2017年6月9日金曜日

イ・サン34話「裏切り」

屋敷前の庭を通り抜けようとしていた恵嬪の父ボンハンは、ソンヨンを見かけて、自分の部屋へと呼び出した。あれから10日も経つのに、入学についての連絡がまだないことに、ソンヨンがどれだけ気をもんでいるのか、知らないはずもなかった。
しかし下唇をねじ曲げてソンヨンを見るボンハンの目つきは、よからぬ噂を聞いていたこともあって、まるで値踏みでもするようだった。
「入学はあきらめろ。清でも女の絵描きは、まれらしいのだ。それでもそなたには清に残ってもらう。帰れない理由は、察しがつくはずだ」
ボンハンは眉間にしわを寄せて言った。もう留学が単なる名目に過ぎなかったことを、否定する気もないらしい。 とにかくソンヨンを帰国させないこと、それが最重要だった。
ソンヨンは、かなりオロオロした様子で、いくつか質問をしようと食い下がった。
するとボンハンは、控えの役人に向かって、ソンヨンを部屋から追い出すよう、手を小さく払うような仕草をしてみせたのだ。

ソンヨンは嘆願書を持って、この前、面接をしてくれた中国人に会おうと、画員教育機関の中門で待ち伏せた。
わざわざ清に来て、10日間を棒に振ったあと、画員になる夢を果たすには、自分で何とかするしかないことが、よくわかったのだ。
しかし面接官も、ボンハンとそっくり同じだった。恐らく中国語でこの女を追い出せとでもまくしたてたのだろう…そばにいた役人がとっさにソンヨンの腕をつかんだ。
「その手を放しなさい」
落ち着いた中国語だった。
声の主を確かめようとした面接官らは、自分たちより頭一つ分は背の高いフギョムをまじまじと見上げることになった。
「これはこれは! ウィ様のご紹介で参られたフギョム様ですね? お待ちしておりましたよ」
面接官の隣に立っていた男が、急に気さくな笑みを浮かべた。金の刺繍入りの丸帽子と、豪華な花模様の衣を身につけた裕福そうな男だった。恐らく画員の監督か何かなのだろう。 灰色の口ヒゲの先が、 ピンと跳ね上がっていた。

監督はフギョムとソンヨンを建物の中へと案内した。
決して小さい部屋ではないのに、壁に大筆が何本もつり下げられ、動物の模様を描いた工芸品の壷の数々が飾られた部屋は、手狭に見えた。
フギョムと監督は丸テーブルに腰かけ、ソンヨンは2人のそばに立った。
事は簡単に運んだ。 こうも変わるのかと思うほどにスムーズだった。手紙の方もちゃんと読んで貰えたらしい。
監督官は妻が朝鮮人らしく、流暢な朝鮮語さえ話した。 喋ってみると、竹を割ったような温かい人物だということもわかった。
「確かに清にも女性画員がいますが、その者たちは類い稀なる才能の持ち主です。ウィ様のお知り合いとあれば入学は許可しますが、口利きで入学して物になるほどこの世界は甘くありません。恐らく苦労するでしょう」
「恐れながら、そんな入学は私も望みません。試験の機会さえ与えられれば、実力で入学します」
ソンヨンの大胆な発言に、監督官は驚いて目を丸くした。しかし同時にこの提案に、とても心をくすぐられたようでもあった。

作業場に移ったソンヨンのテーブルの周りには、野次馬がたくさん集まった。
紙袋型の帽子をかぶった男子や、三つ編を頭のてっぺんでリボンのように結い、オデコを出した少女など、みんな若い修行生だった。
フギョムと監督は、テーブルのすぐそばで、ソンヨンの思いをのせた筆が、白い紙におろされるのを見つめた。
まず紙の左端から大胆に枝をはわせ、筆の先で細かい葉を茂らせた。左上には背後の山をさえぎる木々を空高くまで伸ばし、中央には断がい絶壁の大きな塔の岩山を2つ、右へ流れるほどに塔を小さくして、紙に余白部分を残した。
不思議なことに、ソンヨンはこの同じ構図のものを4枚描きあげた。
出来上がった4枚の絵は、テーブルにきれいに重ねて置かれた。
一番上の絵を見つめながら、監督が思わず首をかしげた。
「同じ山のようだが…」
そこには、枝に雪がこんもりと積もった冬の山が描かれていた。続いて1枚目の絵を脇にずらし2枚目の絵を鑑賞した。今度は岩肌の雪がすべて消え、枝の先にちょびちょびと伸びた新芽の淡いグリーンが目立った。3枚目の山には緑の濃い葉が茂り、4枚目は、赤や黄色で染めあげたような味わい深い山となった。
「これは季節ごとに違う名で呼ばれる、朝鮮の金剛山でございます…」
この絵を書いた理由を聞かれて、ソンヨンは、自信を持って答えた。
監督は満足して深く頷き、そして夢中になって喋った。
「それなら私も聞いたことがある。北宗のソトウバもこの山にほれ込み、高麗に生まれたかったと言い残したたそうだ。彼が絶賛したのもうなずける。季節ごとに趣の異なる絶景が見られるとは。私も朝鮮に行ってみたくなった。才能豊かな女がいる国へな…!」

宿泊所の中門に、帰りの使節団の一行がぼちぼち集まりだすにつれ、広場が慌ただしくなった。
「お前を置いて行くと思うと、後ろ髪を引かれる気分だよ。つらくてもぐっと我慢するんだぞ」
テスのおじさんが、両手でソンヨンの手をぎゅっと握りしめて言った。清に到着したときと同じように、背中に大荷物を抱え、首にマフラーを巻いている。おじさんは、とうとう涙をこらえきれなくなって、声をあげて泣きだした。
出発の声がかかり、一行が門の外へと出ていった。おじさんやタク画員、チョン画員も出発した。ソンヨンから預かった土産物の包みを手にしたチョビが、最後に門のところから、小さくソンヨンに手を振ってみせた。
使節団は3ヶ月の滞在を終えて、元来た道を通り、朝鮮へと向かった。
大草原の道の両端に、 延々と残り雪が続いた。空は明るく晴れ、日射しが眩しいくらいだった。

皆が旅立ったあと、ソンヨンは宿泊先のバルコニーから1人で裏山を眺めた。
霧がたちこめて、山はぼんやりと霞んでいた。近くにあり過ぎ、山向こうの様子は全くわからなかった。
軒先から雪解け水が、しとしと滴り落ちてくると、ソンヨンの目からも涙がこぼれ落ちた。

ソンヨンは順調に絵の勉強に打ち込むことができた。
監督もソンヨンのテーブルの前でふと足を止めては、親切丁寧に絵の書き方を教えてくれる。
仕上がった絵を乾かそうと鴨居に紙を吊り下げたり、ロール状の用紙を持ち運んだりする学生たちの中で、詰めえりのチャイナスモックを着たソンヨンは、ごく自然に見えた。メインの三つ編を頭の上で舟盛りにまとめて、長い髪と一緒に残りの細い三つ編をおろした異国のスタイルが、ソンヨンに新しい輝きをくれたようだった。

中殿は、こっそり尚宮を呼び出し、町医者を宮殿に連れてくるように言った。 その際、誰の目にもつかぬようくれぐれも用心するよう念を押した。
その夜、中殿の部屋にあがった町医者は言った。
「恐れながら王様の症状を聞いた限りでは、その可能性が高いということです」
診断結果は簡単についた。認知症である。
しかし周りにも、もちろん王様自身にも伏せておかなければならないことだった。
ただこの診断結果が確かであることを、どうしても知りたかった。それによって、事が大きく変わる予感がした。
「葛根をお召しになると診断がつくでしょう。認知症患者に与えると症状が悪化すると言われていますので。ご心配はいりません。症状は効能が切れれば回復します…」
緊張とも脅えとも取れるぎこちない目をして、町医者がささやいた。

町医者が帰ったあと、中殿はしばらく考え込んだ。
王様に葛根を飲ませるなら、 王世孫が静養に行っている今がチャンスだった。
実行者は王様のお食事を用意するスラッカンの女官で、信頼できる人間がいいだろう…
決心がつき、障子の外へ声をかけると、軒先で待機していた尚宮が小走りに部屋に入って来た。

王様は箸の先で麺を3、4本持ちあげて、スルスルと口に入れた。
見なれない麺だった。 ソバのような灰色をしている。
「葛根で作った麺でございます…」
美人尚宮が、かしこまり、ゆったりとした口調で説明した。

その夜更け、床に就いて休んでいた王様の耳に、ざわざわとした物音が聞こえはじめた。
刀、銃、皿の割れる音、そして逃げまどう人々の悲鳴だった。
見覚えのある風景が広がった。ひな壇にいる王様は、中殿らと楽しげに、祭典の催し物を鑑賞している。
次の瞬間、広場で演習を披露していた鉄砲隊の銃口が、突然ひな壇に向けられた。
火の粉を散らした銃口からドスンと煙があがり、王様のすぐ目の前にいた世話係や護衛たちが、のけぞるように次々と倒れていく。
広場は、あっという間に王様の兵と敵の兵が激しく刀を向けあう戦場に変わった。
おつきの男が、王様の背中を押して、ひな壇から裏庭へとエスコートした。
御殿の外廊下を抜け、高い城壁道を走り出した王様の一行は、反対から城壁道を駆けてきた敵の集団と鉢合わせになった。
集団は王様の前でストップすると、刀を高く構えた。その集団の奥から進み出てきた王世子サドに、王様は叫んだ。
「王世子よ。何のまねだ!」
しかし王世子サドは何も言わない。ただ深い恨みのこもった目をして、王様をいつまでも睨んでいるだけだった。

王様は手に汗にぎって目を覚ました。
うなされているのを聞いたのだろう…。おつきの男が障子ドアを開けて、足早に寝室へ入ってきた。
「なぜ起こさない。重臣会議の時間ではないか!」
王様にとつぜん声を荒げられ、おつきの男は戸惑ったように言った。
「王様、今はまだ夜中の子の刻ですが…」
王様は、何か思い出そうとするように眉間にしわを寄せて、ため息をついた。ひどく疲れている様子だった。
「あぁ…それにしても息が詰まる。風にあたろう。すぐ会議に行く支度をするのだ」
王様は額に汗を光らせ、ゆっくりと寝床から起き上がった。

静養先から、サンの一行が宮中に戻って来た。
世継ぎの誕生を期待して、嬉しそうにねぎらいの言葉をかける恵嬪を気遣い、実のところ、夫が静養先でも政務に没頭していたということを、嬪宮は言わないでおいた。
特にソクチュと王世孫が、2人きりで話を交わしていたというのは、他の大臣たちも知るところだった。
冬の使節団が帰国したのは、それから少しあとのことだ。
フギョムは、母ファワンの前で、両手を床につけ深々とお辞儀をし、また立ち上がって軽く会釈してから、ようやく落ち着いて腰をおろした。
久しぶりの再会で、晴れやかな笑顔を見せるフギョムに、ファワンは淡々と言った。
「まだ話を聞いていないようだな…。状況が一変したのだ。たぶんソクチュが王世孫側に寝返ったのだろう。それなら合点がいく」

2010/3/19

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...