中殿は、ちょうど廊下を歩いているときに、石階段のタラップをおりていくワンプン君を見かけた。お供の女官を引き連れ、宮中を移動中のようであった。
グギョンの養子となったと聞いて、しばらく敬遠していたが、まだ5歳にもならない子供である。本来ならばもっと目をかけてやるべきだったと反省し、ワンプン君を久しぶりに部屋へ招いた。
尚宮が2人用のミニテーブルを抱えて、部屋へ入ってきた。並んでいるのは白磁の急須と小皿、木箸、ピンクや緑、茶色、黄土色の団子餅、むきリンゴ、ふかしイモ、粉砂糖をふりかけたモナカ、どれも普通の子供なら飛びつかんばかりのおやつだった。
テーブルが中殿との間に置かれるのを待ち、ワンプン君は礼を言った。
「恐れいります」
中殿はワンプン君の姿を心から微笑ましく思った。帽子の生地は黒に金印模様。水色の羽織の衿帯に刺繍された金花紋に着物の白さが映え、りりしいほどであった。にも関わらず、とんがり帽の後ろにカブト虫の羽のように垂れたベールは、いかにも幼げだった。
「宮殿での暮らしはどうだ? 何か困っていることはないか」
「ございません。王様と中殿様のおかげで不自由なく過ごしています」
「幼いのにしっかりしている。子供とは思えない受け答えだな」
「王様の跡を継ぐためには、広い心と威厳ある態度を兼ね備えるよう教わりました」
「何? 王様の跡を継ぐだと? 一体、誰に言われたのだ?」
中殿は急に顔色を変えた。まだ王様のお世継ぎが誕生するかもしれないのに、早々と入れ知恵を教えこむとは。
ワンプン君は返事に困ったように薄い眉を垂らして、目をパチパチとさせた。
ほどなく、ソクチュが御前会議の席で、ワンプン君を王世子にする案を出した。
この降ってわいたような話に、サンはかなりの戸惑いを見せたが、当のグギョンは何も知らない風を装い、控えめな態度に徹した。こちらから下手に王様へ働きかけると失敗する。
したがって、王世子擁立の上奏文の用意はソクチュが担当した。大妃を後ろ盾に、チャン・テウに従う者以外、すべての重臣らの意見がまとまった。提案を検討する官吏らは、グギョンに採用された者ばかりである。こうなったら王様も受け入れるしかあるまい。
当然、宮中では噂や懸念、疑問の声が流れた。
考えてもみろ。ワンプン君様が王世子になれば、得をするのはだれだ。伯父である承旨様が絶大な権力を手にする。将来王様にとって脅威になり得るということだ。
と言ったのは、グギョンにごく近い部下だった。
ミーティングの長テーブルには総勢7人が集まった。紫の布をかけた王様のデスクは、敷居をまたいだ奥にある。市場巡察の予定表に目をやるサンに、パク・チェガが説明を加えた。
「王様、5日後の午の刻に雲従街で行われます」
「代表者は来るか?」
白塔派の男が答えた。
「旧専売商人のキム・スンファが伝えて参りました」
サンは出席者の並んだ紙を手もとに取り、注意深く眺めた。
「戸曹の堂上官だけでなく、実務官も出席させるように。しかし妙だな…? チャン・テウの名前がないぞ。巡察に左議政が不在とは」
「王様、左議政様は投獄されていますが…? 当然王様もご存じのことと…」
チェガがすごすごと、不思議そうな顔をして申し出た。
チャン・テウ逮捕の決め手は、逃亡犯ミン・ジュシクとやりとりした書状であった。
グギョン本人から詳しい事情を聞いた瞬間、サンは強い苛立ちと、やりきれなさを感じた。
書状など簡単に偽造できる。頭の切れる男が、なぜもっと慎重に捜査を進めないのか。
確かな証拠もなく家を捜索し、罪人をかばった罪で投獄するとは。
サンの一存で直ちにチャン・テウの釈放が決まり、前回から4日後、今度はジェゴンも交えてのミーティングが行われた。
外ではナム尚膳がちょうど門をくぐって、大殿前のタイル道を、足早に向かってくるところだった。
「専売商人は税の軽減を要求してきますね?」
「麻布を扱う店など多くの店には、すでに大幅に軽減してあるが、その他の店についても検討する必要がある。また新しい商人にも平等に納税の義務を課す。どの程度の税率が妥当か案を出すように」
パク・チェガが指摘した問題点について、サンが答えていたとき、廊下から声が響いて、ようやくナムが部屋に入ってきた。
「私です王様。明日の巡察の件ですが、未の刻に出発するよう手配しました」
チャン・テウを排除する企みが失敗に終わり、グギョンの無念は怨霊のように心にまとわりついた。
巡察中の王様を狙う動きがあるとの情報は大妃から入った。
グギョンにとっては、まさに名誉挽回をかけたチャンスだったから、それこそやっきになって捜査に奮闘した。
市場の店舗と商人の家を強制的に家宅捜索し、帳簿を押収すると、次いで市場を統括する旧専売商人キム・テスク他4名を捕え、部署の一室に監禁、室内に警備兵を置いた。
調べたところ、2カ月の間に1200両もの大金が帳簿から消えている。同じ頃、商人の手下が硫黄を仕入れて捕まった。爆弾でも作る気だったか。
グギョンは絹店のヤン・ギチョルを捕えるよう、追加の指示を出した。
逮捕者はその後も増え続け、20人を超えた。テスはグギョンの命令に従いつつも、あまりに生々しい拷問を目の当たりにし、どうしようもない不安に掻き立てられた。最近のホン承旨は、テスの目から見ても、人が変わったように様子がおかしかった。
一方、大妃はソクチュを通じて、グギョンをいさめるよう厳重注意した。このままでは王の感情を損ないかねない。
しかしグギョンは功績さえ挙げれば、王世子擁立が実現するものと信じて疑わなかった。
王様の巡察の前日夜、赤門の3つの入口のうち、グギョンはその中央に立って、投入される兵士30名余りを前に、自ら陣頭指揮をとった。
雲従街に到着するまでの道のりをチェックするため、まもなくテスが部下数人と馬で城門を突破した。
巡察の準備は、こうして万全に整えられたかのように見えた。
翌日、王様の一行は、予定通り雲従街の広場へ到着した。
広場の中央に、簡易ステージが設置されている。
大半の役人は、入口に押しやられたように広場の隅に立ち、サンとチャン・テウ、ソクチュ、グギョン、ジェゴンら重臣の姿と、簡易ステージの玉座を交互に眺めた。
王様はステージに、なかなか上がろうとしない。ジェゴンが恐縮したように、そばで頭を垂れていた。
サンは怪訝な顔で辺りを見回した。ステージ天井の日除け用の黄色い幕と、兵士がかかげる色違いの旗4本が、広場の中程で目立つ。ステージ後ろは、警備兵のガードに守られながら、図画署員らが何らかの指示を待ち構えていた。広場の周りに集う草ぶき屋根の家々。しかし肝心の専売商人と民の姿はなかった。
一体どうなっているのか?! 今回の巡察は専売商人からの要請だったはずなのに。
原因がわからないまま、サンはいったん宮殿に引き返すこととなった。
まもなくチャン・テウが執務室にやって来て、
「王様、お話がございます。今回の件で驚くべき事実が分かりました。すべてはホン承旨が原因です。商人を捕え拷問したのです」
すぐに監禁現場へ立ち入り調査をしたサンは、そこに凄まじい光景を見た。
専売商人らが赤い縄できっちりと体を縛られ、顔じゅうに血を垂らして力尽き、雪崩のように仰向けに倒れている。
現場に居合わせたグギョンは、なおも任務に忠実にこの状況を王様に釈明しようとした。
「先日の銃撃事件に関わった疑いがありますので」
「これは職権乱用だ。彼らは自ら歩み寄ろうとしていた。そなたの愚かな行動により、解決の道が閉ざされたのだ!」
「では何としてでも、事態の収集を図ります」
「いや、その必要はない」
「えっ?」
「この一件から手を引けということだ」
これまでグギョンの成長を気長に見守ってきたサンも、今回ばかりは激しく突っぱねた。
あとの処理を任せられたジェゴンは、尻拭いのため、パク・チェガらを連れ、市場を飛び回った。商人1人1人の説明にあたったものの、一度失った信頼を取り戻すのは、大変骨の折れる仕事だった。
ようやく目途がつき、王様のもとへ報告にあがった際には、条件を出した。
「妥協案を提示して同意を得ました。専売商人の特権を撤廃するにしても、最も規模の大きい六矣塵は保護するのです」
他に選択の余地はない。サンは主要な6種の品を国に納める店に対するこの条件をのんだ。
任務を外されたグギョンは、耐えがたい怒りで胸の中で火が舞うようだった。次に打つべき手を考えあぐねながらも、目の奥は怒りと恨みでいっぱいだった。
王世子擁立を急ごう…
王様との関係を修復するには他に手立てがない。
強力を要請しに大妃の部屋を訪れた帰り、ふと思いついて、ワンプン君の御殿へ寄ることにした。ワンプン君のことが、今まで以上に大切な存在に思えた。
ワンプン君は、建物の間の狭い通路を抜け、石段のタラップをおりていくところだった。風呂敷をさげた女官が4、5人と、世話係の年配女官がすぐ後ろをついて歩いた。
クジャクの長い飾り羽のついた丸帽子までかぶって、どこへ出かけようというのか。
グギョンは慌ててワンプン君の前へ駆けつけ、行く手を遮るように立ち止まると、ひとまず礼をし、幼子に合わせて腰をかがめ、丁寧に話しかけた。
「どこかへお出かけですか…?」
「伯父上。しばらく宮殿を出ろとの命令です」
「何ですと? 一体誰の命令ですか」
「それが…」
ワンプン君は急に困ったように目を垂らした。舌たらずで、あどけない。しかし本人は大真面目である。
「私が命じたのだ。幼子にとって宮中は窮屈なところだから、実家で過ごすよう手配した。ワンプン君、何をしている? 準備が済んだら宮殿を出るように。もう行くがよい」
声の方へ振り返ったグギョンは、お供の尚宮と女官を引き連れた中殿と目があった。
「ではこれにて失礼します。どうぞお元気で。中殿様…」
ワンプン君はぺこりとお辞儀をし、グギョンを残して去っていった。
2010/11/6
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
2017年6月8日木曜日
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
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政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
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王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...