいっそう不安になった。
実はその水面下では、それこそホン・イナンが聞いたら、悲鳴でもあげそうな出来事が、もう1つ起こりつつあった。
つい最近、王様は都承旨を呼び出し新しく宣旨を書かせたが、その内容は概ね以下の通りである。
「本日、丙申年2月13日、中殿キム氏の中殿の位を廃し、平民に降格させる。中殿の務めは王を支え、民を慈しむことである。だが中殿キム氏は役目を果たしていない。ゆえに住まいを中宮殿から嘉靖堂へ移す」
ただしこの宣旨の実際の公布は、王世孫の考えに委ねるとした。
王様はついでに今日から国王の座をサンに譲るつもりでいた。しかしこれはサンの方が辞退を申し出たため、代わりに摂政に任命するとした。
さらに大臣らの釈放を不服とする恵嬪の訴えを聞き、先日王世孫が下したキム・ギジュらへの処分を、とつぜん撤回すると発表した。
禁軍の部隊長らは打ち首となり、左承旨キム・ギジュは流刑地が厳しい辺境に変わった。
大臣らの集うミーティングルームに顔を出したホン・イナンは、最も悲観的だった。
「結局、連中は我々を安心させたあとで、じわじわ殺す気なのですよっ!」
ソクチュをはじめとする大臣達も、今度ばかりは、ホン・イナンが、先走りしているだけとは思えず、皆そろって渋い表情になった。
これらの悪い知らせは、どこかでつながりがあるようにさえ思えた。
恵嬪がソンヨンを宮殿に呼ぼうと思いたったのは、亡き王世子の書状を見つけた手柄を称えるためだった。
庭から宮殿の部屋へと案内する間、嬪宮のおつきの女は、ソンヨンにやかましく忠告をした。どうも彼女はソンヨンとサンの恋仲を疑っているようだった。
「王世孫様が王になられたら嬪宮様が中殿様になるわ。つまり国母になられるということよ」
あと数年もすれば、おつぼねになりそうな微妙な年頃にも関わらず、ベビーフェイスのせいか、おつきの女にはどこか憎めないところがあった。
しかし恵嬪に謁見した帰り、ソンヨンは嬪宮本人に勧められて、サンのいる弓場へ1人で足を運ぶことになった。
世継ぎの誕生を諦めようとしている嬪宮には、ある思いがあった。
夫の抱えている様々な不安をソンヨンが上手く和らげてくれるという期待、そして将来国王になる夫には、世継ぎの産める女性が必ず必要になるという現実だった。
弓場では尚宮らが脇の簡易テントで、サンの練習を見守っていた。
同時に護衛たちの視線も浴びながら、サンは力いっぱい弓を引いた。
弓はきしり、矢に添えられた指と一緒に小刻みに震えた。
手を放した瞬間、矢は猪の的の絵に突き刺さった。サンは1本、また1本と、何かにとりつかれたように矢を放ち、そのすべてを猪の額や鼻筋に命中させた。
サンの背中を眺めていたソンヨンは、今は声をかけるのをやめておこうと思った。
サンはただ矢を放っているという雰囲気とは、かなり違っていた。
事実、父や自分を死に追いやろうとした敵の心臓を、気持ちの中で打ち抜いていたのだった。
その個人的な恨みや怒りを、サンが胸の張り裂ける思いで抑え、冷静に努めようとする理由はただ1つ、自分がこの国の王世孫であるからだった。
赤服の兵隊に続いて、牛車に引かれた丸太の檻が、町の通りにさしかかっていた。
「よくもあんな罪を犯せたもんだ!」
やじ馬たちが、義禁府へ護送される罪人に向かって叫んだ。
大きな旗をなびかせる兵士らの後に、2人用の長細い檻が通り、次いでキム・ギジュ1人をのせた小型の檻がやって来た。
白装束を着たキム・ギジュは、見物人の中に、知った顔があるのを見て、熊のように吠えかかった。
「このキム・ギジュをなめてはいかんぞぉ。必ず戻って来る。その時こそお前と王世孫を絞め殺してやる」
しかしいくら叫んだところで、キム・ギジュは檻の中だった。
その大きく見開かれた視線の先には、グギョンが立っていた。 まだ他に楽しみがあるかのように、意味ありげにキム・ギジュを見つめ返していた。
キム・ギジュの声は牛車が進むにつれて、しだいに遠くなっていった。
その日、右洗馬のテスは、訓練場に行かずに、サンの命令で、さんざんグギョンを捜しまわった。
ようやく見つけたときには、グギョンは山林の集落の小屋へ戻っていた。
まだ帰宅したばかりらしく、脱いだ傘帽子を縁側に置き、テスにこう返事をした。
「釣りに行ったに決まっているだろう」
声は淡々としながらも、何か考えのある顔つきだった。
メシの支度をすると言い残して、グギョンが地下足袋を履いたまま、奥の部屋へあがり込んでしまったので、テスは仕方なく魚を片付けるために、縁側に投げてあったカゴバックの口を広げたものの、なぜかその中身は空っぽだった。
とっさに、地面から草ぶき屋根に立て掛けかけてあった2本の竹竿を手に取ってみると、釣りに行ったにしては乾いていた。
夜、黒い忍びの服に身を包んだ男たちは、ホン・イナンの誘拐が、フギョムの一味に勘付かれて、失敗に終わったことをグギョンに報告した。
手下を見送ったあと、グギョンはしたたかな目つきで、一息ついた。そのまま母屋の小屋へ戻ろうとしたところを、突然サンに呼びとめられたのだった。
グギョンは内心驚きながらも、かしこまってじっと頭をさげた。計画が失敗に終わったのを悟った瞬間でもあった。
サンの隣には、ナム尚洗、グギョンの行動を怪しく思って密告したテスが立っていた。
グギョンは大人しく、納屋へサンたちを案内した。
扉が開け放たれた瞬間、月明かりが板の目の隙間から筋になって小屋の奥まで広がった。
その光は、行方不明となっていた6人の大臣たちを照らし出した。大臣たちは手や口を縛られた状態で、涙ながらに助けを求めた。
サンはグギョンを、きつく睨みつけて聞いた。
「そなたの手で殺すつもりだったのか?」
「はい。さようでございます…」
グギョンはガックリとうなだれて答えた。
サンにはグギョンの信念が理解できた。
グギョンの無念は、それ以上にサンの無念だった。
しかしその手を血で染めるのは自分であって、部下であってはならなかった。
サンの命令で大臣らがその場で解放されると、グギョンは、こみあげる心の苦しみを押さえつけるように、自分の胸に強くこぶしを打ちあてた。
しかしその夜のうちに、グギョンはきちんとした身なりをして、朝廷へ復帰した。
サンにはこれから、まだたくさんの改革が待っていた。その案を練る仕事を任されたソクチュは、事実上の昇進と言って良かった。
一方、王族の家系図を作る職を言い渡されたフギョムは、正三品から7階級下の主簿への格下げを意味していた。
ソクチュはジェゴンと協力して、派閥や身分を問わない26人を事務官などの官職の候補者に決め、そのリストの提出を速やかに済ませた。
次にはサンの念願であった王世子に関する史書の記録を修正する準備をすすめた。
2日後の昼の午の刻、天候くもり。
王世孫の一行は山へ向かって、高い滝の正面に参列した。足元には川が広がっている。
山頂から一直線に落ちる滝は、谷間の両脇に積もった白い雪で3本のストライプに見えた。
行事の参列者は、サン、恵嬪、嬪宮、グギョン、ジェゴン、ソクチュ、サンの母方の祖父の他、テスら護衛、警備兵、尚膳、尚宮、女官、行事を記録するソンヨンら図画署員と、設営テントの中に大勢の大臣らの顔ぶれがあった。
係の役人4名が、王世子の記録史からページを1枚ずつ取り外しては、川の中で表と裏にゆっくりと返しながら墨を消し、川べりに控えたソクチュやグギョンに手渡した。
途中から、おつきの男に脇を支えられて、王様も山奥の現場まで顔を出した。
王世子の屈辱が晴れるこの日、その妻であった恵嬪がぽろぽろと涙を流しているのを見て、王様は言った。
「そなたには合わせる顔がないな」
「もはや思い残すことはありません…」
恵嬪は感無量な様子で頭をさげた。
水の流れとともに、 王世子の汚名はそそがれていった。
集まった者たちは皆、川の音に耳を傾けて作業を静かに見守った。
王様の耳には、米びつの中から無実を叫ぶ、王世子の声が流れた。
やがて一行は、冬の木立の間を、ゆっくりと下りはじめた。
王様のすぐ後ろには、サン、恵嬪、嬪宮がついて歩いた。行きとは違って、行事を終えた一行には、リラックスした空気が広がっていた。
なかでも一番、ホッとしていたのは王様だった。
病のなか、はってでも来た甲斐があったと、つくづく思った。
小鳥のさえずりや、冬の木や、曇り空を記憶に残すように、まじまじと眺めては喜びに浸った。まるで目に見えない何かを追うように熱心に歩いた。
サンが思わず心配して声をかけた。
「険しい道が続きます。どうぞ後ろのコシへお乗り下さい」
「いや、大丈夫だ。このまま歩きたい」
王様は微笑み、息苦しさから深い呼吸をした。
雪がときどき綿毛のように舞った。日差しは暖かかった。
2010/5/30更新
「イサン」あらすじ 44話
山から帰った翌日、大殿は朝から張り詰めた空気に包まれた。
内官と女官が総動員され、宮中をさかんに行き来した。それは大殿つきの者だけでなく、恵嬪の女官までに及んだ。
王様は明け方の寅の刻に起床された…。お食事を持って部屋へ入ったときには、すでにどこにもいなかった…
おつきの男は今にも泣き出しそうな顔で、サンにそう状況を説明した。皮肉にもサンの目に、王様の寝室はいつもと同じ景色に映った。
座椅子に乱れた跡はなく、燭台の灯りは消えている。朝の着替え用にと、金の刺繍紋入り赤衣が卓上机の上に丸首を表に出して畳まれ、その横には茄子型の帽子が立ててあった。
サンの頭の中に、絶えずつきまとうもの…。それは王様が死にに行ったのではないか、という不安だった。
出勤前に洗濯物を干していたソンヨンは、テスの叔父さんが随分と慌てた様子で出かけるのを見て、思わず声をかけた。
「国葬になる前に、品物をさばかないといけないんだよ」
おじさんはそう答えて、垣根から出て行った。
王様危篤のニュースは、すでに民衆も知るところだったけど、さすがに今朝の宮中の混乱についてはまだ誰も知らなかった。いつもと同じ1日のはじまりに思えた。
その頃、王様はお供の2人を連れて、町をお忍びで視察していた。
広場には簡易テントが貼られ、通りの軒先に台を置いただけの露店が並んだ。
若い女は桃色の反物を広げて品定めし、商人は大荷物を背中に抱えて歩いた。編み籠屋は、皿型、お盆、しゃくし型など様々な商品を取り揃えて、どの店も繁盛した。
餅売りの老人に声をかけられ、王様は足を止めて言った。
「餅をいただくとしよう。ところで近頃、暮らし向きはどうかな」
「町も賑わい景気もいい。言うことなしですよ、だんな! これもすべてあの王様のおかげです。これほど庶民の暮らしを考えてくれる王様は他にいません」
「何が王のおかげだ。あの老いぼれは宮殿で座っているだけだ。しかし良かった。老いぼれの一生もムダではなかったかな」
王様は少しとぼけた口調で言い返した。
餅屋の老人は、紙袋に手を突っ込んで底を作ってから、木箱に並んだ数種類の餅をいくつか放り込んで、王様に渡した。2文のところ1文余分に王様から代金を貰ってとても喜んだ。
王様は辺りの風景をその目の中にじっくりとおさめた。
客を呼び込む声がする。市場は人ごみに溢れ、活気に満ちていた。
「図画書の茶母が参りました…」
夜になって、王様の命令でソンヨンを連れに行ったお供の男が、郊外の屋敷へ戻って来た。
すぐ中に通すよう返事があり、ソンヨンが障子を開けた。
薄墨で描かれた梅花の屏風絵に、月明かりが格子の青い影を映して、王様の顔も一緒に照らした。
卓上机から胸が隠れるほど王様の体はしぼんで見えた。濃いシミの浮かんだ皮膚は枯れ、生気がなかった。光沢のある薄黄色の着物を着ていた。
もう黄泉の国に半分浸かっているようでいて、ソンヨンを見つめるまなざしは強かった。
お供の男が、水ボールと絵の具皿のセットを床に置いて、そっと部屋を去っていった。恐らく本来は、剣の精鋭であろう雰囲気を漂わせた男だった。
肖像画を描くために呼ばれたのでしょうかと尋ねるソンヨンに、王様はそうだと答えた。
ただそれは王様自身のものとは違っていた。王様がかつて怒りにまかせて燃やしたものだった。王様は肖像画に必要な顔の特徴を、1つずつ記憶の奥から取り出しては、懐かしむようにソンヨンに聞かせた。
「顔立ちは細長く、端整で鼻筋が通り、顔全体から気迫が感じられた。口元はしっかり結ばれ赤みを帯びていた。目元はそう…あの子の目元は王世孫とそっくりだ。王世孫と同様、善良な眼差しが聡明な輝きを放っていた。そして、よく笑う子だった」
思い出はどんどん溢れ、尽きることはなかった。
ソンヨンは明け方にかけて、王世子の肖像画を完成させた。
王世子の目はりりしく、表情は温かだった。絵の中で王様に生き生きと微笑みかけ、引き締まったピンクの口元から、今にも何かを喋り出しそうだった。
王様は絵のお礼にと、手のひらに指輪をのせて差し出したが、それは生母である淑嬪チェ氏の形見であった。
ソンヨンは戸惑いながらも、かしこまって頭を伏せたまま、指輪を受け取った。
ソンヨンが古い友達で、今はそれ以上の存在だと孫のサンから聞いて、王様がどうしても渡したがった。
リングはペアだった。やわらかな色の乳白石で、赤い糸によって1つに結ばれていた。
ソンヨンが去ったあと、王様はぐったりした。
肖像画の顔を手のひらで優しくなでながら、もうすぐ会えるはずの息子に語りかけた。
「あの世ではいい父親になろう」
最後にそう約束した。
夜になって、王様から厳重に口止めされていた禁軍別将が、突然サンの部屋を訪れ、滞在先を告白した。
サンはすぐに馬を飛ばしたものの、屋敷に到着したのは明け方だった。
石段の上り口から何度呼び掛けても返事はなく、部屋に飛び込んでみると、王様が仰向けに転がった状態で亡くなっていた。
王様の崩御を受け、宮中は慌ただしくなった。
大殿の前では大臣らが石段に身をすり寄せるようにして、大袈裟な泣き声をあげながら、土下座を繰り返した。
嬪宮は恵嬪と一緒に涙を流し、軟禁中のファワンは、荒々しく泣き崩れた。
王様の崩御を知らせるために、係の男が宮殿の瓦屋根に立って、黄色い衣を両手に高くかかげた。大量の雲が速く流れ、太陽は隠れて白く光った。
屋根の上の男は歌うように崩御の一報を叫んだ。黄衣は風に打たれて細かくひるがえり、声は雲の隙間を抜けた。
ホラ貝の音色が線のように流れて、中宮殿まで届き、大殿をじっと遠くに眺める中殿の目を赤く染め、哀しみの涙を浮かべさせた。
サンはその晩、しめ縄つきの帽子をかぶり、黄ばんだ生地で作られた喪主の衣装に身を包んだ。
護衛部隊や茶母以外のほとんどは、みんな白い服を着た。グギョンや内官の茄子型の帽子も白かった。
大殿の寝室で、黄金の寿衣の儀式が行われた。王様を見送ったのは、サンやおつきの男と尚宮、内宮など、ごくわずかな人数に限られた。
男らが王様に、足首まですっぽりと覆う長さのスリット入りの衣と足袋を着せ、胸の高い位置に蝶の結び目を作り、枕元にポシェットを置いた。その全てがラメ入りの黄金生地だった。
翌朝からは、パク別提の指示で、図画書でも国葬に向け作業がはじまった。
画員それぞれが、鳥のラインを紙に描いて色をつけ、盛り上がった肩とウロコ状の羽にかけては茶色に、羽の内側は色とりどりのグラデーションにするか、鋭い羽の先まで淡い緑に塗った。
これらの絵はすべて、王様の冥福を祈って奉納されるものだったが、その一方では、4日後の即位式の準備も、急ピッチで進められていたのである。
パク別提がタク画員に渡した「大礼儀軌」と「嗣位節目」は、即位式に用意すべき物が詳しく書かれたマニュアル本だった。
即位式の準備の総責任者をタク画員とし、イ・チョンとソンヨンにその補佐を任せた。
その他の部署でも準備は着々と進んでいた。
女官は刺繍をし、即位式に着る金紋赤衣を支度した。兵士達によって、ぼんぼりや巨大パラソル塔が広場に次々運び込まれ、裏口では大道芸人たちが稽古に励んだ。
玉いんが宮中を移動した。護衛部隊と禁軍は即位式に備えて警戒態勢を敷いた。
テスの叔父さんは、家の前に止めたリヤカーに、ヒモでひとくくりにした寿衣の束を山高く積み上げた。
王様の国葬に黄金の寿衣が使われたと聞いてから、近頃、黄みがかった寿衣が売れる。いい寿衣を着せると、子孫が繁栄すると言い伝えもあるらしい。
リヤカーを広通橋まで押すのは、テスに手伝って貰った。
ところが到着してみると、長い城壁の貼り紙の前に、人々がアリのように群がっている。
その内容は、王世孫が病に乗じて摂政となり、王様を宮殿から追い出したというものだった。
貼り紙は広通橋だけではなく、四大門から船着場の掲示板、全国にまで及んだ。グギョンは考えた。
こんな怪文書を全国に流せるのは、恐らく相当の力のある者に違いない…
即位式に向けて、新たな企みが進行しているのだろう。
おかしなことに、ホン・イナンら数人の大臣が、最近、自分らの屋敷を売り払って資金をかき集めているという情報まで入った。
何のためか…? 今さら都を逃げ出す必要はない。その機会は何度もあった。
グギョンは早速テスにフギョムの身辺を尾行させたが、その結果は目立った動きは見られないという物足らないものに終わった。
10名の作業員のうち、ペンキ容器を手にぶらさげた5名は、目の下まで布巾で覆って顔を隠していた。
大殿の外壁の補修作業の指導は、ソンヨンの担当だった。
彩色に使う5つの色には現世の安楽と来世への祈願、厄払いの意味がある。この2日間で仕上げるようにとのソンヨンの説明を聞いて、男らは作業場所へ散らばっていった。
はしごをのぼった男は、瓦屋根のひさしの内側に以前と同じ緑を塗り重ね、消えてしまった花の紋様を細筆で白く縁取りした。
ソンヨンは建物の足元で、緑の粉を調合している男に近づいた。
男は木ボウルに溶いた色を、筆でかき回しているところだった。
「色が少し濁っているようです。緑をもっと足しては?」
実際の軒先の色と見比べながら、ソンヨンが声をかけると、男は背中を向けたまま、分かりましたとだけ答えた。今まで見たことのない、目つきの鋭い男だった。
ソンヨンが他へ行った隙に、男は急に手を止めて、宮中の奥へと忍び込んだ。
崇政殿の石回廊の敷石を2つばかりはがして、土の中に短剣を埋めると、また元通りに石をはめ込み、表面についた土を筆で払い落して痕跡を消した。
2010/6/6
「イサン」あらすじ 45話
「そこで何をしている?」
お供を引き連れ、回廊を歩いてきたサンは、怪しんで声をかけた。
敷石の隅にしゃがんでいた男は、絵の具粉を入れたボウルと竹筒の筆入れを持って、慌てて立ち上がった。
「私は塗装工でして…。塗装のはがれた箇所を調べています」
ナム洗尚は、この怪しい男を内兵曹へ連れていくよう声をあげた。補修は資政殿と泰寧のみと聞いている。ここ崇政殿に入り込むはずはなかった。
男は、てっきりここが資政殿だと思ったのだと、オロオロ泣き声をあげたが無駄だった。
赤服兵2名に両脇から体を引っ張られ、残った右足は大きく敷石に引きずられた。
「放してやれ。そう騒ぎ立てるようなことでもあるまい」
サンが顔をしかめたまま、突き放すような口調で、兵士を止めた。この塗装工を警戒して何になるだろう? 男は右足がかなり不自由なのである。
「恐れ入ります。この御恩は忘れません…」
塗装工は深々とおじぎをして、感極まったように田舎くさい訛り声でお礼を言った。その声は、サンがお供を引き連れて、回廊を曲がるまでも続いた。
しかしサンの姿が完全に見えなくなると、男は急に目つきをかえ、すっと足を揃えて姿勢よく立った。
その身のこなしは、宮殿の天井に飛びつくほど軽かった。
客は漬け物をのせた膳の端に、小銭を置いて、次々と引きあげていった。
もう閉店の時間だった。フギョムの助手は、重いため息をつき、あきらめて酒場を後にすることにした。ここ数日、ずっと待っているのに、高額金で雇った刺客からの連絡はナシのつぶてだった。
客が全員去ったので、表を片付けようと膳を持ちあげた店主は、縁台に残された封書を見つけた。
ドーナツ型の血色の印が押してある。これこそ助手が言っていたものだ。
追ってきた店主から受け取った封書を、助手は読まずに懐へしまい、夜道を急いだ。
途中、尾行に気付き、そで口からそっと手下に封を渡して道を別れた。
書状を持った手下は、フギョムの屋敷を目指して民家の並ぶ道を抜けようとした。
こんな夜更けに、道端で木箱を抱えあげる若い男が霧の向こうにいる。
木箱はグラグラしながら宙を漂い、フギョムの手下の顔の前で止まった。
「こいつ。邪魔ではないか。そこをどけ!」
「エッヘッヘ。すみませんね」
テスは歯を見せて笑いながら、ゆっくりと地面に木箱をおろすと、次の瞬間、振り向きざまに、手下の腹と背中を蹴り上げた。
テスが入手した書状は、その夜のうちにグギョンによってサンのもとへ届けられた。
即位式で自分を暗殺しようとする計画の書かれた手紙を折り畳んだサンは、がっかりとし、また厳しい表情でグギョンに「命だけは助けてやろうと思ったのに残念だ。しかしもうそろそろ潮時だろう」と呟いた。
雅楽の複雑な音色が天に伸びた。広場の門から、黒い衣装に身を包んだサンと赤い衣装の嬪宮が入場した。冠のひさしから垂れた数珠玉のすだれが、サンの顔の前にちらちらとかかり、より王様らしい神秘的な姿にみせた。
嬪宮の髪は、冠と一体化したもので、すそのラインが大きく台形に広がっている。
縁どりは縄目に編み込まれ、高くとぐろを巻いた頭のあちこちに、乳白色の玉のついた銀の皿飾りが光った。金のハチマキをしめた額の中央には、4粒の乳白色の玉を散りばめた花の飾りがあった。
門の2階では、警備兵が一定の間隔で立ち、即位式の様子を監視していた。
赤と青の日よけパラソルが、レッドカーペットから御殿へと移動するサンと嬪宮の後を追った。続く内官、尚宮、女宮らの影が横縞模様となり、カーペットを挟んで広場の両側に整列した大臣らの影と、横一線につながった。
その一部始終を、図画署のメンバーが、地べたに紙を広げて模写していた。
今日はパク別提も自ら筆を握った。
御殿のひさしから石段の下まで日よけテントが斜めにかかり、その足元に車輪付きの大砲が並んでいる。パク別提は、砲兵の服とそばの大太鼓を赤く塗った。まもなく大砲は筒から煙を吐いて、祝砲を響かせた。
壇上には、王世孫と嬪宮と一緒に宮仕えたちもあがった。恵嬪や尚宮らは、ひまわりのように丸く編んだ特別の髪型をし、頭のてっぺんに、肩幅ほどもある∞のラインをした艶やかな黒色のクリップを刺した。
女官らは、鳥や動物をあしらった上品できらびやかな大ウチワを持ち、壇上の背に並んだ。
サンの母方の祖父であるホンバンが、王世孫のテーブルへ玉手箱を大事に置き、おごそかに宣言した。
「このたび朝廷は新たな王を迎えました。王様に玉印を捧げます!」
金の冠をつけた大臣らが、それぞれ手にした木べらをかかげ、お辞儀を繰り返し、流れるように声を合わせた。彼らの赤い服が、広場を埋め尽くしていた。
「新しい王様に、万歳、万歳、万歳…」
ソクチュ、グギョン、フギョム、ジェゴン、ホン・イナンも、それぞれの思いを胸に秘め、万歳三唱を繰り返した。
即位式の最中、テスら護衛部隊は、宮殿周辺の山中に潜伏していた刺客、ならびに敷地内に忍び込んだ怪しい役人らを捕まえた。
即位式が無事に終わったことで、グギョンはホッと息をついた。
サンの意向によって、晩までには特別警備体制も解除された。
大殿の警備は禁軍のみに任され、テスら護衛部隊は疲れを癒そうと、一人残らず自宅に戻っていった。
部署に残ったグギョンのもとへ、刺客を拷問にかけた部下が一次報告にやって来た。
「護衛官が捕えたのは王命の伝達など重要な任務に関わる人物です。家柄も確かで働きぶりもまじめだそうで、暗殺の実行犯だとはとても思えません。拷問を続けても供述は出てこないでしょう。なにより彼らは武器を何も持っていなかったのです」
22代国王、正祖となったサンは、初の声明を出した。
「私は、サド王世子の息子である。先代の王が王朝の系譜上、私を孝章王世子の養子にしたが、私の父はただ1人だ。また母である恵嬪ホン氏を恵慶宮に昇格させる」
この声明を聞いた大臣らには、これからどんどん事態が悪くなっていくのがわかった。
ホン・イナンは、とりあえず大事なものだけをまとめて、都から逃げ出そうとしたものの、もはやそれえも許されないのを知った。治安維持の名目で出動した禁軍が、屋敷前を取り囲み、大臣らを監視しはじめたのである。
また軟禁中のまま大妃となった中殿の胸には、失望の波が深く静かに打ち寄せた。
「そう…。確かにそうだ。あの者は亡き王世子の息子なのだ。なるほど。この日のために私を生かしておいたのか。自分が王位に就くのを見せるために…」
夜、帰宅したフギョムは、門の前に、たいまつを焚いた禁軍が並んでいるのを見て、薄笑いを浮かべた。
それでも屋敷の中に入ると、嘘のように静かだった。ここならひと目も気にせずにいられる。バルコニーから闇に潜んだ庭を見つめ、フギョムは思いつめたような暗い顔をした。
王世孫の暗殺計画は、からぶりに終わった。計画に賛同する重臣たちから資金を調達し、国庫の約半分、純金1万両をつぎこんでの計画だった。
書状を見られた以上、王世孫があのまま黙っておくはずはない。
いつかファワンが言った、そなたを王にすると言った言葉が、いつのまにか頭にこびりついて、無理な計画に走らせたのかもしれなかった。
純金1万両をはたいて雇った刺客が、即位式にとうとう現れなかったのは、今となっては、どうでも良ことだった。
城の裏山に隠れていた者が、何名か捕えられたと聞いている。あの男もきっと、その中に入っていたのだろうと、フギョムは思った。
ふと、たもとに手を突っ込んで毒薬を取り出し、包み紙をゆっくりと開いた。これ以外に逃げ道があるだろうか…?
「早合点は困りますな」
低い呟きがフギョムの手を止めた。急に現れたその男は、フギョムに気配を感じさせなかった。
彼は黒傘を取り去り、ソンヨンが見た塗装工と同じ鷹のような鋭い目を向けた。
「王世孫に計画が漏れたのか、警備が厳重でした。そちらがへまをしたようですな。こうなることは予測していましたよ。あなたの手下は尾行にも気づかない愚かな連中でした」
男に言われて、フギョムは目からウロコが落ちたような気分になった。
「もしや…あの書状は初めから王世孫側に渡るよう仕組んだのか?」
「その通りです。フギョム様。王世孫が王になる前に殺すと約束した覚えはありません」
確かに、即位式が終わった今なら、誰もが油断している絶好の機会だった。
「こんな遅くに外壁の補修をしたいだと?」
門番の兵は、ボウルと筆を持った塗装工をじろじろ見ながら、面倒くさそうに考え込んだ。
「図画署の方に今日中に終えろと言われまして。犬の刻までには来ようと思ったのですが、見ての通り足が言うことを聞かないもので…」
今にも泣き出しそうな顔で訴えられ、門番は見るに見かねて、ついに塗装工を中へ通してやった。
男はぺこぺこと何度もお礼を言って、右足を抱えるように大きくひきずりながら宮中の奥へと姿を消した。
サンはその晩、随分と遅くまで、祖父の祭壇へお参りをした。そのあと王になって初めての夜を過ごすため、大殿へ入り、読書をした。
内官や女官らが表の軒先に控えているのを忘れさせるほど、張り詰めた空気が1本通り、室内はひっそりしていた。
サンは、先の鋭い金のかんざしに軽く親指を触れ、本の次のページをめくった。
2010/6/13
「イサン」あらすじ 46話
うめき声を聞いたような気がした。何かがドシリと音をたて、そのあと軽いものが落ちたように思った。
「何の騒ぎだ? 答えよ」
サンは書物を閉じて、障子越しに声をかけた。 しかしおかしなことに返事がない。
ゆっくりと立ち上がり、格子に近づいたサンは、ドア開け、上り口へ足を下ろした瞬間、驚いて大きく身をひいた。
足元に見たのは、ひんやりした石の上に倒れた女官たちの死体だった。逃げようとしたのだろう、手首だけがだらんと石段から落ちかけている。首や胸にはどれも大きな刀の斬りあとがあった。
辺りは闇に包まれ、この世にいるのはまるで1人だけのように、ひっそりしていた。
中央の石段の下に体をもたれていた内官は、苦しそうに喉元を押さえながら、サンに「王様…」と呟いて、息をひきとった。
部屋へ舞い戻ったサンは、誰かが息を潜めているのを感じとった。
1本すっと床に伸びているのは、飾り棚の前に立て掛けてある護身用の刀の影だった。
あの刀を取れるだろうか…? たった2歩の距離とは言え、難しいと思った。
案の定、サンが刀にタッチした瞬間、刺客がコウモリのようにひらりと飛びかかってきた。
サンは床を転がって逃げ、刺客が真上から振り下ろしてきた刀を、自分の刀で必死に受け止めた。サンの衣の紋様が映って、刀が金色に光った。
男を跳ね返して立ち上がると、今度は互いの隙をうかがうように、刀の影が2つ、じりじりと時計回りに移動した。
刀越しにサンが睨みつけた男の正体は、あの塗装工だった。
刺客はやがて、ムダのない動きで大きく刀を振り回して、サンの帯の辺りを一気に斬りつけた。
サンの刀は跳ね飛ばされ、燭台を倒して床の端の方に転がっていった。
「楽に死なせてさしあげましょう」
長布団に尻餅をついたサンに、男はとどめを刺そうと刀を突き付け、ニヤリとした。
刺客とは別に、外ではフギョムが用意した部隊が、屋根から大殿前へ次々と下りたっていった。
女官や内官がぐったりと倒れている奥に、格子ドアが見える。
ドアは1つだけ開いていた。内側のドアは、全てぴたりと閉められており、室内の灯りが薄く漏れて、足元を白々とした。
リーダー格の男が、突入のサインを出したとき、後ろにいた手下の何名かが、うめき声をあげた。
振り向いたリーダーは目を疑った。彼らの胸には、矢が突き刺さっていた。
屋根の上から弓を放ったのは禁軍だった。さらにはヤリを手にした禁軍が、大殿の外廊下を挟みむようにどっと、なだれ込んできた。
王を暗殺するなら、恐らく今夜に違いない…
敵の計画を見抜き、禁軍を大殿へ向かわせたのはグギョンだった。しかしすでに刺客が大殿に侵入した後のことであり、グギョン自身、遅すぎたのを実感していた。
グギョンとテスが大殿へ駆け込んだとき、2本の燭台の火は消え、代わりに卓上机の周りを月明かりが照らしていた。
その机の影に隠れるようにして、一体の死体があった。死体は塗装工だった。顔は横に、目は天井の方をじっと見つめていた。
その胸に刺さっていたのは、サンが放った金のかんざしだった。
部屋にはサンの姿はなかったが、まもなく2人は、大殿の外廊下の一角にうずくまっているサンを発見したのである。
グギョンは直ちに護衛部隊を率いて、敵の捜索を開始した。
ファワンの宮殿は、すでにもぬけの殻になっていて、フギョムの居所も検討がつかなかった。
治療を受け、腕に包帯を巻いたサンは、宮殿へいったん戻ってきたグギョンに、こんな質問をした。
「そなたがあの2人だったとしたら、どこへ向かうと思う? ファワン様が死ぬことより、逃げることを選んだということは、きっと何らかの後ろ楯を得られる見込みがあるからだ。清国へ向かうつもりなのだ。この時期で人の少ない船着場は楊花津であろう」
寅の刻過ぎ、計画が両方とも失敗に終わったことを告げられたフギョムは、ぼう然とし、疲れ果てたようにまぶたを垂らした。
心の中は絶望の闇に襲われた。それでも養母ファワンへの支援だけは、最後まで惜しまなかった。
「すぐにお逃げ下さい。清国へ向かう船が、もうすぐ楊花津に到着します。これを持って行けば母上が暮らしに困ることはないでしょう。私は参りません。この件の首謀者は私です。もし一緒に逃げれば追っ手から逃げるのが難しくなりますから」
フギョムは、懐からガサガサと清国ウィ様宛の書状を取り出し、卓上机にのせた。
その書状をファワンが引き裂くのを、フギョムは驚いた顔で見つめ、母の言葉に目を赤くした。
「そなたを見捨てて生き延びろと申すのか。そたなを養子にしてから私は一度たりとも他人と思ったことはない。優しくしてはやれなかったが、それでも私はそなたの母であり、そなたは私の子なのだ」
フギョムはファワン、助手、手下数名を引き連れ、港そばの松林に潜伏した。
崖から港の様子が一望できた。
板のデッキが水際に長く走り、海へと伸びる中央の道と、入場施設のある広場とに別れている。
広場の脇と中央の船着き場に、木造船が数隻ほど待機してあった。
荷を背負った商人が船から降りてきた。その商人が進む中央のデッキから突き当たりにかけ、7、8名の警備兵が等間隔に並んでいる。足早に歩いてきた上官と兵士数名が、船着き場の入り口へと向かう商人とすれ違いになった。
「すでに護衛部隊に監視されているようです。しかしご心配はいりません。我々がやつらの注意をひきつけます。お急ぎ下さい」
フギョムの助手は言った。港から山の遊歩道の方へ、軍をおびき寄せるという。
助手は手下と一緒に、船着き場に手裏剣をわざと投げ込んで去っていった。その際、フギョムとファワンのために、手下を1人置いていくのを忘れなかった。
フギョムは兵の数がその後、みるみる増えてくるのを上から眺めていて、助手たちの最期を予感したのだった。
「あれが清国行きの船です…」
もぬけの殻になった港を見て、1人残った手下は言った。
フギョムと母は、急いで山肌から港へ下りたった。
しかし約束していた船頭は、まだ来ていなかった。
船頭を探すために、手下がはしごを駆けあがり船の中へと消えた。それを待つ間、ファワンは頭を覆っていた外衣を肩まで下ろして、ホッとしたように息をついた。
「大丈夫ですか? もう心配することはありません。この船に乗れば…」
フギョムが言いかけたとき、船壁からうめき声が聴こえ、首にナイフをあてられた手下が、とつぜんテスと一緒に船の上に姿を現わした。
フギョムは母を守ろうと、とっさに刀を引き抜いたものの、何の役にもたたないのを知って、力なく手をおろした。
船着き場は、いつのまにか護衛部隊で占領され、もはや自分たちは袋のネズミだった。
「そろそろ年貢の納めどきでしょう…」
グギョンがゆっくりと船の上からフギョムとファワンを見降ろして言った。
翌日の晩、サンは明日の会議で公布する罪人たちの処分状を書きあげた。
断罪すべきは、昨夜の件だけではない。父や自分をおとしめた悪行の全てを明らかにするつもりだった。そしてそれは国の歴史に刻まれることになるだろう。
最後まで迷ったのは、大妃についての処分だった。
翌朝、女官が2人がかりで布のかかった朝食の膳を抱えて、大妃の部屋の前に立った。
障子越しに声をかけてみても、中からの返事はなかった。
夕食も抜かれたのに、このままではお体にさわると言って、自ら部屋の中へ入っていった尚宮は、そこでうつぶせになって倒れている大妃を発見した。
そばに、きなり色の粉のついた白い包み紙が落ちていた。
2010/6/28
「イサン」あらすじ 47話
未の刻。先がくるんと曲がった幅広のオノを、顔の周りに厚いヒゲを生やした男が、ゆっくりと石の上で研いている。
処刑を見物しようと出てきたテスの叔父は、いい場所がもう埋まっていて、ちっとも見えやしないので、人ごみを押しのけて、一番前のロープのところまで来た。
そうこうしているうちに、城壁のアーチ門をくぐってきた罪人らを見た民衆たちが、一斉に石コロを投げつけはじめた。
「この悪党どもめ! お前らのようなやつらは、釜ゆでにされて犬にでも食われちまえ!」
処刑担当の男が、口に含んだ水をオノに豪快に吹きかけ、しぶきがシャワーのように飛び散って、見物人の姿を白く包んだ。
男は罪人の首をちょん切ろうと、いたずらにオノをひらひらと泳がし、また大きく振り回したりしながら、踊るように罪人の周りを歩いた。
サンが王について1カ月。断罪は連日のように繰り返されている。この血塗られた日々が、一体いつ思わるのか、それは誰にも想像がつかないことだった。
「明日、残る罪人の取り調べが済み次第、獄中のチョン・フギョム、ファワン様、ホン・イナン、大妃様に対する王様の処分を発表致します。主治医によれば、大妃様は幸い、峠を越されたとのことでございます」
グギョンはそう王様に報告した。
大妃は助かったのであった。しかしその事実が、ジェゴンの心にずっと小骨のように引っかかったままだった。
もし大妃が自害したとの噂が表ざたになれば、王様の行く末に大きくさしさわる。この件で、大妃は世間の同情を集めるばかりか、今は逆賊に向けられている非難の目が、王に向けられるやもしれない。
ともあれ、噂はいずれ宮殿の塀を超え、都じゅうに知れ渡ることになるだろう。それほど人の口は鳥の羽根のごとく軽く、また心は移り気なものなのだ…、とジェゴンは思ったのである。
ジェゴンの心配は、御前会議での老論派の態度にもあらわれた。
「謀反の首謀者とされる9名が死罪、加担したとされる30名が罷免されました。それなのに、いまだ多くの罪人が投獄されているとは、まったくもって納得しかねます」
重臣の意見に、サンは思わず声を荒げた。
「それらは皆、王の暗殺を謀った重罪人だ。それを厳罰に処するのはしごく当然のことではないか!」
次いでソクチュがサンに質問した。
「王様、では大妃様の件についてはいかがですか? ちまたでは尋問の屈辱に耐えかねて、大妃様が自害を計られたという物騒な噂が流れております…」
獄中の檻から耳をそばだてていたホン・イナンは、狂喜じみた声をあげて、他の重臣らと手を取り合って喜んだ。
「ほら、あの声が聞こえるか? 希望が見えたぞ。これで我々もなんとか助かるかもしれんな!」
血で汚れた白装束は、厳しい拷問によるものだった。
老論派の息のかかった儒生らが、大妃の自害に触発されて、続々と都に集まってきている。罪人の処分の撤回を求め、城壁門の前で土下座する儒生の声は、昼も夜も関係なく響いた。
「ぬか喜びはなさらぬ方が良いでしょう。どうせ今さら何も変わりはしません。これしきの反発は王様も覚悟したはずですから」
一人、わらの上でじっとあぐらをかいていたフギョムが忠告を入れた。彼もまた、目の縁や唇や、すっと通った鼻筋に傷を負い、束ねた丸まげから乱れ髪を垂らしていた。
「ふんっ! 王宮殿に刺客を送った首謀者のそなたはどの道助かるまい。だが我々は違う。大妃様と我々は生き残るゆえ見ておれ!」
ホン・イナンは、苦々しい顔できっぱりと否定した。
翌日、王様の決定した処分が、いよいよ発表された。
フギョム、ホン・イナンら罪人の8名ほどが、縄でしばられた状態で判決の広場へ入って来た。
「はじめよ…」
ジェゴンの合図によって、グギョンがむしろにひざまずかされた罪人を、壇上から見下ろしながら、巻物を読み上げた。
「丙申4月辛丑の日。罪人ホン・イナン、これにて罷免。ヨサンに流刑後、毒殺に処する。丙申4月辛丑の日。罪人チョン・フギョム、これにて罷免。咸鏡道、キョンワンに流刑後、毒殺に処する」
その場に姿のなかった罪人ファワンは、平民に降格のうえ、キョドンの地へ軟禁とされた。
その晩、大妃は自分の部屋を訪ねてきたソクチュに、その胸のうちを堂々と打ち明けた。
「私はこれより王の臣下となろう。生きるために決まっておる。死の縁をさ迷い悟ったのだ。生き延びればならぬ。大妃の座を守り、必ず最後まで生き残ってみせる。そのためなら土下座もいとわないと固く心に決めた。他に何があるというのだ…?」
大妃の処分は、グギョンの提案で保留にされた。
もはや何の力も残っていない大妃を追放するよりも、このまま生かしておくことで、王様への非難を避けようと考えたからである。
竹竿を2本、肩にのせて、フギョムが枯れ草の中を戻っていく。フギョムを挟んで前後には、監視兵が数名、ついて歩いた。気楽な島暮らしと言っても、心に重しをのせての生活だった。
小枝の垣根の前に、警備兵が2名立っているのはいつもと同じだった。ただし今日は、小屋の前にも、赤衣の重臣2名、役人2名と、槍を地面について構えた兵士たちがいる。その中に混じり、フギョムの目に不吉なとんがり帽子が静かに映った。彼らは罪人の死に立ち会う男たちであった。
どうやら自分の留守の間に、宮中から一行が到着したようだ。
小屋の前では、グギョンが待っていた。
フギョムはグギョンを小屋に招き入れると、酒を酌み交わした。ミニテーブルには、グギョンの手土産の白磁のとっくり、その他つまみを2品ほど並べた。
「釣りはいい。釣りは乱れた心を落ち着かせてくれる。あるいは私の実の父のように生涯漁師として生きるのも悪くなかったのかもしれない。今や朝廷の権力を手にしたそなたには、たわごとにしか聞こえぬだろうが」
「いいえ。人の一生というものは、ほんのひとときの儚い夢です。漁師として生きようが、一国の王として生きようが、そう大きくは違わぬように思えます」
「そうは言ってもそなたは権力を選ぶ。…酒はもう十分だ。この酒の他にもそなたの持ってきたものがあろう?」
フギョムが縁側へ出てみると、すでに土の上にはむしろが敷かれて、膳も用意されていた。
椀の中で、毒薬が黒々と照りつけている。
フギョムは2度ほど、額と地面に両手をかぶせて深いおじぎをし、取り乱しもせず、しかし震える手で、お椀を手に包み込むように持ち上げ、毒を飲み干した。血を吐いて、最後に涙を流しながら、グギョンを見た。
オレンジ色の夕日が海に丸く映り、空を隅々までぼんやりと白くした。あとはただ波の音がした。
とんがり帽子の男たちが、体を丸めて転がった遺体を回収するために、そばへ駆け寄っていった。
ようやく罪人の断罪が終わって、サンは突然、宮中内の新しい建築現場にテスを連れていった。
そこは歴代の王の文書を保管する図書館で、奎章閣という建物だった。
高床式の台座と、廊下から張り出した踊り場にかけて、足場が組んである。完成間近の奎章閣を、少し離れたところから見降ろしながら、サンは目を輝かせ、テスにある約束をした。
「見えるか?ここだテス。もうすぐここから新たな歴史がはじまる。だがもう少し、私を信じて待ってくれぬか。それほど先ではない。そのときは真っ先にそなたとホン・グギョンに、この胸に抱く志を話そう」
2010/7/12
「イサン」あらすじ 48話
パク別提は、タク画員とイ・チョンに辞令の巻物を渡して、よりいっそう務めに励むように、ねぎらいの言葉をかけた。他の画員やソンヨンら茶母たちの温かい拍手のなか、現場は和やかな雰囲気に包まれた。彼らは従八品の画史に昇格したのだった。
国葬と即位式のあと、功労者の昇進が発表された。宮中は少しずつ、変化しはじめていた。
庶民レベルでも小さな変化はあった。テスの叔父、パク・タロは顔見知りの女と、結婚することに決めた。
ソンヨンは結婚式の日のために、床に下敷きを広げて、さっそくタロの新居に飾る屏風絵を描きはじめた。
鴨を2匹、薄い色で下塗りし、頭を青に塗り、胸にはほんのりと赤をにじませた。2匹の鳥は黄色い羽を折りたたんで、蓮のそばを泳いでいく。大きくひるがえった葉の裏には、先を絞ったピンクのつぼみが5つほど連なり、蜂の巣に似た芯が水面から2本ほど伸びている。鳥の進む方に向かって、波立つ線が円く重なった。
テスの叔父さんは、ソンヨンを幼い頃から猫のように可愛がってくれた。熱を出したら、内官勤めで忙しいなか、おしぼりを取り替えに戻って来たり、赤いリボンを買ってきて、後ろに垂らした三つ編みに結んでくれたりもした。
ソンヨンが遅くまで屏風絵を描いている間、隣の部屋では、テスが眠れないのか寝返りをうっていた。
その気配を感じながら、パク・タロは寝床の中で思った。
もし自分が祝言をあげたら、テスとソンヨンは、2人きりで暮らすことになる。ついでといっちゃなんだけど、この際、テスも祝言をあげたらどうだろう?
テスは、翌日の晩、随分と遅く帰って来たソンヨンを、小屋の外まで出て待っていた。
宮殿で王様と王妃様に会い、遅くなったという理由は、大して気にも留めなかった。
それより自分が従5品の武官の指揮官に昇進したのを、早く知らせたいという思いでいっぱいだったのだ。
ソンヨンが思った通りとても驚いて、しかも自分のことのように昇進を喜んでくれたので、テスはひとまず満足した。でももう一つ、ソンヨンにぜひ伝えたいことがあった。
「なあソンヨン…。俺、お前に話があるんだ」
「え、何? 何なの」
「そのぅ…。やっぱり今度にする。今度な。今度話すよ」
テスは何だか急に話しづらくなって、暗い裏の方へ走って逃げていった。後に残されたソンヨンは、ただきょとんとするばかりだった。
実はその日、ソンヨンを王様に引き会わせたのは、妻の中殿だった。
仕事の一服にと、中殿は宮仕えの者に、10角形のミニテーブルを夫の部屋に運ばせた。
その中には、箸と湯のみが2つずつと、バナナ色に干し柿のようなのをくるんだ輪切りの菓子、濃い茶色と中心の白いのが、潰れたサルの顔のように見えるものや、オレンジと淡い黄色のドライフルーツ風のもの、やわらかいオレンジの餅に、白い粒粉をまぶした茶菓子が、白い小皿に用意された。
中殿が葉っぱ柄の白地の急須を手に取り、サンの湯のみへお茶を注いでいたところへ、ナム・サチョが、おりよくソンヨンの到着を知らせに部屋へやって来た。
中殿は、ソンヨンを自分の隣に座らせると、少し戸惑っている風の夫に、安らかな笑みを浮かべた。
「王様、ソンヨンはこれまで王様を、何度かお助けしたと聞いております。ですがその功を公にたたえるわけにも参りませんし、褒美を与えるすべがないゆえ、会って感謝を伝えたかったのでございます」
しかしそれは単なる口実で、中殿には秘密の考えがあった。今日の行動は、とりあえずは、そのための油慣らしのようなものだったのだ。
昇進したのは、下っ端ばかりではなかった。人事を含めたその改革案は、講堂の場でとつぜん発表された。
詳しい内容は、王様の側近であるグギョンの口から伝えられた。
武芸にすぐれた者を選んで、王様を護衛する宿衛所を編成すること。今後は王様の安全に関するすべてのことが、その宿衛所に任され、謁見も宿衛所を通して行われること。
「私はよろしいかと存じます。これまでの事件を踏まえ、王様の安全をお守りするには必要な措置と思われます。…それで、宿衛所はどの部署の管轄でございましょう?」
意見を求められたソクチュは、サンに尋ねた。
「宿衛所はいかなる部署にも属さない。王である私の直轄としよう。その隊長の職位は正三品に相当するものとし、ホン・グギョンを都承旨に昇進させ、隊長も兼任させる」
会議の後、ソクチュはチェ・ジェゴンと2人でミーティングルームに戻り、ぽつりと吐き捨てた。
「王様の決定は大きな反発を招くことでしょうな…」
ホン・グギョンは、老論派を厳しく取り締まってきた男だ。これまでしばしば行き過ぎと思える行動もあった。そのグギョンに、一度にこんな大きな権限を与えては、不安にならないわけがない。
ジェゴンもまた同じような不安を抱えているとみえて、返事もせずに黙り込んでいた。
重臣らの心配をよそに、ホン・グギョンは母親と妹を連れ、恵慶宮に謁見した。
グギョンの母は黒髪を清潔にまとめた、ふくよかなしっかりした女性で、妹はその母に似て、目のりりしい娘だった。
実はグギョンには妻がおり、今回の昇進で、妻にもそれ相当の高い位が与えられ、宮中でのしきたりなどを学ぶ機会を得るはずだったのが、どうも持病があるらしく、京畿道、加平で療養中とのことだった。恵慶宮はグギョンを深くねぎらい、すぐに医官を加平へ送るよう約束した。
恵慶宮の祖父、ホン・ボンハンは、グギョン一家が退出したあと、恵慶宮にこう話を持ちかけた。
「恵慶宮さま、ホン・グギョンの妹をどうご覧になりましたか…? あの娘を王様の側室として迎えようとはお考えになりませぬか。申し上げにくいのですが、もはや王妃様に世継ぎを望むことは難しいのでは。ホン・グギョンは我々と同じホン一族の出身…。あの者の妹ほどふさわしい者はおらんでしょう」
恵慶宮はグギョンのそばに控えていた娘を、もう一度、思い浮かべた。確かに非のうちどころのない、つつましい娘だったと思った。
老人は、草ぶきの屋根全体にロープのネットを張っているところだった。また何か新しい実験でもしているのだろうと思って、サンは急にからかいたくなった。
「相変わらずだな。ご老人」
「こやつ、何しに来た!」
老人が、屋根からサンを見下ろして言い返した。お供についてきたグギョンは、あまりの失礼な態度に思わず飛び出そうとしたが、こっそり腕を伸ばしたサンに止められた。
老人がサンを、前々から遊び人のお坊ちゃんだと勘違いしていることも、作物の育て方や農具など、役立つ研究をしていて、サンや多くの若者たちに尊敬されていることも、グギョンは知らなかった。そうは見えないほど、みすぼらしい姿だった。
老人はサンをさっそく小屋へ迎え入れた。床に積んだ書物と、小さなタンスに寝具をのせただけの、こじんまりした部屋だった。相変わらず自分の論文を、壁中にベタベタと貼り付けてある。
「久しく頼りがないのであの世へいったと思っていたが、幸い上手く生きながらえたようだな。朝廷の官職にでも就いたか」
老人は、あぐらをかいたサンの姿を見て言った。光沢のある随分と上等な着物だと気づいたらしい。両手をひざにきちんとのせ、正座したグギョンについては、目つきがただ者ではないと感じた。
「たぶん、思っている官職より、もう少し上ですよ。昔から金には困らぬ家でして。実は王様が新しくを建てられので、見物に来ないか誘いに来ました。その図書館には清国の貴重な書物が2万冊納められるそうですから、私の名を出せば、その書物をこっそり見ることもできるでしょう」
サンは威勢よく答えた。宮殿見物などくだらん、と誘いを跳ね付けようとした老人、キ・チョニクは、正直なところ、本2万冊と聞いて、少し迷ったようであった。
老人はつばのあるフォーマルな黒帽子をかぶり、こざっぱりとした着物で参上した。宮殿見学には、老人を慕う教え子たちも噂を聞いて、自然と集まってきた。
その一人、ユ・ドゥッコンは、老人に学友パク・チェガを紹介した。
彼もまた妾などから生まれた庶子という立場のせいで、つい最近まで出世とは縁遠い生活を送ってきた人物だった。
パク・チェガは、老人と教え子たちを新しくできた奎章閣の入口へと案内した。
石壁の門を抜けると、朱柱が並んだ緑の木戸が見えた。
「ここがこのたび王様がお建てになった王室図書館の奎章閣です。実は王様がここの仕事を、我々庶子に任されました。御老公は今日から奎章閣の責任者である提学となられます」
老人は口をあんぐりと開けた。
「何? 責任者だと?! 信じられん。そなたが戯言を言ったか、あるいは王様が乱心したとしか思えん。いや、わしのような者を王様がご存じのはずがない」
「知っているとも。少なくとも私は御老公をよく知っているつもりだ。それとも見当違いだったかな?」
サンがとつぜん後ろから声をかけ、老人に温かい微笑みを浮かべた。
2010/7/19
「イサン」あらすじ 49話
ジェゴンは、王様の改革が台風の目になっているのを、とても心配していた。
2千人もの官吏を採用しようという改革案に反発して、大臣らが承政院へ突きつけた辞表は、すでに百を超えている。
このままだと漢城府や地方の官庁まで同調しそうな勢いだ。業務に支障が起きるのは、もはや時間の問題に思える。やがてそれは泥棒をのさばらせ、民を診察する恵民署に、深刻な医者不足をもたらすだろう…
サンはそれでも計画を進めようと強気だった。ただし大臣らには、辞表を撤回する猶予を与え、その期限を科挙が行われる10日後の辰の刻までとした。
人手不足の穴埋めが、一番の緊急課題だった。南人派と小論派の実務経験者を、とりあえず地方から上京させなければならない。科挙もあり、都への人の出入りが激しくなることが予想されたので、王様直属の宿衛官らを至急配備するよう臨時の通達を出した。
たかが数十人の経験者を集めたところで、焼け石に水ではないかというジェゴンの不安は消えないままだったが、ともあれ王様の通達を届けようと、テスは金のはかまで、さっそうと馬に乗り、部下たちを引き連れ、城壁の門を出た。
その晩、画員のイ・チョンがふらりとテスの叔父の小屋に顔を出した。
狭苦しい部屋の真ん中に酒の肴と急須をのせた小さなちゃぶ台を置いて、テスと男3人で酒を飲んだ。
調子のいいイ・チョンは、テスに文句の1つでも言ってやりたくなった。従五品の地位になり、宿衛官に昇進していながら、いまだテスが独身でいるのが、もったいなく見えたのだろう。
「お前もいい年頃だ。嫁を貰え。ソンヨンが後宮に入ったら1人になっちまうぞ。図画署は噂でもちきりだよ。ソンヨンは王様の側室になるってな」
テスは困ったような顔をしてみせた。ソンヨンの身分を考えたら側室なんかなれるわけがないし、むしろ噂に一番迷惑しているのはソンヨンだろうとさえ思った。そんなデマが流れていると想像しただけで、何だか腹が立って、モヤモヤと嫌な感じまでして、心がしめつけられるようだった。
しかしイ・チョンの話したことは本当だった。
昼間、ソンヨンは、図画署の見学を希望したサンの妻を、大画室へと案内した。
中殿は土間に立って、作業場をゆっくりと眺めた。画員らはみんな表に出ていって、ソンヨンと2人きりだった。壁際の高いラックに、道具類や寝かせた紙が積み重ねてある。座敷にはゴザが敷かれ、水ボウルや絵の具粉をのせた膳が端に寄せられていた。
中殿はホッとしたように言った。
「そなたが働いている姿や仲間の様子を、この目で見て確かめたかったのだ。図画署がどんなところか、そなたがここをあとにできるのか…」
「中殿様? 恐れながら、それはどういう意味でしょうか…」
ソンヨンは、気になっておずおずと尋ねた。
「もうすぐ側室選びがはじまる。そのとき私はそなたを推薦するつもりだ」
「えっ?」
「後宮に入るのだ。王様は自ら進んで困難な道を選ばれるお方です。私が癒すことのできない王様の孤独を、そなたなら癒せるだろう…」
中殿はその優しい微笑みと一緒に、寂しさとたくましさを同時に浮かべた。
イ・チョンはこの場面には立ち会っていなかったが、画員や茶母の仲間たちには、こう予言した。来るべき時が来た。いよいよソンヨンが王様の側室になる。わざわざ図画署を訪れたのは、ソンヨンの品定めに来たのだ。
ソンヨンが夜道を帰宅してみると、小屋の外でテスが待っていた。
雪を踏みしめ、寒い中、ずっといたらしかった。
「イ・チョン様に会ったんだが、変な話をしてたんだよ。お前が王様の側室になるとか根も葉もない話さ!」
ソンヨンの口から、噂をきっぱり否定するのを早く聞きたかった。いてもたってもいられず、つい怒ったような口調になったものの、ソンヨンが思いつめた顔でうつむき、涙までためているのは、別の理由からだというのを、何となく感じて不安になった。
「テス、私にそんな資格があるのかな? もしも、もし本当に許されるなら…私なんかが許されるなら…あのね、テス。正直に言うと、私、王様のおそばにいたいの。毎日、お顔を見て、お食事はなさったか気遣って、今日はどんな日だったか、つらいことはなかったか尋ねて、愚痴を聞いて、慰めて差し上げたい」
テスは何か亡霊でも見たように面食らった。
「なぁ、そろそろやめにしないか? おまえだって叶わない夢だと分かってるだろう? だから王様の背中ばかり見ているのは、もうやめろよ、なぁ…」
「バカね。テス変よ。私なら平気なのに…」
「俺じゃダメか? おまえ、本当に俺じゃダメなのか? 王様に対する気持ちが変わらないことも、やめろと言ってもやめないことも、全部わかってるけど、俺がそばにいたらダメか?」
「…え…?」
ソンヨンは、ぼんやりとテスを見あげた。今にも胸が張り裂けそうな顔で、テスが自分のことを見つめていた。じわじわと沸きあがってくる驚きや、テスの優しく深い愛情が、ソンヨンを妙に緊張させた。
それ以上、2人は何も言えなくなった。
南人派や小論派の者たちが続々と上京している事実は、ソクチュにとって耳の痛い話であった。
辞表を出したことで、自分達の首を余計に縄でしめつけたのだ。このうえ科挙で合格した二千人が登用されれば、辞表は受理され、あとは朝廷から追い出されるのを待つばかりになる。老論派に明日はない。
屋敷まで相談に来た大臣らを帰したあと、ソクチュは庭に立ち、1人で熟考した。
珍しい人物に会いに行った。大妃となった前王の正妻である。長らく足が途絶えていた理由については、大妃にこう説明した。
「私はただ、重要な決定を下す前に、大妃様にもお話を通しておこうと思ったのでございます…」
その案とは、前左議政で老論派の首長でもあるチャン・テウを起用することだった。
深い学識を備え、全国の両班から尊敬を集めた実力者。かつて大妃によって、都から追い出された人物であった。
都の市場では、正装用の黒帽子、土産の反物、刺繍入りのとんがり靴などが飛ぶように売れた。
大根を積んだザルを、庭の縁台におろしたテスの叔父は、縁側の拭き掃除に取りかかった。さつまいもや菜っ葉のザルも山盛りだった。縁台に腰かけた女将は、菜っぱの下ごしらえをしながら、テスの叔父の後姿を、たのもしい目つきで見つめていた。
テスの叔父、パク・タロが所帯を持つことにした女だった。
いよいよ科挙が明日という日、女将は軒先に吊下げた酒看板のそばに立ち、首を長くして道の向こうを眺めた。どうも人通りが少ないようだ。
科挙の賑わいをあてこんで、たっぷり料理を仕込んだというのに、都へ集まる受験生たちは皆どこへ消えてしまったのか…?
翌日、辰の刻となり、城内の門が開かれた科挙会場は、中止を余儀なくされた。
連絡を受け、会場に視察にやって来たサンの目にも、それは異様な光景に映った。
広場にたくさん敷かれたゴザばかりが目立つ。
そのゴザに座り、試験開始を待ちかまえる受験生は、ほんの数人に過ぎなかった。
仮設テントの役人や警備兵の姿も、心なしか暇そうに見えた。
報告によると文科会場6か所、武科会場4か所のどこも、似たような状況らしい。
サンのそばに、初老の役人が挨拶に近づき、蛇のような目つきで神妙に吐き捨てた。
「お久しぶりですな、王様。チャン・テウでございます。お元気でいらっしゃいましたか」
この男こそ、全国の儒生たちに受験しないよう通達を出した張本人であった。
2010/6/19
「イサン」あらすじ 50話
朝廷は人手不足で、麻痺寸前に追い込まれている。もちろん辞表を提出した目的は王の暴走を止めることであって、朝廷を破たんさせることであってはならない。
王様が臨時に招集した政務報告会には、とりあえず出席した方がいいのではないか…?
いろいろと考えたすえ、ソクチュはチャン・テウの屋敷に出向いた。
「誰ひとり登庁させぬ。犠牲もなしに大事がなせると思うか。こうも臆病だから毎度へまをするのだよ」
ソクチュはテウにぴしゃりといましめられた。
ソクチュが引き揚げたあと、テウは手下を部屋に呼んだ。書物をめくる合間に、空いた方の手で、しかめっ面で封書を差し出したが、中の紙を広げてみた手下は、そのかなりの金額の文字に驚いた。
「その金で薪を買い民に配ってやれ。疫病を防ぐには水を煮沸せねばならん。私の財産など死んでしまえば使い道もなかろう。他の重臣たちからも義援金を募れ。今日のうちにも王は自分の無力さを思い知るだろう。そうなれば折れざるをえまい」
テウは大真面目に言った。自分たちのしていることは、愚かな王を諭して民を救うためだと、あくまで信じて疑わなかったのである。
チャン・テウが指摘したように、朝廷の混乱による一番の被害者は民だった。
サンも、決して手をこまねいていたわけではない。
民を診察する恵民署へ視察に訪れたサンのもとに、医官が慌てて駆け寄り、深々と頭をさげた。
「悪いときに来られました。恐れながら急いで宮殿にお戻り下さい。ここにいては危険です。皆、疫病に感染しているのです。3日前に出した報告が伝わってないようで。医官が不足し対処できずにおります…」
疫病と聞いて、サンはびっくりした。瓶壷から煮えたぎった湯煙が、もくもくと白くあがっていた。
診察の番が回ってこないのだろう。広場の至る所からうめき声がきこえる。医師や医女がそばを通り過ぎるたび、地面に横たわった貧しい患者らが、救いを求めて腕を伸ばした。
宮殿に戻ってまもなく、医官より新しい報告があった。
「どうやら高熱と粟のような発疹が特徴の冬場にはやる疫病のようです。羌活、敗毒散、桔梗を患者に処方すれば、さらなる拡大は防げるでしょう…」
サンはさっそく内医院の医官と医女、薬房の役人ら百名と、それとは別に南部の各官庁からも医官5名と医女10名を集めて、それぞれ班を作るよう指示した。
その際、薬材は典医監と内医院の備蓄分と、京畿と忠清の官庁から強制的に集め、召集を拒む医員について厳しく処罰し、足りない経費は国庫から出した。
今や下級官吏や地方の官吏までもが重臣たちに味方していた。上京した南人派の者たちで埋め合わせしたところで、他の部署までは手が回らず、内情は火の車だった。
この難局を乗り切るには、辞表を提出した重臣らの行為にひとまず目をつぶってでも、協力を求めたいと、サンが思ったのも当然といえる。特に申の刻の政務報告会については、やる気で望んだ。
ところがサンの思いは、からぶりに終った。申の刻になっても老論派の重臣は、誰1人として現れなかったのである。
王であるサンが自ら、テウの屋敷を尋ねたのは、その晩のことだった。
老体に銀の衣をさらりとまとったチャン・テウは、王のために上座の席を空けて、卓上机を挟んで向かいに座った。
ロウソクが短くなっている。サンが来る前、皮肉にも、この部屋には政務報告会を欠席した重臣たちが顔を揃えていた。彼らがテウのもとへ指示をあおぎに来たのは、今後の不安を抱えてのことだった。
サンはある封書を手渡したが、その中身に目を通したとき、テウのへびのような目は、驚きのあまり、さらに毒々しくなった。サンが屋敷を去ったあとも、しばらくの間、彼はじっと物思いにふけった。
―科挙は5日後に改めて行う。今回の合格者には正七品と八品という破格の位を与え、優秀な者はその場で要職に任命する。今回の科挙に応じない者は、今後10年間、科挙の受験資格をはく奪する―
テウが見せつけられたものとは、明日、サンが告示する宣旨であった。
「果たして儒生たちが応じるでしょうか? また彼らにつぶされてしまったら、朝廷の王様の前途に汚点となりかねません…」
宮殿に戻ったサンに、ナムは疑問を投げかけた。サンは何も答えなかった。いや、答えられなかった。儒生らがこれで試験会場へ現れるかどうかは、サンにとっても大きな賭けだったのである。
それでも人手不足のなか、科挙の準備は急ピッチで進められた。短い階段や、道具箱をいくつか積み重ねて運び入れる役人らが、次々と広場の朱門をくぐっていった。
ジェゴンは、顔を合わせた各部署の代表らと、廊下ででも熱心に打ち合わせをしたし、サンは食事をとるのも忘れて1日中、執務室にこもり、書類に目を通し、研究を続けた。
広通橋、仇里介を中心に広がっていた疫病が峠を超えると、それまで内医院を手伝っていた部署の者たちも、科挙の準備へと全力を注いだ。
女将は大あくびをしながら、雑巾がけで痛む腰を伸ばした。科挙があるのを見込んで、店を手伝おうといそいそ庭へ駆けこんで来たテスの叔父の姿が、ふと目に映った。
「2度も騙されないわよ。今回の科挙もパーになるという噂だからね!」
女将は口をねじまげ、ぶっきら棒に吐き捨てた。
科挙が行われる含元殿の通りまで出たテスの叔父は、 荷物を背負った数人の男とすれ違った。女将の言う通り、他に猫の子一匹いやしない。
仕方なく、とぼとぼ引き揚げていると、道ばたで図画署のイ・チョンに会った。
「含元殿は科挙の会場じゃないぞ! 疫病のせいで春塘台に変わったんだ。今下見をしてきたが、大勢集まってる」
イ・チョンは興奮したように、目玉を大きくした。
イ・チョンの言ったことは、またしても本当だった。
春塘台への道すがら、その人波が途切れることはなかった。付近の酒場が儒生たちで賑わっているのを見て、パク・テロは遅れをとったことにようやく気付き、腰を抜かした。
儒生はその後も続々と都に集まり、含元殿や春塘台ばかりか、弘化門前にも列を作った。
城壁のアーチ門に、俵を積んだ荷車や人が足止めを食らい、ごったがえしている。朝廷で人手が足らないしわ寄せが、こんなところにも押し寄せていた。
治安が悪くなったため、検閲が強化されたのだ。
背中の大荷物の中身をチェックしたテスは、男に木札を返してやり、それから3日ぶりに、服を着替えに家に帰った。
昼間は宮殿の警備、夜は漢城府に代わって都の見回りと、それこそ目の回るような忙しさだった。
急いで飯を喉にかきこみ、ソンヨンに会わないまま逃げるように職場へ戻ろうとするテスに、女将が風呂敷に包んだ差し入れを持たせてくれた。
民家街を通っているとき、図画署から帰宅途中のソンヨンと鉢合わせになり、会話を交わした。
「その荷物はおばさんからの差し入れ? おばさんがいるから私は用済なのね…。テスったら冷たいわ」
ソンヨンは、ぎこちなく笑った。テスの顔をまともに見ることなど、できやしなかった。
「あんなこと言われたから気まずいのか? 俺のことは気にしないでくれよ。お前の反応くらい予想してたしな。当分は帰れないけど、着替えはあるから持って来なくていい。その方がいいんだろ?」
テスは元気なく手短に話を済ませ、立ち去っていった。怒ったような背中をしていた。
町の掲示板に、兵士の1人が手の平をなでつけるようにしてビラを貼った。
遠巻きに見ていた民衆らは、兵士達が引き揚げるなり、すぐさま掲示板の前にたかった。
そばを通りがかったソンヨンの目にも、人垣の隙間から、文字がちらりと見えた。
禁婚礼のおふれだった。
中殿に世継ぎができないため、王様がいよいよ側室を迎える。その間、妙齢の女は、この禁が解かれるまで、しばらく結婚ができない。
大出世をとげたホン・グギョンは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その妹が、すでに側室に内定しているというのは、誰の耳にも、もっともらしい話に聞こえた。
またこんな噂もあった。中殿が推薦する人物はどうも身分が卑しいらしい。それで王様の母、恵慶宮に反対されているのだと…
まだ目を通していない巻き物が山のように積んであったが、中殿が執務室へ尋ねてきたと聞いて、サンは書状をくるくると巻き戻し、テーブルの隅へ置いた。
「折り入ってお話があり、お仕事中のところ、お邪魔しました…」
「邪魔だとは思ったこともない。早速、話を聞かせてくれ」
サンは嫌な顔ひとつせずに、かえって興味深そうな色を目に浮かべた。
「王様。本日、側室選びの公示が出されました。内命婦の担当とは言え、今まで王様に黙っておりましたのは、恐れながら政治に専念して頂きたいという恵慶宮様のご配慮です。王様の地位を確かなものにするため、側室を迎え、世継ぎを得なければなりません。実はそのことで、切にお願いしたいことがございます。ぜひとも側室に迎えたい者がいるのです…」
「そうか。母上と中殿の意向がそういうことなら、私は黙って従うことにしよう。そなたの頼みなら何なりと聞く。側室に迎えたい者とは誰なのだ? 遠慮なく話してみよ」
中殿は、少しためらいがちにうつむき、重い口を開いた。
「ソンヨンでございます」
驚いたサンは急に暗い顔になった。そして、深く長いため息をついた。
2010/6/27
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...