サンはとっさに逃げ出したソンヨンのあとを追って、作業場の外に出た。
建物の影に立ったナム洗尚と尚宮らは、王様が茶母の両腕をつかんで放さない現場など、見て見ぬふりをするしかなく、思わず顔をそむけた。
サンはどうしても聞きたかった。ソンヨンの目に、こんな風にたっぷり涙がたまっているのは、もしかすると自分と同じ気持ちなのではないのか?
「ソンヨン、そなたに聞きたいことがある。正直に申せ。本心が聞きたい。側室にならないというのは、そなたの意思なのか!?」
「さようです、王様。私は図画署に残りたいのです。画員になるのが長年の夢でした。どうかご理解ください。人が見ています。手をお放しください」
ソンヨンはきっぱりと否定した。まるで拒絶するかのような口ぶりだった。
サンは後悔して、そのままゆっくりと手を放した。
結局、すべて自分の勘違いだったのだ。
つまらぬことを聞いてしまった、とさえ思った。
王様の外戚となった都承旨ホン・グギョン様が出勤のため道をお通りになるというので、仕入れ荷を背負って歩いていた男も、近所の村人たちも、みんな立ち止まって頭を下げた。
グギョンをのせたハシゴ型のコシが、ゆっくりと通りを抜けていく。コシを持つ男らが両端に4名、護衛兵がその間と後ろに続いた。
見物人の中にパク・テロと女将の姿を見たグギョンが、コシをいったん止めさせて、気さくに声をかけてきた。
「結婚式に行けず済まなかったな。そなたも所帯を構えたことだし、宮仕えをするのはどうだ。近くテスを通して連絡する。楽しみにな」
話終わるとコシは再び進みはじめた。テスの叔父パク・テロは、コシに揺られるグギョンの後ろ姿をさも誇らしげに眺めた。
今やグギョンと顔見しりというだけで、パク・テロは周りから羨ましがられた。
「さようです、王様。ホン・グギョンは宿衛所の検査を拒む者を力づくで連行した上、朝廷の人事さえ好き勝手に行っているのです。最近はわいろの申し出が絶えず、家の蔵には財宝が積まれているとか」
王様に謁見したテウは、こう申し出た。
寝耳に水の話だったのだろう、サンの表情にも困惑の色が浮かんだ。
報告を済ませたテウは、執務室に戻り、そこでソクチュを見るなり皮肉を言った。
「そなたらは生意気な虎の子を育てていたというわけか。あのホン・グギョンという者のことだよ」
「ちょうど今我々も、そのことで対策を練るところです。ぜひ同席をお願いします…」
「悪いが他による所がある。哀れにも幽閉されている大妃さまに呼ばれているのだ」
テウは嫌味をたっぷり吐く余裕を見せながらも、気のすすまない様子でため息をつき、また蛇のような鋭い目にもなった。
テウが大妃の部屋へ顔を出すと、おつきの尚宮が2人の湯のみへお茶を注いで、退出していった。
「ここを訪ねるのも一苦労でした。宮殿の片隅に追いやられているとはね。なぜ私を呼ばれたのでしょう。私が力になるとでもお思いで? 今の大妃様は何の切り札もお持ちではありませんよ」
「果たしてそうでしょうか。即断は禁物です。そのせいで昔、そなたは苦い思いをされたでしょう…」
大妃は相変わらず堂々としていた。水面下で、まだよからぬことを企んでいることは、その表情や口ぶりから明らかだった。そのためには、かつて敵であった者まで呼び出し、こんな風に探りを入れてくる。
大妃との面会は、テウにとって、想像通りたいして面白くもないものであった。
サンはナム尚洗を執務室に呼んで、グギョンについて噂の確認をした。
「何人か信頼をおく者を登用しましたが、人事で不正などは行っていないはずです。ホン承旨の家に人が押し寄せているため、誤解を買ったようですね」
ホン・グギョンが、大殿へ出入りする者の検査を担当する宿衛所の責任者を兼任してからというもの、確かにその徹底した取り締まりには、反発の声が少なくないようだった。
グギョンの部下であるテスは、ある重臣の衣のポケットから、携帯用の筆と扇子のストラップを取り出し、一緒にヒモにぶら下がっているミニチュアボトルのフタを開けて、粉を取り出した。重臣は単なる薬入れだと言って不満をあらわにしたが、毒薬の可能性も捨てきれないとして、ひとまずそれは没収となった。
グギョンは任務に忠実なだけで、権力を振りかざすような男ではない、とサンは思った。
この先もずっと信頼し続けるつもりだ。
しかし、何らかの対策は必要であった。
グギョンがいつも通り、意気揚々と便殿へ立ち入ろうとしたとき、ナム尚洗が複雑な顔をして声をかけてきた。
「ホン承旨、待ってくれ。今日は帰った方がいい。王様がそなたを当分の間、政務報告の場にいれるなとおっしゃったのだ」
「えっ? なぜ私がいてはいけないのでしょうか…」
グギョンは戸惑ったものの、王命とあっては逆らえず、ただ執務室に戻り、ぼう然とテーブルについた。しかしいくら考えてみても、王様の意図がわからない。
ホン・グギョンは実に無念だった。憤りで胸がいっぱいになった。
側室として嫁いだ妹、元嬪が王様に相手にされていないことも気にかかった。
「実家では春分に振った雨でその年の農事を占います。地面に壷を埋めて雨の量を測り、作物の出来を予想するのです。私も裏庭に壷を埋めたのですが、今年は豊作の相がでました」
恵慶宮はすっかり感心して聞き入り、晴れ晴れとした笑顔で頷いた。元嬪の話は実に楽しかった。
ところが世継ぎの誕生のことになると、その元嬪の表情に暗い影が差した。
「元嬪、急に黙ってどうしたのです?」
「王様は、どうも私がお気に召さないようで…」
元嬪が、おずおずと申し出た。
このとき恵慶宮は、宮中で噂になっている話を初めて知った。いや、初夜にも関わらず王様が元嬪を振ったというのは、噂どころか紛れもない事実だったのである。
ナムを連れ、カーテンドレープをくぐって部屋に現れたサンは、絵の具の準備をすっかり整えて待つソンヨンを、寂しそうに見た。
「もう終わりそうだな」
「はい。王様に読書堂へ来て頂くのは今日が最後で、肖像画の完成は来月あたりです」
「そうか…」
サンが丸テーブルにつくと、ソンヨンはそそくさと作業をはじめた。あとは下絵を絹地に描き移すだけだった。
黒い烏帽子と、薄っすらとひげの生えたりりしい顔が完成した。あとは衣を朱色に、両肩の龍の模様の黒い縁どり線の中を金粉で細く塗りつぶすだけだった。
思った以上に作業が早く進むので、ソンヨンがわざと早く終わらせているようにさえ、サンには思えた。
ソンヨンが顔をあげるたび、苦悩するサンと目があった。
ソンヨンと入れ替わりに、恵慶宮が読書堂を訪れた。
いつもは遠回しに息子の過ちを説き伏せる母も、今回ばかりは苛立ちを隠さず、声を荒げて怒った。
「どういうつもりですか! 元嬪の部屋を訪れないとは。それにあきれた話を聞きましたよ。初夜だというのにそなたは図画署に…!」
「母上、よく分かっています。二度と心配はかけません。今夜、元嬪の部屋に参ります。それが王である私の義務だと自覚していますので」
サンは母の言葉に終止符をうった。
三日月がぽっかり浮かんだその晩、サンはナムや尚宮、警備兵をともなって、ようやく元嬪の御殿にやって来た。
庭で首を長くして待っていた元嬪は、ホッとした笑顔で王様を迎え、少し不機嫌な様子で、さっそうと部屋へあがるサンの背中を追った。
2010/8/1
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
-
政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
-
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
-
王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...