2017年6月9日金曜日

イ・サン5話「毒が残した手がかり」

東宮殿の障子越しに白い灯りが漏れている。中庭には大勢の兵士が集まっており、先頭の男たち数人がタイマツの火をかかげていた。

普通だったら呼び出された方の口から、文句の一つも吐きたくなる夜更けである。
彼らは毒をあおって死んだという刺客の遺体を回収しに、サンの寝室へと入っていった。

サンが刺客に襲われたのは、ついさっきのことだ。


寝着の白そでを羽織からのぞかせ、サンは突っ立ったままでいた。


「まだ近くにいるはずだ。必ずや残党を探し出せ! いいな!」

リーダーの掛け声で、兵士たちが一斉に靴や着物をカサカサ鳴らして散っていった。

中庭にはサンと数人の兵士のみが残された。


入れ替りに侍従や女官をゾロゾロと引き連れ、王様がやってきた。


王様の一番の怒りは、見張りの堕落ぶりに向けられた。

ところが護衛兵の上官は、当初こそ死んでも死に切れない様子で王の前へひれ伏していたのが、部下から何やら耳打ちされると、急に顔つきを変えた。

「……ですが王様! 寝室のどこにも死体などないのです!」


「死体がないとはどういうことだ?!」


王様には何が何だかさっぱり事情が呑み込めなかった。あまりの歯がゆさから、自ら東宮殿に乗り込み、寝室の中を見渡した。

いくつもの部屋に取り囲まれたサンの座敷は、刺客が入ったとは思えないほど小奇麗に片付いている。王様は布団のそばにかがみ込み、掛け布団をぺらりとめくってみた。

兵士の証言通り、シーツに血痕もなければ乱れた跡さえ見当たらない……

王様の鋭いまなざしが、どぎまぎした顔で部屋の隅に突っ立っているサンに向けられた。すると護衛兵の上官が、ほとほと困り果てた調子で釈明するには、

「王様。護衛は部屋の周囲に配置しておりました。室内には誰も入れない状態だったのです! そもそも本当にここに死体があったのでしょうか……?」

とまるでサンの申告の方を怪しむ風であった。

日が明け、王様の側室の娘ファワンが金剛山見物から戻ってきた。
王様はすこぶる機嫌がよかった。トラに遭遇したというファワンの土産話は豪快で楽しく、久しぶりに王様を心ゆくまで笑わせた。

この勇ましいファワンが男だったら良かったのに……

王様は冗談まじりに、つい口にせずにはいられなかった。

戦利品のトラ皮を差し出し、ファワンは王のやつれた顔色をうかがった。

「王世孫様の神経衰弱で随分お悩みなのでしょう? 刺客が部屋に侵入する幻を見たと噂になっております。毒をあおって死んだと発言したそうですね」

サンの話が出て、王様の顔がまた一段と重苦しくなった。


サンの奇行はこれだけでは済まなかった。この一月の間にサンによって解雇された護衛の数は十八人にものぼる。その穴埋め募集の件について、部下がサンに尋ねたところ、サンは庭の隅にちょうど突っ立っていた武芸に何の縁もなさそうな男達を適当に指差し、
「あそこにいる三人にしよう」と答えたという……


王様は清の使節団の接待役についても、また頭を悩ませていた。

前回の接見で摩擦が生じて以来、清との交易が滞ったままになっている。問題解消に向けて、今回の接待は特に重要な意味があった。

まもなく王の部屋へサンが呼ばれた。

「あの大臣達の顔を見よ。彼らは王世孫は気がふれていると言っているのだ。ではそなた自身は気がふれたと考えるかな?」

王様は大臣らの目の前で、あえてサンに尋ねた。

「いいえ……」

サンは悔しそうな表情を滲ませ答えた。


「そうか。それは良かった。ではそなたに清の使節団の接待を任せるとしよう」


大臣達は思わず驚いてざわめき立った。


しかし王様はなぜかいっこう気にしない様子である。




サチョは宮殿の原っぱで、サンを見かけた。

切り株に腰掛け、見習い女官の相談に耳を貸してやっている。

意地悪な先輩女官に、厨房のお菓子を取って来いと無理難題を言われたらしい。

「ならば東宮殿の菓子を持っていくが良い」

サンに優しく諭され、泣きべそをかいていたその子はすっかり元気を取り戻してその場を去って行った。

入れ替わりに近づいてきたサチョに、サンは白布でくるんだある物を差し出した。

「あの晩、刺客の口から出てきた毒だ。出所を調べてくれないか……」


サチョは心からホッとした。

死体があったのは本当だったのだ……!

しかしその裏にはサンを陥れようとする者が、身近な護衛の中に潜んでいることを意味している。死体をこっそりサンの寝室から運び出したのは、そういう男達だろう。


サンとサチョは、もみじのお堀のそばを通って宮殿へ戻りはじめた。オレンジの日のあたる石積みの道を歩きながら、サンは呟いた。

「さっきの子はソンヨンに似ていた……」

サチョは思わず、かしこまって会釈した。
この九年間、どんなに手を尽くしてみても、ソンヨンとテスが生きているかさえ分からなかったのだ。

「もうよい」

あまりにサチョが恐縮しているのを見て、サンは逆にサチョを慰めてやりたくなった。

「刺客が私の部屋に忍び込んだとき、私はちょうどソンヨンとテスの夢を見ていた。二人が私の名を呼んで目が覚め、命を救われたのだ……」

今では夢のように遠い出来事を、サンは懐かしんで言った。



サンはそれから清の使節団の貢物を準備するなどして、忙しい日々を送った。

図画署では画員増員のための採用試験も行われることになった。

画員の仕事は行事を描き写すほかに、全国の地図や設計図、軍事的な記録を描くというのもある。


いよいよ試験の日になり、受験生たちが中庭へ集まった。


まずは踊り子達が金魚の尾ひれみたいなドレスを揺らしながら、華やかに踊る姿を受験生らに見て貰った。テント下では太鼓や笛、琴などを演奏する楽師たちの姿もある。

続いて小さな木箱のフタが開かれ、パーッと白と黒の鳩が一斉に羽ばたいて飛んで行った。鳩は屋根に止まったり、宮殿の向こう側の空へ消えたものもいた。

その後、試験官の合図で白い幕が下ろされた。

「今見たものを出来るだけ正確に描くように!」

出番の終わった踊り子達は、今や布の向こう側へと去っていった。ひとたび演奏が止まれば、後は試験会場らしい雑然とした空気のみが残った。

受験者らが頭を悩ませている間に、茶母と呼ばれる雑用女たちが、各席のトレーに絵の具の小皿を運んでいった。

「紺青、紅、飾りは琥珀、鳩は十二匹ですよ……」

すっかり筆の動きが止まってしまった受験生の一人に、茶母がささやいた。

もう十二年も落第し続けているその男は、女の顔を驚いて見あげた。茶母に密かに感謝し頷き返すと、その後は急に筆をスムーズに動かし始めたのだった。

この茶母は一年前にテスと一緒に都へ戻ってきた。

図画署の下働きをしながら、いつかサンに会える日を心待ちにしていたのだ。



そのサンが図画署を訪れたのは突然のことだった。

清の使節団の準備で忙しくしている画員をねぎらおうとは、表向きの理由で、真の目的は部下を図画署へもぐらせることにある。

サチョのその後の調べで、毒の出所が図画署の顔料だとわかったからだ。

川で洗濯をしていた例の茶母が、この訪問を知ったのはサンがすでに去ったあとだった。

慌てて走って追いかけたものの、サンの一行はもうかなり遠くになっていた。

護衛を前後に挟んだ長い行列が、ハス畑の脇の道を進んでいく。


「王世孫様、わたしです。ソンヨンです……」

ソンヨンは走るのをあきらめて、コシに揺られるサンに向かって呟いた。

銀の刺繍入りの着物に身を包んだサンの姿が、確かに見えた気がした。

やがてサンを乗せた輿の屋根が、ぼんやりと道の向こう側へと消えていった。

兵士の持つ赤や黄色の旗が小さく見えた。



2008/11/23更新





韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...