2017年6月8日木曜日

イ・サン57話「揺らぐ忠誠心」

執務室で御医は、まるで首でも締めつけられたように苦しそうだった。
顔には焦りの色が浮かび、喋るとつい力が入って、膝が跳ねあがるのだった。
「中殿様が実家から取り寄せた薬に、元嬪様の死産を招く有害物が入っていたようです。恐れながら何度原因を調べてもその薬のせいとしか考えられません」
「元嬪の御子が死産したのは中殿のせいなのか…?!」
サンは御医に念を押すように聞いた。
耳を疑う話だった。どうしても信じられない。
しかし御医の主張は変わらなかった。
「中殿様がおくられた薬に、元嬪様の体質に合わない白朮が入っていましたので間違いないと思われます。それと、申し上げにくいことですが…中殿様は確かに元嬪様のお体に害になるとご存じでした」
サンはとうとう耳をそむけてしまった。手の平で額と目を覆い隠して、しばらくの間、深く考え込んだのだった。

中宮殿まで足を運んだときには、あいにく中殿は留守だった。
軒下で女官に話を聞いたナム尚洗が、参道で待つサンのところへ駆けつけて説明した。
「水刺間へでかけられたそうです…」

王様のお食事を用意する水刺間は、朱塗りの柱の建物だ。
土間は開け放たれ、中庭の石畳が見える。
棚の下段には器、上の段に皿類、棚の一番上にふせられたザルは、白壁にもかかっている。
料理の小皿が、足つきの御前の上にすでに整えられていた。足元のテーブルに並んだボールやザルには、りんご、柿、乾燥した実、菜っ葉が縁までたっぷりと入れられ、ミカンは美しい山盛りにしてあった。
中殿は自分の背丈ほどもあるワカメを手に取って、緑の服を着た年配女官に尋ねた。
「これは蔚珍から献上されたワカメか。流産すると体力が衰えると聞いた。元嬪の好物は他に何がある?」
「あぶった牛肉でございます…」
ナムを連れて、ちょうど土間の戸口に立ったサンは、そのとき中殿のこぼれるような素顔の笑みを目にして、我に返ったような気持ちがした。

中殿はサンのために、屏風の前の席を譲って、二間続きの部屋の境に座った。
中殿の部屋は、腕枕、ミニ座卓、窓のそばのラックと窓下のローチェストまで赤で統一され、中殿がそこにいることで、より女性らしさを増した。また家具の扉にペイントされた黄と赤の細かな花模様と金のちょうつがいは、より可愛く、気品たっぷりに見えた。
白壺に、美しい梅の木がさしてあった。
屏風絵の赤い実、黄色い花、枝から伸びた大きな淡い緑の葉に、窓格子の影が、サンの後ろで優しく重なった。
元嬪の食事に口を出している理由を聞かれた中殿は、何のためらいもなく答えた。
「中殿として世継ぎは産めずにおりますが、少しでも元嬪の慰めになるのなら、私は何でもいたします…」
その中殿の澄んだ微笑みを、サンは黙って見つめた。
「私に尋ねたいことがあったのではないですか…?」
「いや。もう尋ねる必要はなさそうだ。無用な言葉に耳を貸したせいで、そなたの人柄を忘れて、私は思わず…」
サンはここまで言うと、また黙り込んだ。
中殿は潔白だ。
とすれば御医が嘘をついていることになる。
中殿を陥れようとする黒幕は、一体誰なのか…?

中殿付きの尚宮は、中殿に命令されて、しぶしぶ元嬪に仕える尚宮の手に、当帰茶の包みを乱暴に押し付けた。
しかし尚宮のそういった態度も、中殿の微笑みには掻き消されてしまうのだった。
中殿は元嬪に会わないまま庭を引き返した。
元嬪はまだ体調がすぐれないとのことであった。

まもなく、お供をぞろぞろ引き連れ、恵慶宮が庭に入って来た。
恵慶宮に気づいた元嬪の尚宮は、決まりが悪そうに立ちあがった。鍋の番をしていた女官2名も手をとめて、お辞儀をした。
三脚にのせた鍋から煙が大量にあがっている。
「何を燃やしている?」
恵慶宮は、けげんな声で鍋に視線を落とした。
「恐れながら、これは中殿様がくださった当帰茶です…」
恵慶宮が驚いたのも無理はなかった。当帰茶は於血に効く薬だ。
おそらく中殿が元嬪のことを心配して用意したのだろう。それを燃やしてしまうとは…
「恐れながら私がそう命じました」
尚宮に代わって、元嬪が慌てて声をかけてきた。
病床から起きてきたばかりらしく、まだ白い着物姿であった。しかしそれより何より恵慶宮の気を引いたのは、元嬪の目に浮かんだ涙だった。これには何かやもえない事情が隠されているに違いないと、恵慶宮は強く思った。

中殿が元嬪に献上したという薬材の出所が、監察尚宮によって捜索されたのは、その直後のことである。
家宅捜査を受けた医院から、従業員数名が取り調べを受けた。
この件に関して、サンは黙って見ているよりしょうがなかった。
世継ぎ誕生に関する問題を取り仕切るのは、宮中の女らが所属する内命婦で、それを動かすのはサンの母、恵慶宮の権限であった。

内医院の医官たちも、薬材と処方箋の調査をはじめた。
いよいよ元嬪の飲み残しから白朮が検出されると、図画署にもその噂が届いた。
宮中は再び慌ただしくなった。

御医は日が沈むと宮中を抜け出し、広通橋の妓楼までやって来た。
部屋の中でグギョンと待ち合わせてある。
はっきり言って、もう口裏合わせに限界を感じていたところだった。
恐らく自分が取り調べられる日も近いだろう。
てっきり先に待たせていると思い、門を抜け、真っすぐ部屋へ入ったが、そこには見知らぬゴロツキが2人立っていた。
恐ろしさのあまりガクガクと顎を震わせる御医を、男らは荷物のように肩に抱えあげた。
御医は首にヒモでくくりつけた黒帽子を部屋に落して、そのまま永遠に姿を消したのである。

御医を始末したものの、グギョンはどんどん泥沼に足がはまり込んでいく不安に追いたてられていた。
突然、大妃の部屋へ呼ばれたのもそうだ。
驚いたことに、大妃はすでに元嬪の死産の真相を知っていた。
恐らく手下を使って、あらかた調べ尽くした後だったのだろう。今にきっと持ちつ持たれつの関係になると、いかにも言いたそうな顔つきだった。
しかしそれには、そう判断するだけの理由があった。
大妃は忠告した。
「薬を売った薬材商はそなたと取引をしたと自慢げに触れまわっているそうだ。どこで誰が見ているかわからない。行動には気をつけねばな…」
御殿を出た石橋の前で、グギョンはテウと鉢合わせになった。
会釈だけして、やり過ごそうとしたところが、テウの方がそうはさせなかった。
「ついに中殿様までつぶすつもりか?」
「どういう意味でしょう…?」
グギョンが暗い顔を思わずあげてみると、テウが心の奥を見透かしたような目つきで、まじまじとこちらを見つめていた。
「そなたの力なら十分可能であろう? そなたの歩む道が私にはよく見える。権力を手にした者は、どうあがいたところで、その魔力から逃れられずにはいられん。結局、力がそうさせるのだよ」

ソンヨンが中殿様に会おうと思ったのは、中殿の薬ばかりが疑われるのは何か怪しいと思ったからだった。
瓦つきの石塀にくりぬかれた朱色のアーチ門の奥に、中庭がちらりと見えたが、緑の服を着た女官らは、茶母のソンヨンをそこから奥へは入れてくれなかった。
それどころか年配尚宮が一声あげるなり、たちまち女官ら3人は、ソンヨンの腕を取り押さえたのだった。
「尚宮様、どうかっ…!」
ソンヨンの必死の声を、ちょうど通りかかった中殿付きの尚宮が聞きつけた。
彼女はベビーフェイスの顔で年配尚宮を叱り飛ばすと、元嬪の薬について話があるというソンヨンを、すぐに中殿の部屋へ案内してくれた。
ソンヨンは気になっていたことを、無事中殿に伝えることができた。
「さようです。屏風図を描いていたら元嬪様がおいでになったのです。元嬪様はホン承旨様から届いた益母草の煎じ薬を飲むと…。ええ、確かに益母草と聞きました」

2010/9/13

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...