2017年6月2日金曜日

イ・サン長いあらすじ51話~60話

「イサン」あらすじ 51話

改革がようやく上手く回り始めたとのジェゴンの報告に、サンはさも嬉しそうに耳を傾けた。都の治安が回復し、疫病の広がりも落ち着いたという。
新設した奎章閣の検書官に対する評価もだんだんあがってきている。不要な部署、官職を廃止して、部署の統合も進めているところだった。
一方、辞表を受理されて、朝廷を追われる身となった重臣らは、助けを求めてソクチュの屋敷に押しかけた。
ソクチュは、その重臣たちを前に、ただただ渋い顔をしてみせるばかりだった。
策など何もあるわけがない。王様を困らせるつもりが、随分とおかしなことになったものである…
ソクチュの考えた唯一の解決法とは、王様に土下座して謝ることであった。
サンの耳には今、御殿の前で辞表撤回を求めて土下座する重臣らの声が響いていた。
ソクチュは老論派を代表して、わざわざ大殿にまで足を運びもした。
「どうか我々の過ちをお許しください。国と朝廷を思ってしたことで、王様に反抗するつもりはありませんでした」
「肝心のチャン・テウ殿の姿が見えないようだが…?」
サンの返事は挑発的だった。ソクチュはその答えに苦しみ、思わず顔をそむけた。
どうしてあの頑固なチャン・テウを、王様の前にひざまずかせることができようか…?

側室選びも告知から日が過ぎ、変化が見られるようになった。
グギョンの妹を強く勧めるサンの母恵慶宮、ソンヨンを推薦して譲らないサンの妻中殿との対立は、そばに仕える尚宮をやきもきさせた。
ジェゴンの目に、ある光景が目にとまるようになったのも、ちょうどこの頃からだった。
宮殿の回廊でホン・グギョンとすれ違う役人たちが、こぞって挨拶をしていくのだ。
赤衣の役人らの後には、青衣の集団が揃ってグギョンに深く頭を垂れた。
ジェゴンは眉を潜めた。役人の中にはグギョンの屋敷にまで訪れる者もいるらしい。
しかもホン・グギョンは、それら客人に対して、まんざらでもない笑みを浮かべているのだ。

ある晩、サンはナム洗尚にソンヨンを呼んで来るように指示した。
政務に追われながらも、中殿の言葉は、ずっと頭の中にあった。
ソンヨンはちょうど礼曹の校書館への帰りがけ、ナムに連れて来られた。
短い木造階段のそばで、控えの女官がナムに会釈した。備え付けの灯篭が、階段のたもとで、ほのかなオレンジ色に光った。
ソンヨンは1人で短い階段をあがって外廊下のバルコニーいるサンのそばに立った。
サンは向こう側の廊下の横長い屋根を眺めているところだった。その上には闇の空が広がっていた。
「実は中殿からそなたの話を聞いた。そなたも知っているか?」
「はい、王様。先日、中殿様が考えておられることを話して下さいました」
ソンヨンの口調は、わりとしっかりしたものだった。
「そうか。そうだったんだな…。中殿は私にこう言ったのだ。側室には私と心を通わせられる者を迎えたいと。そなたはそういう存在だと…」
思わずうつむいたソンヨンの目を見つめながら、サンはゆったりと自分の気持ちを吐き出した。
「ソンヨン…。私は知りたいのだ。そなたの気持ちを…。もし、もしもそなたも私を…」
そのとき、ジェゴンとナムが大股で、さっそうとバルコニーに入って来た。
チャン・テウが突然、王様を訪ねて来たという。

「以外と早かったな。もっと待たされるかと思ったが。早速話を聞こう。どんな言葉を並べるのか楽しみだ」
サンは、はつらつとした表情で、笑みさえ浮かべて言った。
チャン・テウはサンの部屋の卓上机の前にピンと背筋を伸ばし構えた。後ろに開け放たれた控えの間の隅に、尚宮と女官らが寄せ集まるように立っていた。
「では王様。お話させて頂きます。恐れながら私は許しを請うために来たのではありません。王様の措置はあまりにも乱暴な失策であると今なお信じて疑わないのです。とはいえ王命に逆らったのは動かぬ証拠。私を罰してください」
しかしテウはその処分を聞く前に、とつぜん自分の顔の前に突き出された宣旨を、丁寧に両手で受け取った。この間の晩に引き続いて、また宣旨とは、テウが思わず眉を潜めたのも無理はない。
巻物をくるくると開いて王様の宣旨に目を通した瞬間、テウはぴくりと顔をあげた。
自分を左議政に任命すると書いてある。
「今回の疫病では救援金を出されたとか。他の重臣たちにも呼びかけ民を救ったと聞いた。信条は私と違っても民を慈しむそなたの行動は、尊敬に値するものだ。自らの責務に対して誠実でもある。老論派の重臣たちに対する処分も軽くしよう。どうだ。そなたの期待にそえたかな」
「私を懐柔されるのですか?」
「そう取ったか。なるほど。いいだろう。それでも構わん」
テウは毒々しくサンを見た。明らかに王様に不信感を募らせたらしい。
しかしサンは十分に満足していた。左議政の役職に就いたテウは、きっとまた改革を非難することだろう。もしそれが正しければ喜んで耳を傾けるし、間違っていれば正面から反論する。国を正しく導くことこそが、まさにサンが望む道であった。

サンの母、恵慶宮は、てっきり息子が執務室にいるだろうと思ったのが、今は大殿におられるのだと尚宮から聞いて、一度は帰りかけたものの、ふと薄明かりの漏れた格子ドアに気づいた。
「誰か中にいるのか?」
「えっ…。それは…」
尚宮は言葉を濁した。ソンヨンを中で待たせるように王様に言われてある。しかし仕方なく、恵慶宮と一緒に執務室の中へ乗り込むことになった。
ソンヨンが王様の椅子に頭をもたれて、うたたねをしているのを見た恵慶宮は、厳しい声をあげた。
「こやつ! 母茶ごときが何と不届きなまねをするのだ!」
慌てて跳ね起きたソンヨンを、2人の尚宮が引きずって庭に放りだすまで、あっという間だった。
ソンヨンが中殿のもとを訪れ、側室の話を正式に断ったのは、その翌日のことである。
図画署に残りたいという他に、パク別提から、王様の肖像画を描くという大役を任せられたことも、その理由に付け加えられた。
サンは、ソンヨンの側室話が完全に立ち消えになったのを知ったとき、険しい表情でナム洗尚に心境を語った。
「ソンヨンは絵の道を選んだのだ。しかし私は時々思うことがある。平凡な民として生まれていたらと。額に汗して田畑を耕し、小さな家で愛する妻と子供達と一緒に、仲睦まじく暮らすのは、最高の人生ではないか? 王位に就くとは、何とつまらない一生だと、そんな風には思わないだろうか…」

テスの叔父パク・タロは、めでたく女将と婚礼の日を迎えた。
近所の小屋の前のたまり場には、護衛や図画署の茶母ら、村の人々が集まって、大きな掛け声とともに、拍手で2人の門出を祝った。
同じ日、ホン・グギョンの妹、元嬪が宮殿に興しいれした。
丸く垂らしたまとめ髪のすそを、鳳凰の形をあしらった金のかんざしで留め、頭の中央に串飾りの散らばった帯をのせただけの、わりと質素ないでたちだった。ホン・グギョンをはじめとする重臣、尚宮、女官ら数名、内官、役人、護衛の兵士の行列が、パク・タロの婚礼よりよほどしめやかに、宮殿の石道を真っすぐに進み、淑昌殿へと入って行った。

その晩、宮仕えの女がナムを急かしにやって来た。
今日は初夜だというのに王様はいつおいでになるのか。必ず淑昌殿へお連れせよというのが、恵慶宮様からの言いつけであった。
ナムが執務室まで自分を呼びに来たのを見て、サンはようやく淑昌殿に向かった。
アーチ型の置き石を渡るサンの足元に、先頭の内官がちょうちんを垂らし、その後ろに、お供の者たちがぞろぞろとついて歩いた。
淑昌殿の前に到着したサンは、建物をじっと見渡した。何枚も連なった格子扉から洩れる明かりが、白々として見えた。

その頃ソンヨンは一人、作業室の座敷にあがって、下絵した王様の肖像画に色を付けていた。衣の肩に描いた紋様の細かい唐草やウロコの部分を黄色で塗り、衣を赤茶色に仕上げた。
筆を進めるごとに、サンの思い出があふれ出てきた。王様はちょうど今ごろ、側室の部屋を訪れている時間だった。
ソンヨンはついに筆を止めた。こぼれ落ちる涙がサンの肖像画に垂れて大きくにじんだ。
「ソンヨン…?」
後ろでささやく声がして、ソンヨンは紙の上に伏せっていた顔をあげた。そして何か幻でも見ているような目をした。
淑昌殿にいるはずのサンが、戸惑った様子でソンヨンを見つめていたのだった。

2010/7/5


「イサン」あらすじ 52話

サンはとっさに逃げ出したソンヨンのあとを追って、作業場の外に出た。
建物の影に立ったナム洗尚と尚宮らは、王様が茶母の両腕をつかんで放さない現場など、見て見ぬふりをするしかなく、思わず顔をそむけた。
サンはどうしても聞きたかった。ソンヨンの目に、こんな風にたっぷり涙がたまっているのは、もしかすると自分と同じ気持ちなのではないのか?
「ソンヨン、そなたに聞きたいことがある。正直に申せ。本心が聞きたい。側室にならないというのは、そなたの意思なのか!?」
「さようです、王様。私は図画署に残りたいのです。画員になるのが長年の夢でした。どうかご理解ください。人が見ています。手をお放しください」
ソンヨンはきっぱりと否定した。まるで拒絶するかのような口ぶりだった。
サンは後悔して、そのままゆっくりと手を放した。
結局、すべて自分の勘違いだったのだ。
つまらぬことを聞いてしまった、とさえ思った。

王様の外戚となった都承旨ホン・グギョン様が出勤のため道をお通りになるというので、仕入れ荷を背負って歩いていた男も、近所の村人たちも、みんな立ち止まって頭を下げた。
グギョンをのせたハシゴ型のコシが、ゆっくりと通りを抜けていく。コシを持つ男らが両端に4名、護衛兵がその間と後ろに続いた。
見物人の中にパク・テロと女将の姿を見たグギョンが、コシをいったん止めさせて、気さくに声をかけてきた。
「結婚式に行けず済まなかったな。そなたも所帯を構えたことだし、宮仕えをするのはどうだ。近くテスを通して連絡する。楽しみにな」
話終わるとコシは再び進みはじめた。テスの叔父パク・テロは、コシに揺られるグギョンの後ろ姿をさも誇らしげに眺めた。
今やグギョンと顔見しりというだけで、パク・テロは周りから羨ましがられた。

「さようです、王様。ホン・グギョンは宿衛所の検査を拒む者を力づくで連行した上、朝廷の人事さえ好き勝手に行っているのです。最近はわいろの申し出が絶えず、家の蔵には財宝が積まれているとか」
王様に謁見したテウは、こう申し出た。
寝耳に水の話だったのだろう、サンの表情にも困惑の色が浮かんだ。
報告を済ませたテウは、執務室に戻り、そこでソクチュを見るなり皮肉を言った。
「そなたらは生意気な虎の子を育てていたというわけか。あのホン・グギョンという者のことだよ」
「ちょうど今我々も、そのことで対策を練るところです。ぜひ同席をお願いします…」
「悪いが他による所がある。哀れにも幽閉されている大妃さまに呼ばれているのだ」
テウは嫌味をたっぷり吐く余裕を見せながらも、気のすすまない様子でため息をつき、また蛇のような鋭い目にもなった。
テウが大妃の部屋へ顔を出すと、おつきの尚宮が2人の湯のみへお茶を注いで、退出していった。
「ここを訪ねるのも一苦労でした。宮殿の片隅に追いやられているとはね。なぜ私を呼ばれたのでしょう。私が力になるとでもお思いで? 今の大妃様は何の切り札もお持ちではありませんよ」
「果たしてそうでしょうか。即断は禁物です。そのせいで昔、そなたは苦い思いをされたでしょう…」
大妃は相変わらず堂々としていた。水面下で、まだよからぬことを企んでいることは、その表情や口ぶりから明らかだった。そのためには、かつて敵であった者まで呼び出し、こんな風に探りを入れてくる。
大妃との面会は、テウにとって、想像通りたいして面白くもないものであった。

サンはナム尚洗を執務室に呼んで、グギョンについて噂の確認をした。
「何人か信頼をおく者を登用しましたが、人事で不正などは行っていないはずです。ホン承旨の家に人が押し寄せているため、誤解を買ったようですね」
ホン・グギョンが、大殿へ出入りする者の検査を担当する宿衛所の責任者を兼任してからというもの、確かにその徹底した取り締まりには、反発の声が少なくないようだった。
グギョンの部下であるテスは、ある重臣の衣のポケットから、携帯用の筆と扇子のストラップを取り出し、一緒にヒモにぶら下がっているミニチュアボトルのフタを開けて、粉を取り出した。重臣は単なる薬入れだと言って不満をあらわにしたが、毒薬の可能性も捨てきれないとして、ひとまずそれは没収となった。
グギョンは任務に忠実なだけで、権力を振りかざすような男ではない、とサンは思った。
この先もずっと信頼し続けるつもりだ。
しかし、何らかの対策は必要であった。

グギョンがいつも通り、意気揚々と便殿へ立ち入ろうとしたとき、ナム尚洗が複雑な顔をして声をかけてきた。
「ホン承旨、待ってくれ。今日は帰った方がいい。王様がそなたを当分の間、政務報告の場にいれるなとおっしゃったのだ」
「えっ? なぜ私がいてはいけないのでしょうか…」
グギョンは戸惑ったものの、王命とあっては逆らえず、ただ執務室に戻り、ぼう然とテーブルについた。しかしいくら考えてみても、王様の意図がわからない。
ホン・グギョンは実に無念だった。憤りで胸がいっぱいになった。
側室として嫁いだ妹、元嬪が王様に相手にされていないことも気にかかった。

「実家では春分に振った雨でその年の農事を占います。地面に壷を埋めて雨の量を測り、作物の出来を予想するのです。私も裏庭に壷を埋めたのですが、今年は豊作の相がでました」
恵慶宮はすっかり感心して聞き入り、晴れ晴れとした笑顔で頷いた。元嬪の話は実に楽しかった。
ところが世継ぎの誕生のことになると、その元嬪の表情に暗い影が差した。
「元嬪、急に黙ってどうしたのです?」
「王様は、どうも私がお気に召さないようで…」
元嬪が、おずおずと申し出た。
このとき恵慶宮は、宮中で噂になっている話を初めて知った。いや、初夜にも関わらず王様が元嬪を振ったというのは、噂どころか紛れもない事実だったのである。

ナムを連れ、カーテンドレープをくぐって部屋に現れたサンは、絵の具の準備をすっかり整えて待つソンヨンを、寂しそうに見た。
「もう終わりそうだな」
「はい。王様に読書堂へ来て頂くのは今日が最後で、肖像画の完成は来月あたりです」
「そうか…」
サンが丸テーブルにつくと、ソンヨンはそそくさと作業をはじめた。あとは下絵を絹地に描き移すだけだった。
黒い烏帽子と、薄っすらとひげの生えたりりしい顔が完成した。あとは衣を朱色に、両肩の龍の模様の黒い縁どり線の中を金粉で細く塗りつぶすだけだった。
思った以上に作業が早く進むので、ソンヨンがわざと早く終わらせているようにさえ、サンには思えた。
ソンヨンが顔をあげるたび、苦悩するサンと目があった。

ソンヨンと入れ替わりに、恵慶宮が読書堂を訪れた。
いつもは遠回しに息子の過ちを説き伏せる母も、今回ばかりは苛立ちを隠さず、声を荒げて怒った。
「どういうつもりですか! 元嬪の部屋を訪れないとは。それにあきれた話を聞きましたよ。初夜だというのにそなたは図画署に…!」
「母上、よく分かっています。二度と心配はかけません。今夜、元嬪の部屋に参ります。それが王である私の義務だと自覚していますので」
サンは母の言葉に終止符をうった。

三日月がぽっかり浮かんだその晩、サンはナムや尚宮、警備兵をともなって、ようやく元嬪の御殿にやって来た。
庭で首を長くして待っていた元嬪は、ホッとした笑顔で王様を迎え、少し不機嫌な様子で、さっそうと部屋へあがるサンの背中を追った。

2010/8/1


「イサン」あらすじ 53話

皮肉にもソンヨンは、先輩茶母のチョビと一緒にしばらくの間、元嬪の住む淑昌殿へ通うことになった。
恵慶宮が、元嬪の懐妊を祈願する屏風を作らせることにし、元嬪があえてソンヨンを画家に指名したからだった。
ソンヨンとチョビは、ツルの金屏風と白梅の屏風が置かれた作業場に入ると、風呂敷の荷物をテーブルにとりあえず載せたままにして、先に屏風の図案カタログを広げた。
「蓮の花はどうでしょう? 6曲で1枚の絵にしようかと…」
蓮の花といえば多産と富の象徴なので、チョビもすぐにソンヨンの意見に賛成した。
絵は図画署で仕上げた方が、早く仕上がる。それでもわざわざ淑昌殿へ足を運べというのが、元嬪たっての希望だった。
絵の完成する様子を見たいというのが表向きの理由でありながら、本音を言えば、元嬪が見たがっているのは、絵よりも、あの晩、王様が密会したという茶母の方だった。

一行は、黄泉の国へと旅立つ者をのせて、草ぶきの民家の間にさしかかった。
村の女や男たちが、道まで出て来てミコシと、白い着物に薄黄色のずきんをかぶった男たちの一行を、じっと眺めていた。
折り紙を重ねたような賑やかな箱天井に、タッセルと房飾りを側面にぶら下げたカラフルなミコシだった。上下半分ずつ赤と青に色分けされた蚊帳風のぼんぼりが、四隅で揺れた。
壁には波打った虹模様と青い蓮が咲き、中央に裸体の男が一人、描かれている。屋根に立つ1羽の飾り鳥が、ミコシから流れゆく景色を遠く見つめていた。
やぐらに載せられたミコシは、青く透けた帯で囲われ、その甲板に立つ男が、ちりんちりんとベルを鳴らし、歌を先導した。するとタスキで体をやぐらの組み足に固定した男らが、歌声を低く響かせ、リヤカーでも引くように押して歩いた。
太鼓をたたく男、半透明のうちわを掲げた男、幟旗を持つ男が、みこしと一緒にゆっくりと進んだ。
コシはやがて過ぎ去り、村人たちの目は、長々と続く白い男達の後ろ姿に向けられた。
色とりどりの幟旗には、どれも墨で書が綴られていたが、あえて何も書かずに白いままのものが、残り香のように最後まで目に映った。

亡くなったのは直提学、キ・チョニクだった。
死に際、老人は枕元で悲しむサンに、
「短い間でしたが王様にお仕えできたことは、この上ない光栄でした。王様は私を卑しい身分の者ではなく、ひとりの人間として扱って下さいました。お志をお捨てになりませんように…」
とささやいて、すぐに、かくんと首を垂れた。
貧しく、人々に尊敬された老人であった。
彼の死は病気ではない。奎章閣の直提学と検書官を襲った事件によるものだった。
卑しい身分の出身でありながら、検書官、三司、六曹の業務をこなせる彼らの能力を評価する声が、次第に高まっていた矢先のことだ。

グギョンはさっそくテスたちに、重臣らの動きを尾行させた。
直提学らを襲ったのは、彼らの登用を快く思わない連中の仕業と考えてのことだったが、事件からすでに3日が経ち、実行犯である楊花津のゴロツキも、とっくに都から姿を消していることくらいは、予想がついた。
グギョンは宿衛所に戻ったテスに、こっそりとメモを渡した。
こまごまと書かれたその文字を見て、テスは驚いて尋ねた。
「この方が事件の首謀者ですか?」
グギョンは黙って頷いた。
今回の犯行は老論派の重臣の中にいる。限りなく容疑者に近い存在でありながら、証拠がないために、そのままのさばっているに過ぎない。
正攻法では時間がかかる…
グギョンは、重臣らを誘拐・監禁した事件を起こして以来、再び独断での犯行を決めた。
王様の耳に入ったら、捜査がやりにくい。
極秘任務を受けたテスは、すぐに執務室から飛び出していった。

「今回の事件の背景に老論派の重臣がいるですと? そのような暴挙に及ぶとは思えません。想像もできないことです」
パク・テウは、ひどく困惑した様子で、サンに反論した。
「そなたが何も知らないことは予想している。しかしこれは面白い。老論派を指揮していると思っているのは、本人だけか?」
サンは皮肉な笑みを浮かべた。しかし直提学キ・チョニクを失った悲しみと後悔は、犯人逮捕の瞬間まで、とても癒されそうになかった。
テウはその晩、さっそく重臣らを屋敷へ集めたものの、やはり事件の関与について、自白をする者は1人も出なかった。
「証拠もなしに疑うとは、不当な弾圧ではありませんか?」
重臣の1人がテウに不満を口にした。
テウは重臣の1人1人の顔を疑うようにまじまじと睨みつけながら、結局、場をお開きにすることにした。
自白がない以上、彼らを信じるより、彼とてしょうがなかったのである。

パク・タロは、グギョンが夕方の申の刻に宮中を出てから、いまだ宿衛所に戻っていないことをナム尚洗に伝えた。
グギョンのことが気にかかりながらも、ナムはパク・テロに親しげに笑いかけた。テスの叔父、パク・タロは従八品の尚門となって、宮中に戻って来たのだ。
年俸は毎月、米3升に綿布が5疋と、おかみと2人所帯の身には十分なものだった。
タロを帰宅させると、ナムはサンの部屋へあがって、グギョンの不在を伝えた。
「おかしいな…。ホン承旨がいない?」
サンは思わず書類から目をあげ、眉を潜めた。
普段なら、明日の報告をまとめている時間だった。

翌日、ナムが大殿の回廊を慌ただしく走る姿が見られたが、これは広津の船着場で刑曹判書の死体が見つかった速報を、王様に伝えるためであった。
執務室では、ちょうどジェゴンが王様に、昨夜、チャン・テウの側近であるミン・ジュシクが襲われた事件について、耳に入れているところだった。
「襲った者の正体はわかりません。命には別状ありませんが、傷が深く、登庁はできぬとか。連日の物騒な事件で、民の動揺が心配されます…」
ジェゴンの言葉が終わるか終わらないうち、ナムの速報が舞い込み、続いて禁軍別将が刑曹判書の事件の報告のため、執務室へ駆けこんだ。
「卯の刻に警備兵が死体を発見しました! 部下の話では帰宅したところを暴漢に襲われ拉致されたようです。それから1つ不可解な点があります」
禁軍別将は、そで下から小さな紙切れ取り出し、テーブルへのせた。
中央に墨で大きく一つ書かれた又の字が、サンの目に映った。
「死体の腕に刻まれていた文字です。“又”の字を刻むのは、また人を殺すという警告かもしれません。恐れながら王様。宮中に広まっている噂をご存じでしょうか? 老論派の2人が襲われたのは、奎章閣の事件に対する報復ではないかと…」
禁軍別将の顔に浮かんだ不安は、サンにもまたある1つの嫌な予感をよぎらせた。

町の通りを歩いていたテスは、屋敷の前の人だかりに気づいて近づいた。
白いエプロンをつけた役人たちが、ちょうど屋敷の門から担架で遺体を運び出しているところだった。
テスの目にまず飛び込んだのは、遺体の右手の甲に黒く刻まれた、又の文字だった。
現場にいた下級役人が、テスに状況を説明した。
「工曹参判様が暴漢に襲われ、亡くなったのです…」
テスの胸に、驚きと不安がたちこめた。
夕べ、確かにグギョンに頼まれ、自分は老論派のミン・ジュシクを痛めつけたのだ。
しかしそれは脅された敵が、証拠を隠滅しようと慌てて動き出すのを待つのが狙いだったはず…。殺人については、全く身に覚えのない話だった。
宿衛所へ戻ったテスの耳に、テスの極秘任務について何も知らされていない護衛仲間らが、口々にささやくのが聴こえた。
「工曹参判だけでなく、束曹参議も殺されたらしいぞ…」
テスはがく然とした。事件はいつの間にか、連続殺人事件に発展していたのである。

その頃、再び執務室に通されたテウは、事件にホン・グギョンが関わっていることを、納得したような口ぶりでサンに伝えた。
「王様、実は証拠を持って参りました。ホン承旨がごろつきを雇い、ミン・ジュシクを襲わせたのです。捕えたごろつきの1人が、そう自白しました。どうやらホン承旨も、王様を飾り物扱いしているようですな…」




「イサン」あらすじ 54話

「ホン承旨の無実を証明すればいいのだろう」
便殿に集められた重臣らは、王様のその言葉に対して、また一体何を証拠にそんなことを言い出すのやらと思った。
いや、それより何より、王様の考えていることを知ったとき、重臣らは、ますます気分が悪くなった。
「今夜にも真犯人が現れるかもしれぬ。殺人の標的は、ここにいる戸曹判書イ・フンソク、礼曹参判カン・ハクス、それに戸曹参判ミン・ウテ、またはこの中の誰かになるだろう」
サンはきっぱりと言った。

この報告の後、重臣らは執務室に戻って、チャン・テウを取り囲むように、テーブルについた。
テウは硬い表情のままだった。ただ1つだけはっきりしているのは、今回の件で王様が、自らの首を絞めるに違いないということだった。
あれはグギョンを助けたいがために言ったたわごとだ…。そう断固信じて疑わなかったのである。
しかしどうも腹の底で、妙に気が立った。
テウのそばで、重臣の1人が心配そうに言った。
「本当に我々は狙われているのですか…? そんな話はとても信じられませんよ。ホン・グギョン以外の誰が、我々を狙うというのです」
「王様がありもしないことを言うとは思えないがね…」
ソクチュが冷ややかに答えた。

まもなく出動の命が下り、テスらが一斉に移動を開始した。
通行人らは、馬が猛スピードで橋の中央を駆けるのを見て、慌てて大きく隅へ寄り、ぼう然とした。
続いて槍を持った兵士の一行が馬を追って全速力で走る振動で、足元のタイルから頭まで砂埃が舞いあがった。
宮中の大門からも、大量の兵が一斉に吐き出された。
一方、戸曹判書イ・フンソクの屋敷からは、護衛の姿がぱったり消えた。警備が手薄になったと見せかけて、敵をおびき寄せる作戦だった。
「警護が解除されたことを家中の下僕たちに伝えて、夕方、申の刻を過ぎたらこれを着て隠れて下さい」
屋敷に立ち寄ったテスは、早口で言い終わると、丸めた白い衣服をフンソクの目の前に差し出した。
戸曹判書イ・フンソクは、下僕用のその厚ぼったい着物を受け取ったものの、いかにも不満そうな顔をした。
ホン・グギョンは今、牢の中にいるのだ。
一体、他に誰が、自分を襲うというのか…?!
それでも王命とあって、渋々、粗末な着物に着替えた戸曹判書イ・フンソクは、眠れぬ一夜を過ごした。

夜もすっかり深まった亥の刻すぎ、サンの執務室に禁軍別将が顔を出し、殺人犯に狙われると予想される3名の重臣宅に、宿衛官と禁軍を配備し終わったことを告げた。
翌日すぐには、チャン・テウがやって来た。
彼は蛇のような冷たい落ち着いた目つきで、サンに言った。
「王様の推測が外れましたので、私に容疑者を尋問させて頂けないでしょうか? ホン承旨を自白させるための、許可をいただきに参りました」
テウの予想通り、昨夜は敵どころかアリ1匹、現れなかったのである。
サンが黙っているので、テウはてっきり返事に困っているものと思った。

先日、テスを連れて、サンが検視室を訪れたとき、部屋には3体の遺体が安置されていた。
体全体を白い布ですっぽり覆われた遺体の腕を持ち上げ、サンは手の甲を表に返した。
又の字がある。
さらに隣の遺体にかかった布をめくり、爪まで白ずみ、ぐったりとした手をテスの方に向けた。
「分かるかテス…? “又”にも見えるが、こっちのは“女”という字だ。文字は2種類ある。つまり、奴隷の“奴”という文字だ」
サンの瞳は小刻みに揺れた。

検死室から執務室へ舞い戻ったサンが、まず始めたこととは、ホン・グギョンが先日、提出した改革案をじっくり中まで読み込む作業だった。
グギョンに作らせたその改革案には、奴隷の置かれた状況調査があり、殺された重臣らのむごたらしい仕打ちや、逃げた奴隷に対する執拗な追跡と暴力についてが、詳しく記されていた。
また特に奴隷の扱いがひどい重臣の中で、まだ殺害されていない3名に着目し、サンはここで1つの仮定を立てた。
重臣殺害の犯行は、奴隷らが組織する義狭団の仕業であると…

サンがまだテウに返事をしないうちに、執務室へナムが入って来た。
何事かと見上げたサンとテウに、ナムは息をのんで言った。
「工曹参判が殺害されました…!」
晩には、パク・テスが義狭団の拠点を突き止めたという一報が、サンに届いた。
翌日、義禁府へサンの命令が行き、グギョンが釈放された。
グギョンはすぐその足で、幽閉生活を送っている大妃に一人で会いに行った。
偶然、松の枝の向こうにグギョンの顔を見て、ナム尚洗は思わず眉を潜めたのである。
一体どうして、嘉靖堂の庭を、グギョンが歩いているのか…?
すでに用事は済んだらしく、嘉靖堂の女官3名が、会釈しながらグギョンを見送っていた。
グギョンは敷石をまたいで門を出たが、何かを考えあぐねたような、ゆったりとした足取りであった。

回廊を歩いていると、向こうからテスの叔父パク・テロがやって来て、グギョンに深くおじぎをした。
何か重要な話でもあるのだろう。周りの視線を、タロがやけに気にしているのを見て、グギョンはすぐに、とりまきの重臣らを立ち去らせた。
タロは興奮をおさえようと声をひそめたものの、目は喜びのあまり三日月のようにゆがんだ。
「聞きましたか…? 元嬪様のお部屋に御医が…」
「お体が優れないのか?」
「いや、そうではなく…」

すぐさま淑昌宮に駆けつけたグギョンは、まだ自分が床に座り終えないうちから、快活な声でお祝いを述べた。
元嬪の方も、慣れない宮中生活のなか、本当に頼れるのは実兄のグギョンだけということもあって、ホッとした笑顔を見せた。サンの妻、中殿との折り合いも悪かった。
「命をかけて元嬪様と御子様をお守りします。どうかお体を大切になさって下さい。願わくば王子様でありますように…」
「ご安心下さい。きっとそうですわ」
元嬪は急に立ち上がって、上座をあけ、グギョンの隣に座った。懐妊の知らせを聞いたサンが、部屋に入って来たのだった。
「そなたもいたか」
「はい。王様。実におめでたいことでございます」
グギョンはこの上なく感激した様子だった。奴隷改革の全権をサンから任されたうえ、さらに届いた嬉しい知らせであった。
「そうだな。元嬪にも礼を言う。これで王室も安泰だ」
サンは元嬪に、ねぎらいの言葉をかけた。

淑昌宮で元嬪の懐妊祈願の絵を描く作業をしたソンヨンは、中門そばの石タイルにしゃがみ込んで、用具を洗っていた。
木のおけと雨水用のかめを洗い場に残して、チョビがとりあえず、器類を入れた銅製の鍋を持ち、先に図画署へと帰っていくと、ソンヨンは、ふと筆を洗うのをやめて、ぼんやりとした。
さっき目の前で、元嬪がつわりを起こすのを見てきたばかりだった。ソンヨンの描く蓮の花を、泥土に根を生やすものとして、ひどく嫌がるなど、気の荒い様子もあった。
筆を洗い終わり、木ボールを抱えて、外の渡り廊下を横切ろうとしたソンヨンは、尚宮と女官らを引き連れたサンに、声をかけられた。
「元嬪様がご懐妊されたそうで、お祝い申し上げます…」
ソンヨンは、つとめて明るい表情を作ったが、サンの方が少し正直なようであった。
「王室にとってはめでたいことだろうな…。だが私は、そなたからそう言われたくはない」

2010/8/22


「イサン」あらすじ 55話

ここは回廊の高床式舞台である。ご婦人方の笑い声が、板間と天井に跳ねかえって、よく響く。招待客らは、上座の中殿、恵慶宮、元嬪をコの字に囲んで、2名ずつゴザに座った。
中殿らのそばには、尚宮3名が控え、10名ほどの女官が、朱色の柱を背にして、寄りかたまるように立っていた。その向こうに、ぽつん、ぽつんと鉛筆型の小さな休憩所が2つ見える。華々しい笑い声とは裏腹に、どこかぼんやりとした景色だった。
それぞれのミニテーブルには、柏餅とお茶が用意された。
小鳥が鳴き、一見、のどかな時が流れているようだったが、サンの妻、中殿の心は沈みがちだった。
しかし暗い気分でいることさえ許されないような強い雰囲気が、この場にはあった。
晴れ晴れとした笑顔の恵慶宮と元嬪に、黄色い花かんざしで後ろ髪をまとめた年増の女が、代表でお祝いを述べた。
「本当におめでとうございます。待望のお世継ぎですもの。元嬪様のおかげで恵慶宮様も安心されたでしょう」

会が終わってすぐ、中殿は早々に舞台をおり、前庭を歩いた。
賑やかな気配がして、ふと舞台を大きく見上げてみると、元嬪がちょうどご婦人方と楽しそうに、柵のついた舞台の端へ姿を現した。
ご婦人方は、手にした貴重な贈り物を、競うように元嬪へ見せていた。
済州の蜜柑の他、咸陽から取り寄せた薬というのは、男児を産むためのものらしい。
元嬪はひとまず満足な顔をしたものの、実のところ関心は別にあった。
ちらりと舞台から中殿を見降ろし、聞こえよがしに言ったのだ。
「お気遣いありがとう。王室に世継ぎがなく、皆も心配しただろう。子も産めぬようでは皆にあわす顔がない」
言い終わると、さっそうとご婦人らを連れ、お茶を飲みに舞台の中程へ戻っていった。
中殿は、みじめな気分になった。

ソンヨンは、ふっくらとしたザクロの実を紙に5つ描いた。右の枝に2つ、左の枝に3つ。桃色に塗り、閉じ口とお尻を淡い赤色にした。下書き用に、枝の色は影のように薄く、軽めに仕上げた。
チョビと一緒に、下絵を見せに、元嬪の部屋へあがった。
元嬪が蓮の花の絵を嫌ったため、多産と豊穣の象徴であるザクロに変えたのだったが、妊娠がわかった今、元嬪は、もはや絵に対して興味を失っていた。
ちょうど御医が、医官と医女を1人ずつ連れ診察にやって来たので、元嬪の気は、完全にそちらの方へ移った。
御医は、元嬪の手の平を上に向け、じっと脈をとった。しかし何かまずいことでもあったのか、急に汗ばんだ顔つきになった。
「恐れながら、今頃は懐妊を知らせる尺脈が出るはずなのですが…」
御医の口から次の言葉が出てくる前に、元嬪は尚宮に視線をやり、人払いをさせた。
部屋を追い出されたチョビが、細い回廊をぼんやりと歩きながら、ソンヨンに言った。
「様子が変よね。御医が口ごもってたでしょう。脈がなんとか言ってたけど、何かしら…?」

「想像妊娠だったですと?」
その晩、元嬪に急きょ呼ばれたグギョンは驚いて、声をひそめた。
部屋には兄と妹の2人きりだった。
「兄上、どうしたらいいのでしょう? 本当のことは話せません。王様や恵慶宮様の関心を引くために懐妊を偽ったと噂されます。それに中殿様はここぞとばかり白い目で見るでしょう。どうか力を貸して下さい。あとで死産したことにしましょう」
元嬪は悔しそうに涙ぐんだ。

翌、サンの宣旨が発表された。
便殿に集まった大臣らに向け、グギョンが読み上げた一文は以下の通りである。
「奴隷に対する搾取と逃亡者の追跡を、己亥年3月5日をもって禁じ、管轄機関を廃止する。また一定の条件を満たした奴隷は戸籍を破棄し、平民に格上げとする。さらに奴隷の身分を一代に限定し、徐々に奴隷をなくしていく」

グギョンが突然、嘉靖堂に軟禁中の大妃を、王様に引き合わせようと、外に連れ出したのは、この発表の少し前のことであった。
大きな権力を手にしたグギョンの周りには、常に何かしらの噂が付きまとってはいたが、自らそれを認めるような行為に、サンは驚きを隠せなかった。
しかしグギョンは大妃と密かに会っていた事実を、サンの前で釈明した。
「王様。どうか誤解なさらないでください。チャン・テウ様をけん制するためなのです。大妃様は必ず王様のお力になるでしょう。チャン・テウ様を退かせ、老論派を掌握できる大妃様の力を、大いに利用するべきです。嘉靖堂での軟禁を、ぜひ解いて頂きますよう…」

グギョンが大妃と組んだ事実を、裏切りと解釈する者もいた。
グギョンを料亭に呼び出したのは、テスら昔馴染みの部下たちだった。
あまりいい話でないのを予感してか、グギョンは手酌で酒を立て続けに飲み干した。
「まさかと思いましたが、大妃様はいけません。王様を殺そうとした方ですよ」
部下の1人が口火を切った途端、グギョンは、すっと席を立った。少し気に障ったようだった。
料亭の庭まで心配して追っかけてきたテスに、グギョンは悲しげに言った。
「お前も私が信じられないか? 他意があって大妃様に近づいたと思うか?」
「もちろん承旨様に限ってそれはないでしょう」
テスは慌てて否定したものの、今では出世を望む者が、大勢グギョンの家を訪ねているという事実が、どうしても頭から離れなかった。
「そうだ。私は変わった。変わらないはずがないだろう? やっと権力を手にしたのだ。昔のままのホン・グギョンではいられない。だが、分かるかテス? 私は自分が間違っているとは思わない。必要なら誰とでも手を組む。私がこうするのは、すべて王様をお守りするためなのだ」
そのときグギョンはこぶしを震わせて、テスにそう宣言した。

宣旨を聞き終わったチャン・テウが、大臣らを代表し、随分ときまじめな顔をして、サンに質問した。
「王様。左議政チャン・テウが、ひと言申し上げます。私が何を言おうと王様のご意思は変わらないと思われますが、いかがですか?」
「そうだ」
サンは、それがごく自然であるかのように、きっぱりと答えた。
「そういうことならやむをえませんな。王様は国中の両班を敵に回しました。破局に至った責任は、王様にあるのです」
誰を見つめるでもなく、厳しい目を宙へ向けたまま言い終わると、チャン・テウは、とつぜん立ちあがり、便殿を立ち去った。つられるように、他の重臣らも続々と席を立ち、出口へ向けて歩きだすのを、サンは、ただぼう然と眺めるしかなかった。
席は歯が抜けたように空き、場はガランとした。

しかしこれはグギョンの心配が、目に見える形となって現れたに過ぎない。
その苦い思いをひしひしと味わったのは、他でもないサンであった。
翌朝の御前会議は、予定通り辰の刻にて行われた。
サンにとって意外だったのは、ソクチュが工曹判書らを引き連れ、御前会議に参加したことである。
チャン・テウをリーダーとする老論派の重臣の一部は、昨日に引き続き欠席していた。
会議のあと、ソクチュは、その思惑を王様に正直に打ち明けた。
「両班が所有する奴隷の解放を撤回してください。その代わり、逃亡した奴隷の追跡禁止は受け入れます。私たちが両班の反発を抑え、官吏たちを業務に復帰させましょう。王様。天下には2種類のハカリがあるのです。ひとつは是非の秤、ひとつは利害の秤です。王様の改革は正しいものですが、どちらかに偏っては民をまとめられません」
「それがそなたの妥協案か?」
どこか怪しむような目つきをするサンに対して、ソクチュは、むしろすでに問題が解決したかのような安らいだ口調になった。
「さようです。そしてこれは、大妃様の指示でもあります…」
サンの瞳は驚きで見開き、微かな迷いのようなものが現れた。

ソクチュはその足で、テウの屋敷へ報告に行くことも忘れなかった。
「やはり大妃が裏で手を回していたのか。私には従えぬと?」
怒りというより、世の情けなさを嘆くように、テウは言った。
「我々は一度、王様との勝負に負けました。再び正面衝突をしても結果は同じです。譲歩しつつ要求を通すほうが賢明でしょう。朝廷は大きく変わりました。時流をとらえ、柔軟に対応しなければ」
「そういう話はそなたの仕えるメギツネにせよ。駆け引きなどくだらぬ。信念に従い動くのみだ」
テウは意地を張った。内心、ソクチュの言うことも理解はできた。しかし彼はあくまで自分のスタイルを貫き通す方を好んだ。

翌日の午後、重臣を殺害した義狭団の実行犯の処刑が行われ、サンも同席した。
奴隷として一生を過ごした男の不幸な人生を思い、サンは悩んだ。
しかし殺人事件のケリがついたということで、あと1つ、問題を片付けることにした。
処刑場から帰る途中、サンは大妃のいる嘉靖堂に人を送るよう、肩越しに立つナムに指示を出した。
まもなく軟禁を解かれた大妃が、お供の尚宮や女官らをぞろぞろ引き連れ、かつての住まいへと向かう姿が見られたが、その晴れ晴れとした笑顔とは裏腹に、回廊から大妃の姿を眺めるサンの思いは、とても複雑なものであった。

2010/8/29


「イサン」あらすじ 56話

ジェゴンの報告によると、奎章閣の直提学の殺害、検書官の襲撃事件の容疑者、ミン・ジュシクを護送中、兵士らが突然、毒矢の攻撃を受け、ジュシクを取り逃したしたとのことであった。
逃亡犯、ミン・ジュシクはチャン・テウの側近である。
チャン・テウがジュシクを逃走させたと考えたわけではないが、サンはグギョンの意気込みを買う形になった。
「王様、捜査の全権を私に委ねられたのを覚えておいででしょうか…? どうか今回の処分は私に一任してください」
グギョンはサンの許可を得ると、宿衛所にすっ飛んで帰って、テスら部下に、嫌疑のある重臣を全員、捕えるように命じた。またその際には、どんな方法を使ってもよいと、付け加えた。

チャン・テウの屋敷には、重臣らが8名ばかり集まった。
卓上机には、さきほど届けられた令状が置いてある。
テウはそれを腹に据えかねたように見つめていた。
「ミン・ジュシクの逃走を助けた嫌疑が我々にかけられているとは、どういうことですか…?」
重臣の一人が身を乗り出して、テウに答えを求めた。
しかしテウは思わず口をねじ曲げて、絶句したのである。
テウには、グギョンがミン・ジュシクを口実に、老論派を徹底的に弾圧する光景が、ありありと浮かんで見えたのだ。

庭先を歩いていて、サンは、御医とグギョンが建物の影で立ち話をしているのを不思議に思った。何か言い争っているようにも感じた。
「御医と一体何の話をしている…? 元嬪の話のようだったが」
声をかけてみると、グギョンは我に返ったような顔をした。どこか後ずさりでもしたそうな目だった。
「それは…。薬の処方についてです。中殿様が取り寄せた薬の効能を御医が疑うので…」
サンは、その途切れがちな返事を聞きながら、グギョンの隣でやけに縮こまっている御医に、ちらりと目をやった。切羽詰まり、悩みごとでも抱えたような顔だった。
「そうか。しかし薬の処方は御医に任せるがいい。そなたも分かるだろう? 腹の子に万が一のことがあれば重大な責任を問われる。これは王室をあげての慶事なのだ」
サンは御医をかばうように、グギョンをたしなめた。

恵慶宮の尚宮は、元嬪の座卓に黒塗りの木箱をのせて、部屋をさがった。ピカピカした貝を使って、表面と側面に細かい模様をほどこした逸品だった。
恵慶宮からの思わぬ賜り物に、元嬪は喜びと悲しみが入り混じったような顔をした。
木箱のふたを取ってみると、鮮やかな宝飾品が目に飛び込んだ。
ヒスイの花ブローチつきの房飾りが3色ほど底に敷き詰められ、その中央に、色とりどりの石の指輪が9つ転がしてあった。
「清から戻った使者がくれた装飾品です。美しい物を身に付けるとお腹の子にもいい影響があるとか…。そろそろ御子を授かってふた月になりますね? 軽い腹痛があるはずですよ」
「えっ? ああ、そうなのです…。その件で御医にも相談しています」
元嬪は無我夢中で返事をした。
恵慶宮は、すっと胸のつかえが下りたように微笑んだが、元嬪の方は生きた心地がしなかった。

恵慶宮のあとには、中殿が見舞いにやって来た。
「腹痛がひどくて大変ではなかったか?」
「腹痛などありませんでした」
「変だな。文醋湯を飲まなかったのか?」
「文醋湯と言いますと…? どんな薬です?」
「懐妊の真意を判定する薬だ。少し前に医女が届けたはずだが…」
「あっ…! ありましたわ。確かに何かの薬を飲んだあと、腹痛が始まりました」
元嬪は顔をカチカチにして無理に微笑んだ。
中殿の尚宮が卓上机に盆を置いて布カバーを払い、中殿がその盆から急須を手にとり、梅茶を注いだ。元嬪はそそくさとそれを飲み干した。
元嬪の目つきが暗いのが、中殿はどことなく気にかかった。
懐妊で神経が過敏になっているのだろうか…?

ソンヨンの描く屏風絵の進み具合を見るため、作業室に入ってきた元嬪は、すでに疲れていて機嫌が悪かった。
作業テーブルには水ボール、絵の具皿を入れた盆など、こまごまとした道具が並んでいる。ソンヨンにいつでも筆が渡せるよう、チョビが横でスタンバイしていた。
紙にまだ色付けがされてないのを見て、元嬪が不満を漏らしたとき、ちょうど部屋に尚宮と女官が入ってきた。
「ホン承旨様が益母草を煎じた茶を持ってこられました。毎日5回、飲まれるようにとのことです…」
女官の持つ盆に、ふんわりと布がかかっている。元嬪はうんざりとなった。さっきからずっと薬ばかりだ。
それでも兄がせっかく用意してくれたものとあって、すぐ尚宮らと一緒に寝室へと戻って行った。
夜にはグギョンが心配して部屋へ顔を出し、元嬪に告げた。
「元嬪様の行動がどれほど軽率だったか、分かりましたか? 私も王様に嘘をついてしまいました。王様を欺くのは大逆罪です。…もはや手立てはありません。数日内に死産を装い処理しましょう。御医には口止めしましたので」

翌日、元嬪の誕生日会が開かれた。懐妊のお祝いと合わせて、盛大な宴になった。
黄緑、赤、藤色のドレスの舞妓が3名ずつ、白い布を手にひらひら、くるくる目まぐるしく回り、その影が赤いじゅうたんの上で、風車のように舞った。
重臣らはじゅうたんを挟んで奥と手前の2列のテーブル席に分かれ、白い器に料理と酒がふるまわれた。
恵慶宮、サン、中殿、元嬪の順に座った王族らは、壇上のテーブル席から、舞妓らの踊りを楽しげに見つめた。
そばに尚宮、内官が立ち、背後で女官らがひょうたん型の金のうちわをかかげた。
笛の音は高く、楽師らの弦楽器は線のように重なりあって空に届いた。
王族はもとより、ソクチュやテウまでもが、不安をいっとき忘れて、くつろいだ顔をした。
重臣らの席で静かに酒を口に運んでいたグギョンは、そのとき王族席の元嬪へ目をやった。
中殿と笑っていた元嬪も、兄の視線には気づいた様子であった。
やがてグギョンの顎の合図で、元嬪は叫んだ。
「アァー! アーッ…」
元嬪のその叫び声が響いた瞬間、そばにいた尚宮は、衣のたもとに隠し持っていたボール玉を手で絞りあげて、血のりをぴしゃりと床板にまき散らした。

会場は騒然となった。
残された重臣らは、元嬪のうめき声が、だんだん会場内から遠ざかっていくのを、ただぼう然と眺めた。
まもなく医官2名と医女が淑昌宮から小走りに出て右へ走り去り、別の医官と医女2名と慌しくすれ違いになった。
これまた別の医官と医女が正面の道をまっすぐ進み、そのまま元嬪の住まいである淑昌宮の中へと入っていった。

2010/9/6


「イサン」あらすじ 57話

執務室で御医は、まるで首でも締めつけられたように苦しそうだった。
顔には焦りの色が浮かび、喋るとつい力が入って、膝が跳ねあがるのだった。
「中殿様が実家から取り寄せた薬に、元嬪様の死産を招く有害物が入っていたようです。恐れながら何度原因を調べてもその薬のせいとしか考えられません」
「元嬪の御子が死産したのは中殿のせいなのか…?!」
サンは御医に念を押すように聞いた。
耳を疑う話だった。どうしても信じられない。
しかし御医の主張は変わらなかった。
「中殿様がおくられた薬に、元嬪様の体質に合わない白朮が入っていましたので間違いないと思われます。それと、申し上げにくいことですが…中殿様は確かに元嬪様のお体に害になるとご存じでした」
サンはとうとう耳をそむけてしまった。手の平で額と目を覆い隠して、しばらくの間、深く考え込んだのだった。

中宮殿まで足を運んだときには、あいにく中殿は留守だった。
軒下で女官に話を聞いたナム尚洗が、参道で待つサンのところへ駆けつけて説明した。
「水刺間へでかけられたそうです…」

王様のお食事を用意する水刺間は、朱塗りの柱の建物だ。
土間は開け放たれ、中庭の石畳が見える。
棚の下段には器、上の段に皿類、棚の一番上にふせられたザルは、白壁にもかかっている。
料理の小皿が、足つきの御前の上にすでに整えられていた。足元のテーブルに並んだボールやザルには、りんご、柿、乾燥した実、菜っ葉が縁までたっぷりと入れられ、ミカンは美しい山盛りにしてあった。
中殿は自分の背丈ほどもあるワカメを手に取って、緑の服を着た年配女官に尋ねた。
「これは蔚珍から献上されたワカメか。流産すると体力が衰えると聞いた。元嬪の好物は他に何がある?」
「あぶった牛肉でございます…」
ナムを連れて、ちょうど土間の戸口に立ったサンは、そのとき中殿のこぼれるような素顔の笑みを目にして、我に返ったような気持ちがした。

中殿はサンのために、屏風の前の席を譲って、二間続きの部屋の境に座った。
中殿の部屋は、腕枕、ミニ座卓、窓のそばのラックと窓下のローチェストまで赤で統一され、中殿がそこにいることで、より女性らしさを増した。また家具の扉にペイントされた黄と赤の細かな花模様と金のちょうつがいは、より可愛く、気品たっぷりに見えた。
白壺に、美しい梅の木がさしてあった。
屏風絵の赤い実、黄色い花、枝から伸びた大きな淡い緑の葉に、窓格子の影が、サンの後ろで優しく重なった。
元嬪の食事に口を出している理由を聞かれた中殿は、何のためらいもなく答えた。
「中殿として世継ぎは産めずにおりますが、少しでも元嬪の慰めになるのなら、私は何でもいたします…」
その中殿の澄んだ微笑みを、サンは黙って見つめた。
「私に尋ねたいことがあったのではないですか…?」
「いや。もう尋ねる必要はなさそうだ。無用な言葉に耳を貸したせいで、そなたの人柄を忘れて、私は思わず…」
サンはここまで言うと、また黙り込んだ。
中殿は潔白だ。
とすれば御医が嘘をついていることになる。
中殿を陥れようとする黒幕は、一体誰なのか…?

中殿付きの尚宮は、中殿に命令されて、しぶしぶ元嬪に仕える尚宮の手に、当帰茶の包みを乱暴に押し付けた。
しかし尚宮のそういった態度も、中殿の微笑みには掻き消されてしまうのだった。
中殿は元嬪に会わないまま庭を引き返した。
元嬪はまだ体調がすぐれないとのことであった。

まもなく、お供をぞろぞろ引き連れ、恵慶宮が庭に入って来た。
恵慶宮に気づいた元嬪の尚宮は、決まりが悪そうに立ちあがった。鍋の番をしていた女官2名も手をとめて、お辞儀をした。
三脚にのせた鍋から煙が大量にあがっている。
「何を燃やしている?」
恵慶宮は、けげんな声で鍋に視線を落とした。
「恐れながら、これは中殿様がくださった当帰茶です…」
恵慶宮が驚いたのも無理はなかった。当帰茶は於血に効く薬だ。
おそらく中殿が元嬪のことを心配して用意したのだろう。それを燃やしてしまうとは…
「恐れながら私がそう命じました」
尚宮に代わって、元嬪が慌てて声をかけてきた。
病床から起きてきたばかりらしく、まだ白い着物姿であった。しかしそれより何より恵慶宮の気を引いたのは、元嬪の目に浮かんだ涙だった。これには何かやもえない事情が隠されているに違いないと、恵慶宮は強く思った。

中殿が元嬪に献上したという薬材の出所が、監察尚宮によって捜索されたのは、その直後のことである。
家宅捜査を受けた医院から、従業員数名が取り調べを受けた。
この件に関して、サンは黙って見ているよりしょうがなかった。
世継ぎ誕生に関する問題を取り仕切るのは、宮中の女らが所属する内命婦で、それを動かすのはサンの母、恵慶宮の権限であった。

内医院の医官たちも、薬材と処方箋の調査をはじめた。
いよいよ元嬪の飲み残しから白朮が検出されると、図画署にもその噂が届いた。
宮中は再び慌ただしくなった。

御医は日が沈むと宮中を抜け出し、広通橋の妓楼までやって来た。
部屋の中でグギョンと待ち合わせてある。
はっきり言って、もう口裏合わせに限界を感じていたところだった。
恐らく自分が取り調べられる日も近いだろう。
てっきり先に待たせていると思い、門を抜け、真っすぐ部屋へ入ったが、そこには見知らぬゴロツキが2人立っていた。
恐ろしさのあまりガクガクと顎を震わせる御医を、男らは荷物のように肩に抱えあげた。
御医は首にヒモでくくりつけた黒帽子を部屋に落して、そのまま永遠に姿を消したのである。

御医を始末したものの、グギョンはどんどん泥沼に足がはまり込んでいく不安に追いたてられていた。
突然、大妃の部屋へ呼ばれたのもそうだ。
驚いたことに、大妃はすでに元嬪の死産の真相を知っていた。
恐らく手下を使って、あらかた調べ尽くした後だったのだろう。今にきっと持ちつ持たれつの関係になると、いかにも言いたそうな顔つきだった。
しかしそれには、そう判断するだけの理由があった。
大妃は忠告した。
「薬を売った薬材商はそなたと取引をしたと自慢げに触れまわっているそうだ。どこで誰が見ているかわからない。行動には気をつけねばな…」
御殿を出た石橋の前で、グギョンはテウと鉢合わせになった。
会釈だけして、やり過ごそうとしたところが、テウの方がそうはさせなかった。
「ついに中殿様までつぶすつもりか?」
「どういう意味でしょう…?」
グギョンが暗い顔を思わずあげてみると、テウが心の奥を見透かしたような目つきで、まじまじとこちらを見つめていた。
「そなたの力なら十分可能であろう? そなたの歩む道が私にはよく見える。権力を手にした者は、どうあがいたところで、その魔力から逃れられずにはいられん。結局、力がそうさせるのだよ」

ソンヨンが中殿様に会おうと思ったのは、中殿の薬ばかりが疑われるのは何か怪しいと思ったからだった。
瓦つきの石塀にくりぬかれた朱色のアーチ門の奥に、中庭がちらりと見えたが、緑の服を着た女官らは、茶母のソンヨンをそこから奥へは入れてくれなかった。
それどころか年配尚宮が一声あげるなり、たちまち女官ら3人は、ソンヨンの腕を取り押さえたのだった。
「尚宮様、どうかっ…!」
ソンヨンの必死の声を、ちょうど通りかかった中殿付きの尚宮が聞きつけた。
彼女はベビーフェイスの顔で年配尚宮を叱り飛ばすと、元嬪の薬について話があるというソンヨンを、すぐに中殿の部屋へ案内してくれた。
ソンヨンは気になっていたことを、無事中殿に伝えることができた。
「さようです。屏風図を描いていたら元嬪様がおいでになったのです。元嬪様はホン承旨様から届いた益母草の煎じ薬を飲むと…。ええ、確かに益母草と聞きました」

2010/9/13


「イサン」あらすじ 58話

中殿にはコトの真相が何もかもわかった。
益母草なら、においだけでも分かる。
自分も十数年飲み続けてきたのだ。
なぜ飲み続けたのか…?! 
その理由は元嬪と同じだった。1日も早く、懐妊したかったのである。
死産をする前日まで益母草を飲んでいたということは、元嬪の懐妊が事実無根である何よりの証拠だ。
あれほどの下血なら、20日先でも脈にもあらわれる。元嬪の脈を調べれば、簡単にわかることだった。

息も切れるほどの速足で、グギョンは大殿の階段をのぼりきった。
元嬪からすべてが中殿にバレたと聞かされたばかりだった。
おそらく中殿は、王様に知らせに行くつもりだろう。
解決策が浮かんだわけではないが、とにかく中殿よりも早く、王様に謁見したくて気ばかり焦った。
大殿の前へ到着したグギョンを待っていたのは、ナム尚洗だった。
「中殿様が王様に謁見中です」
どうやら一歩、遅かった。体から魂が抜け出るような不安がグギョンを襲った。

ようやく王様の前に通されたとき、王様はねぎらいの笑みさえ浮かべていた。いつもと変わった様子はない。
グギョンは、おずおずと正座し、手をひざに揃えた。
「中殿様が私について尋ねられたそうですが…何をお尋ねになったのでしょう?」
「今日は妙な日だ。中殿はそなたがどんな臣下であるかと聞き、そなたは質問の内容を尋ねる。中殿が尋ねたのはこういうことだ。“私がそなたをどれほど信じているか”と」
サンはさも面白おかしそうな顔をした。
「…恐れながら、それに何と答えたのでしょうか…?」
「そなたの心は私の心であると言った。そなたは常に忠義を尽くし、私を支えてくれた。どうだ。納得いく答えになっているかな?」
サンは、グギョンが何か言いたそうな顔をしていると思って見返したが、グギョンはおどおどした暗い目つきで、うつむいただけだった。
サンの澄みきった笑顔は、グギョンから告白する勇気を奪い去った。

まもなく内医院の立ち入り調査が開始された。現場ではサン、ナム尚洗、ジェゴンが医員や医女から直接、話を聞いた。
「内医院の薬倉庫にある白朮が減っておりますね…」
薬倉庫から庭へ出てきたナムが、サンに報告した。
サンは渋い顔で考え込んだ。中殿にぬれぎぬを着せようとした御医の仕業だろう…
しかし肝心の御医は何者かに拉致され、行方をくらましたままだった。
内医院の中庭にパク・タロが飛び込み、恵慶宮の部屋の前で、元嬪が席藁待罪の騒ぎを起こしていると伝えたのは、ちょうどそのときだった。
サンが、がく然としたのも無理はない。
席藁待罪とは、座り込みをして許しを請う行為である。
元嬪は一体何をしたというのか…?

元嬪は敷石の広場に上がると、ござに座り込んで泣き叫んだ。
大変な勘違いをしてしまった。
中殿の薬が死産の原因ではない。
お腹の子にいいだろうと思い、懐妊後に益母草を飲んだ。
白い着物姿の哀れな元嬪の姿は、サンや重臣らの目にも止まった。
しかし恵慶宮の部屋の扉は、ぴしゃりと閉ざされたままだった。

御前会議のため、重臣らを引き連れて歩くのは、チャン・テウだった。
テウは屋根つきの警備門をくぐり、中庭を少し歩いたあと、さっそうと便殿の石段をのぼった。
重臣らも土をじりじりと踏み、後に続いた。
便殿の板の間では、重臣らは左右の朱色の柱を挟んで前後二列ずつ向かい合わせに座った。
部屋の中心は広く空けられ、奥の一段高い座にサンがついた。真正面の敷居を出たすぐのところに、速記係が2名ほど静かに筆を走らせていた。
チャン・テウの声が、ひときわ大きく目立った。彼はここぞとばかりに声を張りあげ、厳しい質問をサンに浴びせたのだ。
「このゆゆしき事態を放ってはおけません! 元嬪様はホン承旨をかばっておられますが、その関与は明らかです! かくも重大な事をホン承旨が知らぬわけがないっ!」
御医を拉致したのもホン承旨だ。即刻ホン承旨を捕えて尋問し、元嬪様を廃位させるべきだという意見が、他の重臣らの口からも出た。
それとは別に、ソクチュと数人の重臣らは、グギョンをかばうのに専念した。
「元嬪様は取り返しのつかない過ちを犯しました。しかしそれは不注意によるもの。階位を下げ、謹慎させるだけで十分ではないでしょうか!」
側室は巷の女とは違う。王様は世継ぎを失ったのだと、テウは息を荒げて、すぐ反論したが、ソクチュらの意見が変わることはなかった。
それらのやり取りはむしろ、グギョンが大妃様側の者たちと、より親しくしている事実を、サンにひしひしと感じさせた。

会議のあと、サンは弓の稽古場へ足を運んだ。
横に広がる松の枝から伸びた針葉が、弓を弾くサンの姿をちらちらと隠した。
10本ばかりの弓と木のさやに納まった刀が4本ほど、デスクの上に整然と並べられている。
サンのそばにいる内官が、かしこまったように矢を1本両手にのせて、サンに手渡した。
横には内官、尚宮、緑の服を着た女官らがずらりと控え、その背後に兵士らの手にした槍の先が、何本も顔をのぞかせた。
サンはバリケードのパネルを見つめた。パネルの中心にはイノシシの顔を模写した的を貼りつけてある。向こうの山は霞んでいた。
ねずみ色の空に矢を向けた。サンの心もまた、あの山や空と同じく沈みがちだった。
矢尻を弦の中央にのせ、弓をめいっぱい引くと、耳元でじりじりと木がきしんだ。
親指と人差し指を放した瞬間、矢は弾かれたように飛び、イノシシの左頬、15cmばかり外れたところへ刺さった。イノシシの鼻筋を貫いたのは、皮肉にも矢の影の方だった。
「雑念が多いせいか矢が集中しないな…」
サンは後ろで待っているテスに、少し照れくさそうに言い訳したが、その原因には心当たりがあった。
ホン・グギョンを疑う気持ちを振り払えなくなりそうで、自分でも怖かったのだ…

そうこうするうち夜になり、どしゃぶりの雨が降り始めた。
いまだ恵慶宮の部屋の前で座り込みを続ける元嬪を見かね、サンはとうとう恵慶宮へ足を運び、元嬪を部屋へ戻らせた。

次の日、サンは中殿とグギョンを大殿に呼んで告げた。
「私はそなたが挙兵でもしない限り、どんな過ちも許そうと心に決めた。そなたは私にそう決心させるほど大事な部下なのだ。この先もやるべきことが山のようにあるのに、そなたを信じずしてそれらが成し遂げられようか…」

恩を痛感したホン・グギョンが、王様のお忍び視察の準備のために、何より奔走したのは言うまでもない。
今まで何度となく命を狙われてきた王様だ。護送中に逃走したミン・ジュシクの一味に狙われる可能性も捨てきれなかった。
宿衛所の執務室にテスら信頼のおける者を呼ぶと、グギョンはテーブルいっぱいに地図を広げた。
周囲の山のふもとは明るい黄色に、頂上は緑で塗られた地図の真ん中に、線で簡単な道筋が示されてあった。
グギョンは、左から右へと、こまごまとした地名が書かれた線を指でなぞりながら、最終的に山のふもとの四角い枠を指した。
行き先はサムゲナル方面である。
武術に秀でた者を選び、万一のため兵を配置した。王様が民から話を聞くことを考え、信用のおける者を予め選ぶことにした。また町をたむろするゴロツキたちは、2、3日の間、町から追い払われ、姿を消した。

予想外だったのは、サンが当日、行き先を変えたことであった。
これではお忍びの意味がないと考えたようである。
同行者のナム尚宮とテスは、やむなくサンに従い、日が沈むのを待ってから、共に雲従街へ向かった。

現地では、酒場の一室で、3人の男と酒を酌み交わしたが、気軽にジョークにも応じるサンのことを、男らはかなり気にいったらしく、ぜひ白塔派に入るよう勧めて、サンに名前を尋ねてきた。
酒場を出てから、ナム尚宮がサンに言った。
「白塔派を自称する実学者たちのようです…」
サンは彼らのことをもっと詳しく調べるように命じ、次に重臣殺しの罪で先日処刑された貧しい男の実家へ寄った。
王様の特別な配慮により、税金の取り立ても、両班からの嫌がらせも無くなったと、母親は拝むように説明した。
一行は、やがて草ぶきの屋根の並ぶ狭い路地にさしかかった。
家の土台に積まれた石が黒光りし、足元から霧が立ちのぼっている。
路地の中ほどまで来たとき、木格子から長い銃口がのぞいたのに、サンらが気づくには辺りが暗すぎた。
銃口はサンの歩みに合わせて、少しずつ移動した。

2010/9/20


「イサン」あらすじ 59話

雨ざらしにあったせいか、元嬪の具合が急に悪くなり、意識もないということであったが、なぜか淑昌宮への見舞客は1人も来なかった。
元嬪付きの尚宮は、この現実に悲嘆にくれた。しかし見舞客にも、それぞれの事情があり、それはだいたいこういうワケだった。
サンは淑昌宮へ見舞いに行く予定であった。ところがナム尚膳がせっぱつまった様子で言うには、
「清国皇帝の誕生を祝う使節を決める会議があります。返答の期限が過ぎており、一刻の猶予もありません」
とのことである。せめてグギョンだけでも、先に元嬪のところへ行くようサンは勧めたものの、グギョンの方も、昨夜の王様の狙撃事件について、ぜひ論議したく、何が何でも会議には出席するつもりであると断った。
中殿にいたっては、もう見舞いへ行きかけていたところへ、恵慶宮に止められた。
「慈悲を施す必要はありません。行かないことが中殿としての務めです。すべて元嬪自身が招いたこと。これもあの者に科せられた罰のうちなのです」
恵慶宮にしてみれば、妊娠中に益母草を飲んだ元嬪の行為は非常識で、到底、許されないことであった。それより何より、大事な御子を失ったというのが、恵慶宮にとっては一番の痛手だった。

会議のテーブルには、ジェゴン、グギョンをはじめ、奎章閣の者と合わせて7、8人が集まった。背もたれのすぐ後ろに棚や間仕切りが迫って、おまけに障子まで閉まっていたので、狭苦しかった。
サンは一人、奥の書斎用デスクに座った。筆入れ、硯、書物、読みかけの巻物は端に寄せ、皆の顔を見渡しながら話を進めた。
「次回の使節団による交渉では清からの要求をすべて受け入れる気はない。我々の要求を通す方針でいく。清との交易が行われる市場で清の商人や官吏による横暴が絶えないと聞いた」
「王様。清に有利な市場の規制を改定するよう要求すべきです」
サンの意見に対して、パク・チェガが申し出た。
「それ以上に問題なのは我が国の通訳官です。後ろ盾である老論派にわいろを渡しています。昨夜、王様の狙撃に使われた銃は清のものでした。現場で部品の一部を見つけたのです。通訳官が密輸入した銃である可能性があります。捜査を許可してください」
グギョンのこの発言に、思わずジェゴンは渋い顔をした。確かに昨晩の狙撃事件には驚かされた。しかし王様はこの通り無事だったし、ここは使節団の話合いをするべき場だ。グギョンはどうも昨夜の狙撃のことしか頭にない様子であった。
しかしジェゴンの思いとは裏腹に、サンが捜査を許可したことで、グギョンは新たな翼を得た。


続いて場所を移して、サンはチャン・テウ、ソクチュ、ジェゴン、戸曹判書、工曹判書、刑曹判書ら総勢12名ばかりを相手に、講義をはじめた。
ボンボン玉が垂れた紫のテーブルクロスの上には、講義のための資料がびっしりと並べられた。
扉はすべて開け放たれ、周りの瓦屋根や中庭が望めるなど、うってかわって開放的な空間であったにも関わらず、重臣らはどうもうわの空だった。むしろいつもどおり落ち着いたサンと進行役のジェゴンの方が、かえっておかしく見えるくらいであった。
「本日の講義の内容は老子道徳経17章です。理想の政治とは民を支配しないことであり、民を信じる心が為政者の第一の徳であります」
「そのとおり。治世において王と重臣が心に刻むべき1文字とは、清廉の“廉”である。財や女色を遠ざけ、清廉であればおのずと民に慕われる」
戸曹判書、工曹判書、刑曹判書らは顔色を暗くして、ジェゴンとサンのやり取りに耳を傾けた。
グギョンの捜査はますます暴走するばかり。今、この瞬間にも、老論派の重臣である自分たちの屋敷から次々と資料が押収されていると思うと、本当に気が気ではいられなかった。
「ひと言、申し上げてもよろしいでしょうか、王様。昨夜、王様を狙う銃撃がありました。そんな重大な事件の捜査を宿衛大将に任せきりで、講義にのぞまれるとは」
ついにテウが、心配と非難の色を込めてサンに言った。
しかしサンが捜査はあくまでグギョンの役割だと、はっきり答えたので、テウは渋々、黙り込んだ。

回廊の石段を下りて来たグギョンは、建物の前に集められた押収物を見て回った。
ごろごろと銃を寝かせた木箱が積みあげられ、後ろの木箱にも、まだびっしりと銃が立てかけてある。すべて重臣らが隠し持っていたものだった。
地面に置かれたデスクの上には、書物が平積みになっていた。あの帳簿の中身を調べれば、ワイロの実態が明らかになるだろう。
カゴに入った押収物の手紙を、グギョンはまさぐった。
肝心の事件に使われた銃は、まだ発見できていなかった。
ソクチュが呼びに来たので、いったん大妃の部屋に顔を出して少し話を交わした。
元嬪の容態の深刻さを知ったのは、その大妃の口からであった。

グギョンが駆け付けたときには、まだかろうじて元嬪の息の音はあった。
しかしサンはとうとう死に目には会えず、死んだばかりの妹を胸に抱きかかえて、声をあげて泣くグギョンの背中を見ただけだった。
医女と尚宮、医官がそばでがっくりと肩を落としていた。他には誰もいなかった。
安らかなものとは無縁の、もがき、苦しみ抜いての孤独な死であった。
中殿はお供をぞろぞろと連れて、足早に石畳の道を急ぐ中、同じくランタンで足元を照らして進む恵慶宮の一行に鉢合わせた。
「訃報を聞かれましたか?」
「突然のことで私も戸惑っています。今朝は話をしていたと聞いたのに、こうもむなしく世を去るとは…」
恵慶宮はすっかり青ざめて言った。あまりの悲惨な結末に、自分でもどうしていいかわからなくなっていたのだった。

その夜のうちに元嬪の遺体に寿衣が着せられ、入棺された。
国葬の盛大さは、誰の目にも十分伝わった。
政務に忙しく元嬪に何もしてやれなかったことが、何か自分の責任のような気がして、サンがそうさせたのだった。
傷心のはずのグギョンは、サンが心配して休暇を与えるまで、休まず登庁し続けた。
しかし休んだところで、グギョンの思いはますます深い闇に落ちていった。
盛大な国葬など何の意味があろう。
何もかも、もう取り返しはつかないのだ。
苦痛と不安に耐えられず、無残な死を迎えた妹のことを思うと、日に日に無念ばかりが募った。
そのうち消去令が出され、元嬪の淑昌殿から早々に家具が引き払われた。
元嬪付きの女官で宮殿に残りたい者は、中殿付きのキム尚宮にその旨を伝えるよう指示したのは中殿だった。
グギョンは廃墟となった淑昌殿の庭で、中殿の姿を見るなり言った。
「今もよくわかりません。あれは死に値するほど重大な過ちだったのでしょうか…? 元嬪様はその若さゆえ、報いに耐えられず事実を伏せようとしました。しかしあまりにも冷たい仕打ちではありませんか。中殿様は病床の元嬪様を、一度は訪ねられるべきでした」
グギョンはその夜遅く、狙撃犯を逮捕するため、宿衛所軍官と禁軍を連れて龍洞方面へ出発した。
老論派の重臣らを疑うのはそもそもお門違いである、というのが大妃の助言であった。

ソンヨンは昼間のうち、イ・チョンとタク画員と一緒に、市場へ画集を買いに出た。
瓦屋根の店舗の多くは壁と扉がなく、板間をあがったところに、商品が並べてある。
本屋では、いくつかの大台と飾り棚に本が平積みにしてあり、客が自由に読めるようにもなっていた。
見知らぬ男が、とつぜん腕に挟んでいた画集をソンヨンに差し出した。金の花紋様が表紙になった明の画集だった。
「よろしければどうぞ。通りすがりに手にしただけです。画員様がご覧になったほうが役に立ちます」
男は人の目が気になるのか、常にうつむきがちで、顔に帽子の影がおちていた。ヒゲが不似合いなほどに若く見え、背は高いが、きゃしゃな体つきだった。
「私が画員だと、なぜ知っているのです…?」
ソンヨンは驚いて聞いた。
ところがイ・チョンに呼ばれて一瞬、気を取られているうちに、また振り返ったときには、すでに男の姿はなかった。
いつも通り、人が目まぐるしく動いて、辺りはがやがやとしている。
板の間に座り込んだ店の女が、客の見た生地を巻き直し、小さな麦わら帽をかぶった男が、何人も通りを行き交った。片手でカゴを腰に押しつけるようにして、主婦が歩いてやって来る。
市場の通りが、ずっと奥の方まで広がり、軒先につけた日除けの幕が大きく風にひるがえった。

2008年01月03日


「イサン」あらすじ 60話

ソンヨンには年の離れた弟ソンウクがいた。
両親が死んだあとも背中におぶって、ずっと世話を続けていたが、別れの日に弟を縁側に寝かせて、父さんと母さんの絵と家族の名前を書いて、弟のおくるみの中にそっと忍ばせた。
何不自由なく育ってほしいと、山陰の名家に預けられたその弟は、その後、疫病で死んだと聞かされた。もう20年も前になるのに、ソンヨンはなぜかその弟の面影を、あの画集をくれた男に重ねあわせた。
男に再会したのは、ソンヨンが随分と夜遅くに、図画署から帰宅していたときのことだった。
ひとけのない路地を曲がった石壁に、背中をもたれるようにしてうずくまり、胸を強く抑えた指の間から、かなりの血があふれ出ていた。
助け起こそうとソンヨンが体に手をかけた途端、男の首は急にぐらりと倒れて、あとはもう何度呼びかけたところで、何も反応がなかった。

翌日、町医者に診てもらうと、命に別状はないとのことだった。しかし意識はまだ戻らない。
役人に追われていたのだろうか…?
胸の傷は矢が突き刺さったもののようだ。
正体がわからない彼を、ソンヨンは自宅にかくまい、しばらく看病をした。
男がようやく意識を取り戻したのは2日後のことだった。まだ包帯が血でしっとり湿っているというのに、どうしても布団から起きあがろうとするのにはワケがあった。
「仲間が今か今かと私を待っているのです! 早く逃げるように伝えなければ彼らに危険が及びます」
ソンヨンは男をなだめて、ゆっくり寝かせようとしたものの、男はとても気の急いた様子だった。
「街では禁軍が検問をしています。今出て行っても捕まるだけです。私が行きます。仲間に逃げろと伝えればいいのでしょう?」
ソンヨンは事情を察し、仕方なく男にこう約束した。
あのとき弟ソンウクと離れ離れになってしまったこと…
その思いがソンヨンの心を強く突き動かしたのだった。

チャン・テウは仲間の重臣と、さっそうと歩くグギョンを遠くから眺めていた。
グギョンは兵士2人を従え、宮殿前の長い石回廊を突き進むと、突きあたりの階段をおりて、今度は宮殿の横に沿って歩いていった。
その間、何人もの重臣らが立ち止まってはおじぎをしたが、グギョンは首をつんと上にあげたまま、歩く速度を緩めようともしない。
グギョンが逆賊の館を襲撃して、王の狙撃に使われた銃と武器を押収した功績は、すでに誰もが知るところだった。王様が承政院に命じて、その手柄を称えるよう指示したとのことである。
「つまり、我々の無実は証明されたわけですな。これで追及される心配もないでしょう」
こう言って、自分の隣ですっかり胸をなでおろしている男を、テウはへびのように睨んで忠告をした。
「愚かなことを言うな。この一件であの者は王の信頼を取り戻したのだ。ますます横暴になるだろう。状況はさらに悪化したのだよ」

サンはその日、奎章閣のパク・チェガら4名と共に清へ行く使節団内定者の顔合わせの席を設けた。
お忍び中のサンと酒を酌み交わした白塔派の実学者2人は、手を前に小さく合わせて、猫背のような姿勢で頭をさげた。
「先日は王様とも知らず無礼な言動を…」
廊下のバルコニーにはゴザが敷かれて、それぞれのちゃぶ台に簡単なお茶が用意された。
サンは赤い布内張りの箱から、黒い筒レンズを取り出して、金属の柄の部分をすっと伸ばした。
「これは千里眼というものだ。遠くの物が見えるとは実に利用価値がある。清のものだけでなく西洋の書物や技術まで幅広く入手するのだ。そなたたちが広く世へ出て多くを学び、国のために役立てて欲しい」
「ですが王様。恐れながら私は王様の真意を図りかねています。王様は西洋の宗教を研究する者を弾圧しながら、我々には西洋から学べとおっしゃる」
白塔派の男の1人が突然、無礼を承知で申し出た。
「それは一体何の話だ? 私が誰を弾圧しているというのか?」
サンには最初、男の言う意味がよくわからなかった。しかし会がお開きになったあとで、禁軍別将を呼んで事情を聞いたところ、禁軍別将は狙撃犯の自宅から出てきたという黒い表紙の書物をサンに手渡した。
ページをめくってすぐ、天主教の本だと気づいた。
グギョンが捕えた狙撃犯というのは、どうやら天主教徒のことらしい…
サンは意外だという顔をした。
「天主教については私も知っている。彼らの書物には人は皆、平等とあり王制とは相いれない内容もあるが、それだけで逆賊とは言えまい」
「恐れながら自白も取れております。彼らの拠点から銃が見つかりましたのが、謀反を企てたという確かな証拠です」
禁軍別将のスムーズな答えを聞き、サンはますます首をひねった。
彼らは銃を持ちながら、全く抵抗しないで捕まったという。
王の狙撃を企むような者にしては、妙に大人しすぎる。
なぜ、彼らは無抵抗だったのか…?

その鍵は宮殿の外にあった。
サンはナムを連れ、再びお忍びで街を見て回った。
「他のどの人参にも劣らない品質だよ!」
「ならばたくさん育てて売ればいいものを、なぜそうしない?」
人参売りの男は、サンにわざとけしかけられ、さも当たり前のように言い返した。
「市場は力のある商人が支配しているからね。俺たちが入り込めるはずないよ。殴り殺されるのがオチさ!」
サンは男が手にしたボウルから、とっさに人参を1株ひっつかみ、枝分かれになった根っこの先を、ぽきんと折りまげて、舌の上にのせ味を噛みしめた。
次に炊き出しの場へ足を運んだ。
見たこともないようなボロ小屋の前に、空のお碗を持った人々が列をなしている。
列を誘導する者、ひしゃくで粥を注ぐものなど、手伝いの男は数人。ねっとりした黄色い粥を、黒い大釜からしゃもじですくって碗に入れていく。足元の台の干しざるに菜っ葉が広げてあった。
薄汚れた子供たちが草むらにしゃがみ込み、木のスプーンを口に運んでは、ふぅーふぅーと白い息を吐きだした。
わからないのは、これだけの炊き出しを取り仕切っているのが、一体誰なのかということだった。
役人ではなさそうだな…とサンが考えていると、1人の男が悲しそうに説明した。
「ええ。ヤン様が私財をなげうって皆を養っているのです。ヤン様は下僕だった私を平民にもして下さいました。逆賊だなんて根も葉もないでっち上げです」
どうやらヤンという男は、先日、捕えられた天主教徒のことらしい。
窯からあがる大量の煙が広場の辺りを白くし、サンの視界をさえぎった。
何かがおかしい…とサンは思った。
これはどうも間違っている。
グギョンは元嬪のことでまだ立ち直れずに、何かを見逃しているのかもしれない。
それともグギョンでさえ知らない、また別の動きがあるのだろうか…?

グギョンが警備を強化したことで、宮殿に持ち込まれる品は、徹底的に調べられることになった。
紙の束が敷地に積み重ねられ、米俵のそばには、空のリヤカーが、斜めに取っ手をおろしていた。
荷物に囲まれた係の男らは、あっち行き、こっち行きしてかなり忙しそうだった。
板ばりの木箱の上に、男の1人が、きらびやかな布箱を重ねて、その隣の赤いリボンで結わえてある書物の束の横に、ふたつきのカゴを3つほどのせた。
忠清道産の人参で恵慶宮に献上するものである…との説明にも関わらず、監視役の上官は中身を確認したがり、フタを開けさせた。
街の中にも、土壁の家の通路に何名かの兵士が待ち構えていて、通りすがりの民衆らの行く手を阻んだ。小さな麦わら帽を頭にのせた男は、両手を高くあげさせられ、白い身軽な服の上から、ぽんぽんと体を調べられた。

ソンヨンも城壁門の前で、いったん足止めをくらった。
荷物を背負った男らが長い列を作って順番待ちの最中だった。
先頭には、人相描きのビラを手にした兵士が、取り逃がした天主教徒の行方を探すため、民衆の顔を1人ずつチェックしていた。
ソンヨンは門を無事に抜けると、川べりの山中へ向かった。うねるような丘に細い木が真っすぐに立ち、木々の間に、下方の川が広がっている。
ソンヨンは、とっさに太い木のそばへ身を隠すようにして、しゃがみ込んだ。枯れ葉のじゅうたんを踏みしめ、禁軍がちょうど山をのぼって行くのが、うねの向こう側に見えた。
山中で顔を合わせた男に、手の中に握りしめていた十字架をちらりと見せると、男は頷いてソンヨンを山奥へ導いた。
「ソンウクのケガはどんな状態ですか?」
男は安全な納屋の中へ入るなり、すぐに尋ねた。
ソンヨンはソンウクというその名前にドキリとしたが、さらに男は薄茶色にやけて、すっかりやわらかくなったくちゃくちゃの紙を、目の前に広げて見せた。
「ソンウクは20年前、山陰の名家に預けられたあなたの弟です。養父たちがソンウクを奴隷として売ろうとしたのです。この絵を覚えていますか?」
ソンヨンは驚きのあまり目を見開いて、まじまじと絵を眺めた。墨一色で描かれた男女の線画で、男の方は布帽子に薄いあごひげを生やし、そばに立つ女は、今にして思えばまだ若く、首の後ろに髪を団子にまとめて、こざっぱりとしていた。
ソンヨンがおくるみに忍ばせた、あの両親の姿絵に違いなかった。

王様を狙撃した罪人らがグギョンの活躍により義禁府に投獄されたときいて、恵慶宮はすっかり感激した様子だったが、その口からまさか次の側室選びのことがもう出ようとは、中殿もさすがに予想してなかったようだ。
「恐れながら…」
「もちろん分かっていますよ。元嬪の死は悲しいことですが、それとこれとは別の話。一刻も早い世継ぎが望まれます。近いうちに選定しますから準備をしてください」
元嬪の死からまだ半月も経っていないというのに、恵慶宮はぴしゃりと言った。
恵慶宮の部屋から中宮殿に戻ると、おつきの尚宮が、衣のすそに隠した手をそわそわと動かしながら、興味津々な顔をして中殿に聞いた。
「今回はどうされるおつもりですか?」
「どういう意味だ?」
「ですからつまり…今回もソンヨンを側室に推薦されるのですか」

2010/10/4

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...