「え? あんたが王様だと言うのかい? これは恐縮です。どんだ無礼を」
王であると打ち明けたサンに、ヤギョンが言った。
「いいや。この格好では分からなくても無理はないのだ。私だって騙すつもりはなかった。次はそなたが正体を明かす番だが…」
「王様。私をお忘れで? 王様の右腕の領議政ですよ! アハハハッ。あんたが王様ならば私は領議政だろ?」
どうもヤギョンは冗談だと思っているようだ。
次の瞬間、ヤギョンは急にサンの手を引っ張って、一段低い通りへ抜けられる狭い石段に身を隠した。そうしてがれきの塀に背中をぴたりと寄せ、辺りを見回した。
倉庫の見張り番の男ら4名が、サンたちには気づかず、目の前を通り過ぎていく。
「王様ごっこをしている場合ではない。あの下から錦川橋へ行ける。ここへはもう来るな」
ヤギョンはサンに忠告すると、見張り役の男らとは逆方向に走り去って行った。
その若い儒生についての調査資料をテスが持って来た。サンはそれを熱心に目を通した。
「チョン・ヤギョンというのか…」
「はい、王様。明礼坊に住んでおり、修学して3年程だそうです」
「学問に興味がないどころか政治学は見事な成績じゃないか…」
「しかしなぜか科挙には落第して、授業も休みがちで懲戒を受けています」
「授業を抜け出して一体、何をしているのだろう?」
「酒場で民の訴訟を代行しているのです。無償で毎日、話を聞いて学のない民に代わって嘆願書を書いているとか。あの儒生が乗りだして負けた訴訟はないそうで」
忙しいわけだ。
多くの訴訟を扱うには刑律の知識がいる。
サンはヤギョンが漢城府に提訴するために書き綴った紙を広げた。
お手並み拝見といこう。
まずはおえらいに家を奪われた貧しい男の一件。助けを求めてヤギョンに泣きついたらしい。
どうも見覚えのある書体だと思い、サンは椅子の後ろのチェストから、右端の小引き出しを開けて、例の名無しのごんべえの答案を取り出した。
間違いない。ヤギョンの書いた訴訟と同じ文字だ。
すぐにチェゴンを呼び出し、答案を見せたところ、
「人並み外れた才能が人目で見てとれる答案です」とハァーと深い息を漏らした。
やはりそうだったか。とサンが納得しかけたとき、チェゴンが首を傾げた。
「なぜこれほどの者が、科挙の大科に落第したのでしょうか…?」
次の科挙の機会はすぐにやって来た。
答案を今一度確かめてから筆を置くと、早くも荷物を丸めてゴザ席から立ちあがった男がいる。
隣の色白の背の高い男が、心配し男を見上げた。
「もう帰るのかい?」
「答えは全部書いたさ。頑張れよ」
「だから毎回落第なのさ…」
色白の男はあきれ果てて首を横にふった。
そのあきれた男は、ヒモつきの荷袋を背中にだらんと垂らして、他の受験者らの隙間をぬって答案を提出しに行った。そうして城壁門の会場を後にしたその男こそ、他でもないヤギョンであった。
「これが合格者の答案か?」
「はい。さようでございます」
チャン・テウが真面目腐った顔をして答えた。しかしサンは答案の束にヤギョンのものがないのが不満だったのだ。
あまりにも型破りな内容のため、どうも採点官がはねつけたに違いない。
すべての答案を再度、採点部屋へ持ってくるよう命じると、テウは渋い顔をしてみせた。
合格発表の時刻は少し遅らせることにした。
テスが酒場へ顔を出したとき、縁側にわらじで正座した貧しい男が、何度もヤギョンに礼を言って帰っていくところだった。
ヤギョンは玄関口の小部屋に机を置いて、民の相談場にしているらしい。もうぼちぼち店じまいにしようと、書物を机でトントンと揃えているところへテスが声をかけた。
「ああ、誰かと思ったら。王様のお供の方ですね」
ヤギョンもテスの顔を覚えていた。
「ええ。ところでどうでした? この間、実施された科挙の結果ですが」
「あんたも勘が鈍いな。落ちたからここにいる」
「たった今、結果が貼りだされたようですけど? 行ってみたら? 手違いであなたの名前が一番上にあるとも限らないでしょう」
とテスに言われて、ヤギョンは城壁門の前へ行ってみた。なるほどつば広の黒帽子をかぶった人だかりが出来ている。
バカらしいとは思いながら、人を掻き分け進んでみると、試験会場で隣にいた色白の男がいて、屋根のある看板をしきりに指さす。
つられて目をやったヤギョンは、何かの見間違いじゃないかと思って、一瞬、眩しそうに瞬いた。
癸卯年 大比科試
調律榜目
壯元 チョン・ヤギョン 羅州
なんと首席合格である。
合格者の25名は、赤門に四方を囲まれた石敷の広場に集められた。
まもなく王様が尚宮や内官らを連れて、石造りのなだらかな階段をゆっくり下りてきた。
サンは合格者の顔ぶれを見まわし、ヤギョンを探した。皆かしこまって目を伏せている。
「そなたが首席で合格したチョン・ヤギョンか」
「はい。さようでございます…」
ヤギョンは帽子の先につけた合格者の花の串飾りを、アンテナのように前へ垂らして神妙に答えた。
「そなたの答案には深い感銘を受けた。だが妙だな。すでに高官であるそなたがなぜ科挙を受ける」
「恐れながら…私が高官とはどういうことでしょうか?」
「とぼけるな。そなたは領議政ではないか」
ヤギョンがハッと驚いて顔をあげた瞬間、サンがいたずらっぽい笑みを返した。
養蚕の成功を祈願する親蚕礼の打ちあわせに、そもそも恵慶宮がソンヨンの参加を認めたのは、慣例に従うべきだという中殿に折れたためではなく、和嬪のひと言がきっかけだった。
「宣嬪はまだ宮中のおきてになれていません。判断に迷うところですが、恐れながらひとまず宣嬪を参加させて、もし何か問われたら私が答えるのはどうでしょう?」
お気に入りの和嬪の考えに恵慶宮はとても感心した。徳と知恵を示す席で、王室の恥をさらさずに済むだけでなく、和嬪の賢さがいっそう目立つことだろう。
養蚕は王室で奨励している産業で、高麗時代から女性が衣服を作ったことに由来するものである。
打ち合わせの席には、40代から60代までの高貴なベテラン婦人8名が顔を揃えた。それぞれに茶菓子の膳が用意されて、ソンヨン、中殿、恵慶宮、和嬪ら王族と対面に座った。
リーダー格と思われるうりざね顔の女がまずは質問した。
「宣嬪様にお尋ねします。親蚕礼で着る衣は何色ですか」
ねちっこい口調だ。お手並み拝見とばかり、挑戦的な目つきでソンヨンを睨みつけた。恵慶宮はここぞとばかり、下目づかいにそっと和嬪に視線を送る。
「和嬪。そなたが答えるのがよかろう…」
ベテラン婦人は思わず隣同士で顔を見合わせ、ひと言、ふた言、何かささやいたようだった。しかしそのざわめきも、おだやかな和嬪の声がすると静まった。
「本来は青色であったが、庚午年に鴉青色へ変更し、丁巳年に乳青色へと変更した。先代の王様は庚午年の礼法に従えと命じられた。従って乳青色にすべきだろう」
ベテラン婦人らは恐れ入ったように、前衣のスリットへ両腕を隠したまま頭を下げた。和嬪を誇らしそうに見る恵慶宮の顔に、笑みが浮かんだ。
続いて、ふくよかな女が、さっぱりとした物言いで尋ねた。
「和嬪様。では衣の色はなぜ変わるのですか?」
こちらの方はどうも答えが思い当たらず、和嬪は考え込んでしまった。
「恵慶宮様。私が答えてもいいでしょうか…」
婦人たちは声の主に視線を送った。おつきの尚宮や和嬪、恵慶宮、中殿も驚いてソンヨンを見た。
「知っているのなら答えなさい」
恵慶宮は仕方なさそうに、しかも冷たく言った。
「親蚕礼の前に祭壇に礼をしますが、養蚕の神として祭られるのは春秋時代の西陵夫人です。最初はその礼に従い、中殿様の衣は桑色、他の女性は青色でした。ですが明の皇帝が色を変えたため、我が国もこれにならったのです。のちに乳青色となり再び鴉青色へ変わったのは乳青色の染色が難しく、また中殿様と他の女性の区別を明確にするためです」
ソンヨンはゆっくりと、一度も詰まることなく答えた。
文句のつけようのない完璧な答えだった。
ふくよかな女は、驚いておちょぼ口を大きく開けた。他の婦人らも笑顔で頷きあった。ねちっこい女でさえ、すっかり感心したように微笑んだのだった。
余罪を追及する名目で、テスが再び島を訪れたのは、サンのたっての願いであった。どうしてもグギョンにひと言、伝えたいことがあり、都近くまで連れて帰るよう言われたのだ。
棒を横にわたした垣根にツルが絡まっている。海に囲まれ、兵士がどんなに監視を怠けようとも、グギョンが逃げ出せるはずのない辺境の地だった。
テスは草ぶき小屋へ入った。ところがそこに病人はおらず、二間続きに敷かれたせんべい布団の端が、まくれているだけだ。隅に寄せた家具は、どれもタンスだか箱だかわからないような粗末なものだった。
玄関の板間は、きれいに片付いていた。くりぬき鉢とすりこぎ、小さなざる、まな板、何度も握りしめて艶の出た包丁以外、何もない。ずんどうの魚が、わらを敷いたざるに、頭の向きを揃えて並べてあった。
まな板に魚が1匹のっている。透明なヒレに血が滲んでいる。包丁を枕にして、さばかれるのをじっと待っていた。
テスは何だか嫌な予感がして、小屋の外へ出て、急いで庭へ回った。
グギョンが倒れていたのは、横庭の小石を積み重ねたかまどの前だった。そばに小さなザルが1つ転がって落ちていた。
テスからの急報で、サンが島へ駆けつけたとき、日は暮れかけていた。
グギョンは布団に横たわっている。その手が少し伸びたのに気づいて、サンが両手で握った。
グギョンは糸をひくように何とか声を出した。薄っすら目を開け、サンを見ている。もうほとんど死にかけているというのに、鼻の頭を赤くして子供のように泣いているらしかった。
「聞いてくれ。私はそなたのことを恨んではいないのだ」
サンは言った。
「王様、何もおっしゃらないでください。これでいいのです。でもどうか信じて下さい。王様に対する私の忠誠心は偽りではなかったと」
「分かっている。すべて分かっている…」
とサンはとうとう泣き崩れた。
グギョンの遺体は早朝、卯の刻よりテスら白い着物姿の宿衛官らによって運ばれた。
赤地ののぼり旗には“宿衛大将 都承旨 豊山洪公”
と白文字で染め抜かれた。それが行列と共に進んでいった。
チリンチリン…
ミコシやぐらに立つ男が、手持ちのベルを鳴らし、甲高い歌声をあげる。それは天へのぼって再び地へ降りた。ミコシを引く男らの合の手が、線のように底を流れた。
サンは思った。私たちは同じ夢を見ていた。これからまだ一緒にすべきことがあったのだ。それなのになぜ、こんなことになったのだろう…
今、潮が引いて、海は目の前から夢のように消え去った。グギョンの棺をのせたミコシが、サンの待つ都を目指して砂浜を進み、海へと真っすぐに向かった。
2010/12/5
韓国ドラマイ・サンのあらすじサイト。1話~77話(最終回)までと各話ごと揃っています。ネタばれ率100%!小説風に書いているので、ドラマと二度楽しめます。
韓国ドラマイ・サンとは
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
-
政治シーン 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。 むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです...
-
時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...
-
王子は目の高さで紙を持ち、背筋をまっすぐにした。1枚読んだら卓上机に重ね、また次の1枚を手に取る。 上奏文や巻物、書物の山は小さな王子をうずめてしまいそうだ。 それでもまだ父上の質問に対する答えが見つからなくて、気分はどうもマンネリになってきた。 もう3日も食事をしていない...