2017年6月14日水曜日

韓国ドラマイ・サンとは

時代背景
イサンは朝鮮王朝22代王です。
1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。
イサンの祖父である英祖は朝鮮王朝の21代王。英祖の政権は1724年~1776年までです。
商道のイム・サンオクや済州で活躍した女性の豪商キム・マンドクと時代が少し重なっています。(イム・サンオク)は1779年生まれ。またキム・マンドクは1739年生まれ)。この他に英祖の肖像画を描いた宮廷絵師キム・ホンドがこの時代の人物です。

視聴率
チャングムでお馴染みのMBCプロデューサーイ・ビョンフン監督による2007年9月17日~2008年6月16日の作品。9か月もの長丁場のドラマでした。
視聴率は初回14%だったのが、最終回近くには30%を超えています。最近のビョンフン監督の作品ではかなり人気の部類です。
月・火曜の夜10時の同じ時間帯では「王とわたし」を放送していて、当初はこちらに視聴率を食われました。それもそのはず「王とわたし」は25%も視聴率を獲得していたのでした。
ちなみに「王とわたし」は当時人気のオ・マンソクが宦官役で主演して話題となった作品です。しかし徐々に「イ・サン」の人気があがって、早くも7~8話には互角の争いとなりました。毎回僅かな差で「王とわたし」に軍配が上がっていましたが、20話に近づくにつれ形勢は逆転。「王とわたし」は徐々に視聴率が下がって14%台にまで落ち込みました。
63話で「王とわたし」が終了してからは、「イ・サン」の視聴率が60話を間近に一気に30%を超えました。 その後は最終回まで30%前後をキープし、有終の美を飾りました。






2017年6月13日火曜日

キャスト・登場人物

主なキャスト

イサン(正祖)…イ・ソジン
ソン・ソンヨン(ヒロイン)…ハン・ジミン
テス(男友達)…イ・ジョンス
重臣…チョ・ギョンファン
イサンの祖父(英祖)…イ・スンジェ
ファワン(英祖の娘)…ソン・ヒョナ
フギョム(ファワンの養子)…チョ・ヨヌ
イサンの母(恵嬪)…キョン・ミリ
ホン・グギョン(イサンの右腕)…ハン・サンジン
イサンの妻(孝懿『ヒョイ』王妃)…パク・ウネ
英祖の若妻(貞純『チョンスン』大妃)…キム・ヨジン



その他の登場人物名
恩彦君(ウノングン)…サンの異母弟 
完豊君(ワンプングン)…恩彦君の長男
王のおつきの内官…ナム・サチョ
テスの仲間の背の高い方…ソ・ジャンボ

 役職
ホン・グギョン(塾講師、都承旨、奎章閣提学、宿衛所隊長)

官僚
チェ・ジェゴン…
チャン・テウ…(領議政)
チャン・ギチョル(都承旨)
パク・チェガ

尚宮
キム尚宮…王妃(中宮殿)のおつき
チェ尚宮…水刺間担当






2017年6月12日月曜日

派閥について

政治シーン

 宮中の催事などを絵に記録する図画署が舞台ということで評判になった「イ・サン」ですが、チャングムみたいに物語の中心になっている感じはありません。

むしろ朝廷の闘争争いの方が印象に残りました。王様が主人公だけあって、トンイや馬医に比べて政治シーンが多いドラマです。

イサンのお父さんが米びつに閉じ込められて亡くなった事件も、その裏にはどうも政治闘争が見え隠れしている感じがします。

 ドラマにはいろいろな党派が登場して複雑です。 老論はこの時代、力の強い党派でした。対する少論は力を失っています。

老論はもとは西人だったのが老論と少論に分かれたものです。性格は老論は強硬派で、少論は穏健派です。 ドラマに登場するチェ・ジェゴンは南人派で、イ・サンの父思悼世子の味方の側でした。また少論派もそうです。

 南人はもとは東人で、南と北に分裂して出来た党派です。強硬派の北人に対して穏健派。 また思悼世子の義父ホン・ボンハンは老論派でも世子に同情的で、時派という勢力の中心となって南人、少論とも手を組みました。 やっぱりわかりにくいですね……


2017年6月9日金曜日

イ・サン2話「父の絵を見せたくて」

サンが再びソンヨンを見かけたのは、宮中のお堀のそばを通りかかったときだった。

「その手を離さぬか!」

サンに叱り飛ばされた先輩女官達は、ソンヨンの口から猿ぐつわを外すと、かしこまったように整列した。

ソンヨンは先輩女官達が、どうして慌ててムドクに頭を下げたのか、最初のうちわからなかった。
ムドクの後ろには侍従が数人立っていた。それにムドクは胸に大きな紋のついた紫の服を着て、マドレーヌみたいな形のふんわりした帽子をかぶっていたのだ。

「あんた、ムドクよね……?」

さっきまで先輩女官たちに羽交い絞めにされていたソンヨンは、ようやく自由の身になった。さらに改めてまじまじとサンを見るうちに、ようやくムドクの正体に気づいたのだった。

「王世孫様とも知らずに、ご無礼をお許し下さい!」

急にハハーッと深々とおじぎをするソンヨンを見て、サンの胸は痛んだ。
昨晩、時敏堂に入った者を、大逆罪とみなすとの王様のおふれが出ていたくらいだから、厨房に行ったきり、帰りがすっかり遅くなったソンヨンが何かしら疑われたのも無理はなかった。

サンはテスのことも気がかりだった。兵士に連行されて、大きな門の辺りで消えたのが、彼を見た最後だったからだ……


「王世孫様、服をお着替え下さい」

部屋に侍女三名が入って、暗い表情のサンに声をかけた。
侍女は棚の上の飾り箱から、金紋が入った紫色の服を取り出し、箱のフタを閉めた。
そのときサンは、ふと思いついたように飾り箱に注視した。
(もしやあの中に……?)
鹿やハスの花などの赤い絵柄がタイルのようにペイントされたその派手な飾り箱を、もう一度開けるように侍女へ命じた。
侍女は留め金具から鍵を抜き、美しい絹の衣装を何枚もめくると、底の方から巻物を入れた小箱を見つけて取り出した。

父さんがおじいさんに見せろと言っていた絵に間違いない。
絵は最初から自分の部屋にあったのだ……!


松林に立つ男と、男の背中に隠れた女……
彼らに気軽に声をかける男……

さっと確認しただけで、サンは絵を素早く巻きなおした。
雲従街への巡察の旅に出た王様に、一刻も早くこの絵を届ける必要があったからだ。

でもその前に、井戸の水汲みをしていたソンヨンのもとへ飛んでいった。
宮中の外へ出るのに、誰かに道案内して貰う必要があった。

ソンヨンはすぐにOKした。
ぶっそうな街へ、サンをいくらなんでも一人で行かせる訳にはいかないと思ったのだ。
世継ぎの息子でありながら、心配事を相談したり、頼ったりする仲間さえいないサンが、何だか気の毒なくらいだった。


約束を取りつけ御殿に戻ってきたサンを、サンの母親の恵嬪宮と母方の祖父、ホン・ボンハンが首を長くして待っていた。
と言うのもサンがあの夜、時敏堂に行ったことが王様にバレてしまうのが問題だったのだ。
ボンハンはすぐにも待機させていたコシにサンをのせて、逃げるように実家へと向かった。
サンだけでなく、旗を持った兵士のあとに恵嬪宮をのせたコシもいる。
その金色の屋根とサンを乗せた銀色の屋根に続いて、タンスや風呂敷、荷車が続く大掛かりな移動だった。
ハスの水田や田舎道を抜ける間、村人達が道をあけて深々とおじぎをする姿が各所で見られた。

やがて山道に入ると、オープンみこしの椅子に背中をもたれていたホン・ボンハンが後ろを振り返った。
どうした訳か銀色の屋根がいつのまにか見えなくなっている……

「用を足されているそうでございます……」

そばを歩いていた年配の侍女が説明した。

「そうか……」
といったんはホッとし、くるりと前を向いたものの嫌な予感に襲われた。
念のためコシを止めさせ、後ろにすっ飛んでいってみると、案の定、銀のコシの中はもぬけの殻となっていた。


ホン・ボンハンはそう頭の悪い男ではなかったし、ある程度の力も持っていた。
(恐らくサンは王様に会うために、雲従街に行ったのであろう……)

そう推察し急いで宮中へ戻る途中に、とある部署に立ち寄りかなりの数の捜索隊を派遣させておいた。
それとは別に、もう一つ気がかりなことがあった。

昨晩、時敏堂に行った疑いで捕らえられたテスという子供が、どうもサンの顔をはっきり覚えているらしい……
その事実をホンバンに伝えてきたのは、彼の部下だった。
さてどうしたものかと途方に暮れるホン・ボンハンの胸のうちを察したのか、部下が早口でささやいた。

「露見しないように直ちに手を打ちます。お任せ下さい……」

そのときホン・ボンハンは、あえて何も返事をしなかった。部下の言ったことが聞こえなかったわけではない。ただ何となく後ろめたいような気はするのだけど、この場合はやむを得ないと考えたのだ。



一方、コシから脱出したサンは、荷馬車のタンスに隠れていたソンヨンと合流した。
まずは庶民の服に変装しようと、二人であばら屋に忍び込んだ。
そこでソンヨンの腕から血が流れているのに、サンは初めて気づいたのだ。
すぐにも自分の豪華な帯をほどいて、ソンヨンの袖に巻きつけてやった。

それから近場の市場へ行って、今度は樽馬車の荷台に忍び込んだ。
その樽馬車の御者は、ちょうどヤミ酒を雲従街に運ぼうと、馬車を止めていたところだった。
城門の前は今日は特別、人でごったがえしていた。

なぜかと言うと雲従街に向かう不審者を、荷物の隅々まで調べあげるよう、おふれが出ていたからだ。

密造酒を隠している御者は、やむなく馬車を引き返すことに決めたようだ。

その後、かまどの湯気がもうもうと立ち込める密造酒工場に到着した。

そこにどういうわけか偶然にも、テスが監禁されていたのである。

すぐさまソンヨンが機転を利かせて、密造酒工場があることを役所に密告しに出ていった。
そうして工場が役人に襲撃されている間に、テスを連れまんまと脱出するのに成功したのだ。


雲従街の特設会場には、オレンジ、赤、青、黄色のカラフルな着物姿の役人達が、王様の両側にぞろりと並んでいた。
店舗の組合員達が、その正面に肩を寄せ合うように立って、窮状を訴えていた。

救済金を日照り対策に使い果たして、火災の分がきちんと店舗に行き届いてないという……

王様は別の官庁の財源を回すよう指示してから、ふと空を見上げた。

(日差しがやけに暑い……こう暑くては、立っているのも辛かろう)

日除けのある王様の席でさえ耐え難い。王様は急きょ集会を切りあげることに決めた。
一段落したところで、家臣から水の入ったボウルを差し出された。
王様はそれをいったん飲みかけたものの、無言で突き返した。
この暑さの中で、今も米びつに閉じ込められている王世子の姿が頭をよぎったのである……


サンがようやく雲従街に着いたのは、すでに特設会場の解体作業が行われている最中だった。
ミニサイズのわら帽子を頭にのっけた男は、今さらおかしなことを聞くねぇという顔で言った。

「暑いから王様が早めに切り上げられたのさ!」


すでに王様の一行は墓参りをするために、次の目的地へ出発したという。


シンバルやチャルメラ楽器隊の後を、長い行列がぞろぞろと進んでいった。
そのうち王様のコシがゆっくりと沈み、地面に着地した。

王様は耳を澄ませた。
遠くから鐘の音が聞こえる……
橋や門に設置された鐘を、むやみに鳴らすのは禁じられているはずだ。しかしその鐘の音は、どんどんこっちに近づいてくるようだった。


「お待ち下さい! お話がございます!」

手にぶら下げたドラを鳴らし、民衆の垣根を掻き分けるように走ってきたのはサンだった。

王様は孫を出迎えるために、コシから下り立った。

「なぜそなたがここにいる?! そのみすぼらしい格好は何だ?」

予想のつかない出来事だったので、つい口調は荒くなったが、幼い孫を心配する面影が、まだかすかに残っていた。


「王様、父上の絵をお持ちいたしました! 見れば誤解が解けると申しておりました!」 

「そなたの父が申しただと? いつ父と話を? まさか……まさかそなたが!」

王は驚いて声をあげた。

まさにホン・ボンハンの嫌な予感が現実のものになろうとしていた。


2008/11/1/ 更新



イ・サン1話「三人の約束」

宮中の大広場に集まった絵師達が、地面に大きな紙を広げて、祭りの様子を事細かく写生していた。

ある絵師は、広場の中央で華やかに舞う踊り子達を描いた。
絵の中の女は三つ網をウチワみたいに巻いて、造花や長いカラフルな布を高く掲げながら、くるくると回っていた。天女みたいなスカートを膨らませた様子が、そこには生き生きと表現されていた。

踊りの外側では、幾重にも四角く取り囲んだ重臣や兵士の姿がある。さらにその周りを黒い瓦屋根と赤柱の重々しい御殿が取り囲んでいた。

日よけの黄色いテントが張られた壇上席では、ヨジョン王と若い正室が満足そうに踊り子達の舞に魅入る姿がある。

ある絵師は金龍刺繍の赤い服と、えぼしを塗った後、少し白い毛が混じった王様のアゴひげを仕上げた。

また別の絵師は、長い棒を振り回して風車のように回る武士の集団や、小さいつばの帽子を頭にのせた火縄銃隊を描いた。


パンパーン!


地面に片ひざをついた火縄銃隊が一斉に、空中に銃を発射した。
辺りに白い煙が上がったところで、一列目の隊は素早く後ろに下がって、次の列と入れ替わった。
隊は王様の壇上の前へ足踏みで進んでいき、同じような射撃パフォーマンスをしばらく繰り返していた。
ところがあるとき突然、隊がくるりと王様に銃口を向けたのだ。

次の瞬間、王様のちょうど前にいた若い男の胸から血が吹き飛んだ。
側近達も次々に倒れていく。
火縄隊同士が激しく撃ち合い、そこら中に弾が飛び交うという一見しただけでは訳の分からない状態となった。
踊り子や絵師達が慌てて逃げ出した。
広場中で人々が逃げ惑う様子は、さながら蟻の大移動を見ているみたいだった。

王様は家臣達に守られながら広場を抜けて、岩造りの高い道を走った。その王様のあとを、剣を振り回しながら追いかける一団があった。

一団は王様の前に立ちはだかった。
その列の中から現れたのは、青い着物に金龍の鉢巻を締めた男だった。

男は王様を見据えた。
りりしい、そして恨みのこもった目で、世子サドが王の前で刀を振りかざしたそのとき、王は寝床から目覚めた。

ヨジョン王は真っ暗い中から、ゆっくりと体を起こした。
しばらくは動揺がおさまらなかった。
悪夢にうなされたのは今回が初めてじゃない。
王には息子に恨まれる心当たりがあった。


「なぜ出歩いてる?」

少し太っちょの十一歳になるテスは、自分と同じ内管の服に短いえぼしを被った少年に、いちゃもんをつけた。
テスには少しとぼけた感じの叔父さんがいた。役人であるその叔父が将来を心配して、テスをこの宮中に預けたのだった。

「名前くらい名乗ったら!」

女官のソンヨンがテスの加勢をして、こんな夜更けにこそこそ出歩いてる怪しい男の子を責め立てた。
とは言えソンヨンも、あまり威張れる立場ではなかった。
ソンヨンは先日女官になったばかりだ。死んだ父親は宮中の画工にしておくのが惜しいと噂された立派な人物だった。

三人はそれぞれ諸事情を抱えて、偶然にも庭の一角で出会った。
ソンヨンは厨房の行き方がわからず困っているところだったし、内官になるのが嫌だったテスは、夜明け前までに宮中から脱走しようとしていた。

ムドクと名乗った少年にも、また別の事情があった。
今宮中で最も警戒が厳しくて物騒な時敏堂に、人目を盗んで行くところだったのだ。
試しに見張り役をお願いしてみると、意外にもソンヨンが快くOKしてくれた。
ムドクは生まれて初めて信頼できる人に会ったみたいに、顔をパーッと輝かせて、すっかり張りきった。

「先に厨房に行くのが道理であろう!」

ムドクはソンヨンの用事を優先してやった。
テスも根は単純な男らしくて、渋々ながらついてきてくれた。そればかりか石塀をのぼるために体を馬にしてくれたのだ。


見張兵がたいまつを手にして石橋の辺りをウロウロと歩いている。
幸いにも朱色の門には、見張りの姿はなかった。
ムドクは二人を門のところに待たせて、一人で広場の中へ入っていった。
そこは青黒い闇と霧に包まれていた。
砂利の真ん中には、まっすぐ石畳の道が延びている。突き進んで御殿の前まできたところで、ムドクが突然ひざまずいた。
石段の前には輿ほど大きな米びつが、ぽつんと一つあった。
その米びつに向かって、ムドクは深々と頭をさげたのだった。

「あんまりです……こんなひどい仕打ちを受けるとは! 父上……」

ムドクの泣き声を聞いて、箱の中から弱り果てて今にも消えそうな返事が漏れた。

「サンか……? そなたは無事なのか?」

世子サドは息子に呼びかけた。
世子は真っ暗な米びつの中にいた。唯一外の光が入る小さな穴から、手を差し述べようとした。
サンは腕が見えた途端、そばまで飛んで行って、父のだらんとした手を握り締めた。
泣きじゃくる息子の声を聞いて、世子は息子に最後の教えをほどこした。

「無事ならばよい……。よいか、たとえ何があろうとも誰かを恨んではならない」

ほとんど息だけで、あまりに弱々しい父の声を聞き、サンはあたふたと包みから、お餅を取り出した。
ソンヨンを先に厨房に案内した際に、忍ばせておいたものだ。
サンは何日も閉じ込められて、餓死寸前の父の手に、餅を握らせようと必死になった。

「よく聞けサン。飾り箱の中に私が描いた絵がある。それをおじい様に渡してくれ。そうすればきっとおじい様も私に会って下さるはずだ……」

父は必死に気力を振り絞って、糸みたいな声でそう告げた。

太い柱の陰に隠れていたソンヨンがサンに注意をうながした。

「誰かがこっちに来るわよ……」



王様が急に時敏堂に足を運ぶ気になったのは、誰かが陰で働きかけたからだろう。
家臣達を門の外に残し、ランタンをさげた家来と側近のみを連れ、広場へと入城した。

「一体あれは何だ……?」

王様が訝しんだ。
その視線は我が息子を閉じ込めた米びつではなく、そばに落ちたものに注がれた。
拾い上げて見るとそれは餅であった。

「罪深い王世子の好物らしい。しかしこれは王である私を屈辱する行為じゃないか……? 手助けした者どもを反逆罪に処すべし!」

王様は翌日の会議で冷え冷えとした口調で、家臣どもへ怒りをぶちまけた。




王様の日常はとても忙しかった。各地の錬鋼店や精肉店の数の把握、毛皮職人と織物店の紛争処理、漆職人や刀匠の訴え……
荷馬店が革職人の店を潰した件、毛織物の市場で馬毛の買占めが続いている件など、隅から隅まで把握して、頼りない家臣どもを相手に実務を淡々とこなしていく。
米びつに息子を閉じ込めているなど、とても感じさせない態度だ。
もちろん夜な夜な悪夢にうなされているのを、医官に相談している訳でもなかった。
体調がすぐれないのを押して、これからまだ町の視察にも出掛けるつもりでいた。


東宮殿が立ち入り禁止になったのは、どうも昨夜の騒ぎが原因らしい。

「なんということだ……」

サンは悲しみでいっぱいだった。

父さんを助けるには絵を入手する必要がある。
でも宮中の中庭にはヤリを持った兵士達が、物々しくそこら中を駆け回っていた。


千七百六十二年五月。サンの父さんが米びつに閉じ込められてから、もう七日が過ぎようとしていた。



2008/10/24 更新



イ・サン3話「王への第一歩」

野次馬達が慌てて道を開けた。
その中央を二頭の早馬が駆け抜けていった。
馬は王様の目の前で止まり、男がすっと降り立った。

「世子様がお亡くなりになられました……」

王様はその訃報を耳にすると、サンの首根っこから急に手を放した。

「サンの処罰はなかったことにする……」

そばにいた家来へ小声で告げて、そのまま黙ってコシへと乗り込んだ。

王様の一行はサンをその場へ置き去りにし、まるで何事もなかったように去って行った。

民衆達は再び道をあけ、コシに向かって頭をさげた。


輿の中の王様はまっすぐに前を見つめていた。
しかしなぜか景色がぶれて見えた。それはコシに揺られているせいだけではないのだろう。

今日がどれほど暑かったことか……
あの窮屈な米びつの中で、骨が透けるほどに痩せ、息を吸うのもままならなかった息子の姿が目に焼きついて離れなかったのだ。


喪中の間、サンは母さんの実家で、ぼんやりと日々を過ごした。
白衣姿で庭先に腰掛け、目の隠れた毛むくじゃらな犬と子犬を眺めていた。
特に宮中へ帰ろうとか、王様に謝ろうとか何も思い浮かばない。ただサンの耳には、あの晩の父さんの声がひたすら蘇っていた。

「行くんだ。ここにいてはダメだ。そなたを死なせるわけにはいかない。早く帰るんだ」

時敏堂に忍び込んだあの晩、サンの身を心配して父さんは言った。

やっぱり宮中に帰らなければいけない。
生き残るためには、自分が王様になるしか……!

サンは決意した。
父さんの死がそれを教えてくれたのだ。


宮中への道のりは長く、途中で日が暮れかけた。
サンはコシの窓にひじをもたれて何気なく顔を出した。
文人風の男やら百姓達がハス畑の前で立ち止まって、サンに向かって会釈している。

風景画のように流れていくそれらを眺めていたサンは、急にハッとした。
ソンヨンとテスが、途方に暮れたような顔をしてコシを見つめていたのだ。


サンはもうたまらなくなって、すぐにもコシから降りて走った。
宮中に戻ったらもう二度と会えないとわかっていたからだ。二人にはお別れを言うつもりだった。

久しぶりに会ったソンヨンとテスは、変わらず元気だった。でもサンが王様の罰を受けるのではないかと、随分と心配したらしい。

「王世孫様が宮中から出られないなら、私達が会いに行くわ! 必ず行きますから、そのときまで無事でいてください!」

ソンヨンはサンを何とか励まそうと無邪気に宣言した。

サンも二人の顔を見て目を潤ませ、すっと小指を差し出した。

「必ず会いに来てくれ。親友との約束だ。何があっても必ず守る。きっと生き延びてみせるから指きりをしよう……」


宮中に戻ったサンは、母親と一緒にさっそく王様の部屋にあがった。でも王様はサンに話があるらしく、恵嬪宮を早々に退室させてしまったのだ。
王様と二人きりになってしまい、サンは何だか居心地が悪かった。

王様のデスクには、巻物がてんこ盛りになっている。民の前で恥をさらしたサンの廃位を願う上奏文の数々だった。

「この上奏に何と答えようか?」

王様は少し試すような目つきでサンに聞いた。

しばらくの間、沈黙が流れた。でもようやく何か決心したようにサンが重い口を開いた。

「私を廃位しないでください。生きることで孝行をし、友との約束も守りたいのです。世孫にふさわしいことを、王様と上奏した者たちの前で証明いたします。いかがですか?」

王様はサンをまじまじと見つめた。
街で会ったときのサンは、汚い着物を着て実にみすぼらしい姿だった。それに比べて今はどうだ。孔雀の羽がプロペラみたいな帽子を被り、高貴な紫の着物に身を包まれている。
だが一体、世の中の何を見て、この自信ありげな顔で取引を口にしているのだろう。

「こざかしい。実にこざかしい……」

王様は思わず呟いた。


まもなく家臣が集合した会議場で、サンの処分が読み上げられた。

「罪人を庇護し、軽率な行動で王室の尊厳を損なった罪は重大である。しかし王世孫は未熟であるので、罰の代わりに教育を行う」


この他にも東宮殿へサンの住まいを移すこと……
さらにはサンの教育係と護衛官の昇進が発表されるや、家臣達の間にざわめきが起こった。
この決定はサンを世子の代わりとして認めることを意味するものだったからだ。


連日サンの廃位を求める抗議の声が、宮中の庭のあちこちに響いた。サンの教育は嵐が吹き荒れるなかで、それでも淡々と進められた。

ある夜のこと、王様はふらりとサンの部屋に立ち寄った。月と灯篭の明かりだけの、ドアのない風通しの良い座敷で、ちょうどサンが二人の教育係を前に、論語の顔淵編を暗唱しているところだった。

縁側に近い方の床に座り込んで、元気な幼い声に耳を傾けていた王様は、突然口を挟んだ。

「それは政治とは何かを論じた文だ。では政治とは何か答えてみよ」


「根を正し、木を育てることです。根を正すとは、国家を治める王が聖君であること。聖君とは民の願いを知ろうとする王です。父上の遺言通りに立派な聖君になることが……」


迷うことなくハキハキと言いかけ、サンはハッとした。父さんの話がつい口を滑ってしまったのだ……

しかし意外にも王様は気にせず質問を続けた。


「では民の願いとは?」

サンは困って口ごもった。実を言うとそこまでまだじっくり考えたことがなかったのだ。

すると王様は急に立ち上がってスタスタと部屋を後にした。その背中がひどく怒っているように見えた。


サンはその日から夜なべで勉強を開始した。三日後にもう一度、王様に同じ質問をされることになっていたのだ。
書物を読みあさり、何千という民の上奏文に目を通した。
民と同じ貧しい食事まで口にしてみた。
でもどうした訳か、やっぱり答えが出てこない……
三日後、ついにサンは巻物の山の中にうずくまって途方に暮れてしまった。


王の手には王室の財産を管理するための一冊の台帳が握られていた。
なんとそこには東宮殿の予算三千両を、サンが早くも使い果たしたと記録されていた。

その金の使い道を王様が知ったのは、王世孫の身分を没収するとすでに決定した後のことだった。
庭を歩いていたら、部下が何やら腰を深く曲げながら駆けてきて、小さなノートを差し出してきたのだ。

王様はページをめくって、思わず息をのんだ。

三千両もの金が、清に身売りされかけた身寄りのない子供達を救出するために使われたとある。

それならそうとなぜ自分の手元に、子供達の上奏文が届いてないのだろうか?
子供たちが恐ろしさに手を震わせながら書いたというのに……!
その理由を家臣達ときたら、忙しさのせいにするばかりなのだ。

サンの身分を回復するにあたって、王様はチェ・ジェゴンを部屋に呼び出した。
彼は亡き王世子の忠臣で、今はサンの教育係を担当する男だった。

「聖君のすべきこととは何か?」

王様に聞かれたチェ・ジュゴンは、少し恐縮したように答えた。
「民を慈しむ心を持つことです……」

「サンをよく教育してくれているな」
チェ・ジュゴンの回答にすっかり満足した王様は、彼にねぎらいの言葉をかけてやった。





2008/11/7 更新



イ・サン4話「銃に刻まれた真実」

報告を受けて王様が駆けつけてみると、大きく掘り返された庭に木箱が四つ並んでいた。
中には銃やサヤのついた刀がぎっしりと詰まっている。その穴のそばでサンが途方に暮れていた。

王様はサンを厳しい目で見た。サンの父さんが武器庫を作っているという妙な噂が出たのは、去年の四月のことだった。

いくら何でもそこまで愚かなマネをすることはなかろうとそのときは聞き流したのだ。
でも目の前にこうしてじゃ~んとサンの住む庭から大量の武器が出てきたのだから、もう言い訳は効かない状況だ。

サン自身、どれだけ大変なことが起きているのかよく分かってはいたが、王様の視線がすごく怖くて、まともに見ていられなかった。


会議の席では重臣達がここぞとばかりに亡き王世子とサンをバッシングした。


王様もこの声を聞き入れて、サンのおつきの者達を詳しく取り調べるように指示することで、混乱を鎮めた。

重臣の一部はこれでひとまず安堵したようだった。だが実のところ王様は水面下でチェ・ジュゴンに、ある指令を出していたのである。

チェ・ジュゴンは、まもなくナム・サチョという男を連れて王の部屋へ上がった。

彼は内侍府の内部調査の経験を持つ男だ。

ジュゴンの隣でかしこまったサチョは、最初王様に呼ばれた理由がさっぱりわからない様子だった。

「武器庫を作った犯人を探すように……」

王命に戸惑いながら、サチョはおずおずと口を開いた。

「恐れながら、何者かが王世孫様を罠にはめようとしているということでしょうか……?」


「いや、そうではない。誰がウソをついているのか知りたいだけだ」

王様は簡潔に返したが、そのまなざしは射るように鋭かった。



サチョの指令を受けて、まもなく三人の部下が動きはじめた。
彼らのうち優秀な二人に、最初に武器庫を発見した男と行方不明になった王世子の元護衛の捜索にあたらせた。

そして残る一人には、テスの叔父である内官パク・タロを起用した。

パク・タロはなぜ落ちこぼれの自分に、銃の密売調査なんか任せるのか、どうも腑に落ちなかったものの、命令とあらば従うしかない。
さっそくガラの悪い遊び仲間がいそうな町へ情報収集に出掛けた。


サンの母、恵嬪は部屋に入ると心配そうにサンへ声をかけた。

「上奏文をまだ書いてないのですか……?」

サンは真っ白な紙をただ見つめている。そのうち涙をポタポタとこぼしはじめた。

「父上も母上も生き延びよとおっしゃいますが、私にはその方法が分からないのです。父上を陥れるわけにも、また母上を苦しめるわけにもいきません。宮廷は怖いところです。おじい様も怖いです……」

恵嬪は不憫なサンを思わず抱きしめた。まだほんの十一歳にしかならない子供の口から、こんな言葉が吐き出されるとは……


まもなく王様のもとへ、サチョが調査結果の報告にやって来た。

サチョは王世子が銃八十丁買い入れた証拠として、元護衛官の家から押収した二千両の手形の切れ端を手にしていた。
こんな大事な証拠をなぜ処分せずに残しておいたのか不審に思いながら……


この他にも銃八十丁、大砲四十五問、弾丸三百五十発が各地で見つかった。


さらにサチョはパク・タロから興味深い絵を受け取った。


絵を描いたのはソンヨンという娘だった。
オ・ジョンナム行首の屋敷の裏庭で見た光景を、そっくりそのまま描いたものらしい。

ソンヨンはオ・ジョンナムと手下たちが、横流しした銃をリレー方式でせっせと木箱に詰め込んでいる現場を偶然目撃したという。

なんとそこにあるのは武器庫から出てきたのと同型の銃であった。

政府機関製造の刻印もばっちりある。

サンの御殿の庭で発見された銃からも、やっぱりこれと同じ印が見つかった。

注目すべきはその日付であろう。
銃身部分に壬午六月と刻み込まれた日付は、王世子が亡くなった五月以降に作られた銃である紛れもない証拠だ。
つまりは王世子が死んだ後になって、何者かがサンの御殿の庭へ銃をわざわざ隠したのだ……

オ・ジョンナムを尋問すれば、きっとその黒幕の正体が浮かび上がるに違いない……

だが奇しくもその晩、オ・ジョンナムは牢の中で息絶えているのを牢番の男によって発見されたのである。


事件のあと、サンはサチョから初めてテスとソンヨンのことを聞かされた。
(宮中の外にいても二人が相変わらず自分のことを心配してくれている……!)
サンの心にはパーッと光がさした。

できればすぐにでも、二人に会いたいくらいだった。



テスと市場を見物していたパク・タロは、大笑いしながら急に道を曲がった。

次の瞬間、テスの手をつないで慌てて駆け出した。

同時に刺客も二人の後を追った。


庭に洗濯物を干していたソンヨンは、危うく刺客に切りつけられる直前まで彼らの存在に気づかなかった。
でもパク・タロにとつぜん口をふさがれ、命拾いしたのだ。

そのままタロと一緒に、ソンヨンは逃げ出した。

深い山道を通って、やがて岸辺へ下りていった。
生憎、白い帆船が岸から離れようとしていた。しかも後ろからはすぐ刺客が迫ってきていた。

三人は丘を転がり落ちるようにして、必死になって船を追いかけた。

途中でソンヨンがずっこけ、タロが素早く肩にかついで船へと飛び乗った。


小船の中には客が数人乗っているだけだった。
いったん沖へ出てしまえば、嘘みたいに辺りは静かになって波の音だけがぽちゃんぽちゃんした。

パク・タロは手すりにダランと寄りかかり、ほとほと疲れ果てたようにぽつりと呟いた。

「ひとまず船に乗れたから花津浦まで行こうか……」


それにしてもテスはどうして急に自分達が狙われたのか、さっぱりわからなかった。叔父さんは何だか説明する気力さえ、なさそうに見える。ただもう都に帰るわけにはいかなそうだった。

「見てテス! 都があんなに小さいわ!」

ソンヨンが面白そうに岸辺を指差した。
テスの目にも家々の黒い屋根が、波と同じように左右にゆっくり揺れる様子が映った。

ソンヨンはテスの表情が何となく暗いのを見て、自分も不安になった。そう言えば都を離れてしまうことを、王世孫様に全く言ってなかったのだ……

テスもやっぱり気にかかっていたのだろう。とつぜん都の方に向かって叫んだ。

「王世孫様ぁー。聴こえますかぁー? 俺です。テスです!」

ソンヨンも続けて口に手をあてて叫んだ。

「王世孫様ぁーっ。ソンヨンです。約束は必ず守りますから、私とテスを忘れないでくださいねぇぇーっ!」

船は、向こうにそびえる山にのみこまれるように小さくなって、後にはセピア色の波がきらきら瞬いた。


サンは目を覚ました。そこは一人きりの寝室で冷たい暗闇があるばかりだった。

ここには誰もいないはずなのに、ソンヨンとテスが自分を呼ぶ声が、不思議と頭の中に響いている……


あれからあっという間に九年が経って、サンは二十歳になっていた。





2008/11/15更新




イ・サン5話「毒が残した手がかり」

東宮殿の障子越しに白い灯りが漏れている。中庭には大勢の兵士が集まっており、先頭の男たち数人がタイマツの火をかかげていた。

普通だったら呼び出された方の口から、文句の一つも吐きたくなる夜更けである。
彼らは毒をあおって死んだという刺客の遺体を回収しに、サンの寝室へと入っていった。

サンが刺客に襲われたのは、ついさっきのことだ。


寝着の白そでを羽織からのぞかせ、サンは突っ立ったままでいた。


「まだ近くにいるはずだ。必ずや残党を探し出せ! いいな!」

リーダーの掛け声で、兵士たちが一斉に靴や着物をカサカサ鳴らして散っていった。

中庭にはサンと数人の兵士のみが残された。


入れ替りに侍従や女官をゾロゾロと引き連れ、王様がやってきた。


王様の一番の怒りは、見張りの堕落ぶりに向けられた。

ところが護衛兵の上官は、当初こそ死んでも死に切れない様子で王の前へひれ伏していたのが、部下から何やら耳打ちされると、急に顔つきを変えた。

「……ですが王様! 寝室のどこにも死体などないのです!」


「死体がないとはどういうことだ?!」


王様には何が何だかさっぱり事情が呑み込めなかった。あまりの歯がゆさから、自ら東宮殿に乗り込み、寝室の中を見渡した。

いくつもの部屋に取り囲まれたサンの座敷は、刺客が入ったとは思えないほど小奇麗に片付いている。王様は布団のそばにかがみ込み、掛け布団をぺらりとめくってみた。

兵士の証言通り、シーツに血痕もなければ乱れた跡さえ見当たらない……

王様の鋭いまなざしが、どぎまぎした顔で部屋の隅に突っ立っているサンに向けられた。すると護衛兵の上官が、ほとほと困り果てた調子で釈明するには、

「王様。護衛は部屋の周囲に配置しておりました。室内には誰も入れない状態だったのです! そもそも本当にここに死体があったのでしょうか……?」

とまるでサンの申告の方を怪しむ風であった。

日が明け、王様の側室の娘ファワンが金剛山見物から戻ってきた。
王様はすこぶる機嫌がよかった。トラに遭遇したというファワンの土産話は豪快で楽しく、久しぶりに王様を心ゆくまで笑わせた。

この勇ましいファワンが男だったら良かったのに……

王様は冗談まじりに、つい口にせずにはいられなかった。

戦利品のトラ皮を差し出し、ファワンは王のやつれた顔色をうかがった。

「王世孫様の神経衰弱で随分お悩みなのでしょう? 刺客が部屋に侵入する幻を見たと噂になっております。毒をあおって死んだと発言したそうですね」

サンの話が出て、王様の顔がまた一段と重苦しくなった。


サンの奇行はこれだけでは済まなかった。この一月の間にサンによって解雇された護衛の数は十八人にものぼる。その穴埋め募集の件について、部下がサンに尋ねたところ、サンは庭の隅にちょうど突っ立っていた武芸に何の縁もなさそうな男達を適当に指差し、
「あそこにいる三人にしよう」と答えたという……


王様は清の使節団の接待役についても、また頭を悩ませていた。

前回の接見で摩擦が生じて以来、清との交易が滞ったままになっている。問題解消に向けて、今回の接待は特に重要な意味があった。

まもなく王の部屋へサンが呼ばれた。

「あの大臣達の顔を見よ。彼らは王世孫は気がふれていると言っているのだ。ではそなた自身は気がふれたと考えるかな?」

王様は大臣らの目の前で、あえてサンに尋ねた。

「いいえ……」

サンは悔しそうな表情を滲ませ答えた。


「そうか。それは良かった。ではそなたに清の使節団の接待を任せるとしよう」


大臣達は思わず驚いてざわめき立った。


しかし王様はなぜかいっこう気にしない様子である。




サチョは宮殿の原っぱで、サンを見かけた。

切り株に腰掛け、見習い女官の相談に耳を貸してやっている。

意地悪な先輩女官に、厨房のお菓子を取って来いと無理難題を言われたらしい。

「ならば東宮殿の菓子を持っていくが良い」

サンに優しく諭され、泣きべそをかいていたその子はすっかり元気を取り戻してその場を去って行った。

入れ替わりに近づいてきたサチョに、サンは白布でくるんだある物を差し出した。

「あの晩、刺客の口から出てきた毒だ。出所を調べてくれないか……」


サチョは心からホッとした。

死体があったのは本当だったのだ……!

しかしその裏にはサンを陥れようとする者が、身近な護衛の中に潜んでいることを意味している。死体をこっそりサンの寝室から運び出したのは、そういう男達だろう。


サンとサチョは、もみじのお堀のそばを通って宮殿へ戻りはじめた。オレンジの日のあたる石積みの道を歩きながら、サンは呟いた。

「さっきの子はソンヨンに似ていた……」

サチョは思わず、かしこまって会釈した。
この九年間、どんなに手を尽くしてみても、ソンヨンとテスが生きているかさえ分からなかったのだ。

「もうよい」

あまりにサチョが恐縮しているのを見て、サンは逆にサチョを慰めてやりたくなった。

「刺客が私の部屋に忍び込んだとき、私はちょうどソンヨンとテスの夢を見ていた。二人が私の名を呼んで目が覚め、命を救われたのだ……」

今では夢のように遠い出来事を、サンは懐かしんで言った。



サンはそれから清の使節団の貢物を準備するなどして、忙しい日々を送った。

図画署では画員増員のための採用試験も行われることになった。

画員の仕事は行事を描き写すほかに、全国の地図や設計図、軍事的な記録を描くというのもある。


いよいよ試験の日になり、受験生たちが中庭へ集まった。


まずは踊り子達が金魚の尾ひれみたいなドレスを揺らしながら、華やかに踊る姿を受験生らに見て貰った。テント下では太鼓や笛、琴などを演奏する楽師たちの姿もある。

続いて小さな木箱のフタが開かれ、パーッと白と黒の鳩が一斉に羽ばたいて飛んで行った。鳩は屋根に止まったり、宮殿の向こう側の空へ消えたものもいた。

その後、試験官の合図で白い幕が下ろされた。

「今見たものを出来るだけ正確に描くように!」

出番の終わった踊り子達は、今や布の向こう側へと去っていった。ひとたび演奏が止まれば、後は試験会場らしい雑然とした空気のみが残った。

受験者らが頭を悩ませている間に、茶母と呼ばれる雑用女たちが、各席のトレーに絵の具の小皿を運んでいった。

「紺青、紅、飾りは琥珀、鳩は十二匹ですよ……」

すっかり筆の動きが止まってしまった受験生の一人に、茶母がささやいた。

もう十二年も落第し続けているその男は、女の顔を驚いて見あげた。茶母に密かに感謝し頷き返すと、その後は急に筆をスムーズに動かし始めたのだった。

この茶母は一年前にテスと一緒に都へ戻ってきた。

図画署の下働きをしながら、いつかサンに会える日を心待ちにしていたのだ。



そのサンが図画署を訪れたのは突然のことだった。

清の使節団の準備で忙しくしている画員をねぎらおうとは、表向きの理由で、真の目的は部下を図画署へもぐらせることにある。

サチョのその後の調べで、毒の出所が図画署の顔料だとわかったからだ。

川で洗濯をしていた例の茶母が、この訪問を知ったのはサンがすでに去ったあとだった。

慌てて走って追いかけたものの、サンの一行はもうかなり遠くになっていた。

護衛を前後に挟んだ長い行列が、ハス畑の脇の道を進んでいく。


「王世孫様、わたしです。ソンヨンです……」

ソンヨンは走るのをあきらめて、コシに揺られるサンに向かって呟いた。

銀の刺繍入りの着物に身を包んだサンの姿が、確かに見えた気がした。

やがてサンを乗せた輿の屋根が、ぼんやりと道の向こう側へと消えていった。

兵士の持つ赤や黄色の旗が小さく見えた。



2008/11/23更新





イ・サン6話「赤の悲劇」

刺客の口から出た毒の分析結果が判明した。

なんと雄黄という顔料に使われるものだったのだ。


サンが部下を密かに図画署へ潜入させてまもなく、怪しい官員を捕らえたとの知らせが入った。

その官員の死体が川に浮かび上がったのはその翌日のことだ。


(何者かに口封じをされたのだろう……!)

サンはいてもたってもいられず、自ら死体を調べに行こうと思ったのが、サチョから必死に止められてしまった。
サチョはどうせサンがおかしくなったと、重臣達が騒ぎ出すのがオチだと考えたのだ。

やむなくサンは急きょ大臣達を集めて、使節団に関するスケジュールの変更を発表した。
見学先や会談の場所を変え、清への貢物を載せた船を西江に移した。念のため警備を他の部署に任せもした。

何も知らない大臣達がこの決定に不審を抱いたのも無理はない。かなり大幅な変更だったからだ。

あまり急な動きに、
「明らかに王世孫は何か感づいたようだ……」
と考える者も少なくなかった。



「芙蓉花満開・金香残布衣」

 ~赤いハスの花が咲くと木綿の上着には金色の香りが残る ~


王世孫が画員に出した画題だ。

図画署の責任者であるパク別堤は、工房の机に置いてあった一枚の紙切れを手に取った。端が破れたボロボロの紙に描かれたその絵は、茶母のソンヨンが下働きの合間に、こっそり筆をとったものだった。

そこには幼い男の子と女の子の姿があった。


どういう理由か知らないが、どうやらソンヨンは王世孫の詩から子供たちを思い浮かべたようだ。

しかしこれほどまで感情を揺さぶられた絵が、画員たちの絵の中にあっただろうか……?


そう思ってパク別堤がソンヨンの絵を見つめていると、とつぜん部下のイ・チョンが工房に入ってきた。

ソンヨンと仲のいいイ・チョンは、パク別堤が眺めている絵がソンヨンのだと気づいて、慌てて言い訳を口走った。

「下働きが絵を描くなど! 私がソンヨンに注意をしておきます!」

しかしそのときパク別堤は頭の中で、今回の使節団の仕事で画員に随行する予定人数を考えていた。

(随行員にソンヨンを加えよう……)

パク別堤はそう決めた。下働きなら通常十年はかかる思い切った抜擢だったが、ぜひチャンスを与えてみたくなったのだ。



テスとソンヨンは、テスの叔父と三人で小さな小屋で暮らしている。

収入はリヤカーで画材を売り歩いているパク・テロのとソンヨンの分でまかなわれていた。

相撲に勝って小銭を稼ぐくらいしか能のないテスは、いい加減就職したいと思ってはいた。武官の試験を受けることにしたのもそのためだ。

叔父さんはテスに、早くソンヨンと所帯を持てと言うけど、ソンヨンにその気がないのも、テス自身よくわかっていた。

「王世孫様はわたしに気づくかしら?」

宮中への随行が決まって、ソンヨンは嬉しそうである。テスは柱にもたれてヤリ先をナイフでとがらせながら返事した。

「王世孫様が気づかなくても恨むなよ。昔に比べてすっかり不細工になったからな」

「お互い様よ」

口ではこんなことを言いながらも、テスには秘密の計画があった。

ゴロツキ連中から貰った五十両で、ソンヨンに鹿毛の筆をプレゼントするつもりなのだ。

ソンヨンにこれ以上の心配はかけたくないから、やつらと一緒に仕事をするのも、これが最後になるだろう。


作業は清の使節団がいよいよ百済に到着した晩のことだった。

テスが連れて来られた場所は港だ。

長い桟橋のそばに、タイマツの火をかかげた兵士達がいる。木造船の周りにも、見張り兵が大勢取り囲んでいた。

清への貢物を積んだ政府の船が見える。
「船の荷物を盗むからな」
テスと一緒に暗い草むらの中から船を見下ろし、ゴロツキがテスに今回の仕事内容を告げた。

やがて船のデッキから兵士が去り、橋の方にいる警備兵と合流した。
彼らは二列の隊をなして、静かにその場から引き上げていく。

入れ替わりにゴロツキらが船にかけのぼった。
すぐにも木箱の積荷へ近づき、次々と荷をかっぱらっていく。その作業をテスはそわそわ戸惑いながらも手伝った。
「なあ。俺は手を引くよ……。国の貢物だぞ。金は返す。とにかく俺は降りるからな!」
テスは不安のあまり、とうとうゴロツキの着物の端を引っ張って言った。

おかしなことに、男は顔色一つ変えなかった。
「しかしこの件はすでに朝廷のおえら方と話がついているんだ」
と、さも安全そうな顔をして言った。


清の使節団の歓迎式典はスムーズに運んだ。王様、正室、清の大使、サンが庭の一段高いテーブルについている。その下には招待客や大臣らのテーブル席が六つ並べてあった。赤いテーブルクロスの上はご馳走で埋めつくされ、庭の中央を舞女が華やかに舞っている。式典の様子を記録する画員達の姿もそこに見られた。

式が終わり、画員が引きあげた後、雑用係のソンヨンは桶を手にして歩いた。
式の間、中庭に入ることさえ出来ず、王世孫に会えなかったのだ。
期待していた分、さすがに気分が落ち込んだ。
虫の声のする暗い庭を一人でトボトボと行き、画材倉庫へ入った。
ソンヨンは棚に並んだ魅力的な道具類に、思わずうっとりとした。
渓谷みたいな形のすずり。小花の模様が白く光る象牙のものさし。真っ赤な大輪が描かれた黄色い箱には、じゃこう鹿の毛で作った筆セットがおさまっていた。

ソンヨンは井戸の石溝に桶を置いてしゃがみこんだ。そうして桶の水が黒い輪になるのを眺めながら、筆を洗いはじめた。


同じ頃、サンはこの前に野原で会ったソンヒという見習い女官の手を引いていた。その足取りは、だんだんとソンヨンのいる井戸の方へ近づきつつあった。

「ソンヨンという子は調理係ですか? どこにいるのか教えて下さい」

サンの思い出話を熱心に聞いていたソンヒが、王様に質問した。

「私も知らない。会いたいのにどこにいるのか、何をしているのかも分からないのだ」

そう言って微笑んだサンは、今晩またこうしてこの子に出会えたことや、偶然にも名前にソンがつくのが、不思議な縁のように思えた。


二人はやがて井戸に着いた。しかしそこには誰の姿もなかった。
女の子がボールに水を汲んでおいしそうに飲み干している間、サンは石溝に置き忘れられた筆をふと手に取って眺めた。






翌日、大変な事件が発覚した。

貢物にする白布が船から盗まれたのだ。

よりによってこの白布は清が貢物のなかでも特に重視しているものだった。

サンは急きょ、清の大使のご機嫌を取ろうと宴を催すことに決めた。

図画署のパク別堤は、とつぜん宴で絵を描くよう言われたので、ゆっくり助手を選ぶ暇もなかった。皆すでに図画署に引き上げてしまっていて、残っていたのはソンヨンだけだったのだ。

パク別堤は山を描くのに必要な六色の知識について、慌ただしくソンヨンに説明した。
そうして急ぎ足で王世孫のもとへ向かい、廊下の広い一角へ到着した。
すると王世孫がちょうど庭を眺めていた。サンは振り返ってすぐ、パク別堤の隣に女が立っているのに気づいた。

「あの者は……?」

サンが尋ねた。

「助手でございます……」

パク別堤が紹介がてら答えた。
ソンヨンは今このときとばかりという気持ちで、体を硬くしてうつむいた。
だが次の瞬間、サンはソンヨンにゆっくり背を向けると、再び庭の方へ視線を注いだのだった。



2008/11/30更新





イ・サン7話「逆転の白」

清の使節団を迎えての宴が行われた。
会場となった楼閣には、カラフルな天井画が描かれ、座敷の真ん中にはご馳走のテーブルが置かれている。上座にサン、清の使節団の代表、重臣が三人ずつ向かい合わせに座り、その周りには護衛や側近、侍女らの姿がある。
後ろ髪だけ残して頭をそりあげた清の大使は、まるで相手の隙でもうかがうように、宴の間おかしそうに口をゆがめたり、眉をひそめたりしていた。
赤柱の向こうの庭から、山の景色が波打ち際のように広がって見える。
上座から一番離れたところには、紙と下敷きを広げたパク別堤が座っており、そばでソンヨンが黙々と助手を務めていた。

宴の最後にソンヨンは、ちょっとだけサンを見た。でもそのときサンがもう自分のことを覚えていないというのが、はっきりわかったような気がしたのだった。


サンはアーチの土塀の門をくぐっていく大使達を見送った。
使節団と入れ替わりに、サチョが真っ先に駆け寄ってきた。
例の盗まれた白布がいまだ見つからないとの報告だった。

「見つかるとは思っていない……」

意外な反応を受け、サチョは思わずサンの顔を見返した。するとサンは当然のように言った。

「私を陥れるためにここまでしたのだ。私は自分を取るに足らない存在だと思っていたが、どうやら連中にとってはそうではないようだ……」

見えない敵を遠くに見つめ、サンはどこか穏やかですらあった。


しかし状況は厳しかった。
まずは清との会談までに、盗まれた白布を補充する必要がある。
全国の白布を掻き集めたとして、150疋にもなりそうにない。
重臣達とこうしてバタバタと会議を重ねている間にも、怒った清が帰国の準備をはじめたとの一報が飛び込んだ。船着場では雲従街の商人らが交易再開のめどが立たないのを不安がって、清の船が停泊している港にまで顔を出した。

船をどう引き止めたものかとサンが考えあぐねる中、その必要はないと断言したのは、あまり朝廷では見かけないきゃしゃな男だった。

「お久しゅうございます」

その男は意味ありげな笑みを浮かべた。彼は幼い頃、サンと一緒に机を並べたこともある同い年のフギョムだった。
彼は当時すでに「周書」を暗唱し、かなりの秀才ぶりを発揮していた。
王様はサンのこの度の失態を収拾しようと、江華府の長官を務めていたこのフギョムをわざわざ都へ呼び戻したのだった。フギョムは優秀なうえに清の留学経験もあったからだ。

都に着いて早々、清の大使と鉢合わせたフギョムは、さっそく留学時代のよしみから、船の引止めに成功した。

成果はそれだけでない。なんと白布に代わる代替品について大使と新たに取り決めたという。

人参300斤、ござ150枚、豹皮80枚、黄毛筆50個、草注紙と塩石……

王様はこの品目を聞いて、渋い顔になった。これでは当初の倍以上の量だ。完全に清につけ込まれたのだ……

とは言えこちらに不手際があった以上は止むを得まい……


王様の部屋を出た後、フギョムは養母ファワンの部屋に寄った。

久しぶりに会った養母は、そこらにある小物を片っ端からフギョムに投げ飛ばした。手がつけられないくらい機嫌が悪い養母を前に、フギョムは顔色一つ変えずに、ただ笑みを浮かべるだけだった。

「宮殿に戻った実感がわきますね。しかし私は母上を失望させたことはないはずですよ」

ファワンの怒りの原因は、フギョムがサンの不手際の穴埋めをしたことにある。それを見透かし、こんな風にさらりと言ってのける息子に、彼女はますます怒りを丸出しにした。

「王世孫一人のために国を滅ぼせますか……?」

息子から冷静に問われて、ファヨンは急に黙り込んだ。確かに清の使臣の機嫌を損ねたままでは具合が悪いだろう。

実際、事件の余波は街にも影響した。追加の貢物をむりやり徴収された商人たちは、ほとほと困った様子である。交易再開のめどがたたず、市場は麻痺状態だった。清の接待の失敗が、すでに民衆の生活をむしばみはじめていたのだ。

まもなく民衆たちは城の前で座り込みを行った。その数はどんどん増え続けていく。民衆は飢えの苦しみを、こぶしを地面にたたきつけ訴えた。

民衆らの泣き叫ぶ声がさざなみのように聞こえる……
夜になり、民衆の叫びが虫の音に代わったとき、王様が背後から近づき、サンに声をかけた。

「宮殿の塀は高いぞ。ここにいても民の嘆きは分かるまい」

「王様……」

サンは自分の力が及ばないのを改めて実感し、弱々しくうつむいた。


日があけるとパク別堤がサンの部屋にやって来た。パク別堤が持参したのは鮮やかな黄色の反物、それに胡粉と言われる白い顔料と染物だった。

「この黄布を白く染めるというわけか……」

サンはそれが悪くない考えだということにすぐ気づいた。手軽に手に入る黄布は、実は白布に次ぐ品質を誇っていて、世宗大王の頃には貢物として使われたこともあるくらいだ。

さっそく図画署の茶女が総動員され、まずは原料となる白い貝殻をすり鉢で叩き潰した。別の部署では、灰汁を混ぜた大がめの中で布を漂白する作業を行った。白く染めあげた布は乾かして次々と木箱に納められていった。


フギョムは王様の部屋に再びあがった。清との会談を終え、あとは送別会を開くだけだった。予定品目が順調に船積みされたとの報告を受けた王様は、最後まで抜かりのないようにとフギョムをねぎらった。

フギョムはそのあと、大勢の重臣達と一緒に宴会場へと足を運んだ。

大きな門の前まで来て、椅子型のコシが目に入った。コシの両脇には片ひざをついた男達が地面を見つめて待機し、侍女が数人ほど立っていた。
恐らくは王世孫のコシであろう。しかしサンが宴会に出席するという話は聞いていない。このときフギョムの頭に渦巻いたのは、これが一体何を意味するのか全く予想ができない不安だった。

フギョムと大臣達が門をくぐってみると、すでにサンと清の大使がいた。大使は何かこちらに助けでも求めるように、とっさにフギョムを見やったのである。その目には何かしらのやり切れなさが滲んでいた。
それとは打って変わってサンの表情は明るかった。それもそのはず……サンのそばには約束した数だけの白布がちゃんと揃っていたからだ。


清の使節団が帰国したあと、サンはパク別堤にお礼をしようと図画署を訪れた。しかしパク別堤はお褒めの言葉に、ひたすら頭を下げるばかりだった。

「恐れながらあのアイデアは私のものではありません。先日、私の助手を務めた茶母が考えたのでございます……」

パク別堤は告白するや、サンを小さな工房の控え室に招き入れた。そうしてタンスの扉を開けて、その茶母が描いたという紙切れを渡して見せた。

椅子に腰掛けたサンは、その紙を両手でしっかりと広げてみた。

それは白い着物姿の幼い男の子が怪我をした女の子の腕に、袖の上から帯を巻きつけている絵だった。

「これを描いた茶母の名は何というのだ……?!」

パク別堤はサンの興奮ぶりに内心びっくりしながら、かしこまって答えた。

「ソン・ソンヨンでございます……」



2008/12/7更新





イ・サン8話「黒幕の正体」

鍛冶屋の近くに谷がある。小さい麦わら帽をかぶって、荷物を背負ったその男は、サチョに道を尋ねられて、真っ直ぐ指を差した。サチョは石橋から男に教えられた通りの道を進んで、やがて小屋を見つけた。
わらぶきの軒下に、たきぎがぎっしり組んである。裏庭には小さな縁台が置かれていた。
垣根を開けて庭に入り、格子ドアに向かって声をかけたが、中から返事はない。
夜、今度はお忍びのサンと一緒にその家を訪ねてみた。
サチョが家の表に回って住人を探している間に、サンは裏庭の縁台に目をやった。洗い終わったたくさんの筆が、夜風にさらされていた。
ソンヨンが触れたに違いないその筆を手に取って、サンの期待はぐんぐん高まった。もうすぐソンヨンに会える・・・

サンの背後から男が忍び寄ってきた。男はこん棒を構えていた。
ところが男が棒を振りあげた瞬間、サンは素早く身をかわして、手首を捕り押さえた。
サンは、棒をぽとりと落してジタバタしている男の顔を間近で見てハッとした。それからニヤリと笑い、急に男の手を放してやった。
手が自由になった男は、途端にサンの首根っこをつかんで縁台に押し倒した。
しかし数珠がだらんと垂れ下がった帽子を被ったサンは、ニヤニヤしたままだ。
「やつらの一味か?!」
テスは言い放った。ところがサチョと叔父が大慌てでテスを後ろから取り押さえた。
「俺たちに会いにわざわざ王世孫様がおいでになったんだ・・・」
パク・タロは、ヒソヒソとテスに説明した。

テスと叔父のパク・タロは、ハハーッと亀のように地面にうずくまった。
サンは、指先を地面にぴったり揃えたテスの手を握りしめて、目をきらきらして、ソンヨンはどこにいるのかと早速聞いた。
ところがその途端、テスと伯父さんは、何か急に困ったように顔を見合わせた。
テスが最後にソンヨンを見たのは、画材道具をリヤカーに積み込んでから、叔父さんと一緒に行商に出かけようとしていたときだった。

庭で2人を見送ったソンヨンは、まもなく画員のイ・チョンに呼び出されて、あるお屋敷へ向かった。
イ・チョンは、その屋敷で女主人の肖像画の仕上げに取りかかった。助手のソンヨンは、その間、暇になって、一人で裏庭へ散歩に出て行った。
「そこの者。こっちへ来なさい・・・」
足場の悪い石段の辺りで、誰かが急にソンヨンを呼び止めた。
両開きになった大きな台所の扉から、若くて美しい女性が、ソンヨンに手招きをしていた。その高貴な感じからして、この屋敷の娘に違いなかった。

台所の中には、釜の湯気が立ちこめていた。壁にたくさんの用具が吊り下がっている。
高貴な女性は、短い脚のついた厚いまな板の上に、花模様の絹布を広げて、梅雀菓というよじれたお菓子の見本をソンヨンにみせた。これを作るのを手伝って欲しいというのだ。
ソンヨンは、さっそく粉に色を練りこんでから、2色の生地を重ねて細長く切った。その細長いのに2箇所ずつ切り込みを入れ、片方の穴にもう一方の端を通して油であげた。
六角形の器に、やがて鮮やかな菓子が並んだ。
高貴な女性は、その出来栄えにすっかり感心したらしく、おまえを雑用ではなく、奥女中にするよう母上に話しましょうと言った。
ソンヨンが、わたしはこのお屋敷の下働きではなく、図画署から来たのだと説明すると、「まあ。悪かったわ。てっきり新しい女中かと・・・」と、申し訳なさそうに謝った。
その屋敷を出たきり、ソンヨンの行方がわからなくなったのだ。

一方、高貴な女性は、その後、実家での療養を切り上げ、大慌てて宮中に戻った。
夫の一大事を聞きつけたからだ。彼女はサンの妻、嬪宮だった。

「どうかお聞き入れを! どうかお聞き入れを!」
王様は、講堂の一段高い座敷から、一斉に頭を下げる大臣達を眺めていた。
大臣らの訴えによると、昨夜、王世孫は宮中を抜け出して、勝手に兵を動かしたらしかった。止めようとする従事官をついには刀で脅したという・・・

サンのおかしな行動がまたはじまったのか・・・?!
王様の目は険しく、怒りに満ちていた。口に出すことは何もない。
突然ふらりとサンが講堂に現われて、大臣らの視線を浴びながら王様の目の前に座った。
王様は鋭い目つきでサンを見おろした。そもそもサンをこの講堂に呼んだ覚えすらない。
「王様、昨夜、わたしは盗賊を捕らえました。先日、貢物の白布を盗んだ一団です。私を陥れようとする朝廷の重臣達がその背後にいるようです。ですから誰がいるのか、捜査する権限をわたしにお与え下さい」
サンは決意のこもった口調で言った。
王様は驚いて思わず身を乗り出した。ざわめく大臣たちの中には、サンの処罰が失敗に終わったことを予感して、互いに目を合わせる者もいた。

サンが白布事件に関わったゴロツキらを捕まえたのは、昨晩のことだった。テスの話によれば、そのゴロツキらが、途中で一味から抜けたテスを懲らしめてやろうと、ソンヨンの誘拐を思い立ったらしい。
多くの盗賊は、昨晩のサンの挙兵によって逮捕された。しかしその一部は逃げてちりぢりとなり、ソンヨンと共に姿を消したのだった。

サンの祖父、ホン・ボンハンはホン・イナンを見舞った。ホン・イナンはサンの大叔父にあたる。
白い着物姿のイナンは、寝床から半分、体を起こして言った。
「医者が言うには糖尿病のようです・・・」
しかしボンハンが去ると、イナンは急に黄色い着物に着替え、庭園へ回った。
そこにいたのは、赤い大輪の花をなでながら、薄っすら笑みを浮かべたフギョムだった。
「丹精にお育てですね。この季節に花が咲くとは・・・。しかしケイトウは裏庭にひっそり咲くのが似合いますよ。この際植え替えてはいかがですか? あの方が返答をお待ちです」
イナンは、苦々しくノドを詰まらせて考えた。
そう。サンから、あの方へ乗りかえるべきなのか・・・? 確かにその方が良さそうだ。全ての状況がそれを証明しているのだから。
その証拠に王様の重臣の中で、最も力を持つ男でさえ、あの方の側だ。
「今度の会合には、あの方もおいでになる。だが相当ご立腹のようだ・・・」というのは、その最も力を持つ男が、先日、漏らしていた言葉だった。

夜の更けた道を、一台のコシが足早く進む。四つ角の支え棒を8名の男達が担ぎ上げ、前後に護衛兵と一人の侍女がついていた。土をじりじりと踏みしめ、やがてコシはタイマツを掲げた丸木橋を渡った。その先には訓練場がひらけている。
ここには夜がないようだった。丸太棒を腕でたたき割り、火の上を飛び越える兵士の荒々しい声が響いた。ヤリや銃も十分なほどに行きわたり、矢の的も並んでいる。
太鼓の合図は、訓練場にコシが到着した知らせだった。金色のコシの屋根が、整列した兵士の間をゆっくりと通り抜け、フギョムの前で止まった。
フギョムは、コシからおりたあの方を、長い石段の頂上に建った屋敷の中へとエスコートした。
会合に集まっていた者達は、あの方が姿を現すと、一斉に立ち上がって会釈した。その顔ぶれのなかには、王様の娘ファワンの他に、ギリギリまで仲間に加わることを迷っていたホン・イナンの姿もあった。
あの方は、かなり不機嫌な顔で上座へ座った。それは王様の正室、中殿だった。




2008/12/17更新



イ・サン9話「九年前の約束」

白布盗難事件の取調べの様子を見に行った王様は、やけに庭が静かだと思って、辺りを見回した。ところがどうしたことか、罪人達の姿は全くなく、代わりにサンがしょんぼり、突っ立っている。
王様の表情が、みるみる険しくなった。
義禁府に護送中に、罪人達が何者かに襲われて、こつぜんと姿を消した・・・。
こんなおかしな話があるだろうか? 
そもそも罪人達を義禁府に護送しろと言った覚えもない。
一人の悲痛な顔をした武官が、王様の前に勢いよくひざまずいた。
「どうか私を死罪にして下さい!」
その男の話によれば、罪人を義禁府に護送しろとの通達が確かにあったという。
サンはすごすごと、武官が証拠として持ってきたその通達を手渡した。
王様は赤い巻物の両端を持って、その文書をしっかりと広げた。筆跡はサンのものだ。
文書の最後の日付の上に、細かい迷路みたいな文字の印もちゃんと押してある。その大きな四角い印の模様は、サンの玉印と同じものだった。
こみ上げる怒りが、王様の手から紙に伝わり、かすかに震えた。

サンには、何が何だかさっぱりわけがわからなかった。通達なんか出した覚えはまるでないのだ。
自分の寝殿に戻ると、玉手箱の前に直行して、亀の形の金の玉印を表やら裏に何回もひっくり返して眺め回した。
サンのイライラは、そばの侍従や侍女に向けられた。何だかそこらにいる皆まで怪しく思えてくる。サンに怒鳴られた侍従や侍女達は、気の毒に身を小さくして部屋の入り口に固まった。
「出て行け!」
サンはそれでも肩を震わせて叫んだ。
侍従達がゾロゾロと退出すると、部屋は急に静かになった。部屋に一人取り残されて、何だか余計に惨めな気分になる。
怒りに満ちた目は、やがて泣きはらしたように赤く滲みはじめた。

まもなくして、左捕庁から罪人達と軍官の遺体が天蔵山で発見されたという報告が入った。これについては、サンは別に驚きもしなかった。白布事件の口封じのために敵がそうするのは想定内だった。

執務室で上奏文に目を通していたサンは、読み終わると、山盛りになった文書の一番上にそれを重ねた。これらは全てサンを非難する文書だった。
「ソンヨンは私が必ず探します。ですから早く宮殿にお戻り下さい。私たちが宮殿に行くまで無事でいると約束したはずですよ」
あの襲撃の夜、テスにこう諭されて、サンは後ろ髪をひかれるような思いで宮殿に戻ってきた。こうして仕事に縛られながら、テスが何かいい知らせを持って帰るのを、待ち続けることしかできない。
王世孫という名は、一体何のためにあるのか・・・?
何の力になってやることも出来ない自分が、実に歯がゆかった。

サンの妻、嬪宮が寝殿を訪れたとき、サンはまだ諦めきれずに、しげしげと亀の玉印を見つめていた。
「長い間、妻の務めを果たせず心苦しい限りです。実はこれをお渡しするために伺いました・・・」
嬪宮は風呂敷包みをほどいて、八角形の塗り箱をサンの文机にのせた。
「実は図画署の画員に付き添って来ていた者に、手伝って貰って作ったのです」
扇状に並んだ色鮮やかなお菓子を、サンが1個つまんでモグモグ味見するのを嬉しそうに眺めながら、嬪宮は正直に打ち明けた。
「そうか。だから彩りが絵のように美しいのだな・・・」
サンは、心配事を抱えながら、やわらかい笑顔で呟いた。

王様の部屋に、サンの大叔父ホン・イナンが顔を出した。
図画署では、画員達によって、サンの筆跡と偽文書との鑑定が行われているところだった。ホン・イナンは、その結果を知らせにやって来た。
しかし彼の報告は、サンの状況をさらに不利にするものとなった。画員のほとんどが、同一人物の筆跡だと判定を下したのだ。
「ご苦労だった」
模写の達人であれば、まねることは可能だ・・・と言いかけたホン・イナンの言葉を、王様は途中で遮って、話をおしまいにした。もう見切りをつけたのか、事実を重く受け止めようとしているのか、その渋い表情からはわかりかねた。
王様の心中を最初に悟ったのは、ホン・イナンが退出してすぐ、王様の部屋にあがった中殿だった。
中殿は、持参したお茶セットを侍女に床へ置かせると、王様に茶を入れはじめた。湯飲みの中で菊が花開いて、すーっと安らいだ空気が漂った。
中殿は王様に一礼した。
「出すぎたこととは思いますが、宮中によくない噂が出回って心配しております。王世孫は誰よりも誠実な子です。どうか信じてあげて下さい」
王様は、ゆっくりとお茶をすすりながら、ぽつりと吐き捨てた。
「信じていなければ、とうの昔に見捨てておる・・・」

テスが町を這いずり回るようにして探したおかげで、突然ソンヨンが見つかった。ゴロツキに誘拐されたあと、遊郭へ売り飛ばされる寸前のところで、ある屋敷の倉庫から助け出したらしかった。
屋敷の軒下の石道に、魂の抜け殻のようなソンヨンを座らせ、テスと叔父が寄り添った。
ソンヨンが、ぼうっと目を向けた先には、ホッと笑いかけるナム尚洗の姿があった。
「本当に無事でなによりだ。王世孫様もお喜びになる」
「え・・・?」
ソンヨンはノドの奥で小さく呟いた。言葉の意味が、まだ理解できないらしかった。
しかしうつろな目に走った一筋の光は、やがてソンヨンをハッと目覚めさせた。
「ソンヨン。バカだなあ。王世孫様は、お前のことを覚えてるんだよ・・・」
テスの優しい声が耳に入った。

家に戻ったテスは、まだ夜が明けないうちに起きて、庭のかまどに鍋をかけた。中には叔父さんがソンヨンのために手に入れた牛のすね肉がたっぷり入っている。
ところが長く横に伸びた煙と同じ方角に、ソンヨンが図画署の着物をきちんと着て、出掛けていくのをテスは見た。
数日ぶりに顔を出した図画署は、暗くてまだ誰も出勤していなかった。
柱にかけたロウソクの細い灯りのなかで、ソンヨンは黙々と準備をはじめた。
木箱から画員達の使う筆を取り出してテーブルに並べていたソンヨンに、背後から温かく呼びかける者があった。
「ソンヨン・・・」
ソンヨンには、それが誰だかすぐにわかった。月明かりで青く透き通った障子の前に、サンが懐かしそうな顔で立っている。
ソンヨンは涙をぽろぽろとこぼしながら、まるで何かの話の続きみたいに言った。
「王世孫様は、何もかもお忘れになったと思いました・・・」
サンは、ソンヨンの涙をぬぐいながら答えた。
「泣かないでくれ。恋しかった友にこうして会えたのだ。私は一瞬でもあの約束を忘れたことはない」





2008/12/24更新


イ・サン10話「武官の墓場」

サンは王様に呼ばれて、目の前に正座した。サンを挟んだ両側には、険しい顔の重臣達が顔を揃えていた。
重臣達は真面目腐った態度で大げさに頭を下げた。通達の件で、一刻も早くサンの処罰を求めてのことだった。
通達を出した覚えはないと、サンがいくら否定してみても、覆されるような空気ではなかった。重臣達の声はそれだけ圧倒的なものだった。

意外にも、重臣らの非難にじっと堪えるサンのことを高座から眺めている王様はリラックスしている。まるで何かの猿芝居でも眺めているような顔つきだった。
王様が、やがて口を開いた。
「困ったことに通達がそなたの筆跡だったと断定された。そなたの大叔父でさえそれを否定しないのだ。重臣達の申すことはもっともであろう?」
重臣達は、皆かしこまって王様の話に耳を傾けた。彼らの間には、すでに勝ち誇ったムードが漂っていた。
ところがその王様の口調が、だんだん荒々しく、厳しくなってくる。重臣達は何か雲行きが怪しいと、ようやく気づきはじめたのだ。
王様は言った。
「だが私はどうも納得がいかぬ。重臣達がそこまで激しく非難するとは! まるで王世孫が王になれぬとでも、思っているようではないか・・・?」

王様の娘、ファワンは臨時の秘密会議を招集した。十数名の重臣達の顔ぶれの中には、大物のソクチュ、フギョム、サンの大叔父もいた。
“あの方”の姿が見えないのは、この会合が、急きょ、ひと目につきやすい昼間に開かれたためだった。
その会合の目的は、玉印の真否を王様が調査しはじめたことにあった。
サンの筆跡を模写した図画署のチョンという画員は、もうよそに移す対策をとってある。しかしそれだけでは十分とはいえなかった。
ニセの玉印の作り方は、思ったよりも簡単だった。
本物の玉印の面に、ゆでたイモをあてて朱肉を吸い取り、通達に押すだけで出来る。
ただそうして押された印は、1ヶ月もすると色が変色した。
玉印の真否を、王様が調べ始めたことは、ファワン達にとって大きな誤算だった。
朱肉の色が変色することで、サンの疑いは、自然と晴れることになるだろう。
王様の目を、調査からそらさなければならない。
いいアイデアが浮かばず、重臣らが渋い顔で黙り込むなか、フギョムがとつぜん、笑みを浮かべて言った。
「人には消し去りたい過去があるものです。例えば、米びつで死んだ息子のことですよ・・・」

サンは自室のデスクにひじをついて、一人で悩んでいた。
王世孫が王になれぬと思っているようではないか・・・?
王様が重臣らに投げかけたこの言葉は、サンの心にも深く問うものがあった。
「王世子様。この度就任した護衛隊長が参りました・・・」
「通せ」
サンは無愛想に侍従に返事をしながら、顔をあげ、その目を丸くした。
チェ・チェゴンが、目の前に立っていたのだ。
サンは思わず立ち上がって、チェ・ジュゴンの手を嬉しそうに握りしめた。
チェ・ジュゴンは、この何年かの間に流罪となった身だ。彼を救ってあげられなかったことを、サンはいまだに心残りに思っていた。
「とんでもございません。私こそ、そばでお守りできず心苦しい限りでした。実は王様が朝廷の不穏な空気を感じ取られて、私に護衛部隊を任されたのです」
急にサンの顔色が曇った。
護衛部隊を強化するのは、チェ・チェゴンでも無理だろうと思ったからだ。

護衛部隊は“武官の墓場”と呼ばれている。護衛の一部は敵の手先で、残りは俸給目当てのやつらだった。
いずれ廃位されるだろう王世孫に仕えたところで出世の見込みがあるわけでもなく、兵士達には、はなから、やる気などなかったのだ。

そんな中、武科の試験が行われるのに先立ち、護衛部隊による予行演習が行われた。
王様のほか、サンや重臣達が御殿の壇上から、中庭を見おろしている。
庭の中央で、大勢の兵士達がペアを組んでの激しい対決がはじまった。
馬に乗った男達が走りながら、わらの丸太棒を刀でザクザクと切り落とす競技や、鉄ヤリを使った武術の型も集団で披露された。最後はイノシシの顔のイラストの的が数台ほど会場にセットされた。
旗の合図とともに、兵士達の矢が一斉に放たれた。ところが命中したのは数本だけで、あとは的を大きく外すか、パラパラと小太鼓みたいな音をたてて、突き刺さることなく地面に落ちていった。兵士達のなかには弓を引くのに精一杯で、手がブルブル震える者さえいた。
重臣達の間に退屈なムードが漂いだした。
王様は見切りをつけたように、席を立った。
「面目ございません・・・」
チェ・チェゴンが、申し訳なさそうに頭を下げた。しかし王様の厳しい視線は、歯がゆそうに兵士達を見つめるサンに、まっすぐ向けられていた。
王様は退場する途中に、サンのそばに足を止めて言葉をかけた。
「自らを恥じるがよい」
「え・・・?」
思わず不満げな声をあげたサンに、王様は続けて言った。
「護衛達が訓練に身が入らないのは、その程度にしか思われないそなたに責任がある。彼らの意欲をそいだ自分を恥じるのだ」
王様はまた歩きだし、そのあとを重臣達がバタバタと追った。
サンは、ぽつんと取り残されて、その場に立ち尽くした。王様の言葉が、矢のように胸の奥に突き刺さっていた。

それからまもなくして、武科の試験要項が町の掲示板に張り出された。テスは人だかりを掻き分けて、日にちや時間を確認すると、さっそく落ちぶれた両班がやっているという塾に申し込みに行った。
兵法の講義を担当しているのは、ホン・グギョンという男だった。アゴから口の上にかけて丸いひげを生やし、着ているものは質素だった。役所勤めのかたわら小遣い稼ぎをし、はり合いのない毎日を送るにしては、もったいない若さに見えた。

いよいよ武科の試験の日がやってきた。中庭にござを広げて、受験者達が所狭しと座り込んでいる。
問題を書いた幕が下ろされると、受験者達は筆を取った。そして出来上がった者からテントにいる重臣のところへ答案用紙を提出し、会場を出て行った。
怪しい目つきをした男が、答案を書き終えて筆を下ろした。男はこそこそと周囲を気にしながら皆と同じように用紙を提出して、足早に去っていった。
重臣達が騒ぎはじめたのは、その直後のことだった。王様とサンは何かと思って、腰を浮かせるようにして壇上からテントを見おろした。
答案用紙を手にした重臣が、荒々しい声で、試験場の門をすぐ閉めるよう指示しているのがわかった。怪しい男を捕まえるつもりのようだ。他の重臣達は一枚の答案用紙に、目を釘付けにしていた。
「何事だ。何が書かれている?! 早く見せてみよ!」
王様はイライラした様子で、用紙を手にしていたホン・イナンを急かした。イナンをはじめとする重臣達は、テントから壇上の短い階段をあがると、仕方なく王様に用紙を手渡した。
王様はその用紙を黙って読み終えた。その直後、まず王様が見たのはサンだった。責めるような目つきだった。
「王様、どうされましたか・・・?」
サンはちょっと嫌な予感がしながら、おずおずと心配そうに聞いた。




2009/1/2更新


イ・サン11話「罪なき忠義」

サンは王様から受け取った答案用紙を読み終わると、ぼう然とした。
それはサンの父さん、サド王世子を殺した王様を責める内容だった。
文書は、こうしめくくられていた。
 ~我らの君主は王世孫様だけである ~

王様は試験の中止を宣言して、足早に会場をあとにした。サンは、慌てて追いかけて、中門の外に待たせておいたコシに乗ろうとしていた王様を呼び止めた。
「王様、あの答案の件で私のことをお疑いですか? 書かれていた内容が私の意志だとお考えですか? そうでないことは王様がよくご存知のはずです!」
王様はサンの悲痛な表情をじっと見てはいたけど、その眼差しは怖いくらい冷たく、また何か言いたげでもあった。
王様は怒りを抑えたような物静かな声でたずねた。
「では、そなたの父のことはどうだ? 私が無実の王世子を死に追いやったと、一度でも考えたことはないのか・・・?」
サンは急に黙り込んでしまった。王世子が謀反の罪で処罰されたことは公の事実となっている。それに対して今さら意見を言うのは、王様を否定するだけではなく、胸の奥に隠し持った古傷を刺激してしまうことにもなるだろう。
サンが何も言わないのを見て、王様はコシに乗り込んだ。四隅の棒を抱えた男達は、ハシゴ型の床をふわりと持ち上げて門を出て行った。

夜になると宮中は嘘みたいにひっそりとなった。
茶色い覆面で顔を覆った怪しい男らが、ちょうど石垣をよじ登って侵入するところだった。
男たちは、御殿の柱の隅にまず小さな穴を掘り、その中へ火薬を注ぎいれた。それから残りの火薬をアリの行列みたいに地面に垂らしながら、建物に沿って歩いた。
火薬が大爆発すると、男達の一部は石垣を飛び越えて逃亡し、残りは王様のいる大殿に向かった。

デスクで物思いに沈んでいたサンの耳にも、その派手な爆発音は届いた。
大殿へと通じる渡り廊下は、すでに護衛部隊と刺客の戦場になっていた。
応援部隊の灯りが遠くにチラチラ見えてくると、刺客達は雲の子を散らしたように闇の中に姿を消した。
夜が明けてすぐ、禁軍別将が昨晩の騒ぎを報告しに、王様の部屋にあがった。サンは神妙な顔つきで別将がデスクに白い封筒をのせるのを、いぶかしげに見つめていた。
「刺客の死体に入っていたものです・・・」
王様は、即座に封をとり、中の紙を広げてみた。
“会高千司”
書かれていた内容はこれだけだった。何かの暗号のようでもある。首を傾げる王様に向かって、同席していた兵曹判書が、言いにくそうに口を開いた。
「恐れながら、会高千司とは王世子様の昔の墓の地名ではありませんか? 王世子様を慕う一派が事件の背後にいるのでないかと・・・」
刺客がそんな証拠をわざわざ残して行くわけがないと、サンはそのときすぐに思った。
ところが王様は、兵曹判書の話に釘付けになっている。古傷を刺激されたことで、冷静さを失っているように見えた。
王様は王世子の墓に兵を派遣することにした。いけにえとなったのは、偶然、墓参りに来ていた前護衛部隊長、ソ・インスをはじめとする部下一同だった。
王様に迷いはなかった。うずき出す心の痛みから逃れるために、王世子は悪者でなければならなかった。
それにソ・インスは、王世子に長年、仕えていた男だった。彼の自宅からは、サンを王にしようと決議された連判状と15名の署名も見つかったのだ。

フギョムの作戦は、こうしてまんまと成功した。町ではサンが謀反を起こそうとしているとの噂までもが流れた。
ただ一つ、王様が前護衛部隊長の取調べに、サンを起用したことだけが、フギョムには意外だった。
サンに残された道は、ソ・インスらを処刑することしかない。もし無罪なら、サンは一味の黒幕だと噂されるに違いなかった。
逆にサンの謀反の疑いを晴らすには、ソ・インスを有罪にすることが必須だった。
当然そうなればサンを陥れる作戦は、水の泡となるだろう。しかしフギョムは、それほど心配してはいなかった。
結局、気弱なサンには、無実の人間をいけにえにすることなど、できないと思ったからだ。

ホン・グギョンは、小さな風呂敷包みを手にぶら下げて、刑曹判書ホン・イナンの屋敷を訪れた。ホン・イナンとは王世孫の大叔父で、グギョンとは遠い親戚という間柄だった。グギョンは座敷に通されると、イナンのひざのそばに風呂敷包を置いた。
「ただの記録係などしていたら、もんもんとするのも当然だよ。どれ、それでどんな官職につきたいのかね?」
イナンは風呂敷包みの中身を気にしながら、ご褒美を待つ犬のように、だらしない笑みを浮べた。
でもグギョンのその要望には、思わず顔をゆがめずにはいられなかった。
司諫院の正言の職といったら、王様のご意見番だ。
随分と欲張りな男だ・・・とイナンは思った。
これはよほどの大金を用意してきたのに違いない。
さっそく、いそいそと手土産の包みを開いてみると、じゅずつなぎの銭が、小箱の底のところへ、たった1本転がっていた。
「私をからかっているのか?! 朝廷の人事は遊びではないぞ?」
イナンは急にニワトリみたいに声を裏返して、小箱をつき返した。
グギョンは、解けた風呂敷を、黙って包み直してから、まんざらでもなさそうな顔で言った。
「遊びならまだましです。こんな汚いマネをしなくていい。残念ながらイナン様の寿命が長そうなので、朝廷に未来はないと父に伝えておきましょう。では失礼しますよ」

ホン・イナンの庭で、フギョムは、足早に屋敷の門を出ていグギョンをちょうど見かけた。
「あの男は何者ですか・・・?」
「一族の鼻つまみ者だ。虚勢ばかり張りおって!」
庭に姿を現したイナンが、負け犬のような顔をして答えた。
「しかしあの落ち着いた態度は、ただ者とは思えませんね・・・」
フギョムは少し気にかかったように、グギョンが去って行った方を見つめて言った。

朝、部署に官報を取りに入ったグギョンは、前護衛部隊長ソ・インス逮捕の記事に目をとめた。
王世孫を陥れようとする連中の仕業だな・・・と、グギョンはすぐにピンときた。
しかし暗号を元に拠点を制圧したという意味がわからなかったので、そこにいた官報係の男に質問した。
「刺客が持っていた紙に書かれた“会高千司”という暗号から割り出したそうですよ」
男はつまらなそうに答えた。
“会高千司”
グギョンはつい最近、この熟語を耳にしたばかりだった。
どうしても武科に受かりたいと相談にやって来たテスに、兵曹判書の執事が、武科のテスト問題を持って屋敷から出てくるはずだぞと、こっそり教えたことがある。
テスは、とりあえずその問題を盗み見ることには成功したらしい。
ところが実際の試験には、問題は出て来なかった。さっそくグギョンに文句を言いに来たテスの話によれば、その執事の紙に書かれていたのが、“会高千司”という文字だった。
テスが見たのは、テスト問題ではなく、ただの書状だった可能性がある。それでは何のために、誰に宛てた書状だったのか・・・?
あれこれ考えをめぐらせながら部署から出てきたグギョンを呼び止めたのは、フギョムのそばに仕える男だった。

2008/1/4更新

イ・サン12話「三日の猶予」

ソ・インス達は、椅子に体を縛られ、中庭で判決を待っていた。ひどい拷問を受けて、すっかりやつれ果てている。
ソ・インスらは無罪であるというサンの判決を、王様はちょうど庭の門をくぐっていたときに聞いて、聞き違いかと思うほど驚いた。
ソ・インスを捕らえろという王命に、サンが異議を唱えたことになる。
「今そなたは、私の命令が聞けないと言っているのだな・・・?」
「恐れながら、さようです・・・」
サンは、うなだれながらも、はっきり答えた。
周りにいた重臣達は、こりゃあどうなることかと息をのんで、王様の方を見た。
王様は、まるで金縛りにでもあったみたいに、サンの顔をじっと見つめつづけた。

宮殿に戻ったサンは、王様の部屋に呼び出された。もう一度、落ち着いた状態で話をすれば、サンが考えを改めるだろうと思ったらしかった。
それでもサンの考えが変わることなどありえなかった。これまでじっと身を小さくして生きてきたのは、父さんとの約束があったからだ。
でも死んだように生きて何になるのだろう? ソ・インスらに無罪を宣告したことは、サンの叫びでもあった。
「彼らが無実ならそなたの父はどうだ? 言ってみよ」
サンはこの前も王様に同じことを聞かれた。王様はどうしても、はっきりさせたがっているようだった。王様の乾いたような目は、必死に何かに追いすがろうとしていた。
「本心をお尋ねでしょうか・・・? 一時逃れの嘘ではなく、胸のうちをお話してもよろしいのでしょうか」
サンは、いつのまにかぽろぽろと涙をこぼしながら答えた。
その涙が王様の古傷に染みて、ついには怒りとなった。
「王世子は罪人だ。さもなくば私が罪のない息子を殺したことになる。あやつは国の秩序を乱し、反逆を企てたのだ! 重臣たちもそう口をそろえた。もう何も聞きたくない。今すぐ出て行け!」
王様は、サンに向かって反論した。でもサンを責めれば責めるほど、おかしなことにそれらは全部自分に跳ね返ってくるのだった。

サンは刺客の遺体を調べるために、捕盗庁の死体小屋に顔を出した。
前護衛部隊長を無実にしたからには、その根拠を示さなければならない。
王様に許された期限は3日だった。
寝台に並べた死体には、それぞれむしろがかけてあった。爆発事件で、刺客は6人が死亡した。護衛部隊が何十人も死んだのに比べたら、はるかに少ない数だ。刺客はよほどの精鋭部隊に違いない。
遺体の傷からは、特に手がかりは得られなかった。パク・サチョや2名の護衛官と一緒に、いったん小屋の出口へ行きかけたサンは、遺体のブーツにふと目をとめた。
ブーツに絡まった沼地でしか育たない水草を手に取って、しげしげと眺めた。隣の遺体にも、やっぱり同じ水草が付着していた。

フギョムとホン・グギョンとの顔合わせは、わずかな会話を交わしただけで終わった。
賢い者同士、多くの説明などいらなかったのだ。
フギョムは、グギョンを部下にするために、国王直属機関勤務というすごい役職を用意していた。
「簡単に決めるわけにはいきません。あなたがどのようなお方か調べる必要がございますので・・・」
グギョンは、こう言い残した。
グギョンが帰ったあと、フギョムは、しばらく手つかずの料理を前にして、一人で宙を見つめるように物思いに沈んだ。
正直、面白い男だと思う。でも味方にできないなら、つぶさねばならない・・・
フギョムはおつきの男に、こんな風なことをぽつりと漏らした。

グギョンは、テスを呼び出して、兵曹判書の執事を尾行するよう指示した。
テスが見た“会高千司”という文字は、王世孫を陥れる計画に使われた暗号に違いない。その暗号を執事に持たせた兵曹判書は、恐らく敵の一味だろう。
兵曹判書の背後には、さらに謎の大物が控えているはずだった。

誰に仕えるかで運命は変わる。フギョムの誘いを簡単に決めるわけにいかないと言ったのはグギョンの本音でもあった。

執事を尾行したテスが、グギョンのところに舞い戻ってきた。
「さっぱりでしたよ。先生に言われて執事をつけ回したのにこの有様です!」
特に収穫はなかったらしい。
グギョンは質問を変えることにした。その男の行動を詳しく話してみるようテスに言ったのだ。
するとテスの説明から、執事の行動が浮かび上がってきた。
執事はまず兵書を購入したあと、一日中、女遊びを楽しんだらしい。それから米屋に立ち寄って、麦30俵、肉20斤の代金を先払いして帰った。
グギョンは眉を潜めた。麦30俵と肉20斤は数百人分の食事にあたる。
兵曹判書はなぜ、そんな大量の食料を調達したのだろう・・・? 

テスは、すっ飛んで米屋に戻り、店主に執事の行き先を聞いた。
「執事なら、もうとっくに荷を積んでいったさ! 谷の方へ行くって言ってたよ」
店主は、執事の去っていった方角を指差した。
テスは運よく執事のその馬車が、市場の宿屋に横づけされているのを発見することができた。
ところが随分とおかしなことに、宿屋に運び込まれた米俵は、再び裏口から外へ出されて、大きな荷車に積み上げられていく・・・
テスは隙を見計らって、その馬車の荷台の米俵の下に隠れた。

馬車はテスを載せたまま、ゴトゴトと走りはじめた。
やがて目的地に到着すると、辺りがすっかり暗くなるのを待ってからテスが動き出した。
草の茂みの向こうに、闇に浮かぶ巨大訓練場があった。
夜だというのに、たいまつがボーボー燃え盛り、地面から、温泉みたいな白い煙が立ちのぼっている。
旗が何本も、たなびいていた。
朱色の丸太を組んだアスレチックジム。声を張りあげる兵士たち。綱渡りをする者がいれば、火のついた桶を叩き割る者もいる。格闘の稽古に励む姿もあった。
そこは黒い海に浮かぶ別世界のようだった。

私兵の秘密養成所を見つけたとのテスの通報を、フギョムはその夜、耳にした。
訓練所に人の侵入を許すとは、大失態だった。すぐ養母ファワンに、このことを知らせて、私兵訓練所に人を送らなければならない。
それにテスの始末も必要だった。
フギョムに指示された部下は、捕盗庁をあとにしたテスを追って姿を消した。

「処理すべきことが山済みだ・・・」
考えごとをしながら捕盗庁の建物の中から庭へ出てきたフギョムは、まるでお化けでも見たみたいに、急にビクッとして足を止めた。
目の前に、歯をむき出しにして愛想よく笑うテスが立っていた。
「なぜここに戻ってきた・・・?!」
焦るフギョムに、テスはヘコヘコと腰を低くした。その隣にいるのが王世孫であることに、フギョムはようやく気づいた。

2009/1/10

イ・サン13話「倉庫に埋もれた証拠」

その晩、グギョンは兵曹判書の屋敷の前に突っ立っていた。馬が駆けてくる足音に気づいて建物の影に隠れていたら、馬からおりた男が、辺りを警戒しながら屋敷の門をくぐっていくのが見えた。
グギョンはその男の顔に見覚えがあった。フギョムの屋敷までグギョンを案内した男だ。

同じ頃、サン率いる軍が、山道を駆けのぼっていた。激しい雨粒が、フギョムとテスの顔を直撃した。軍はぬかるんだ山道を進んで、やがて沼地の広がる、ある村に到着した。

おかしなことに、秘密訓練場は、もぬけの殻になっていた。まるで夢の跡みたいに静かで、ただ土を踏みしめたり、タイマツの火が燃える音だけがした。
「兵士も武器もこの目で確かに見たんです!」
テスは、目をまん丸にして必死に訴えた。

サン自身、この光景を信じることができなかった。
焚き火の跡に手をかざしてみると、まだ温かかった。
サンは地面に落ちていたやじりを摘んで、サチョに言った。
「王様との約束まで、あと1日ある。私はあきらめない」
兵士たちが手にしたタイマツの煙が、どろどろと切れ目なく空に流れて夜の闇を白くしていた。

渡り廊下を歩いていた王様は、ふと立ち止まって空を見上げた。昨晩からの雨は小降りになってはいたけど、まだ白い雲が残って薄暗かった。
「王世孫の様子はどうだ。何か進展はあったのか?」
王様に尋ねられたおつきの男は、体を板みたいに折って答えた。
「昨晩、宮を出て先ほど戻られたところです。義禁府に行って聞いて参りましょうか」
「いや、よい」
王様は断った。
どちらにせよ、明日の朝、イ・ソンスの最終判決が下されたら全てがわかるのだ。

宮中内にあるファワンの御殿から出てきたフギョムは、石段を下りながら、兵曹判書としばらく立ち話を楽しんだ。
襲撃を受ける前に、秘密訓練所の兵士や武器の移動が無事に済んで、気持ちにもだいぶ余裕が戻ってきたところだった。
兵曹判書と別れたあと、フギョムは、少し離れたところから意味ありげにこっちを見つめていたグギョンに近寄っていった。
「2日経ったが、私について何かわかったか?」
「ええ、いろいろと。少なくとも敵には回したくない方ですね・・・」
グギョンは、愛想なく言うと、さっさと立ち去っていった。
フギョムは、思わず振り返って、軒下の長い石畳を歩いているグギョンの後ろ姿を目で追った。グギョンの目が、気のせいか笑っているように見えたのだ・・・

テスがグギョンの家にすっ飛んでいったとき、グギョンは静かに書物を読んでいた。
ひざのそばには、まだこれから読まれる本が、きれいに積み重ねてあった。
テスは、さっそく昨晩の事を夢中で話したものの、思ったような反応がない。
ようやく書物から顔をあげたグギョンは、イライラした様子のテスに、わりと真面目な顔つきで言った。
「私はもう手を引く。王世孫は終わりだ。巧みな狩人たちに囲まれたも同然なのだ。望みがないなら見限らねば。だがそう怒るな、私も不本意なのだ・・・」

サンとパク・サチョは、馬に乗って都の田舎町に向かっていた。
ソ・インスの自宅から発見された連判状は、偽造である可能性が高かった。
謀反を企む仲間らと連判状を書いたとされる日付は10月15日。その日、彼は光州で開かれた王様の宴に出席していた。
サンはその出席者にアリバイを証言して貰うつもりだった。
馬をとめたサチョは、かやぶき屋根の廃れた感じの屋敷の中へサンを案内した。
証言を依頼したのは6人。しかしサンがこの部屋で待っている間、とうとう誰もやっては来なかった。
ただ質素な服に外出用の黒帽子を被った男が、事情を説明しに屋敷に立ち寄った。
「事件に巻き込まれるのを恐れて、みんな逃げ帰ったのです」
男は狭い座敷の入り口に座り込んで、手短にそう話した。

サンは町を通って宮殿に戻りはじめた。賑やかな人通りだ。
巨大な石が裁断されて、ちょうどロープで橋の上にゆっくりと引きあげられているところだった。橋の周りには細かい足場が組まれている。巨石はずらりと橋の中央に並べられていた。
「橋の補修工事中です。迂回しましょう」
サチョに声をかけられ、サンはくるりと馬をUターンさせた。
ソ・インスを救う方法が何も見つからないまま、時間だけがこうして流れていく。サンには全ての手は全部、出し尽くしてしまったように思えた。
橋のそばの道に、テーブルが出してあった。そのうえに紙を広げ、数人の画員が工事記録を描いていた。その光景が、サンの目に強く焼きついていた。

判決の朝、王様はサンの姿がないことに気づいた。フギョムの他、数名の大臣達は、すでに王様の椅子を囲むようにして、軒下の壇上に顔を揃えている。
前衛隊長のソ・インスら数名が、とんがり帽を被った男達に連れられて庭に入り、椅子に縛りつけにされた。
兵曹判書は赤い巻物を広げて、いよいよ判決を大声で読み上げた。
「辛卯年10月! 罪人達を取り調べた結果、謀反を企てていたという大罪が明らかになった。この者たちを斬首の刑に処し・・・」
でも兵曹判書はこの続きを言うことができなかった。パク・サチョとチェ・チェゴンを率いて、サンが門をくぐってきたのが目に入ったのだ。

サンは王様の前まで進み出ると、丁寧におじぎをして言った。
「この者たちに罪はありません。そのことは王様もご存知のはずです」
「この者たちの無実を、私が知っているだと・・・?!」
王様は怒ったように言い返した。
サンは、短い石段の途中までのぼって、大きな紙を差し出した。
王様はさっそくその紙を広げてみた。
なんのことはない。広州の宴の出席者達、それに踊り子達や楽器の演奏者が、こびとみたいに小さく描かれるだけの、たわいもない記録画だ。
しかしさらに目線を下にやったとき、がく然とした。前護衛部隊長ソ・インスの姿と名前が、はっきり記されていたのだ・・・

記録画は、図画署の膨大な資料の中から発見されたものだった。
サンに10月15日の宴の記録画を探して欲しいと頼まれたパク別堤は、画員を狭い倉庫へ総動員して作業にあたらせた。
本物は広州に保管してあった。はたして都にその写しが残っているかどうかも、わからないまま、この作業に全力をかけたのは、それが前護衛部隊長、ソ・インスを救う唯一残された道だと、サンが考えたからだった。

判決のあと、王様は部屋にこもって机に記録画を広げた。
サンの言う通り、ソ・インスの事件は、王世孫を陥れようとする者たちが、でっちあげたものに違いなかった。
王世子を殺して以来、王様は必死に迷いを打ち消してきた。心が揺れ動くたび、大臣達の口添えとか、ときには自分の弁解で、そのほころびを直して、より守りの殻を頑丈にした。
しかしどうだろう。その中のどの言葉が、はたして真実だったのか・・・?!
王様は、何度も何度も確かめるように記録画を指でなぞった。
イ・ソンスと書かれたその文字は、王様の古傷にしみた。

2009/1/18更新

イ・サン14話「静かなる口封じ」

とつぜん呼び出されたフギョムが、養母ファワンの屋敷へ行ってみると、何やら深刻な顔をした兵曹判書ハン・ジュノの姿があった。
フギョムは、このハン・ジュノが持ってきた匿名の警告文を見て、とても驚いたのだった。
ハン・ジュノに書状を送りつけた正体不明のこの人物は、我々が仕組んだ“会高千司”の暗号から私兵養成のことまで、全てを知っているようだった。
フギョムはどうも気分が落ち着かなかった。
恐らくさっき、兵曹判書がのこのこと、この屋敷に入っていくところも、その人物は見ていたに違いない・・・
いくら後悔してみても、もう取り返しがつかなかった。

兵曹判書が嫌な予感に目をしょぼしょぼさせながら告白した。
「ここに来る前、実は私兵を他の場所に移すように妙寂山に使いを送った」
フギョムは、ぼう然となった。
もし、その使いが誰かにあとをつけられていたとしたら・・・?

兵曹判書の執事は妙寂山に着くと、兵曹判書からことづかった急報を兵士のリーダーに伝えた。
ところがおかしなことに、そばに立っていた兵士の顔がとつぜん白光りして、地面にバッタリと倒れた。
兵士の腹には、火のついた矢が突き刺さっていた。
執事は口をあんぐりと開けたまま、雑草や樹木の生い茂った広場やらを見回した。
その瞬間、禁軍の放った炎の矢が、風を切るようにびゅんびゅん空から舞い落ちてきた。続いて軍が、いっせいに突入してきた。火の雨は、やぐらや小屋にまで飛び移った。軍と私兵が激しく入り乱れ、あたりは戦場となった。

激しい戦いのあと、また静けさが戻り、虫の音だけが残った。
護衛2名が草をかきわけて、戦場から少し離れた空き地にたたずんでいたサンのもとへ駆けつけた。
「彼らの拠点を壊滅させました。武器を押収し、兵曹判書の執事も捕らえています!」
サンが小さく頷いた。

激しい雨が降り、雷がゴロゴロなっている。
テスは頭の上にムシロをかけて、塾の縁側へ駆け込んだ。
ちょうどグギョンが座敷に風呂敷を広げた中に、書物を重ねているところだった。なんと塾をやめるのだという。
テスは本当にびっくりして、縁側から座敷をのぞき込むようにして、文句を言った。武官に合格させてくれる約束だったのに、無責任にもほどがあると思ったのだ。
手をせっせと動かしながら、耳を傾けていたグギョンは、テスの話が、王世孫が敵を一網打尽にして危機を脱したというところまで来たとき、ようやく風呂敷を結び終えて、テスに言った。
「その話なら知っているとも。だからこれから挨拶に行くところだ」

グギョンが東宮殿に現れると、サンは卓上デスクに1通の書状をのせた。
「そなたの書状が役にたった。おかげで兵曹判書をおびき出し、敵の背後を暴けたのだ」
サンはねぎらいの言葉をかけながらも、グギョンのその目には野心があることに気づいていた。
でもなぜ、大臣達から攻撃ばかりされている自分につかえる道を、この男は選んだのだろう?
サンのこの質問に対して、グギョンは自信たっぷりな口調で答えた。
「手にした力は手段を選んで使うべきでしょう? 王世孫様にお使えすれば、それを実現できると確信しています・・・」

王様の顔はすっかり曇っていた。大臣達の話を鵜呑みにし、危うくソ・インスら罪のない人の命を奪うところだった。
最悪の事態は避けられた・・・。しかし王様は苦しんでいた。
その夜、正室がご機嫌伺いに部屋にやってきた。
王様は白いパジャマ姿で、まだ何かしきりに考え込んでいた。
「ではあの件はどうだろう? 私が判断を誤っていたとすれば、あの件は・・・!」
王様の呟きに中殿が思わずドキッとさせられたのも無理はない。あの件とは、紛れもなく王世子の死のことを指していた。
中殿が大臣達と共謀して、王世子を死罪に追いやった事件だった。

兵曹判書とファワンの共謀は、もはや言い逃れができない状況となった。
にも関わらず王様は、ファワンの処分を棚上げにすることにした。
兵曹判書ハン・ジュノが、単独犯行を自白する遺書を残して、檻の中で首をつったからだ。
係の男が血で書かれたハン・ジュノの遺書を持ってきたとき、サンは悔しさでいっぱいになった。
黒幕にまた先手を打たれたのだ・・・!
重臣の大部分とファワンが陰謀に関与していると気がつきながらも、真実は闇に葬られたままだ。

テスとソンヨンが東宮殿に招かれた。テスは私兵養成所のことを通報した件で、ソンヨンはソ・インス前衛部隊長の記録画を見つけた件で、褒美を賜ることになったのだ。
テスはサンに貰った小包のヒモをさっそく解いた。弓を射るときに使う指ぬきみたいな丸いのが入っていた。サンの愛用品らしい。
ソンヨンの手にした大きな平べったい風呂敷の中には立派な筆が並んでいた。柄の部分が色とりどりの数珠玉になったものだ。
「それらは王世孫ではなく、友として贈るものだ」
サンはすごく嬉しそうに言った。
謁見が終わると、テスはパク・サチョに案内されて、護衛官の訓練場を見学しにいった。
ソンヨンの方は、サンに連れられて書庫に行った。
サンは、金具のついた引き出しの扉を開けて、清の画集をいろいろと見せてやった。苔むした風合いの山水画が、ソンヨンの目に次々と飛び込んだ。
サンは夢中で語った。
「この画集はヨ・スクチンという女性画員のものだ。清では女性たちも画員になる。女だからダメだという古い考えは私が変えてみせよう。そなたも才能を生かして、図画署の画員になりなさい」

その頃、サンの妻、嬪宮は長い渡り廊下を歩いて書庫に向かっているところだった。
おつきの女は、布をかけた盆を持っている。中身は嬪宮が夫に用意した薬だった。
朱色の渡り廊下とつながった書庫は、壁扉が全て折りたたまれて開放感があり、山々の景色がずっと見渡せた。
書庫の前まで来たとき、嬪宮が足を止めた。
ソンヨンの小さな手を両手で優しく握りしめる夫の姿が目に映った。

2009/1/25更新

イ・サン15話「護衛官への道」

廊下におつきの女を待たせて、嬪宮が書庫へ入った瞬間、サンとソンヨンの手は、リボンが切れたみたいに放れていった。
棚が並ぶ書庫の中は、3人でも少し狭苦しいくらいだった。
サンは温かい笑顔を嬪宮に向けた。嬪宮の方も、実家にいたときに、お菓子を作ってくれたあの女だと気づいたらしい。急にホッとしたように微笑んだ。
サンはそのまま嬪宮と一緒に部屋に戻って、テスとソンヨンのことを簡単に妻に説明した。
嬪宮には、なぜ夫が身分の低い者達を友達と思うのか、本当のところよくわからなかった。
ただ聞いてみても、「話すと長くなる」と、懐かしそうな顔をするばかりだった。

王様はサンを部屋に呼び出した。
サンが秘密訓練所の事件に関わった者たちをどう処分するのか、とても興味を持っているようだった。
「嵐のあとには澄んだ空が広がるだろう・・・」
王様は言った。

でも実のところ、サンはしばらくの間、何もする気になれなかった。敵を根絶やしにするには、まだ自分には力がなさすぎると思ったのだ。

フギョムの屋敷を大物大臣ソクチュが訪ねていた。
事件後、生き残った私兵と新たに補充した男達を、禁軍庁にもぐりこませるつもりだ。
こうしておけば私兵の隠れ場所になるばかりか、王世孫を狙うのも容易になる。
澄み渡ったと思われた空は、王様の知らないうちに、また少しずつ曇りつつあった。

ソクチュが帰ったあと、フギョムは新たな計画を模索しはじめた。
養母ファワンの失態に対する責任が、肩に重くのしかかっていた。
調査から戻ってきた部下が、フギョムの耳に興味深い話を入れた。
王世孫が、テスとソンヨンという人物と親しくしているというものだった。
図画署の雑用係と仲がいいとは随分と奇妙な話だ・・・と、フギョムは思った。

絵の具皿を洗いに川べりに来たソンヨンは、砂にナスみたいなお役人の帽子を描いた。
お役人の肖像画は、今日の授業で、男性画員たちに与えられた課題だった。
雑用係で女でもあるソンヨンは、授業に参加することが許されず、絵の具皿を運ぶ合間に、そっと耳を傾けるだけだった。
 ~なぜ才能を伸ばそうとせず、ダメだとあきらめてしまうのか ~
書庫で言ったサンの言葉が、ソンヨンの胸に焼きついている。
ソンヨンは、ふと思い立って市場の本屋へ顔を出した。
店内の棚に所狭しと並んだ本の中には、女性が描いた画集は見当たらないようだった。
本に囲まれた一段高い板の間に座った店主も、そういうのは、ちょっと聞いたことがないねえと首を傾げた。
店主が奥の倉庫へ本を探しに行ってくれている間、若い男がソンヨンに声をかけてきた。
ソンヨンの目には、背が高く、家柄の良さそうな男に見えた。
「ヨ・ソクチンの画集だな。広通橋に行け。あそこの本屋なら探している画集があるだろ
ソンヨンの手に持っていた画集の表紙を見て、フギョムが言った。
フギョムは棚にある別の本を読みながら、お礼を言って店から遠ざかっていくソンヨンの足音に、じっと耳を傾けていた。

宮殿の中庭では、護衛兵の訓練が熱気をおびていた。
訓練を眺めているサンも、かなり真剣だ。
グギョンがサンのそばに駆け寄って、手帳を渡した。
そのページには、グギョンが解雇を決めた護衛官の名前がずらりと並んでいた。
多くは、フギョムの働きかけで軍に加入したばかりの護衛達の名だった。
サンが何か値踏みでもするような目つきでグギョンを見ていると、グギョンがもう一つ、大事な話があると急にささやいた。

それは近々行われる科挙についてだった。テスを何とか合格させる相談をしたかったらしい。
武術の腕が抜群のうえ、忠誠心も強いのに、学科がてんでダメなおかげで、合格する見込みが全くないという・・・
サンはここで1つ、グギョンを試してみたくなった。グギョンを信頼するには、まだわかりかねる部分が多かったからだ。
「特別扱いや不正を認めるわけにはいかない。私の策士になりたいのなら別の方法を探すのだ。そなたがテスを合格させるまで、私は今いる者を一生懸命きたえて、名誉を回復することにしよう」
グギョンはまるで首を締めつけられたみたいに、ガッカリした顔になった。

グギョンは、塾の仲間達と机を並べてのんきに勉強しているテスを見つけ、すぐに自分の家に連れ帰って、まず小さな机に教科書を広げた。
思ったとおり、むやみやたらに丸暗記ばかりして、何も身についていない。
さっそく要点を絞って、語呂合わせにしてみた。ところがどうしたことかテスには、さっぱり効果が見られない。
今回ばかりは根気強く、教え続けるよりしょうがないようだ。テスだけでなく、グギョンにとってもこれは初めての挑戦となった。
いよいよ科挙の前日には、苦肉の策でテストのヤマをはった。出題予想を5つに絞り、ただそれだけを覚えさせた。これが正当な方法でグギョンに出来ることの全てだった。

試験当日、グギョンは書類の束を抱えた男を呼び止めた。その男がめくって見せたページをのぞき込み、グギョンは、ほくそ笑んだ。
陣法図が出題されている・・・。ヤマが見事にあたったのだ。
ところが夜、家を訪ねてみると、テスがやけにしょんぼりしている。
5つのヤマのうち、うる覚えで済ませた1つが、よりによって出題されたという。
あんまり申し訳ないと思って、テスはグギョンに謝った。
「なぜ謝る? おまえは必ず合格する。これからは私の勝負だ」
それまで思いつめたような顔をしていたグギョンは、何か決心したように強く言った。

グギョンは、その夜のうちに科挙の部署にすっ飛んでいった。
もう時間も遅いというのに、部署ではまだ数人の男達が、テーブルに書類を広げて何か作業をしていた。
グギョンは、科挙の責任者である吏曹正朗の席へ真っ直ぐに進むと、今回の科挙で行われた組織的な不正について話しはじめた。
吏曹正朗は、思わず書類から目を離し、驚いてグギョンを見上げた。
不正なんか日常茶飯事なのに、いまさら大きく取り上げることでもないのだ・・・
にも関わらず、グギョンは真面目腐った顔で、吏曹正朗のデスクに小さな紙を広げ、てきぱきと名前を読み上げている。
吏曹正朗は、思わずうなり声を漏らした。グギョンが挙げた名前の中には、かなりの地位の男の孫まで含まれている。
「すでに名簿を上に提出したのだ。よほどの物証がないと・・・!」
煮え切らない態度で渋るばかりの吏曹正朗を前に、グギョンは懐からまた別の紙を取り出して、デスクにのせた。それは課題を漏らした男が、受験者の親族と交わした証拠の手紙だった。

グギョンがサンの部屋に現れた。
不正に合格した者の合格が取り消され、パク・テスが繰上げ合格したのは、つい今朝がたのことだった。
「今だから言えますが、あの者を合格させるのは、とてつもない難題でした。ですが私は成し遂げましたし、不正の芽も摘みました。いい仕事ができたと思うのですが・・・」
自信たっぷりに微笑む男を、サンが、さもおかしそうに見つめ返した。

2009/02/09更新

イ・サン16話「刺客の視点」

グギョンがある記録を持って、サンの部屋にあがった。そこにはここ5年間で新たに採用された老論派の名前がズラリと並んでいた。大部分は推薦で採用された者たちばかりだった。
権力をたてに私腹を肥やし、ワイロで身内を要職につかせ、再び権力を維持する・・・
こんな構図を崩すためにも、グギョンは、彼らの資金源を探り出し、最終的には老論派を一掃させるつもりでいた。

打ち合わせが終わると、サンは休む暇もなく訓練場を見に行った。大きな白幕で周りを囲った広場には、ところどころテントも見える。
今回新しく入った武官達が、木刀やら盾で模擬試合をしていた。夜になっても訓練は続き、中華鍋みたいなのにボーボーと焚かれた火が周りを明るく照らした。前に比べたら、現場の雰囲気は、随分と熱気をおびているようだった。
サンが感慨深げに、1組の試合を眺めていた。盾を手にした男が、木刀の攻撃をかわすことができずに、とうとう地面に倒れた。勝利を手にし、威勢のいいおたけびをあげているのは、武官としてスタートを切ったばかりのテスだった。

忙しい日が終わり、夜も更けてから東宮殿に戻ってきたサンを、首を長くして待っていたのは、母、恵嬪だった。折り入って何か話があるようだった。
最近、妻の部屋を訪ねたかと聞かれると、サンは急に罰の悪い顔になった。
母さんが世継ぎのことで気をもんでいるのは知っている。寝室用に男の子の誕生を願うザクロの屏風絵を描かせようと、図画署の画員を宮殿に呼んだのも恵嬪のアイデアだった。
「毎晩、読書に没頭して、その気にならなかったのでしょう・・・?」
母さんのフォローは、何だかサンをますます恐縮させた。

その頃、ソンヨンは嬪宮の部屋に招かれていた。屏風絵の仕事の助手を務めるために、宮殿に来たものの、嬪宮に個人的に部屋へ呼び出された理由は、検討もつかなかった。
「王世孫様と昔からの友人だというのは本当ですか?」
ソンヨンにお茶と菓子を勧め、嬪宮が嫌味のない微笑みを浮かべて聞いた。
「私ごときが友になれるはずがありません。ただ卑しい私どもによくしてくださっただけです・・・」
ソンヨンは、ちょっとびっくりして、かしこまった風に答えた。
サンとどうやって知り合ったのか聞こうと、嬪宮がもう一度口を開きかけたとき、東宮殿のサングンが小走りで戸口へ現れ、サンがすぐそこまで来ていると告げた。
庭先に立っていたサンは、慌てて迎えに出た嬪宮を見て微笑んだ。サンのそばには、おつきの者達がぞろぞろと従えていた。
嬪宮はホッとした。何か急の用事とかではなく、どうやら自分に会いにきてくれたようだ。
嬪宮に案内され、部屋の方へと歩き出したサンは、ふと足を止めて振り返った。
会釈するおつきの者達の中に、ソンヨンがいたのだ。ソンヨンは、サンの視線に気づいて、何か決まりが悪そうに身を硬くした。
「ソンヨン・・・」
サンは、後ろ髪を惹かれるような声で思わず呟いた。サンの目はソンヨンに釘付けだった。再び歩き出しても、またすぐにソンヨンの方を振り返った。部屋に入ってからもそれは続いて、嬪宮がいくら声をかけても気づかないほど、うわの空になった。

ソンヨンは、画材道具の入った風呂敷を手にぶら下げて、一人で宮殿の石畳の道を引き返していった。
足取りはトボトボとしているのに、なぜかさっきから胸がドキドキと高鳴っている。
ある思いに気づきながらも、それを必死に打ち消そうとする自分がいた。
 (私なんかが、どうして王世孫様のことを・・・?)
嬪宮の庭でサンを見たときから、なぜか切なくなるばかりだった。
胸の鼓動は、なかなか静まりそうもなかった。

夜が明けると、グギョンが再びサンの部屋を訪れた。役人とつるんだ罪で大物達を摘発できるだけの十分な証拠を手にしたらしい。
ここからサンの忙しい日々が、また始まった。
まず王様の視察の旅に同行することが決まった。王様はこの旅で、役人の不正や、日照りで苦しむ民の姿を自分の目で確認するとともに、先代王の墓まいりを予定していた。
大臣達の反対を押し切り、10日も日程を早めた理由は、王室の力を世に見せしめることのほかに、王世孫を人々に印象付けようという狙いが隠されていた。
ほとんどの大臣達が、王様のこのような動きを警戒した。しかし逆に、王世孫を暗殺するには、この旅は大きなチャンスになるだろうと考えたのが、大物大臣ソクチュだった。
「やってみます。何か妙手を講じます!」
フギョムは興奮した。旅での警戒は一段と厳しく、暗殺は容易ではない。それでも養母ファワンの汚名を晴らすのに残された道は、これだけに思えた。
さっそく禁軍庁に編入した私兵の中から射撃の名手を選び出し、山の中に配置させて時が来るのを密かに待った。

いよいよ旅の一行が出発する日になった。兵士の掲げた旗が高く伸びていた。武官の乗った馬が2頭、列の先頭を進んでいる。赤や黄色の制服の兵士がそぞろ歩き、その後ろに王様のコシがゆっくりと続いた。サンや大臣らは、馬でコシのそばについた。行列のうんと後ろの方には、ソンヨンたち図画署の顔ぶれもあった。
コシは朱色のジャングルジムみたいな形のもので、てっぺんにカブトの屋根がのっている。チャルメラ楽器隊の演奏が賑やかに鳴り響くなか、民衆達が道端で深々と頭をさげた。コシの内部に吊った房飾りの間から、険しい表情の王様の顔が、ちらちらと見え隠れしていた。
一行は都を抜けたあと、広いすすき野原を歩いて、やがて細い山道に入った。
道の両側から、斜面になった深い林が広がっていた。
馬に揺られながら、フギョムはしきりに林の奥の方をうかがった。
隠れているはずの狙撃兵の姿は、まだどこにも見えない。
少し不安になり、首を伸ばすようにしてもう一度、林の奥をのぞいた。
木と木の間、枝と枝の隙間、根元に広がる土。やはりどこにも刺客の姿はない。
心の中で焦りながら、フギョムは林の奥と、自分の前を行くサンの背中を交互に見返した。しかし山の風景は、ただ静かに流れていく。
そのうちに狙撃ポイントを完全に過ぎてしまったことがわかった。フギョムは体から力が抜け落ちるようにガッカリとした。
グギョンがすっとどこかから現れ、馬の手綱を操りながら、さりげなく行列に加わった。
チェゴンのそばに馬を寄せ、何かヒソヒソ話している。
それから今度はチェゴンの馬が、サンに近づいていった。フギョムは、それらの動きを不安そうに、ただ後ろから目で追うばかりだった。
「刺客がいたそうです。王様に報告し行列を止めては?」
チェゴンがささやいた。
「もうすぐ今日の宿場に着く。このことは内密に・・・」
サンは、後ろの者達に気づかれないようわざと顔を動かさずに答えた。
もちろんフギョムにその会話は聴こえていなかった。それでも暗殺が完全に阻止されたらしいことくらいは、彼にも薄々感じるものがあった。

やがて一行は、宿泊予定の村に入った。
「恐れながら、村にはお入りにならず迂回して下さいませ」
役人の格好をした村長が、小走りに王様のコシに駆け寄ってきて言った。村で疫病が発生したという。
「かまわぬ。コシを降ろせ。村長は案内せよ」
王様の命令で、コシがゆっくりとおろされた。
王様は地面に立ち、疲れ果てたような村を見渡した。昼間なのに火がもうもうと焚かれ、煙が広がっている。
あちこちから病人達のうめき声が聴こえた。

2009/02/19 更新

イ・サン17話「決死の身代わり」

王様が疫病に感染した。
御医の診断によると、この長旅には、とても体がもたないということだった。
老論派の大臣達は、さっそく小部屋に集まり秘密会議を開いたものの、みんな渋い顔で黙り込んでいるだけだ。
空気の読めないホン・イナンが、しびれを切らしたように、それまで誰も口に出して言えなかった不安を、ついに吐き捨てた。
「もし王様が死んだら、王世孫が王位を継ぐことになるのではないのか・・・?!」

吏曹判書ソクチュは会議が終わると、フギョムと2人で庭を歩きながら重い口を開いた。
「油断していたよ。宮殿に人を送って中殿様に状況を伝えよう・・・」
王様は70を過ぎた高齢だ。もし本当に亡くなったら、イナンの言うとおり、一気に情勢が変わることになる。
フギョムは命令通り、すぐ中殿に緊急の書状を送り、その返事をソクチュに渡した。
「中殿様は、王様に回復の見込みがなければ、王世孫様を始末しろと言っている・・・」
ソクチュは読み終えた中殿からの手紙を、折りたたんだ。
「どうなさいますか・・・?」
「刺客は一度失敗したからまずい。中殿様は確実な方法を使えとおっしゃっているのだ」
言いながら、指先で手紙を筒状に丸め、そっとデスクに置いたロウソクの火の中へ通した。
炎は勢いよく紙に燃え移り、その黒い灰が逆流するように上へ広がっていった。

もう夜だというのに、釜戸からのぼる煙が、疫病の村に深くたちこめていた。
ソンヨンたち図画署のメンバーが、1日中、食器の煮沸消毒をしているのだった。
サンは王様の代わりに、村の患者達の様子を見て回っていた。体力のある若者が回復する一方で、子供と老人は命を落としている。香附子や黄柏などの治療薬が、清から届く知らせが来るのが、待ち遠しかった。
サンが、部屋にあがったとき、王様は屏風の前の布団に横たわっていた。人払いをしたのか、他には誰もいない。障子窓から青い光が透け、部屋の隅に1本のロウソクが灯っていた。
サンが手を握りしめると、王様はゆっくりと目を開けた。
「そなたは今すぐ宮殿へ戻れ・・・。宮殿を空けるわけにはいかん」
サンは悔しそうに唇を噛んだ。弱り果てた王様を地方に置いていくなど、とても考えられなかった。それでもそうしなければならないことが悲しかった。

役所前の広場に集められた護衛の数は20名 ~30名ほどだった。帰還命令が出てから、まだそれほど時間は経っていない。重臣をはじめとする多くの家臣は、そのまま現地に残って、王様の回復を待つことになっていた。
先頭のサン、グギョン、ナム尚侍の馬が出発すると、護衛部隊が、馬の首をくるりとうねらせながら方向転換し、1人ずつ隊列から外れ、サンの後を猛スピードで追っていった。

都まであと8里という村はずれの役所に到着したのは、もう夜が明けかけた頃だった。
ここから先、都に向かうには、多楽院方面と楊根方面の2通りの道があった。
「多楽院を通って帰りましょう。馬の準備を整える間、王世孫様はお休みください」
グギョンがサンに声をかけた。
多楽院方面は遠回りの道だ。ただ、山道に敵が潜伏しやすい楊根方面よりは、ずっと安全だった。
サンは時間を一刻も無駄にするのが、さも惜しいという風に、イライラして馬から降りた。グギョンの言う通り、確かに馬を少し休ませる必要があった。
そのまま役所の座敷へあがりこむと、険しい表情で、アゴのリボンをほどいて帽子を脱いだ。グギョンが、ナム・サチョにそっと目配せを送ったのは、そのときだった。

サンが寝室に入ったのを見計らって、グギョンは、外に待機させた護衛部隊に、楊根方面へ出発するよう直ちに指示を出した。
楊根へ向け、先頭の馬を飛ばしているのはテスだった。王世孫のきらびやかな服を身にまとっていた。
やがて山から白い朝日がのぼりはじめた。その光を道連れにして、護衛部隊は草原を駆け抜け、峠の入り口に入った。
急カーブになったところで、部隊はいったんストップし、本部隊がゾロゾロと引き返しはじめた。敵の目を惹きつける役目を終え、多楽院方面へと向かうサンの護衛につくためだった。その場には、テスを含む8名だけが取り残された。
本部隊が去ると、テス達は、砂埃をたてて一気に丘を駆け下り、先へ進んだ。
その直後、両側の松林に潜伏していた敵の私兵たちが大声をあげて、土煙の中へと一斉に飛び込んできた。
王世孫を狙った敵の矢が、テスの胸に突き刺さった。テスはその矢を自分で引き抜き、片っ端から私兵を切り倒しにかかった。しかし敵の数があまりに多すぎて、状況はいつまでたっても変らないように見えた。
周りの馬が次々と、よじれるように倒れていくなか、テスもいつのまにか枯葉だらけの地面に振り落とされていた。仲間の撤収の声に気づいて、刀を振り回したり、足で敵を蹴り飛ばしたりしながら、じりじりと後退をはじめた。
力尽きて、もう完全にダメだと思ったとき、グギョンが手配していた援軍が、ようやく向こうの山道から現れ、なだれのようにどっと荒地へ押し寄せてきた。

ひと眠りして目を覚ましたサンは、嫌な予感がした。テスら一部の護衛兵の姿が消えているのに気づいたのだ。
「お許し下さい。彼らは楊根へ向かいました。敵の目をあざむくため、偽の行列を組んだのです」
グギョンは説明した。
サンは、いてもたってもいられなかった。こうしている間にも、テスや兵士達が自分の身代わりになって、命を落としかけているのだ。かといって今さら追いかけて間に合うわけもない。
残された道は、ただ宮殿に戻ることだけだった。

サンは予定通り無事宮殿に到着すると、まず母さんと妻に元気な顔を見せて安心させてから、グギョンやナム・サチョらと今後の対策について話し合った。疫病騒ぎによる薬の高騰問題や、テス達の安否など、気に病むような内容ばかりだった。
翌日には、いい知らせと悪い知らせが入った。
いい知らせとは、テスが傷を負いながらも生きて宮殿に帰ってきたことで、悪い知らせとは、疫病の治療薬をのせた清の船が、波が高くて港に近づけないことだった。

病室小屋でテスを見舞った帰り、サンは医員を石畳の渡り廊下まで呼び出した。
船が足止めされた江華までは馬で1日、さらに王様のいる楊州へ薬を届けるのにもう1日かかる。それよりも、効能は劣るものの、清の香附子に代わる薬材を街で買い求めた方が、いいように思えた。
サンは医師に、すぐ薬を購入して楊州に届けるよう指示し、さらに疫病地域へ内医院の医師たちを派遣することに決めた。

同じ日、フギョムは、王世孫の暗殺が再び失敗に終わったことを知った。
サンはすでに宮殿で、王様に代わって政務を取り仕切っている。
こうなったら一刻も早く、王様を宮殿へ連れ帰るしかないという意見が出るのも、もっともなことだった。
「無理やり動かして、王様の容態にもしものことがあったらどうしますか?」
「それより回復を待つ方が無謀というものだろう・・・?」
思わず不安を口にしたフギョムに、ソクチュが淡々と答えた。

2009/03/01 更新

イ・サン18話「握りつぶされた王命」

サンは信じられないような光景を見て、本当にびっくりした。
疫病の村から帰ってきた一行が、ちょうど宮殿の朱門をまたいでいるところだった。
コシの中で、じっと目をつぶっている王様の顔には血の気がなく、肌にはまだ斑点が残っていた。
コシが地面におろされると、王様は、おつきの男に手と肩を支えられて、もうろうと歩きだした。ソクチュら重臣たちは、その役割を終えたように、王様の病んだ姿をただ遠巻きに眺めている。
サンが駆け寄り、急いで王様の腕を取ると、王様は、肩に棒をさされたカカシみたいにサンに身を任せた。首はぐらつき、歩くというよりは、足の先で地面を掃いているようだった。
王様は何か言いたそうにサンの顔を見つめた。でももう、口を開くほどの力も残っていない。
「早くお部屋にお連れせよ!」
サンの命令で、侍従や侍女らが慌しく王様のもとに駆け寄っていった。
そのかたわらで、騒ぎを傍観する重臣たちの間には、ゆったりとした無の時間が流れ続けた。

サンは、重臣たちの無情さに本当に腹が煮えくり返るような思いがした。
回復するまで体を動かしてはならないと言っていた御医でさえ、どう重臣たちに丸め込まれたのか、都の方が薬を手に入れやすいからと、ころりと主張を変えている。
王様の寝室の隅には、医女2名が控え、廊下にサングンが立っていた。他は誰もおらず、薄暗く、ひっそりとした室内だった。
王様は寝床に横たわったまま、サンの報告にじっと耳を傾けていた。
疫病に関する噂で、薬代のみならず米や塩の価格まで高騰したこと、品物を買占めた商人に追徴金を課したこと、銀の需要が増えたので、民間の採掘を5ヶ所ほど許可したこと、地方長官の要請で、兵営を城津から吉州に動かしたことなど、ここ数日間の政務について・・・
「商人たちの横暴を取り締まったことについては誉めてやろう。また銀山の数を5か所に制限したのは妥当な措置と言える。兵営の件はやや早急な感がある」
王様は、重病なのが嘘みたいに迷いなく次々と喋った。サンがよくやっていると安心したのか、目の奥が微かに笑っているようにも見える。
しかしそんな王様の思いに気づく余裕もないほど、サンの表情はいつになく悲しげだった。
「ですが王様の病を治す策は見つかりません。どうしたら見つかるのか、わからないのです・・・」

サンが退出してまもなく、王様は代筆係を枕元に呼びつけた。
「私は病が重く、国事を取り仕切るのが難しい状態である。ゆえに王の職権をすべて王世孫に一任する」
代筆係は、その内容を聞いて戸惑いながらも、床に広げた紙の上に、王様の声明を筆でつづった。
書き終えると、その書状を手にしてすぐさま王様の寝室を出た。
サンの東宮殿に真っ直ぐ向かうつもりだったのが、中殿のおつきの者に声をかけられ、途中、中殿の部屋へあがった。代筆係の手にあった王様の声明文は、そこで日の目を見ないまま、中殿に取り上げられることとなった。

声明文の内容は、中殿を通してソクチュやフギョムに伝えられた。
だからと言って、何か対策を思いつくわけではなかった。王様が生きているなら、いずれはサンに伝わってしまうだろうし、死んだら死んだで、サンが世継ぎであることに変わりはない。結局は王様に政権を握ってもらうしかないのだ。
恒例の老論派による会合のあと、フギョムは各部署から届いた陳情書を、ソクチュに見せた。
陳述書の内容は、王世孫が王様の病に便乗し、朝廷を我がものにしようとしているというものだった。
ソクチュは読み終わるとそれを2つに折りたたんで、イライラとした様子で奥歯をかんだ。この程度の陳述書を提出したところで、形成が覆るはずもない。
「何もしないよりはマシではありませんか・・・?」
真剣に顔色をうかがうフギョムに、ソクチュは取りあえずゴーサインを出し、大きなため息をついた。
この先のことが何も見えず、黒い海をふわふわと漂っているような気分だった。

フギョムはそのあと養母ファワンの屋敷に顔を出した。
ファワンは、用意した風呂敷包をフギョムの前に差し出した。中身は疫病に効くとされる民間治療薬だった。
私兵訓練所の摘発のあと、宮殿への立ち入りを禁止されたファワンにとって、この薬こそが頼みの綱だった。
フギョムは風呂敷包を受け取ったものの、その表情は暗かった。薬が王様に効くかどうかという以前に、御医が薬の使用を認めるかすらわからない。ただ陳情書の効果が、あまり期待できない以上、ワラにもすがりたい思いなのはファワンと同じだった。

サンは王様の病状を見守りながら、政務をこなす日々を送っていた。
貨幣がなかなか市内に流通しない問題解決に向け、新たな貨幣を発行しようと、銅の産出国である倭国へすぐに使節を送るよう指示した。
その一方で、世に出回らないまま塩漬けとなっている隠し財産の存在も気になった。この金を掘り起こすということは、常日頃、私腹を肥やし続けている大臣らへの挑戦状でもあった。薬材の方も、そろそろ疫病の村へ到着する予定だった。
会議を終えたサンのもとへ、チェゴンがやって来て、ファワンが王様に、御医の許可もおりてないような怪しい民間薬を献上したということを伝えた。

フギョムとソクチュは、中庭を歩いているとき偶然、サンを見かけた。サンに続いて、ジェゴン、ナム尚洗、医女、御医の姿もあった。御医は布のかかった盆を持っていたが、中にはファワンのせんじ薬を入れた椀がのっていた。
フギョムは心底ホッとした。御医とサンがファワンの民間薬を使うことを、ようやく承知したのだ。
この薬を使ってもらうのに、フギョムはここまでいろんな人を説得しなければならなかった。当初、効果が検証されてもいない薬を王様に試すことを、御医はとても恐れた。王様の体には、毒になるとまで主張したのだ。
残念ながら、サンの心を直接自分が動かしたとは思わない。
サンの説得に成功したのは、皮肉なことに、やはりあのグギョンだったのだ。

すれ違いざまに、サンが立ち止まって、フギョム達に吐き捨てるように言った。
「万が一、王様の病状が回復しなければ、お2人には薬の責任を取ってもらいます」
サンの厳しいまなざしは、フギョムの用意した薬に、まだ疑いを振り払えずにいる何よりの証拠だった。それでもサンだって、やっぱり他に王様の病気を治す手立てが見つからなかったのに違いない。
王様の部屋に向かって再び歩き出したサンを見送ろうと、ソクチュがかしこまって深く頭を下げながら、フギョムにそっとささやいた。
「治ると思うか・・・?」
それは何か独り言のようでもあり、また運を天に任せるしかないのを、十分知っているようでもあった。

医女に背中を支えられ、王様は寝床から体を起こした。御医が王様のアゴにハンカチをあて、口元にさじを運んでいる。
王様は口を開けて、ゆっくりと薬を飲み干すと、それから長い夜の眠りについた。
それはフギョムやソクチュ達にとっても、長く暗いトンネルのような時間のはじまりだった。

2009/3/24更新

イ・サン19話「大いなる野心」

王様の容態が急変したのは、ファワンの薬の処方をはじめて3日目の夜のことだった。
知らせを受けたサンは、侍従たちを引き連れ、すぐに大殿に向かった。ちょうど石畳の通路を渡っていたところで、王様の寝室へと急ぐ御医と医女に出くわした。
寝室に入ったサンの目をまず引いたのは、枕元の王様に必死で呼びかける中殿の姿だった。王様は布団にぐったりと横たわっていた。高熱で額に汗が浮かんで、呼吸は乱れ、すでに危篤の状態となっていた。
御医が診療セットの木箱を開けて、ハリを取り出した。サンや中殿に見守られるなか、親指の付け根と頭のところに、慎重に打ちはじめた・・・

夜が明けるまでの間、サンはいったん自室へ引き上げた。頭の中には考えるべきことが山ほどあった。
蒸し人参は、気力を高める優れた薬材だ。でも症状が悪化したからには、今すぐにでも処方を中止したい。
その一方で、ホン・グギョンのある言葉がサンの脳裏に引っかかっていた。
「まれにではありますが、薬を飲んだあと高熱を発した患者が回復に向かった例があります・・・」
その根拠は、町医者が記した病状日誌にあった。まだ民間レベルの話で、しっかり検証されたものではないけど、高熱は一種の好転反応かもしれないという考えは、御医の意見と一致していた。
薬が効くと体中の毒素が抜けて、一時的に病状が悪化するらしい。事実、サンが読んだ医書の中にも、呼吸が乱れるのは、弱った肺が力を取り戻して澄んだ空気を吸い込むためだと書かれてあった。
今、全てはサンの決断一つにかかっている。それは大きな賭けであり、責任であり、王様の生命そのものと言えた。
サンは、おつきの侍従に、このまま人参を続けて処方するよう伝えた。
サンのこの決断は、最後の望みでもあった。

ソクチュをはじめとする重臣たちは、別室に集まり、重い顔をつきあわせていた。彼らにも考えることが、いろいろとあった。
「ファワン様も軽率なことをなさるものだ。得たいの知れない薬のおかげで我々は一巻の終わりですよ!」
鶏みたいに声を高くするホン・イナンをソクチュが渋い表情でいさめた。
「ともかく、王様はまだ生きておられるのだ・・・」
しかしそんなソクチュも、内心では落ち着いてなどいられなかった。ただイナンとの大きな違いが1つあった。彼は待つということの出来る人間だったのだ。

夜が明けたあと、宮殿は物々しい雰囲気に包まれた。宮殿周辺の警備が強化されたことは誰の目にも明らかだった。その中にはテスの顔もあった。
兵士が町をうろつく姿も見られる。すべては王様の崩御に乗じて予想される反乱軍に備えたものだった。
水面下では別の私兵の動きもあった。中殿がフギョムに集結させた軍だ。サンが政権を握った場合、その出方によっては宮殿を襲撃するつもりのようだった。
薬材庫では、医女たちが、次々と人参を大鍋で蒸していた。蒸しあがった人参はざるの上で天日干しにされ、さらにポットで煎じてから王様へ処方される。
その日1日が過ぎるのを、誰もがそれぞれの思いを胸に待ち続けた。しかし大殿からは何の知らせもないままだった。
再び日が暮れかけた頃、ホン・グギョンは思った。
ひょっとしたら、もう手遅れなのかもしれない・・・
王様のいる大殿へは、相変わらず薬を運ぶ内官が行き来するばかりだった。

深夜もかなり回ると、御医も大殿を退出していった。王様のそばにはサンと、担当医と医女2名だけが残った。
サンは、乾いた白布を盆から1枚取り、水をはった金の洗面器に浸して指でしぼった。
サンが異変に気づいたのは、王様の額から外した布おしぼりを、脇へ置こうとしたときだ。
サンは何かを確かめるように布の表面をなでてみた。おしぼりは冷たかった。王様の熱が下がったのだ。
意識を失って4日目、王様の病状はついに快方へ向かいはじめた。

王様がようやく健康を取り戻したのと同時に、フギョムの養母ファワンが、堂々と宮中を歩く姿が見られるようになった。ファワンが提供した薬材によって命を救われた王様が、彼女の名誉を回復させ、宮殿に呼び戻したためだった。
何もかもが以前の状態に戻ったように見える。でも王様には、どうしても、ふに落ちないことがあった。
王世孫に摂政を任せると、代筆係に宣旨を書かせたのは、意識を失う直前のことだ。
それなのに、それについての話が、宮中では全くナリを潜めている。
そして驚いたことには、王様はその真相を、サンからではなく、中殿から聞くことになった。しかも彼女は自らそれを、手に持ってやって来たのだった。
「この宣旨をお捜しではありませんか?」
中殿は、まさしく4日前に書かせたあの宣旨の巻物を、王様の机の前にのせた。
「王様、どうか怒りをお静め下さい。わたしはこれを預かっていたのです! もし摂政の話を知れば、大臣達は一斉に王世孫を責め立てたはずです。王様がご病気なのに、一体誰が王世孫をかばうことが出来たでしょう?」
中殿の頬は涙で濡れながらも、その口調はしっかりとしていた。
確かに宣旨は、サンが王座を狙おうとしているとの噂にも、いっそう拍車をかけることになっただろう。
今、ようやく王様の病状は回復し、サンも、中殿も、大臣もが、ホッと胸をなでおろした。
これで何もかも、元に戻ったのだと誰もが思ったに違いない。
ところが王様は、そんな彼らをとつぜん衝撃の渦に引き戻した。
サンに摂政を任せることを、改めて宣言したのだ。

宣旨の発表のあと、王命の取り下げを求める重臣たちの声が、四六時中、宮殿内に鳴り響いた。チェ・チェゴンは、そのとき王様のお供をして渡り廊下を歩いていた。大殿の前に土下座する重臣の嘆きが、今も念仏のように耳に届いた。王様の耳には、彼らの声が聞こえていないのとかと不思議に思って、チェ・ジェゴンは、かしこまって尋ねた。
「王様、何ゆえ無理に摂政を命じられるのですか? 王世孫様も王命を受け入れづらいはずですが・・・」
「今度のことで私は悟った。私はいずれ死ぬ。千年万年生きるわけにはいかないだろう・・・?」
王様は静かな口調で言った。しかしその言葉の影には何か自信が込められているようだった。すでにサンに政治の才能があることは、ある程度わかった。今回の決断は、その能力をさらに見極めたいという思いからだった。

サンはここにきて、またしても難しい決断を迫られることになった。
王様が生きているのに、なぜ自分が摂政をする必要があるのか・・・
大臣たちが猛反発するのも当たり前のように思えた。国事の全権を握るなど手にあまる。思い浮かぶのは、迷いと戸惑いばかりだった。
執務室にこもって、いつも通り仕事をこなしていると、ホン・グギョンがふらりとやって来た。
「王様への処方薬は、熊胆と黄連、そのあと附仔中湯を使うそうです」
サンは何か珍しいものでも値踏みするように、思わずグギョンをまじまじと見つめた。
こんな一大事に、グギョンの報告が、たったこれだけなのがサンにはかえって面白くもあった。
野心のあるグギョンなら、摂政について何かしら自分に意見をしたいのが本音だろう。
それなのに素知らぬフリをしているのはなぜか・・・?

2009/04/20更新

イ・サン20話「夢をつなぐ墨絵」

サンが政務報告会の場に現れたとき、板の間にずらりと座っていた重臣たちは一斉に驚いた。
サンが摂政を引き受けるために来たのだと、わかったからだ。
王様はサンのお手並みを拝見しようと、さっそく玉座で注意深く耳を傾けた。

報告会での摂政の仕事は、重臣たちの報告をもとに、的確な指示をするというものだ。
いったん作業が始まると、重臣たちの戸惑いもなりを潜め、まるで何かの儀式でも行うように、淡々と進められた。
ある重臣は、市場で数を増している違法営業についてサンに報告した。
取り締まりの特権をあらたに専売店に与えるという説明をして、いつものようにさらっと報告を終わらせようとした男は、突然、サンに待ったをかけられることになった。
「市場の統制は国がするものなのに、専売商人に違法営業を取り締まらせるとは、随分とおかしな事案だ。まさか便宜を図っている商人でもいるんじゃないだろうな・・・?」
ソクチュとフギョムは、渋い表情になった。案の定、男は返事に困ってノドをつまらせている。
これ以上、まずい方向へ話が進むのを恐れ、仕方なくソクチュが助け舟を出した。
「確かに市場を統制するのは国の権限ではありますが、専売商人による取締りは決まりごとになっており、王様も容認なさっているのです・・・」

会議のあと、ソクチュとフギョムは、ようやく息をつけるといった様子で、外の渡り廊下を歩いた。
王世孫が示した専売商人の特権の廃止案のことが気にかかっていた。
「王世孫は、我々の資金源を絶とうとするはずです」
「おそらくな・・・」
ソクチュの表情は、いつになく重かった。この最初の報告会で、早くも波風が立ち始めているのを、ひしひしと感じる。
専売商人や受験者からのワイロを禁止されたら、老論派はかなりの打撃を受けるだろう。
まさか王世孫は、老論派を一掃するつもりなのか・・・?!
ソクチュの脳裏に、最悪のシナリオがちらりとよぎった。 
 
改革案が発表されて以来、宮中は急に騒がしくなった。
司憲府のおえらいの一人は、フギョムが屋敷に戻ってくるのを庭で待ちかね、走りよって来た。
「この騒ぎは何だ! 司憲府にも査察が入ったぞ!」
フギョムは何か心当たりがあるように一瞬、目をじろりとさせた。
王世孫がグギョンを持兵に任命したのは、つい最近のことだ。役人達の不正を暴こうと躍起になるグギョンの姿が、嫌でも目につくようになった。
「その件は我々の息のかかった者が処理いたします・・・」
フギョムは落ち着いた声で答えた。

続いて図画署のカン別提まで、バタバタと慌てた様子でやってきた。
「図画署の責任者であるパク別提が、嬪宮様の部屋に飾る妊娠祈願の屏風絵を、雑用係の女に任せたのです!」
カン別提の話は、むしろ司憲府の話よりもフギョムの心をとらえた。
雑用係の女が国事の絵を描くなど前代未聞の話だ。しかもその女とは、王世孫とやたら関わりの深いあのソンヨンなのだった。

日がとっぷり暮れた頃、サンが部署の門から出てきた。改革についての意見を、直接下級役人に聞いているうち、つい話し込んでしまったのだ。
灯篭をさげたおつきの者が、サンに声をかけた。
「寝殿に行かれますか・・・?」
「いや、侍講院に行こう」
サンは、真っ直ぐ暗闇の侍講院の方を見つめて答えた。
侍講院の執務室では、すでにチェ・チェゴン、ナム、グギョンがサンを待っていた。
たまった仕事を早く片付けてしまおうと席についたサンは、テーブルの上に積み上げられた巻物の山に気づいて、一瞬、気力が抜けたようになった。
どれも司憲府からの上奏書で、判で押したように改革を非難したものばかりだ。
自分達の私腹を守るために、これほど改革を煙たがるとは・・・!
ナムが、かしこまったように四角い盆をサンに差し出した。わずかながらサンの意見に賛同し、改革案を出してきた部署もあるようだった。
サンはその巻物の1つを手に取って広げた。
身分や性別にこだわらず、才能あるものを選抜し、画員を養成したいとある・・・

翌日、さっそく図画署に足を運んだサンは、いきなりヤリを持った兵士たちに遭遇した。図画署の中庭は、実に物々しい雰囲気だった。
驚いたことに、図画署の責任者、パク別提が連行されようとしているところだった。
「図画署の規則を乱す事件が起こったとの画員の訴えを受けまして。恐れながら卑しい身分である雑役の女に、パク別提が王室の絵を描かせたのでございます」
参議が、おずおずとサンに事情を説明した。
“事件“というわざとらしい響きが、サンをイライラとさせた。
「身分や性別の関係なしに誰にでも機会を与えられる有益な案だと思うが!?」
「王世孫様は、図画署の慣例をご存知ないのでは・・・?」
参議は少し言いづらそうに、目をしょぼしょぼさせた。
また慣例か・・・という風に、サンは顔をこわばらせた。
この古い常識が、今までどれだけ大きく自分の前に立ちはだかってきたことだろう・・・

ソンヨンが、とつぜん競技会へ出ることになったのは、サンの提案によるものだった。
身分や性別に関係ない人材登用への道を切り開くには、絵の才能を証明するしかない。
パク別提の改革案を進めるのに必要な条件として、出場者の中でソンヨンが20名中5位以内に入ることが課せられた。
競技会の前の晩、グギョンがサンの部屋に顔を出した。
多くの重臣たちとは違い、サンの摂政の話を聞いたとき、グギョンは別に驚きもしなかった。サンの中に、本人さえ気付かずにいた大きな野心があるのを、見抜いていたからだ。
そのサンの志は、決して王座にのぼるためのものではない。ただそれが、どれほど未知で広いものであるかは、グギョンですら、まだ計りかねるところがあった。
専売商人が物価を操作して、一部の利益を朝廷の重臣に流しているという情報や、貧しい民にも商売の機会を与える改革案のことなど、一通りの報告が済むと、グギョンは、少しためらいがちに、サンにこう助言をした。
「図画署の件ですが、恐れながら事を荒立て過ぎではないでしょうか。連中は王世孫様のあら探しに必死です。もし競技会であの者が失敗すれば、王世孫様は改革の出足をくじかれることになるでしょう・・・」
「図画署の古い体質が変われば、他の者たちにも恩恵がある。それにソンヨンは古い友達なのだ。私が欲張ったせいで、あの者に負担をかけているようだ。きっと今ごろ思い悩んでいることだろう・・・」
それまで作戦のことで頭がいっぱいだったグギョンは、サンの言葉に、ふいをつかれたような顔をした。

パク別提も、グギョンと同じく不安を抱えていた。
先日ソンヨンに試し描きさせたザクロの屏風絵・・・。紙の中央から枝が大胆に伸び、その先に大きな黄色い花が垂れ、葉はぼかしの効いた実に鮮やかな色あいだった。
しかし、幼い王世孫との思い出を描いたあの時の絵と比べたら、どうだろう・・・!!
ザクロの絵は、小手先の技だけを使って、どことなくうわの空で描かれている。審査をつとめる元老の厳しい目をあざむくには、決して良い出来とは言えなかった。

2009/05/07 更新

イ・サン21話「市民の反乱」

審査の発表を、首を長くして待っていた画員や茶母たちは、元老らを引き連れて中庭に戻ってきたパク別提に注目した。
パク別提は軽く挨拶をしてから、さっそく帳簿を開いて発表を読み上げはじめた。
その1等から4等までの中に、ソンヨンの名前はなかった。
タク画員は今度こそ自分が呼ばれる番だと思ったろう。もし入賞できれば昇格も夢じゃない。
しかしタク画員の耳に入ったのは、自分の名前ではなかった。
「5等・・・茶母、ソン・ソンヨン!」

喜びの声があがる中で、多くの画員たちが納得できないという表情をした。特にタク画員は、悔しさでいっぱいのようだった。
上司の話だと審査員のうち2人は、ソンヨンの絵は見る価値さえないと言っていたらしい。ところが残りの3名は、ソンヨンに最高点をつけた。しかもソンヨンのその絵は、秋の風景という課題にも関わらず、彩色さえされていないただの墨絵だったのだ。

タク画員らの抗議を受けて、まもなくパク別提の部屋へソンヨンが呼ばれた。
パク別提の横には、ソンヨンに最高点を入れたという元老らが座っており、その膝元の机にはソンヨンが描いた墨絵が広げてあった。
中心に流れる1本の川は、山に向かって紙の上下へ曲がりくねり、岸辺の岩や草、樹木、その向こうに田畑が広がっている。岩や草などが強い線で1本ずつ陰影が描かれているのに比べ、遠くにかすむ山は、線のタッチが全くわからない風合いで墨がのせられていた。

説明をする前に、元老がまずソンヨンに、なぜ色を全く使わなかったのかを尋ねた。彩色に自信がないとも考えられたからだ。
しかしソンヨンの答えは、意外なものだった。
「私の席に置かれた顔料は、どういうわけかどれも色が濁っていて使えるものがなかったのでございます・・・」
これで画員達が納得したとも思えず、かといってこれ以上の説明も出来ないまま、ソンヨンが困ったように言葉を詰まらせていると、別の元老が快活な声で急に助け船を出した。
「私には墨だけを使ったこの絵の中に四季の風景だけでなく、春や夏、冬の風景が見える。季節とは移りゆくもの。絵には目に見える秋の色合いだけでなく、四季の色合いが含まれているべきではないか・・・? 我々がこの者の絵を5等としたのは、線の描き方、墨の使い方に秀で、十分評価に値するからだ」
最初に質問をした元老も付け加えた。
「1等となったとしても何の不思議もない。女に絵が描けるものかと半信半疑であったが、今日は誠にいい物を見せてもらった・・・」

晴れて画員になる一歩を踏み出したソンヨンに、パク別提は改めて嬪宮の妊娠祈願の屏風絵を描かせることにした。一時はその絵の中に気負いが見られたものの、十分自信を持っていい腕だということは今回のことで証明された。これから必要なのは、むしろ壁にぶち当たっても、それを乗り越えていく力だ。
「何があろうと負けてはならん。意思を強く持ち、最後までやり遂げるのだ」
パク別提の言葉に後押しされ、ソンヨンもまた志を強くした。

しかしパク別提の言葉通り、状況が一変に好転するというのは難しいことのようだった。
画学生の講義をしていたタク画員は、遅刻してきたソンヨンを講義の席に座らせることを拒んだ。ソンヨンは仕方なく楼閣の階段を下り、皆の顔さえ見えない庭で授業を聴いた。
昼間は母茶としての仕事があるので、嬪宮のざくろの屏風絵を描くのは、もう皆が引きあげた夜になった。
ひっそりと静まりかえった図画署の小屋の中で、ソンヨンは一人で作業をした。
ふっくら垂れたざくろの花々に、淡い黄色の色をつけたあと、その細かい枝の一つ一つに、筆の先で茶色い影を丁寧に落としていった。

お忍びで外出したサンは、テスの叔父に頼んで集めて貰った3人の貧しい商人に会っていた。
サンの狙いは商業の改革にあった。数百年に渡って専売商人が握ってきた都の商権を、貧しい民に分け与え、自由に商売ができるようにしようというものだ。
「そのようなまるで夢のようなことが本当に叶うのでしょうか・・・?」
話を聞いた貧しい商人たちは、目の前にいるのが王世孫であると知っていながらも、まだ半信半疑という顔だった。
国が商売を保護する代わりに、商人が税を納める・・・
確かにそれは誰もが聞き慣れない新しい取り組みだった。
しかしその数日後、チェ・ジェゴン、ナム、グギョンは、100人以上の闇の商人たちが、税を納める意思を示した署名を、サンの元へ持ってきた。そしてその後も署名の数は、どんどん増え続けていったのだ。

港近くの狭い路地の家壁に貼られたビラに、人々が集まっていた。
そのビラを目にしたとき、テスの叔父は思わず大きく手を打った。
闇の商売を許可するおふれが出ていたのだ。
役所へ行き、登録を済ませれば、これからは誰でも自由に商売ができる。
人々の関心が高い証拠に、簡易テーブルを出した役所の中庭には、すぐ登録を求める商人たちの列ができた。
麻布を売りたがっている男は、ようやく自分の番が来ると、役員に税5両を払った。すると役人はその場でサラサラと筆を走らせ、文の最後に印をつき、男に紙切れを手渡した。男はさも嬉しそうに、紙をまじまじと見つめながら立ち去っていった。

ファワンの御殿に、珍しい客人が訪れた。市場の頭領オ・ユンソクだった。
ユンソクは、手をそでに隠したまま、細身の体を猫背にして座った。
「御無沙汰致しまして申し訳ございません。近頃、市場で妙な噂が広まっております。このたび摂政を任された世孫様が、政務報告会で我々専売商人の要望を退けられたとか・・・」
専売商人が取り仕切ってきた公設市場を廃止にし、違法営業を合法化するというサンの改革は、オ・ユンソクら専売商人にとって、不利益なものだった。
「今まで公設市場は国が支えてきた。私たちがいる限り、王世孫がいくら権力を振りかざそうと好きにはさせぬ。安心するがよい」
ファワンの自信たっぷりな答えを聞いて、不満を訴えているにも関わらず、商人らしいしたたかな笑みを浮かべていたユンソクの顔が、ホッと安堵したものに変わった。
ファワンは、ユンソクのそでの下から、机の上へそっとのせられた封筒を見つめた。
重臣たちの分も入れると、かなりの金額が入っているのだろう。ふっくらと厚みのある包みだった。

2009/12/28


イ・サン22話「流血の罠」

サンは、グギョンたちと馬を飛ばして、もっとも活気のある市場へ入った。
しかし通りは、開店前のように静かだった。おかしなことに大きな壷や、ざるの中には、何も商品が入っていない。
広場の商品台にも白い布がかけられている。手持ちぶたさに売り物のミニテーブルを磨く男や、カゴ売りの女が、ぼんやり客を待つ他は、人っ子一人見当たらなかった。

サンが宮中へ引き返した後、グギョンは船着場の町の様子を見に行った。
グギョンの姿に気づいたテスの叔父が、悲壮な顔をしてやってきた。
「ひどいもんです! 品物を載せた船が来やしません。まさかどこかで戦でも?!」
テスの叔父は、ほんの1ヶ月ほど前に、念願の小さな画材屋を構えたものの、専売商人達の厳しい取り締まりに遭って、品物を台無しにされたばかりだった。
サンの考えた専売商人の特権廃止や市場の開放案は、貧しい民にとっては、唯一の希望の光だった。荷物の到着を、首を長くして待つ商人たちで、今も港はごった返していた。
「まあそう焦るな。明日には船が着き、店を開けられるだろう」
グギョンはわざとのんびりと微笑んでみせた。

グギョンが宮中の敷地内へ戻ってすぐに、テスとジャンボが駆け寄ってきた。
事態が深刻なことは、テス達の報告で、よりはっきりとした。
専売商人らが在庫品を燃やし、新たに相場の4倍の値段で品物を買い占めている。誰が止めているのか各地方からの船が入ってこず、町には仲買人の姿さえなかった。
市場中から品物が消えるわけだ。改革の邪魔をしようと言うのだろう。
サンは肩の力が抜けるほどガッカリした。でもすぐに落ち着きをとり戻すと、貧しい民に備蓄米を放出して、薪の不足を補うため山の伐採を許可するようチェ・ジェゴンに的確に指示した。
最後にグギョンに言った。
「不足分は開城の商人と行商人に相談をしろ」
地方の商人や行商人は、全国に販路を持っている。彼らから品物を供給できれば当面の危機は回避できると考えた。

サンの部屋を出たあと、中庭を歩いていたジェゴンが急に振り返って、グギョンとナムに不安を漏らした。
「果たしてうまくいくだろうか・・・」
「個人で少量の品物を扱う商人たちです。期待はできないでしょう」
ナムの不安は、ジェゴンよりもっと強いようだった。
改革に強気のグギョンでさえ、成功するとは言わなかった。
「試してみる価値はあるでしょう」

テスの叔父は、さっき山から帰ったばかりだった。山は薪拾いの人でごったがえしていた。
薪を背中からおろし、飯屋の庭で酒を飲んでいると、客達の妙な噂話が耳に入った。
真相を確かめるために通りへ出てみた。ビラを手にした人々が次々と立ち去っている。人だかりを掻き分け、屋敷の白壁に貼り出されたビラに目をやり、テスの叔父は、びっくりした。
米が四倍にも跳ね上がったのは、王世孫の政策のせいだと告知されていたのだ。

山里の外れには、男たちが数名集まっていた。
厚い草ぶき屋根の壁に生活用具をさげ、薪を高く積んである。廃墟になっているのか、男たちの他に人影はない。山や地面には雪が降り積もっていた。
フギョムのおつきの男は、フギョムから預かってきたビラを、ちょうど配り終えたところだった。このビラは、これから水標橋、広通橋、西小門に貼られる予定のものだ。
それとは別に、今日は特別な知らせを持ってきていた。
「明日、巳の刻。宮中の弘化門前に人を集めろ。その金を使えば数百人は集められる」
フギョムのおつきの男は、男たちの中の一人が差し出した手の平に、銭の小袋をずしりとのせた。
やがて男たちは足早に散っていった。おつきの男も去り、山は再び静けさを取り戻した。

今日の議題の口火を切ったフギョムの声には、どこか挑戦的な響きがあった。
「恐れながら、議案は特にございません。寄せられた議案の全ては、都の経済に関するものでした。物価が高騰し、民から不満の声があがっています。仲買人が専売商人との取引をやめたためです」
ソクチュも続いた。
「この状態が4日続けば都の経済は破綻します。営業の自由化をとりやめ、雲従街の市場を再開させるのです。民のために着手した改革が、かえって民を困窮させたのです」
サンはイライラと大臣たちを睨みつけた。
「つまり、今の事態は私の政策のせいだというのか・・・?」
大臣たちは、ソクチュへの賛同を示すように、ずっと黙りこんでいる。
サンは厚い壁にひとりで立ち向かっているような気分だった。

その夜、グギョンはテスから新しい情報を得た。
明日、フギョムが弘化門で民衆を使って、デモをでっちあげようとしているらしい。
金で世論を集めようとはあきれた話だった。
グギョンは仕事部屋に戻ると、ろうそく1本灯して手紙を書き始めた。
“必ず民衆を穏便に解散させるよう。誰も傷つけてはならぬ”
書きあがった手紙は、外の暗がりにいた侍従に、漢城府の判官に届けるよう渡した。

サンは夜遅くまでジェゴンやナム、遅れてやってきたグギョンと一緒に、執務室で仕事をこなした。
妻が執務室にサンを迎えに来たのは、この3日間、サンがろくに眠ってないのを心配したジェゴンらのはからいによるものだった。
サンは彼らの気遣いを尊重し、久しぶりに寝室に戻った。
そして王様に言われたある言葉を思い返した。
王座は恐ろしいもの。言葉ひとつで数万の民を生かしも殺すもする・・・
テスの叔父のような貧しい商人達は、新しい政策によって状況が変わるのを今か今かと心待ちにしている。
しかし壁は予想以上に厚かった。政策が思うように行かない今、ソクチュの言うように、かえって民を苦しめているのではないかと思えた。

朝、巳の刻。狭い通りいっぱいに民が足早に移動しはじめ、案内役の男が、ところどころに立ち、城の方角を手で示した。
やがて大勢の民衆が弘化門へと到着した。大扉からとつぜん武装兵が現れたとき、民衆はまだ顔見知りの者たちとお喋りをしながら、デモの開始を待っていた。
弘化門までの長い道は、流れが止まって立ち往生し、それでもまだ後ろにまだ大勢、人が詰め掛けた。
漢城府の兵士たちが、その民衆たちを片っ端から、蹴ったり殴ったりしはじめた。
最初は何が起こったかわからなかった人たちも、慌てて逃げ出した。兵士は逃げ惑う人たちを城壁に追い詰め、こん棒で殴りつけた。悲鳴をあげ、町の通りまで引き返した民衆は、今度は兵士達に待ち伏せされ、逃げ場を失った。
辺りはなぎ倒される人々で砂ぼこりがまい、庭の隅々まで、あちこち血の海に染まった。

やがて宮殿の石畳の廊下を、侍従が駆けていった。死傷者が百名にものぼった大惨事を、王様に知らせに行くところだった。
弘化門での惨劇を、まさに目の前で見てきたテスが、慌ててサンの部屋にあがってみると、うちのめされ、首をがっくり垂れたサンがいた。

2009/12/2更新

イ・サン23話「王妃の陰謀」

王世孫の摂政が取り消しになったとジャンボから聞かされたのは、テスがちょうど訓練場にいたときだった。さらに驚いたことには、グギョンが弘化門事件の責任を取って辞職したという。
テスが大慌てでグギョンに会いに行ってみると、ちょうど風呂敷をさげて、グギョンが一人、宮中の中庭を去っているところだった。
「王世孫様の一大事なんですよ! 先日の件が罠だったことは私からお話しますよ」
テスは、あたふたして言った。
「家出した女房を連れ戻すみたいだな。暇な時に家に遊びに来て酒でもおごれ」
グギョンはウッシッシと笑いながら、テスの肩をポンと叩いて、しがみつかれた腕を放した。しかしその笑顔とは逆に、宮中を去ろうという意思はとても硬そうに見えた。
もちろん民への攻撃命令は濡れ衣だった。漢城府の判官までもが、フギョムに買収されていただけのことだ。真実を話せば王世孫はきっとグギョンをかばおうとするだろう。でも大臣らにとっては、それが王世孫を退ける絶好の機会となる。グギョン自身、そのことを誰よりもよく知っていたのだ。

サンは、ホン・グギョンがどうしてあんな乱暴な命令を下したのかと思って、本当にがっかりしたけど、それは彼を起用した自分の責任であることも痛感していた。改革の失敗により起きたデモを、サンが武力で収拾しようとしたと、王様に誤解されたのも、そういう意味では仕方のないことだったのかもしれない。
サンの摂政の取り消しがされてまもなく、サンは王様に呼び出された。王様とたった2人きりの部屋は、悪夢の惨劇が嘘のように思えるほどの静けさだった。
事件の一報を聞いたときと違って、王様の怒りもだいぶ治まっていた。意外なことに、その口調にはサンに対する愛情さえ感じられた。
「そなたが11歳の時、私はそなたに王がすべき最も大切なことを尋ねた。覚えているか?」
「はい。王様・・・」
サンはうなだれた。3日のうちに答えを出せと言われて、夜なべであらゆる本や上奏文を調べつくしたにも関わらず、結局、わからなかった思い出がある。
ところが清に身売りされようとしていた子供達を救うために、サンが東宮殿の予算3千両を使い果たしたと知ったとき、王様は王世孫の廃位の決定をとつぜん取り消したのだった。
「そなたはそれを実行しながら答えられなかった。私が今日、その答えを教えてやろう。王がすべき最も大切なことは民を慈しむ心を持つことだ。よい者も悪い者も、強いものも弱いものも、そなたの子供であり、王はあらゆる民を包み込まねばならない・・・」
サンの表情が硬くなった。摂政を撤回されたのは、てっきり弘化門の事件が原因とばかり思っていたのに、どうも王様の考えは、それよりもっと深いところにあるようだった。
話し続けるうち、王様の口調はだんだんといつもの厳しい口調に変わっていった。
「専売商人どもは確かにけしからんやつだ。重臣たちにワイロを渡し、利権をむさぼっておる。その上、商権を独占して貧しい民を食い物にしているのだ。だがそんな専売商人もこの国の民である。その子に対し、親がすべきことは何か。短所を正す一方で長所を伸ばしてやることではないか。しかしそなたはどうだ? 短所ばかりか長所まで潰そうとした。害を被る者のために、何か準備したか。そなたはじっと安座して、改革だと騒いだだけではないかっ!」
サンは何も言い返すことができなかった。
自分がいかに未熟で半人前だったかということが、王様の荒々しい言葉と一緒に、体中に伝わってきた。

結局、多くの人々を苦しめただけの独りよがりの改革だったのかもしれない・・・
サンがそんな風に考え込んでいたとき、書庫を訪ねてきたのはテスだった。もう5日も閉じこもっているサンを、心配したらしかった。
すっかり夜は更けていた。
ロウソクの明かりに照らされた薄暗いテーブルに、ソンヨンから預かってきた風呂敷をのせ、テスはカサカサと中を開いて見せた。
意外なことに中身は墨で書かれた書き損じの紙の山だった。
「ご覧下さい。ソンヨンが教えている茶母たちの絵です。王世孫様のお力添えで、ソンヨンが画員の教育を受けられるようになりました。そして今度は他の茶母に教えているのです・・・」
テスの話では、ソンヨンは最近、サンの妻の懐妊祈願であるザクロの絵も、8枚つづりの屏風に見事に描き上げたということだった。
改革で機会を得たのは図画署の者ばかりではなく、テスのいる護衛官たちにも及んでいた。
サンの改革は確かに失敗した。しかしサンが蒔いた改革の種は、少しずつ芽を出し、それぞれの場所で育ちはじめていたのだ。

ファワンはとても機嫌がよかった。
サンの摂政が王様によって撤回され、ようやく自分達が主導権を握れるときが来たのだ。
「うれしいですか? でもそう簡単にいきそうにはありません。中殿様がキム・ギジュ様を朝廷に呼び戻されたようです・・・」
フギョムが少し気弱な顔で言った。
ファワンがハッとしたのも無理はない。キム・ギジュと言えば中殿の兄だ。フギョムの話によると、朝廷に戻るなり、王世孫の幼い弟君2人を連れて中殿の部屋へ、こっそりあがったという。
サンの廃位を早くも視野に入れ、次の王位継承者選びの準備をはじめるつもりなのだろう。そしてその暁には、中殿が自ら摂政に乗り出すに違いなかった。
しかしいまだ自分たちには、その計画が何も知らされてない。それがどうも気にかかった。

夜も更けた頃、キム・ギジュとソクチュは中殿を交えて熱心に密談を交わしていた。
ソクチュの表情はどうも冴えなかった。
事を急ぎすぎるのは良くない。肝心なのはどうやって王世孫の身分を廃止するかの方だった。しかし王世孫に対する王様の信頼は今でも厚い。すべての決定は王様の心の中にあった。
「だからどうしようと言うのです! ひと思いに王世孫を消してしまいましょう」
熊のような風貌通り、どう猛で短気な性格のキム・ギジュには、ソクチュの慎重な考えは、あまりにまどろっこしいようだった。
特にソクチュとフギョムが企てた暗殺計画が、いずれもお粗末な結果に終わっている事実は、キム・ギジュの野心を掻きたてるのに十分といえた。

夜、キム・ギジュはソクチュを案内して、密かに山へ入った。
ギジュが到着したときには、すでに数名の下働きの男らが、準備を終えたところだった。
ソクチュは、渋い表情で辺りに目をやった。真っ暗なうえに霧がかかっていて視界は悪い。でもよく見ると、枯葉だらけの地面に小さな木箱が等間隔に並んでいる。箱の下からは何かネズミの尻尾のようなヒモが出ていた。
キム・ギジュが箱の方を手で示し、意味ありげに聞いた。
「数日後に悪魔を払う儺礼戯の儀式が行われます。その最後を飾るのが何か、ご存知ですか・・・?」
ソクチュが考えあぐねたように黙っていると、ギジュが待ちきれずに答えた。
「花火ですよ。今回の儺礼戯は花火とともに王世孫の死で締めくくられます」
とつぜん何を言い出すのかとソクチュが戸惑っているうちに、ギジュは荒々しく下僕の男らを怒鳴りつけた。
男たちは、きびきびと小走りで動き出し、箱から伸びたそれぞれの導火線の先に、たいまつの火を放った。
導火線の火は煙と一緒に地面をはい、箱の外から内側へと燃え移った。光が箱全体を明るく照らし、火花を散らしはじめると、ソクチュはその眩しさに思わず目を細めて、何が起こるのかを見守った。
次の瞬間、火花は70cmほどの火柱となって吹き上がり、物凄い音をたてて次々と爆発し、辺りを白い闇に変えた。

2009/12/12


イ・サン24話「不吉な宴」

フギョムがファワンの部屋に顔を出したのは、もう夜更けになってからのことだった。
ソクチュとキム・ギジュが山の中で密会していたという情報を持ってきた男を部屋から下がらせると、フギョムは緊張した様子でファワンにささやいた。
「どうするのですか? 下手に騒ぎ立てれば背後を探ったことが知られます。とにかく当分は平静を装いましょう・・・」
養母ファワンの苛立ちは、忠告が必要なほど、フギョムには少し危なげなものに見えた。
中殿は今、ソクチュだけを自分のそばに残し、自分達親子を遠ざけようとしている。しかしなぜそうするのかは、まだわからない。手探り状態でいるというのは、とかく不安に駆られるものだった。
翌日、キム・ギジュの新たな動きを報告しようと、フギョムがファワンの部屋を訪れたとき、障子から意外な人物が出てきた。ソンヨンだ。ソンヨンは驚いたように、背の高いフギョムのことを、まじまじと見上げた。
フギョムの驚きは、むしろ不安や戸惑いの方に近かったかもしれない。サンとソンヨンの関係を探るために、ファワンがわざわざ口実をつけてここまで呼び出したらしい。
フギョムが黙って軽く会釈をすると、ソンヨンもそのままうつむいて、御殿を去っていった。

ソンヨンは庭まで出てようやく、戸口で会った男が誰だか思い出した。いつか本屋で話しかけられたことがある。
どちらにしろ、ソンヨンにとってそれは、たわいのない出来事だった。それよりも、5日後の儺礼戯の準備の方に気をとられていたのだ。
図画署では、画員たちがパク別提を囲んで、説明に耳を傾けていた。
儺礼戯にそなえ、厄払いの絵を4日間で200枚ほど仕上げる必要がある。絵は宮殿に貼ったり、臨席した王族や外国の大使に渡されるのに使われるものだ。
説明が終わると画員たちは、それぞれ白い紙をテーブルに広げた。
大王様、4つ目の鬼、龍や虎の顔をした神様の全身像など、強い線で描かれていく。茶母たちは、彩色に使われる赤や緑など鮮やかな絵の具を、小皿に足す作業を手伝った。

ソンヨンがパク別提の作業室へ呼ばれたのは、ある理由があったからだ。
パク別提は、ソンヨンに普通の紙よりも薄くて光沢がある油紙を見せた。下の絵が透けて、描いた線が染みるという特徴がある。
画員が書いた手本にこの油紙をあて、母茶たちに木炭で線を写させるよう言われて、ソンヨンは最初、パク別提は、本気なのだろうかと戸惑った。
儺礼戯の絵の下書きを母茶に任せるなんて、聞いたこともない。恐らくこれがバレたら、責任者であるパク別提が、上の者からおとがめを受けることになるだろう。
でもパク別提は、どうもそんなことは承知のうえといった顔つきだった。
熱心に絵の勉強に励む茶母の姿を見て、ぜひ機会を与えてやろうと思ったらしい。
「彼女らがよい働きをすれば、今後、活躍の場が増えるだろう・・・」
サンの改革の挫折の影で、雪解けを待つように、新しい芽が育ちはじめていた。

サンの馬が土ぼこりをまきあげている。ここは王室で管理している広い畑だった。
サンは久しぶりに書庫から抜け出し、テスやナムなどを連れて、現場の視察にやってきたのだ。
畑といっても、うねのような溝が何本も平行にまっすぐ伸びているだけで、まだ草一本見当たらない。今もちょうど作業着をきた男たちが一列に並んで、クワを振り上げているところだった。
「通常はうね床に種をまきますが、うねの間に作付けをしては水に浸ってしまいます。この寒さでは苗も育たないかと・・・」
役人はかしこまった様子で、サンに説明をした。
畑は見晴らしのいい高台の急斜面にあった。辺りは海で囲まれている。
サンは思わず顔をしかめた。周りの林が、いくらか防風の役割を兼ねてはいるものの、塩風がサンの袖衣を強くひるがえし、波は荒々しい水しぶきをたてていた。
「この本を見て試してみよ。うね間に作付けすれば、風や寒さに耐え小雪の前でも実ると書いてある・・・」
役人の手に、とつぜん数冊の書物をのせて、サンは言った。

サンがこの書物を手にいれたのは、お忍びで村の様子を探りに行ったときだった。
最初サンが見たとき、その老人は、専売商人と老論派を一掃しろと、酒場で大声を荒げていた。この老人の跡をテスに追わせて行き着いたのが、粗末で汚らしい小屋だった。
老人を訪ねて、小屋の中に入ってみると、予想外の光景がサンの目に映った。
床には書物が積み重ねられ、ほとんど明かりを感じないほの暗い中に、壁一面の白い紙が目立った。今まで読んだことのない珍しい論文だと思って、まじまじと壁を見つめていたサンに、老人が言った。
「見たことないのは当然だ。わしが書いたんだからな」
老人が床へしゃがみ込んで作っているものは、鎌や草刈などの農具らしかった。こちらの方も今まで目を通したどんな農書にも載っていないオリジナルの形であることに、サンはすぐに気づいた。
「鎌を田と畑で使い分けるのは、作るものが違うからだ。頭を使えば今より倍の米が収穫できるようになる。王世孫とかいうやつが専売商人を片っ端からつかまえていたが、目のつけ所が間違っている。根本的な問題は、物資を増やして民を飢えないようにすることだ!」
老人はごく当たり前のように、サンに言った。今自分の目の前にいる、まあまあの身なりの若者ことは、親のすねをかじって遊び回っているお坊ちゃんくらいに思っているようだった。
小屋の前には、老人の開発したポンプ式の水やり機が置いてあった。
サンが試してみようと触った途端、長い弓形の取っ手の部分がぽろりと外れた。
「このおっちょこちょいめぇっ!」
老人は、サンに向かって困ったように声を張りあげた。
王室管理の役人にサンが渡したのは、この老人の書いたものだった。
ここにあっても薪の足しになるだけだから好きにするがいいと、吐き捨てるように老人が言ったこの書物の中に、かなりの価値があることを、サンは見抜いていたのだ。

木箱や樽、わらで包んだ大荷物がリヤカーで運ばれ、城壁のアーチ門をくぐっていった。儺礼戯の準備は着々と進んでいた。
中庭の裏通りでは、天狗のようなタレ目のお面をかぶった芸人らが、小太鼓にあわせて、踊りの稽古をしている。
石畳の広場はよりいっそう賑やかだった。御殿を挟んだ広場の左右には、うろこ模様の鋭い顔をした鳥と龍の巨大なハリボテが飾られた。赤、緑、ピンク、黄色でカラフルにペイントされ、広場の中でも特に目を惹いた。
役人の男たちは、1本1本きちんと寝かすようにして台の上に矢を揃えている。イベントに使うものだろう。
重い玉座を抱えて御殿の石段を下るのは、3人がかりでの大仕事だった。御殿の日よけテントの設置も、すでに終わっている。
そして広場の中ほどの足元には、儺礼戯のフィナーレを飾る花火の火薬を入れる小箱が、ずらりと並べられた。

御殿を囲う石廊に立って、ナムはにぎやかな儺礼戯の準備の雰囲気を、サンと一緒に味わっていた。中門の壁のそばでは、大道芸人たちが、太鼓にあわせてぴょんぴょん飛び跳ねている。彼らの手からたなびく白いリボンが、サンの目にも小さく見えた。
ナムは、サンの表情がとても明るくなったことに気づいて、とても嬉しく思っていた。じっと机で考え込んでいるよりも、現場を見回る方が気分がいいらしい。畑に設置した農具がどうなったか、今日も確かめに行くところだった。
「最近の王世孫様は生き生きとしておられますね・・・」
「そう見えるか? 摂政をやめたからだろう。私をこき下ろしていた重臣たちも静かになった。私に興味を失ったようだ・・・」
サンは、はつらつと笑って答えた。

2009/12/22


イ・サン25話「華やかな暗殺計画」

このところ、テスはホン・グギョンの小屋へ入り浸っていた。
テスが初めてこのみすぼらしい小屋を訪ねて来たときには、障子は破れ、壁は黄色く汚れて、あばら家と言っても良いほどの状態だった。
宮中を離れてからというもの、グギョンは背中に樽を背負って、1日中、肥やしを集めて回っている。
見るに見かねて、せめて部屋の中を片付け、服まで洗ってやったのはテスだ。
だからと言って、野心を捨てたわけではないことは、狭い部屋のあちこちにうず高く積まれた書物を見てもわかった。
「いくら汚くても権力が欲しい」とテスに世話を焼かれながら、ふとグギョンが漏らしたのは、彼の本音だった。

サンのもとを去った今となっても、グギョンの関心は常に、サンを取り巻く情勢にあった。
もし王様が倒れたら、もう回復するとは限らない。そのうえサンの廃位が困難となれば、敵はてっとり早い方法をとりたがるだろう。
年末最大の行事である儺礼戯は、サンの暗殺にはまさに絶好の機会だった。
花火や祝砲の披露の他、武術の実演も予定されているので、怪しまれずに準備ができる。
何より老論派の新勢力であるキム・ギジュが宮中に呼び戻されたことが、予兆のようにも思えた。
暗殺がどう企てられ、どう実行されるのか・・・
儺礼戯の出席者は何百人といる。
その中から刺客を特定するのは、実はグギョンでさえ、雲をつかむような話だったのだ。

「左承旨殿。ここで何をしている?」
サンは中庭の朱門のところに立っていたキム・ギジュに声をかけ、彼の手にのった小さな袋を、訝しげに見た。
直前までそわそわしていたキム・ギジュは、急に愛想の良い笑みを浮かべ、袋を見せた。
「火薬でございます、王世孫様。今回の儺礼戯は例年にもまして見応えのある花火です。王世孫様にも一生の思い出になるかと・・・」
「そうか。楽しみにしていよう・・・」
サンは嬉しそうに頷いて、おつきの者たちを後ろに従えて去っていった。

キム・ギジュはそのあと、儺礼戯で予定されている射撃演習の模様を視察した。
宮中の中庭の一角に、禁軍随一の射撃の名手たちが、5人×3列の隊を組んでいる。
彼らは地面に肩ヒザを立てて座ると、さっと銃を構えた。
引き金が指から外れた瞬間、前方の5本のとっくりが、水しぶきを吹き上げ、こっぱ微塵に砕け散った。
その様子を見て、キム・ギジュは、かしわでを打つように派手に手をたたいて大喜びした。

サンの母、恵嬪は嫌な夢を見た。
御殿の軒に大掛かりに張られた日よけテントの下で、儺礼戯の夜なべをサンと共に楽しんでいる。
広場の龍と鳥のオブジェは、昼間の派手な感じとはうって変わり、その内側から灯された強い光で、暗闇の中でひときわ赤白く浮き上がった。
御殿はひな壇席、広場は中央の通り道を除いてムシロを敷いただけの席になっている。
ムシロ席の役人の前には、一人ずつに酒盆が振舞われた。しかしその祭りの賑やかさの影で、激しく降りしきる雪が、広場全体を一枚の絨毯のように真っ白に、冷たくした。
やがて禁軍随一の射撃の名手たちが隊列を組んで登場した。
儺礼戯の目玉である実演が、いよいよ始まるらしい。
広場の中央の道を、兵士が小走りで駆け抜けていくのを、恵嬪はサンとその妻の横の席で、感心したように眺めていた。
兵士らは白い雪の上にひざまずき、銃を構え、その銃口を一斉に御殿の方へ向けた。
パンパンッと火花が散り、煙が立ちのぼった。
デモンストレーションの終わった兵士のうち、前列に並んだ数名だけが、銃を構えたまま残り、サンのいる席の真ん前まで、一気に石段を駆け上ってきた。その中のある一人の兵士の顔を見たとき、恵嬪は凍りついた。
それは紛れもなくキム・ギジュだった。
兵士に化けたキム・ギジュは、サンに狙いをさだめると、次の瞬間、引き金を引いた。

恵嬪は、目を覚まして寝床から上体を起こした。まるで現実のことのように、息が激しく乱れている。
まだ明け方だからと侍女に止められたにも関わらず、恵嬪がサンの部屋に顔を出したとき、サンは机について何か考え事をしているようだった。もしかしたら仕事のことが頭から離れずに、一晩中起きていたのかもしれない。
恵嬪は広がったスカートに埋まるようにして床へ座ると、落ち着かない様子でサンに言った。
「悪い夢を見ました。キム・ギジュが宮殿にいては、不安でなりません。あのキム・ギジュこそ、王世子様を王様と仲たがいさせ、死に追いやった張本人なのです」
恵嬪の頭にあるのはサンが父親の二の舞になるのではないかという恐怖だ。そしてこの意味はサンにも十分伝わったはずだった。しかし恵嬪はどうも不安でならなかった。
恵嬪の突然の告白に、サンは最初かなり驚いた様子だった。しかしそのあとは、何かを考え込むように、じっと黙り込んでしまったのだ。

テスは再びグギョンの小屋にいた。今度はソンヨンも一緒だった。
机に広げた紙を覗き込んでいる。テスに頼まれて、ソンヨンがさっき保管庫に忍び込んで取ってきたものだ。
それはグギョンがぜひ見たいと言った去年の儺礼戯の記録画だった。
「これは去年の記録画。こっちは今年の席次表だ。違いがわかるか」
グギョンは机に並べた2枚の紙を指さしてテスに聞いた。
テスが首を傾げていると、ソンヨンが答えた。
「最上列が違います。去年は王様の左が王世孫様、今年は1つ下の段です」
グギョンは小さく頷いた。ひな段席の頂上は、王様の左右に中殿と王世孫が座るしきたりになっている。それが今年はなぜか、サンだけが1段下の恵嬪の隣へとわざわざ席が変更されていた。そしてすぐ隣には、兵士たちがいる。
暗殺が企てられているのは、もう間違いないように思えた。

テスはこの緊急事態を知らせるため、チェ・ジェゴンとナムのところへすっ飛んで行った。
チェ・ジェゴンとナムの2人がサンの部屋を尋ねたとき、サンは書物を積んだ机の前に一人で座っていた。
ジェゴンが重々しく口を開いた。すっかり夜が更けて、ささやくのが、ちょうどいいくらいの静けさだった。
「折り入ってお話があります。来たる儺礼戯には出席なさいませんように。証拠はありませんが、王世孫様の暗殺を企てる者がいるようです。どうか体調などを口実に・・・」
サンは少し驚いたような表情を浮かべたものの、すぐにきっぱりと言いきった。
「そうはいかない。危険は常につきまとう。それに脅えていては何もできない。儺礼戯は王族全員が一堂に会する宴だ。不確かな疑惑を理由に職務放棄するわけにはいかない」
ジェゴンとナムは、サンの意思を変えるのは無理だと一瞬で悟った。あとは困ったように2人で目をしょぼしょぼと瞬かせるばかりだった。

ソンヨンとグギョンが小屋の外でそわそわテスの帰りを待っていると、テスが息を乱しながら駆け込んできた。
「王世孫さまは儺礼戯に出席されるそうです! 責務を放棄できないと」
「暗殺は必ず実行されるのだぞ・・・!?」
グギョンは、びっくりして思わずテスに強く言った。
ソンヨンはグギョンをすがるように見た。王世孫を説得するよう、グギョンに何とか知恵を絞ってもらうしかないと思ったのだろう。
しかしグギョンには、もうなす術はなかった。テスやソンヨンより、そのことにいち早く気づいたのだ。しばらく黙り込んだあと、無念そうに深く息をつき、グギョンは言った。
「王世孫様の意思なら、やむをえまい・・・」

2009/1/1


イ・サン26話「救いの銃弾」

キム・ギジュが中殿の部屋に呼ばれたのは、儺礼戯の前日のことだった。
「計画は王世孫に漏れています。成功するわけがありません」
中殿は恐ろしい顔をして、自分の兄キム・ギジュを睨みつけた。
情報元はサンの身辺を探っていたフギョムによるものだった。放っておけば、きっと自分達にまで失敗の火の粉が飛んで来ると思ったに違いない。
「今さら中止だなんて・・・」
さぞガッカリしたのだろう。中殿の前にひれふしたキム・ギジュは、目を白黒させて戸惑い、そして荒々しい息を吐いた。

商売けのある主人は、店先に清からの舶来物の花火を並べて、通りすがりの客に声をかけた。花火を売るには普通は許可がいるものだけど、この日ばかりは大目に見て貰えるだろうという祭り特有の雰囲気があった。
客は主人に一文を差し出し、こより花火を4、5本取った。
薄汚れた着物に樽を背負い、トボトボと道端を歩いているのはグギョンだった。少し先に石を積み重ねた塀が見える。その中庭の隅に、集めた肥やしを溜めるための穴があった。
しかし塀の前まで来たグギョンは、足を止めて、奇妙な光景に目をやった。
白い三角巾で鼻を覆った役人たちが、ヤシの実のようなひしゃくで肥やしをすくい出し、木の桶の中へ注いでいる。
「軍器寺から爆薬の原料を集めに来たらしいよ」
やはり背中に樽を背負った通りすがりの若い男が、庭に入りもせず突っ立ったままでいるグギョンに説明した。
肥溜めは火薬を作る煙硝の原料にもなる。花火に使われるのは煙硝の比率が小さく、火力が弱い。しかし最も比率が高いものだと、少量でも大爆発が起こる・・・
そんな風なことを考えていたグギョンは、爆竹に驚いて、思わず後ろを振り返った。

薄っすらと雪の降りかかった地面に、筒状の花火が1本立てられていた。その小さな筒から花火が吹き上がるのを眺めて、男の子たちがはしゃいでいるのだった。
グギョンは急に思いつめたようにうつむいて、今年の儺礼戯の座席表の記憶をたどった。
ひな壇席の足元に置かれた小さな8つの箱。
ソンヨンはあのとき、小人のように描かれた王族を、ひとさし指で一人ずつさしながら、グギョンにかなり詳しい説明をしてくれたのだった。
「これは花火を上げるときに使われる箱で、王族の方々の前にある台の上に置かれます。す。王族の方々が火鉢に火をつけると、その火が導火線をつたい、火のついた箱から火花が出るのです。安全な花火なので心配はいりません・・・」
グギョンは、市場の通りを一目散に戻りはじめた。向こうからやって来た男とぶつかった拍子に、地面に落っこちた樽とひしゃくは、二度とグギョンに拾われることはなかった。

「司憲府の持平だ。急ぎのようで参った!」
グギョンは、城壁門のアーチのそばで旗を持っていた警備兵の顔に、身分証を突き出した。
刺繍入りの青い光沢のある着物と、なすびのような形の帽子を身につけたグギョンは、かなりの地位のある役人に見えたはずだった。
それでも警備兵は、ひるむどころか、き然とした態度を崩そうとしない。
「許可証をお見せ下さい。今日は儺礼戯があるので許可証がなければ宮殿には入れません」
警備兵は忙しそうに大声を張り上げ、後ろの仲間に門を閉めて中に入るよう指示した。いよいよ儺礼戯が始まるらしい。
グギョンはハッと顔色を変えた。中に入れないということは、花火の爆発も止められないということだ。
しかし次の瞬間、城壁の大扉は無情にも、グギョンの鼻先でバタンと閉められた。

王様と中殿が、御馳走の並んだ長いテーブル席に姿を現した。ひな壇下段のサン達や侍従、ムシロ席のジェゴンやソクチュらも、腰を上げて王様に頭を垂れた。
予定通り、石段を挟んだ下段の右側に、ファワンとサンの弟達の計3名が、左側に恵嬪、嬪宮、サンの3名が並んでいた。
「始めよ」
王様は言った。
巨大な太鼓がドーンと三度鳴り、ついで石段の下に設置された8台の大砲から、それぞれ祝砲があがると、カランカランとおはやしの音色が風に吹かれるように聴こえてきた。
出席者たちの目は、ムシロ席に四方を囲まれた広場の中央へ集まった。
皿を回す芸人と、円を描くように白いリボンを振る芸人がいる。その周りで、頭からこぼれそうなほど大きい花笠をつけた男らが、腰の太鼓をたたいた。

禁軍随一の射撃の名手たちの実演は、もう日が暮れかけた頃になった。
2列の兵が、御殿と反対方向に銃を構えた。ムシロ席の後方に吊り下げられたひょうたんに、銃弾が次々と命中して、水しぶきを散らしながら砕け散った。残った部分は、ひもの先でぶらんと大きく揺れた。
王様と中殿は、満足そうに顔を見合わせて微笑んでいる。
それに比べてムシロ席で兵士の動きを見つめるフギョムの表情は、どことなく重かった。
とにかく暗殺は中止になったのだ。
しかしフギョムの心には、まだ引っかかるものがあった。
何百人といる公の前での暗殺など、無謀と考える方が自然だろう。
でもそうした常識が、野獣のようなキム・ギジュに果たして通用するだろうか・・・

やがて射撃兵の隊列は、銃をおさめるように縦に持つと、冷たい息を吐きながら、ざっざっと、一般兵らが配置された門前の定位置まで戻り、足踏みを止めた。
デモンストレーションが終わったのだ。
ナムは、ホッと息をついて、ジェゴンにささやいた。
「今回は取り越し苦労だったようですね。夜の花火が済めば儀式は終了です・・・」
「何事もなくてよかった」
ジェゴンは厳しい目線を広場に残したまま頷いた。彼の着物の胸についた大きな刺繍の紋様に、夕日があたって金色に光った。

広場の見世物は物々しい演習風景から、艶やかな踊りへと変わった。
袖から色とりどりのリボンを何本も垂らした女達が、両手をあげて花のようにクルクルと舞っている。
中華人のようなナマズ髭の面をかぶった男らが、チャルメラ楽器隊の演奏をバックに踊りはじめた頃には、辺りが薄暗くなった。
ファワンが王様の席に近づいて、声をかけた。
「もうすぐ花火が見られますね。今年は見世物が多く実に愉快です」
「皆も大いに楽しんでいるようで、私も嬉しく思う」
弘化門での惨劇のこともあり、儺礼戯の開催に難色を示していた王様は、すっかり満足した様子だった。

辺りが真っ暗になると、とつぜん火のついた矢が左右から飛び交い、広場の中央の高い聖火台に燃え移った。
火花は円盤状に広がって、雨のように地面へと降り注いでいく。
それを合図に、次々と夜空に花火が打ち上げられた。笛の音を響かせながら、蜘蛛の子を散らすように火花が散ったかと思うと、今度は色とりどりの丸い光が菊花模様に長く垂れた。花火を鑑賞しに城壁の周りにたかった民衆らは、弾け散る乾いた音に酔いしれた。

その頃グギョンは画員の許可証を使って何とか宮殿に入り、中門のバルコニーから広場を見下ろしていた。会場内への立ち入りは厳しく禁止され、なす術もない状態だった。
王様と中殿が席を立ち、いよいよ巨大な火鉢に、火のついた棒を入れたのを見たときには、グギョンの顔はすっかり青ざめた。
グギョンの隣にはテスもいた。テスは会場内への進入は絶対ダメだという生真面目な警備兵を、とっさに殴り倒して、銃を奪い取った。

ムシロ席からフギョムが見つめているのも、やはり同じ火だった。嫌な予感はいまだ消えない。いつのまにか激しい雪が降り始めて、フギョムの肩を白くしていた。
導火線は予定通り箱をつたって下段へおり、右側の3番、4番へと移動していった。
やがて左方向へと火が伸び、7番の箱から豪快に吹きあがった火花が、嬪宮の笑顔を照らし出した。
サンは待ちかねたように目の前の8番の箱に目をやった。
次の瞬間、一発の銃声がして、サンの席に一番近い大きな花瓶が砕け散った。
大爆発が起きたのは、サンと恵嬪たちが銃声にびっくりして席から離れた直後だった。
整然とムシロが敷かれた広場は、逃げ惑う人々で、ごった返した。黒々とした爆風が押し寄せ、破片が大量に降り積もる。王様をはじめとする王族たちは、おつきの者に腕を抱えられ、席をあとにした。
フギョムの不安な目は、ひな壇に注がれていた。爆発の犠牲になって倒れた者が何人かいる。王世孫か・・・。いや違う。フギョムは愕然とした。

2010/1/10



イ・サン27話「反撃の序曲」

護衛部隊、右洗馬パク・テスが逮捕された。容疑は王世孫の暗殺未遂だった。
瀕死のファワンを含む負傷者を出して、儺礼戯の夜は幕を閉じた。
翌日、サンはテスを捕えた禁軍府の部署へ駆けつけ、その責任者を叱り飛ばした。
困り果てた様子の責任者に助け舟を出すように、ちょうど部署に入ってきたキム・ギジュが、、かしこまりながらも何か確信でもしている感じの口ぶりで言った。
「王世孫様。パク・テスは宴の最中に銃を撃ったのです! あの者が銃を撃ったのは、本当に王世孫様に暗殺の危険を知らせるためだったのでしょうか? むしろこうも考えられます。すぐ後ろには王様の席がありました。王様を狙ったものの、撃ち損じたのでは・・・?」
キム・ギジュの言葉に、サンはイライラとした顔つきになった。
「いいだろう。証拠を持ってきてやる。だが、それまで私の部下に指一本触れるな!」


王様は座卓のひじかけに片腕をもたれていた。前室に控えている侍女2名が、かしこまってうつむいているのが、丸障子の隙間から少し見える。壁際には、おつきの男が1名、王様の突き刺さるような視線をまともに浴びて立っていた。
しかしよく見ると、王様のその視線は侍従から少し外れており、瞳孔は小刻みに揺れていた。
王様は深く考え込んでいるのだった。思い返していたのは、雪の降る、あの惨劇だった。
鍵は2つある。一発目の銃声と、そのあとの花火の大爆発だ。
事故なのか、暗殺なのか…。もし暗殺だとしたら、その狙いはファワンだったのか…
王様の耳には、王世孫がファワンを狙ったのではないかという噂まで入っていた。
いや、王世孫か自分が狙われていたとも考えられる。ではその首謀者は?
それとも、首謀者を動かした陰の黒幕のような者が、どこかに存在しているというのだろうか・・・?

牢の中で1日を過ごしたテスは、その夜とつぜん3人の兵士にすっぽり目隠しをされ、石の道をしばらく歩かされた。
目隠しを取ってみると、そこは前室の中だった。
半円状のアーチ門から3 ~4段ほどの短い階段を下りた向こうに、ひとり掛けの椅子が1つと、赤い布のかかったテーブルの部屋が見えた。
テスはおずおずと階段をおりていき、テーブルの前に立った。ひと目見ただけでも、身分の高い人の部屋だとわかる。
四面の壁すべてが、龍の細工があしらわれたアーチ状のくぐり門になっていた。両脇のカーテンは光沢のある高級生地だった。壁際の飾り棚には、壷や宝石箱などがずらりと並んでいる。
兵士の1人が、早く床にひざまずくようにとささやくので、テスはとにかく言う通りにした。
「頭を上げよ…」
声の主の方に顔をあげたテスは、そのとき息が止まりそうになった。
肖像画の中から抜け出てきたような独特の威厳を漂わせて、王様がテスのことをじっと見ていたのだった。
いつのまにか兵士達は消え、今この同じ空間にいるのは、椅子に腰掛けた王様とテスだけだった。
「これから私が尋ねることに正直に答えよ。宴のときに発砲したのはそなたか」
テスは亀のように恐縮して首を縮めて、儺礼戯の夜のことを思い返しながら、できるだけ詳しい説明をした。
「はい。花火の箱に爆薬を仕掛け、王世孫様を暗殺する企てが進行していると知ったのですが、会場には許可証がなく入れませんでした。それで王世孫様を避難させる目的で花瓶を狙って撃ったのです。以前、王世孫様が視察の旅に出られた時にも暗殺の動きはありました」
テスの話は、王様には初めて聞くことばかりだった。
王様はしばらく黙り込んだあと、もう1つ質問をした。ところがテスの口から出たその答えもまた、王様にとっては意外なものだった。
「私は銃を撃っただけなのです。暗殺の企てに気づいた方は、他にいました」
「それは誰だ? 誰かと聞いておる?」
何か言いにくそうに急にモジモジしはじめたテスを、王様は急かした。
するとテスは、ためらいがちに、ようやくその名を口にしたのだ。
「前司憲府、持平 ホン・グギョン様でございます…」

王様はいったん座卓のある寝室に戻って、今度はサンを呼び出した。
なぜ今まで危険な目にあっていながら、重大な報告がなされていなかったのか…
この点に関して、サンは考えあぐねることもなく、落ち着いて答えた。
「暗殺の動きはこれまで幾度もありましたが、私が声を上げると気が触れたと言われたのです」
どうやら儺礼戯での大爆発は、事故ではなく陰謀と考えた方が良さそうだ…
そんな風に王様は思った。しかし常に何者かの監視の目があるとなると、水面下に捜査をすることなど、できるだろうか。
迷ったように、ふと目をふせた王様に、サンが突然、言葉をかけた。
「王様、適任者がおります」
「誰だ?」
王様は目を見開くようにして、サンの発言に注目した。
「今回の件の捜査は、前司憲府、持平 ホン・グギョンにお任せ下さい。弘化門での件は、彼も罠にはめられたのです」
儺礼戯の夜更け、テスから真相を聞かされたサンが、久しぶりにホン・グギョンに会い、深い話を交わしたうえでの結論だった。
前司憲府、持平 ホン・グギョン…
権力を乱用し、弘化門で大勢の民に暴行を負わせたというその名を、王様はわずかな間に、また聞くことになった。

ホン・グギョンを、王様はまじまじと見つめていた。グギョンは、テスが呼び出されたのと同じ部屋に立っていた。
薄い帽子のつばから、うつむいた顔が透けて見える。随分と緊張してアゴを硬くしているようだった。
色白で頼りなさそうな若造だ…。弘化門で民を武力鎮圧したというから、どんな悪人面かと思えば・・・
王様はそう思いながら、ようやく口を開いた。
「この場でそなたを司憲府の執義に任命する。事件の証拠をつかみ、全容を解明せよ」
グギョンはビクッと顔をあげ、王様を見た。予想に反して王様の表情は穏やかだった。しかしその目の奥に、決して失敗を許さない厳しさと、激しい怒りが見えるようでもあった。

グギョンに犯人の心当たりは、とっくについている。
席順を変え、花火の準備をしたキム・ギジュを、今すぐにでも逮捕したい。
しかし重要なのは、誰が王世孫を暗殺しようとしたかではなかった。
背後で陰謀を操っている黒幕を暴くこと…
そして、今や王室と朝廷の全員が、その容疑者なのだった。

芸子のいる料亭の中庭にグギョンが入ってすぐ、ちょうど座敷から、儺礼戯のとき身分証を貸してくれた図画署の小太りな男が庭に下りてきた。
男はグギョンに気付くと、赤い鼻を近付けて大真面目に聞いた。
「なかなかやりますね。女遊びができるほど肥やし集めは儲かるんですかい?」

グギョンがこの料亭にきた目的は、テスとジャンボらに、御馳走と酒をふるまう他に、もう1つあった。
テーブルの間に座った芸子たちに馴れ馴れしく愛想をふりまかれて、居心地の悪そうにしているテスをよそに、グギョンはとても楽しそうな笑い声をたてた。
やがて芸子達が部屋からさがっていくと、テスが待ちきれずに真剣な顔つきをして言った。
「そろそろ私たちを呼び出した理由を話してくださいよ」
グギョンは御馳走にも手をつけないうちから、話を聞きたがるテスにあきれながらも、さかずきを置いた。
「いいだろう。そななたちを呼んだ理由を話そう…」

布で覆った荷物を背負い、船から下りてきたばかりの男は、テスに何か尋ねられると、首を横にふってみせた。
ジャンボたちも、わらに包んだ荷を船に載せた男や、船着き場の前でむしろを広げてザルやかぼちゃを売っている女に、熱心に聞き込んでいる。しかし成果はあがらないようだった。
ちょうど船から下りてきたフギョムの助手は、テスたちを見たとき、その目的が自分と同じであることを一瞬で悟った。
キム・ギジュに頼まれ花火に爆薬を細工した男を捜しているのだ…
身を隠すように足早にその場を立ち去った助手が向かった先は、フギョムの屋敷だった。

儺礼戯の夜のうちに送りだした助手を、フギョムは座敷で出迎えた。
しかし助手の報告に、いちだんと気分が重くならざるを得なかった。
キム・ギジュが起こした爆発事件で、養母ファワンが瀕死の重傷を負ったにも関わらず、フギョムがわりと冷静でいられたのは、幸いファワンが回復したことと、皮肉にも考える問題が山積みなせいでもあった。
愚かなキム・ギジュは、きっと自分の不始末をもみ消そうとやっきになって、ますます事態を悪くさせるだろう。
そうなる前に、爆薬を仕込んだ男を捜し出し、何としてでも始末するつもりでいた。
しかし助手の報告によると、すでに男は行方不明だという…。恐らく危険を察知して逃げてしまったに違いない。
王世孫付けの護衛官も、その男を捜し回っている。事件の首謀者として、キム・ギジュの名があがるのは、もう時間の問題に思えた。そうなれば中殿が苦境に立たされるのは明らかだった。
「面目ありません! 今から居場所を探して…」
肩をあげて意気込む助手の言葉を遮り、フギョムはどこか遠くを見つめるような目をして呟いた。
「いや、もうよい。この辺で手を引こう。こうなったら、もう関わらない方がいい…」

翌日、フギョムは御殿の石回りの廊下でソクチュに偶然あった。
「今さら手を引くだと?! 無事でいられると思うか?」
フギョムの報告を聞いて、ソクチュは眉を潜め、非難めいた声でささやいた。
「さあ。でも矢面に立つよりはましでしょう。ソクチュ様もどうか賢明な御判断を」
フギョムは、あまり余裕のない表情で真剣に答え、軽く一礼して去っていった。
慎重なソクチュが、どう判断したかはわからない。でもフギョムは本気だった。逃げ道を作っておくほうが得策だ。
内心ではむしろ、王様にすべてを告発したいほどの気分だった。

2010/1/26更新

イ・サン28話「怪しい人影」

左承旨 キムギジュが失踪して、もう2日になる。
中殿から相談を受けたソクチュは、だからと言って手立てを何も思いつかないまま、部屋をあとにした。
中殿は、兄が拉致されたことを確信していた。
不可解なのは、まるでキムギジュの失踪を予想でもしていたかのように、王様が平然としていることだった。
途中、石畳の広場を歩いてくるフギョムに出会った。
フギョムはゆっくりとソクチュに近づいてきて、わりと丁寧に会釈をした。
「中殿様に会われたのですか? ご様子はいかがでした」
「焦っていらっしゃる…」
ソクチュは冴えない顔をして、冷たい息を吐き出した。
2人の赤い衣がまくれ上がり、中の白いもんぺが見えてしまうほど、風が強く吹いていた。

港の桟橋付近で死体があがったという知らせをテスから受けて、グギョンが現場に行ってみると、枯れ草の中に寝かされた遺体があった。
村人がわいわい群がったそばに、警備兵が仁王立ちになっている。
役人がむしろをめくって、男の首筋の脈をみた。鼻の穴に手をかざしても息の反応はなかった。
遺体は、キムギジュに頼まれて花火に細工をした男のものだ。
火薬を用意した役人も、行方不明になっている。
王命を受け、グギョンが捜査を任せれてから3日目のことだった。

成果があがるまでいっこうに報告に来ないグギョンを、サンはいったん部屋に呼んだ。
「どうした? キムギジュがなかなか口を割らないか」
グギョンはハッと驚いたように、うつむういていた顔をあげた。
サンがいたずらっぽい笑みを浮かべているので、すでにキムギジュを監禁していることは、王世孫に見抜かれているのだと初めてわかった。
しかし責めるよりも、サンはむしろ、事を動かしたがっているように見えた。
水面下で進められていたグギョンの捜査方法に変化が起こったのは、その直後からだ。

フギョムは助手の知らせに、慌てて門の外へと飛び出した。
その光景は、フギョムが想像したもの以上だった。
屋敷の周りを、ヤリを持った禁軍兵が、ずらりと取り囲んでいる。
禁軍による監視は、吏曹判書、刑曹判書の屋敷にまで及んだ。
王様に委ねられた権力を、思うがままに振るまうホングギョンの手腕は、まさに騒動といってよいほどだった。

フギョムはファワンを訪ね、まだ衝撃が抜け切れない白い顔で、ゆっくりと言い聞かせるような口調でささやいた。
「分かりませんか、母上? 禁軍は王命によってのみ動く兵なのです」
「父上が命じられたと申すのか。つまり、キムギジュが王世孫に捕まって、すべてを白状し父上の耳に入ったと?」
気の強いファワンは、はっきりそう口にした。
様子を探ろうにも、王様はここ数日、部屋に閉じこもっている…。それがファワンを余計にイライラさせる原因となった。
人払いされたのはファワンだけではない。重臣も中殿も、みんな同じだった。王様に何も聞けないまま、それぞれの抱えた不安ばかりが大きくなっていく。
「実に不吉なことです…」
フギョムは思わず声に出した。
すべてはホングギョンの狙い通りなのか。王世孫…もしかすると王様の手の上で、自分たちは踊らされているということなのだろうか…?

ソクチュは、自室の卓上机の前で、身動きもせずに悩んでいた。
監視の目があるなか、むやみに動き回る大臣など、いるはずもなかった。
そっと耳をそばだてて成りゆきを見守るだけの時間が、何とも長い時間に思える。
今頃、中殿は1人取り残されて、ますます焦っているだろうことくらいは、唯一想像がついた。
「チョンフギョム承旨様がおいでです…」
外からの呼びかけにひどく驚いて、ソクチュは白毛まじりのヒゲの生えた頬を震わせた。
屋敷の短い石段を下りたった中庭で、フギョムが会釈をして待っていた。
ソクチュは、いぶかしげにキョロキョロと辺りを見回した。夜更けとはいえ、禁軍に見張られているさなか出向いて来るフギョムのうかつさが、まったく信じられなかった。
しかしその緊迫した表情からして、危険なのは重々承知のうえの訪問のようだった。
安全な部屋の中へ招き入れられると、息をかみ殺すように沈黙していたフギョムが、ようやく口を開いた。
「我々が仲間であることはすでにばれています」
「それで? 私を訪ねてきた理由はなんだ?」
すでに驚き慣れたソクチュは責めるような目つきで、ささやいた。
「そもそもの発端は儺礼戯の事件です。責任を負うのはキムギジュ様と中殿様の2人で十分なのです。王世孫がここまで事を大きくするのは黒幕を暴くためでしょう。…我々はそこから身を引くのです。背後関係からという意味ですよ」
「つ…つまり、中殿様を裏切れと…?!」
言葉にもならないくらい驚いて唇を震わせるソクチュに、フギョムはこっくりと頷いてみせた。

「王世孫様…夜風が冷たいというのに、なぜ外に出ておられるのですか」
中庭の石ろうのそばでたたずんでいるサンに、ジェゴンが後ろから心配そうに声をかけた。
水面下で行っていた調査が、敵を大胆に揺さぶる戦略ヘと様相が変わってきている。
グギョンが巻き起こした騒動が、毎日のようにサンの耳に届いていた。
「胸が騒いで本を読んでいても目に入りません。叔母上の陰謀が発覚したとき、私はそなたにこう言った。王世孫に生まれていなければこんな目に遭わないと。今度は何が明かされるのかと思うと、実は怖くてたまらないのです」
そう打ち明けたサンの目は、その日が近づいているのを感じてか、とても緊張していた。

図画署の男性画員たちは、ある話題に夢中だった。
その詳細が、まもなく作業場に入ってきたパク別提によって、正式に発表された。
画員の最高の名誉である御真画師が選ばれることになったのだ。
来月にも本部が設置されて、首席画員と随従画員が各1名ずつ選抜されるということだった。
「選ばれる可能性は全員にある。各自精進するように…」
とパク別提は言葉をしめくくった。
洗濯板を抱えて、ソンヨンが他の茶母たちと洗い場から戻って来たとき、男性画員は中庭の縁台に山積みになった筆の中から、我先にと、気に入ったものを奪い合っているところだった。
筆の先を手でなめすように触って、動物の毛や質を熱心に見定めている。
なかには画員を選抜する礼曹の役人を接待しようと、密かに企む者までいた。

「王様の肖像画を描くことは画員たちの一生の夢なんです。引退した大画員様もなれなかったくらいよ」
図画署からいったんテスたちと暮らしている小屋に戻ってきたソンヨンは、テスの叔父にそう説明した。
「お前もいつか選ばれるといいな」
「え? 私が?! まさか私なんかが選ばれるわけ…」
ソンヨンはあきれて笑ったものの、叔父さんは大真面目な顔で、興奮したように両手を天に捧げた。
「いつか王世孫様が王になったときに、お前がそのお姿を絵に残して差し上げろ。こんな名誉なことがあるか…?」
着物を詰めた風呂敷包の結び目を縛って、ソンヨンは、夜遅くまで任務についているテスに着替えを届けるために立ち上がった。
祈るように漏らした叔父さんのその言葉は、確かに夢のような話だと思った。

テスはグギョンに頼まれた手紙を、フギョムの屋敷の庭へ放り込むと、屋敷の並んだ通りを戻りはじめた。
闇の中に、白いもやがたった夜だった。しかし道の上は月夜の照り返しで明るかった。昼間、人々が行き交った足跡が、光の筋となって道の真ん中に伸びている。
じりじりと土を踏みしめて、2人の女性がその光の筋をたどるようにやってきた。
1人が前を行き、もう1人がすぐ後ろについていた。歩くたびにマントの裾からふっくらと広がったスカートの光沢が動いた。すっぽりかぶったマントの端が深く額に垂れかかり、顔は全く見えなかった。特に後ろの女はそうだった。
2人とすれ違ったあと、テスは何となく振り返って、その姿を目で追った。
そして女たちが会話もせずに、ただ黙々と歩いて、フギョムの屋敷のある方へと曲がっていったのを見て、屋敷の壁に体をすり寄せるようにしながら、2人の後をつけはじめた。
やがて小柄な女の方が、チョンフギョムの屋敷塀の扉の前に立って、呼びかけた。
「たのもう…。たのもう…」
それは、すがるような声だった。
すぐに下働きと見られる男が扉を開け、深々と一礼した。
後ろにいた方の女が、何のためらいもなくさっそうと塀の中へ入り、そのあとを小柄な女が続いた。
下働きの男が木戸を閉め、辺りはしんとなった。

その夜、グギョンがサンの部屋に突然あらわれた。
チョンフギョムの屋敷を今晩、訪ねた者…つまり、サンを陰謀に陥れようと、フギョムや大臣らを動かした黒幕の正体を報告するためだった。
「今夜、チョン承旨を訪ねたのは、他でもない中殿様でした」
報告を終えて、グギョンが返事を待ち構えていると、一瞬の間をおいてからサンが呟いた。
「今なんと申した…?」

2010/1/31更新


韓国ドラマイ・サンとは

時代背景 イサンは朝鮮王朝22代王です。 1776年に即位して、1800年に亡くなっています。 日本では江戸時代の後期に当たり、中国は清の時代です。ドラマの中でイサンの父である思悼世子が米びつに閉じ込められる有名な事件が起きますが、これは1762年のことでした。 イサンの祖...