2017年6月8日木曜日

イ・サン60話「弟と姉」

ソンヨンには年の離れた弟ソンウクがいた。
両親が死んだあとも背中におぶって、ずっと世話を続けていたが、別れの日に弟を縁側に寝かせて、父さんと母さんの絵と家族の名前を書いて、弟のおくるみの中にそっと忍ばせた。
何不自由なく育ってほしいと、山陰の名家に預けられたその弟は、その後、疫病で死んだと聞かされた。もう20年も前になるのに、ソンヨンはなぜかその弟の面影を、あの画集をくれた男に重ねあわせた。
男に再会したのは、ソンヨンが随分と夜遅くに、図画署から帰宅していたときのことだった。
ひとけのない路地を曲がった石壁に、背中をもたれるようにしてうずくまり、胸を強く抑えた指の間から、かなりの血があふれ出ていた。
助け起こそうとソンヨンが体に手をかけた途端、男の首は急にぐらりと倒れて、あとはもう何度呼びかけたところで、何も反応がなかった。

翌日、町医者に診てもらうと、命に別状はないとのことだった。しかし意識はまだ戻らない。
役人に追われていたのだろうか…?
胸の傷は矢が突き刺さったもののようだ。
正体がわからない彼を、ソンヨンは自宅にかくまい、しばらく看病をした。
男がようやく意識を取り戻したのは2日後のことだった。まだ包帯が血でしっとり湿っているというのに、どうしても布団から起きあがろうとするのにはワケがあった。
「仲間が今か今かと私を待っているのです! 早く逃げるように伝えなければ彼らに危険が及びます」
ソンヨンは男をなだめて、ゆっくり寝かせようとしたものの、男はとても気の急いた様子だった。
「街では禁軍が検問をしています。今出て行っても捕まるだけです。私が行きます。仲間に逃げろと伝えればいいのでしょう?」
ソンヨンは事情を察し、仕方なく男にこう約束した。
あのとき弟ソンウクと離れ離れになってしまったこと…
その思いがソンヨンの心を強く突き動かしたのだった。

チャン・テウは仲間の重臣と、さっそうと歩くグギョンを遠くから眺めていた。
グギョンは兵士2人を従え、宮殿前の長い石回廊を突き進むと、突きあたりの階段をおりて、今度は宮殿の横に沿って歩いていった。
その間、何人もの重臣らが立ち止まってはおじぎをしたが、グギョンは首をつんと上にあげたまま、歩く速度を緩めようともしない。
グギョンが逆賊の館を襲撃して、王の狙撃に使われた銃と武器を押収した功績は、すでに誰もが知るところだった。王様が承政院に命じて、その手柄を称えるよう指示したとのことである。
「つまり、我々の無実は証明されたわけですな。これで追及される心配もないでしょう」
こう言って、自分の隣ですっかり胸をなでおろしている男を、テウはへびのように睨んで忠告をした。
「愚かなことを言うな。この一件であの者は王の信頼を取り戻したのだ。ますます横暴になるだろう。状況はさらに悪化したのだよ」

サンはその日、奎章閣のパク・チェガら4名と共に清へ行く使節団内定者の顔合わせの席を設けた。
お忍び中のサンと酒を酌み交わした白塔派の実学者2人は、手を前に小さく合わせて、猫背のような姿勢で頭をさげた。
「先日は王様とも知らず無礼な言動を…」
廊下のバルコニーにはゴザが敷かれて、それぞれのちゃぶ台に簡単なお茶が用意された。
サンは赤い布内張りの箱から、黒い筒レンズを取り出して、金属の柄の部分をすっと伸ばした。
「これは千里眼というものだ。遠くの物が見えるとは実に利用価値がある。清のものだけでなく西洋の書物や技術まで幅広く入手するのだ。そなたたちが広く世へ出て多くを学び、国のために役立てて欲しい」
「ですが王様。恐れながら私は王様の真意を図りかねています。王様は西洋の宗教を研究する者を弾圧しながら、我々には西洋から学べとおっしゃる」
白塔派の男の1人が突然、無礼を承知で申し出た。
「それは一体何の話だ? 私が誰を弾圧しているというのか?」
サンには最初、男の言う意味がよくわからなかった。しかし会がお開きになったあとで、禁軍別将を呼んで事情を聞いたところ、禁軍別将は狙撃犯の自宅から出てきたという黒い表紙の書物をサンに手渡した。
ページをめくってすぐ、天主教の本だと気づいた。
グギョンが捕えた狙撃犯というのは、どうやら天主教徒のことらしい…
サンは意外だという顔をした。
「天主教については私も知っている。彼らの書物には人は皆、平等とあり王制とは相いれない内容もあるが、それだけで逆賊とは言えまい」
「恐れながら自白も取れております。彼らの拠点から銃が見つかりましたのが、謀反を企てたという確かな証拠です」
禁軍別将のスムーズな答えを聞き、サンはますます首をひねった。
彼らは銃を持ちながら、全く抵抗しないで捕まったという。
王の狙撃を企むような者にしては、妙に大人しすぎる。
なぜ、彼らは無抵抗だったのか…?

その鍵は宮殿の外にあった。
サンはナムを連れ、再びお忍びで街を見て回った。
「他のどの人参にも劣らない品質だよ!」
「ならばたくさん育てて売ればいいものを、なぜそうしない?」
人参売りの男は、サンにわざとけしかけられ、さも当たり前のように言い返した。
「市場は力のある商人が支配しているからね。俺たちが入り込めるはずないよ。殴り殺されるのがオチさ!」
サンは男が手にしたボウルから、とっさに人参を1株ひっつかみ、枝分かれになった根っこの先を、ぽきんと折りまげて、舌の上にのせ味を噛みしめた。
次に炊き出しの場へ足を運んだ。
見たこともないようなボロ小屋の前に、空のお碗を持った人々が列をなしている。
列を誘導する者、ひしゃくで粥を注ぐものなど、手伝いの男は数人。ねっとりした黄色い粥を、黒い大釜からしゃもじですくって碗に入れていく。足元の台の干しざるに菜っ葉が広げてあった。
薄汚れた子供たちが草むらにしゃがみ込み、木のスプーンを口に運んでは、ふぅーふぅーと白い息を吐きだした。
わからないのは、これだけの炊き出しを取り仕切っているのが、一体誰なのかということだった。
役人ではなさそうだな…とサンが考えていると、1人の男が悲しそうに説明した。
「ええ。ヤン様が私財をなげうって皆を養っているのです。ヤン様は下僕だった私を平民にもして下さいました。逆賊だなんて根も葉もないでっち上げです」
どうやらヤンという男は、先日、捕えられた天主教徒のことらしい。
窯からあがる大量の煙が広場の辺りを白くし、サンの視界をさえぎった。
何かがおかしい…とサンは思った。
これはどうも間違っている。
グギョンは元嬪のことでまだ立ち直れずに、何かを見逃しているのかもしれない。
それともグギョンでさえ知らない、また別の動きがあるのだろうか…?

グギョンが警備を強化したことで、宮殿に持ち込まれる品は、徹底的に調べられることになった。
紙の束が敷地に積み重ねられ、米俵のそばには、空のリヤカーが、斜めに取っ手をおろしていた。
荷物に囲まれた係の男らは、あっち行き、こっち行きしてかなり忙しそうだった。
板ばりの木箱の上に、男の1人が、きらびやかな布箱を重ねて、その隣の赤いリボンで結わえてある書物の束の横に、ふたつきのカゴを3つほどのせた。
忠清道産の人参で恵慶宮に献上するものである…との説明にも関わらず、監視役の上官は中身を確認したがり、フタを開けさせた。
街の中にも、土壁の家の通路に何名かの兵士が待ち構えていて、通りすがりの民衆らの行く手を阻んだ。小さな麦わら帽を頭にのせた男は、両手を高くあげさせられ、白い身軽な服の上から、ぽんぽんと体を調べられた。

ソンヨンも城壁門の前で、いったん足止めをくらった。
荷物を背負った男らが長い列を作って順番待ちの最中だった。
先頭には、人相描きのビラを手にした兵士が、取り逃がした天主教徒の行方を探すため、民衆の顔を1人ずつチェックしていた。
ソンヨンは門を無事に抜けると、川べりの山中へ向かった。うねるような丘に細い木が真っすぐに立ち、木々の間に、下方の川が広がっている。
ソンヨンは、とっさに太い木のそばへ身を隠すようにして、しゃがみ込んだ。枯れ葉のじゅうたんを踏みしめ、禁軍がちょうど山をのぼって行くのが、うねの向こう側に見えた。
山中で顔を合わせた男に、手の中に握りしめていた十字架をちらりと見せると、男は頷いてソンヨンを山奥へ導いた。
「ソンウクのケガはどんな状態ですか?」
男は安全な納屋の中へ入るなり、すぐに尋ねた。
ソンヨンはソンウクというその名前にドキリとしたが、さらに男は薄茶色にやけて、すっかりやわらかくなったくちゃくちゃの紙を、目の前に広げて見せた。
「ソンウクは20年前、山陰の名家に預けられたあなたの弟です。養父たちがソンウクを奴隷として売ろうとしたのです。この絵を覚えていますか?」
ソンヨンは驚きのあまり目を見開いて、まじまじと絵を眺めた。墨一色で描かれた男女の線画で、男の方は布帽子に薄いあごひげを生やし、そばに立つ女は、今にして思えばまだ若く、首の後ろに髪を団子にまとめて、こざっぱりとしていた。
ソンヨンがおくるみに忍ばせた、あの両親の姿絵に違いなかった。

王様を狙撃した罪人らがグギョンの活躍により義禁府に投獄されたときいて、恵慶宮はすっかり感激した様子だったが、その口からまさか次の側室選びのことがもう出ようとは、中殿もさすがに予想してなかったようだ。
「恐れながら…」
「もちろん分かっていますよ。元嬪の死は悲しいことですが、それとこれとは別の話。一刻も早い世継ぎが望まれます。近いうちに選定しますから準備をしてください」
元嬪の死からまだ半月も経っていないというのに、恵慶宮はぴしゃりと言った。
恵慶宮の部屋から中宮殿に戻ると、おつきの尚宮が、衣のすそに隠した手をそわそわと動かしながら、興味津々な顔をして中殿に聞いた。
「今回はどうされるおつもりですか?」
「どういう意味だ?」
「ですからつまり…今回もソンヨンを側室に推薦されるのですか」

2010/10/4

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...