2017年6月9日金曜日

イ・サン33話「初めての異国」

サンは港から戻って、すぐに図画署のパク別提を訪ねた。ソンヨンの使節団への参加の経緯が、どうも腑に落ちなかった。
「ソンヨンにとってはまたとない機会でしょう。女に異国暮らしはこたえると思いますが、画員としてこの上ない光栄といえます」
パク別提は、迷いのない明るい口調で答えた。
それでも出発1日前になって、なぜ使節団への参加が決まったのかと理由を聞いてみると、パク別提は急にそわそわして、こうつけ加えたのだった。
「推薦の件をご存じないのでしょうか…? ソンヨンを推薦されたのは、恵嬪様のお父上であるホン・ボンハン様なのです」

その夜、とつぜんサンの部屋を訪れた恵嬪は、サンに静養へ行くことを強く勧めた。
「体の弱い嬪宮には温泉療養がよいそうです。しばし国事を忘れ、嬪宮との時間を作ってください。王様が外出を許されたのも、世継ぎの誕生の重大さをよくご存じだからです」
「わかりました…。そのとおりに致します」
サンは素直に頷き、もう席を立とうとしていた恵嬪を少しばかり引きとめた。ぜひ聞いてみようと思っていたことがある。
「図画署の茶母であるソンヨンをご存じでしょうか。お祖父様があの者を推薦し、清へ行かせたということですが…」
「ああ、その件ならもちろん知っていますよ。私が父上に頼んだのですから…。あの者が描いた屏風絵を見て、才能に感服したのです。すばらしい機会に恵まれたと本人も喜んでいました」
恵嬪は自然な笑みを浮かべた。怪しい様子はない。パク別提の説明とほぼ同じだった。
どうやらソンヨンは、清に望んでいったらしい…とサンは結論づけた。
画員になる夢を果たそうとしているのだから、もちろん応援する気持ちはある。
なのに、何かすっきりしないものが心に残った。
恵嬪が退出し、部屋に1人きりになると、胸元から風かんざしを出して、花模様の線をなでた。
「それにしてもつれない…」
サンは思わず呟いた。
御殿の屋根の上に、ぼんやりとした黄色い半月が浮かんだ静かな晩だった。

身の凍るような寒さと風、冷たい霧が、闇を白くかすめていた。
その頃、使節団の一行は、義州に向かって進んでいるところだった。フギョムらの乗った馬が、前へ進むたびに、ひずめが草と雪のぬかるみに埋まり込んだ。
たいまつの炎は、背丈まである枯れ草と雪を、異様なほど明るく照らしていた。

一行は夜になるとストップし、野原にいくつも鉛筆型の丸いテントを張った。
テント脇には1本ずつ旗をたて、リヤカーと荷物をそのそばに転がした。
厳しい夜が明けたとき、改めて使節団の規模の大きさが目についた。大勢の部署の者や商人らが、槍を持った兵士らの間をぬって、アリのように行ったり来たりしたりしている。炊き出しの前は、長い行列になった。
ソンヨンら図画署の仲間とテスのおじさんは、テントの裏に小さくまとまって、支給された握り飯と汁の朝食を済ませた。枯れ草の上におろした荷物が、椅子代わりだった。

フギョムの天幕には、調度品や書物などが持ち込まれ、備えつけのベッドもあった。
天幕の壁に描かれた鹿や虎や龍には、渋い色合いのオレンジ、緑、青などが使われ、ここだけは外の騒ぎが嘘のように静かだった。
フギョムは、書き終えた手紙を封にしまい、助手に差し出した。
「燕京のウィ様に届けよ…」
ウィと言えば、香妃の兄で、乾隆帝の信頼が厚い人物だった。フギョムの留学時代の師匠でもある。
使節団に参加したのは、ただ身を潜めるためだけではない。皇室の人々と親交を深めながら、次の一手を考えるつもりだった。
ソンヨンが三角に折り畳んだ小さな入口から天幕の中へ姿を見せると、フギョムは、まるで懐かしい友人を迎えたように温かく微笑んだ。
ソンヨンは言われるがままに席についた。勧められた朝食を断ったら、フギョムの顔が少し残念そうになった。
「面白い話を聞いた。画員の修行をするとか。王世孫様からの推薦かな?」
思ってもみない質問に、ソンヨンはとんでもないという口調で答えた。
「王世孫様はご存じないことです」
「そうか…。私も清へ留学した経験がある。困ったことがあれば私を訪ねよ。今日はこの辺にしてまた会おう」
フギョムが今のところ知りたかったのは、とりあえずそれだけだった。
ソンヨンは何の疑いもなく、澄んだ笑顔を見せてテントを出ていった。
テーブルに用意されていた2人分のお椀と、おかずの小皿は手つかずのまま残った。

使節団の一行は、無事に清の都に着いた。
旅館で同室になった先輩茶母のチョビにせがまれて、ソンヨンは荷物を片付けるのも早々に、街へ出ていった。
古い石畳の商店街は、人込みであふれかえっていた。
店先に吊り下げられているのは、絹織物やビビットな色合いの傘、虎の毛皮などだった。貿易が盛んなのか、頭にターバンを巻きつけた外国人とも、すれ違いになった。
そりあげた頭の後ろから三つ編みを1本垂らした男たちの周りには、特に野次馬が集まっている。男が口から吹きかけた炎が、流れるように棒の先まで燃えあがっていった。

そのあとソンヨンは紹介されていた技芸院を1人で訪れた。
皇室で使う工芸品を扱う所で、150人の画工がいるらしい。
通された部屋は、最初、通訳の男と2人きりだった。ほどなく頭の上に、逆さ台形の帽子をのせた男が現れ、そで口どうしを前にぴったりくっ付けてお辞儀をした。
通訳の男とその中国人は、しばらく何かを話をしている様子だったけど、そのうち中国人の方が、ソンヨンを足元から頭のてっぺんまでじろりと見あげて、急に不機嫌な顔になった。

いよいよ遠出の日が近づき、サンは王様の部屋に挨拶にあがった。
「お体が万全でない時に、宮殿を留守にし申し訳ありません…」
「気にするな。ひと月でもふた月でも休むがいい。私はそう簡単には死なぬ。王座を譲るまではそなたを助けてやる。重臣らを追放してもかまわない。私はそなたの決定に従うつもりだ」
王様は穏やかに言った。

王世孫と大臣一行が華やかな行列を作って、予定通り出発したあと、宮殿は急にガランとした雰囲気になった。
王様は、おつきの男が差し出したお椀の水を、一気に飲み干し、指で口の周りをぬぐった。
「何か他に持ってくるものはありますか?」
空になった椀をお盆に受け取り、おつきの男は聞いた。王様の表情は、目を開けていられないほど疲れているように見えた。
「温かいものがいい。この前、中殿が持って来た茶があるだろう。あれを入れてくれ…」
王様がふと思い出したように言った。

騒がしい女の声が近づくにつれ、中殿と庭を歩いていた年配の尚宮は、この若い侍女にすっかりあきれ果てた。
目の前まで来たその女は、息せき切って声をあげた。
「王様がぁ…! 王様がぁ…!」
これはただ事ではないと思い、中殿が慌てて御殿の前庭へ回ってみたら、王様が中宮殿の扉が開くのを、じっと待っている。そしてその後ろには、王様のお供をせざるを得なかったおつきの男が、あきらかに不安の色を顔に浮かべて、かしこまったように小さく背をかがめているのだった。
中殿に気づいた王様は、優しい笑みを浮かべた。それはかつて中殿を信頼していたときに見せていたあの笑み、そのものだった。
「恐れながら、てっきり二度と会ってはいただけないものと…」
王様を部屋に招き入れ、中殿は深々と頭を下げた。
「どうして? 私がそなたに会わない理由でも? この前もこのお茶を飲んだら目の疲れが取れた。老いた私が生き長らえているのはそなたのおかげだ」
王様は美味しそうに菊花茶をすすりながら答えた。
これはどういうことだろう…?! 言葉通り、素直に喜んでいいのだろうか!
中殿は緊張した。でも考えれば考えるほど、いっそう不安になり、じっと息をしているのが辛いくらいだった。
「ところでキムギジュだが…。最近姿を見ないが旅にでも出たのかな? 相談事があるから大殿に寄るよう伝えよ」
王様はそう言うと、一口かじった饅頭の黄色いあんこを、物珍しそうにまじまじと見つめた。

2010/3/8更新

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...